二十四輩二十一番唯仏房開基 浄光寺

那珂湊
那珂川の河口に位置する那珂湊は良港として東回り回船が寄航し多くの物資が集まり明治初期まで商港として栄えました。また現在は遠洋漁船の基地としてにぎわっています。漁港には新鮮な海の幸を味わえる店があり休日には多くの観光客が訪れます。
茨城交通の湊線那珂湊駅の北には館山と呼ばれている小高い丘が広がっていますが、そこに七ヶ寺の浄土真宗寺院が集まっています。これらの寺院は元禄九(一六九九)年水戸藩主徳川光圀の命により城下各地から移されました。その中に二十四輩の二十一番に数えられる唯仏房開基の浄光寺があります。
浄光寺の変遷
『浄光寺縁起』には、常陸国那加郡枝川村に館を構えていた藤原隼人佑頼貞が、越後より常陸国に来られ笠間郡稲田郷に住まわれご教化されていた親鸞聖人に教えを受け、たちどころに他力本願の不思議を味わい、深く親鸞聖人に帰依し、貞応元年に剃髪し法名を聖人より唯仏房浄光と賜った。親鸞聖人は頼貞に恵心僧都親筆の阿弥陀如来尊像と、聖人直筆の九字名号、十字名号を授けられ、頼貞は自らの館を聞法の道場とした。これが衆宝山無量光院浄光寺てあると伝えています。
後に、水戸城主江戸但馬守重道が常光寺の本尊を尊崇し、湊の地に寺領を寄進しました。また江戸氏が没落した後、豊臣秀吉と組み他の豪族を凌駕し支配領域を広げていった佐竹義宣が浄土真宗に帰依し常光寺の本尊を尊崇し寺領を寄進するとともに、天正十九年常光寺を水戸城内に移しました。佐竹氏は関が原の戦いの後、その姿勢を問われ秋田に移封されましたが、明治年間まで水戸城には常光寺門と呼ばれる門があったといいます。
徳川の治世となり、徳川三代家光より現在の那珂湊の地に朱印地を与えられ移り常光寺を浄光寺と改めました。

浄光寺山門
鹿島明神の親鸞聖人御真影
『浄光寺縁起』には浄光寺に伝わる親鸞聖人の御真影の由来を次のように伝えています。
親鸞聖人が鹿島明神に信海と法名を授け、師弟の契りを結んだおり、聖人の尊像を求め、その願いにこたえ聖人は五十七歳の時自らの御姿を刻まれました。その尊像は鹿島明神に安置されていましたが、時が過ぎ時の神主が神前に僧の姿を安置することを嫌い、付近に埋めてしまいました。しかし毎夜光を放ったので人々は恐れそこを通らなくなっていましたが、そのことを水戸光圀公が聞きつけ、浄光寺の門徒であった飯塚喜兵衛に探させると御木像が発見されました。光圀公は筒井村の極楽寺にその木像を安置しましたが、飯塚喜兵衛の願いを受け浄光寺に納めました。
また浄光寺の当時の住職結弘には光圀公の養女たにん姫が嫁がれ、現在浄光寺にはたにん姫の硯箱と光圀公の書簡が伝えられています。

唯仏房像
鈴木孫市の墓
元亀元年より十年に渡る石山本願寺と織田信長の攻防戦(石山合戦)に全国各地から門徒が本願寺に馳せ参じましたが、終始その中心となって本願寺を守ったのは紀州の雑賀門徒でした。雑賀門徒は鉄砲集団として知られていました。雑賀門徒のリーダーの一人鈴木孫市は豊臣を助け徳川と大坂の陣に戦いましたが、豊臣は滅び、孫市と子豊若丸は常陸国石塚村に隠れ住んでいましたが、それを知った水戸徳川頼房公は鈴木の姓を雑賀に改めさせ五百石の家老に取り立てました。厚い信仰を持っていた雑賀孫一郎重義、重次親子は浄光寺の門徒となり、今も雑賀孫一郎重義、重次親子の墓が浄光寺境内にあります。

慈眼山西照寺

浄光寺