鳥喰山無量光院西光寺
とりばみざんむりょうこういんさいこうじ  
                   二十四輩 第二十四番  唯円

 「鳥喰山無量光院西光寺縁起」は開基唯円は武蔵国猶山の城主であった橋本伊予之守綱宗という武士であったと伝えています。同縁起は 橋本綱宗は承安三年(1173)四月一日の誕生と伝えていますので、親鸞聖人と同じ年の生まれとなります。同縁起は綱宗の寵愛していた一子清千代丸が病にかかり、建保三年(1215)年に八歳で亡くなってしまった。綱宗は深く無常を感じ、発心したと伝えています。
 この清千代丸の死を縁として綱宗は、城中に安置されていた薬師如来像を笈にいれ諸国の寺社の参拝を志ざし、城を弟の次宗に譲ったと伝えています。
 常陸国那加郡鳥喰村に来て、空き家に泊まり一夜を過ごした時に、枕元に安置していた薬師如来が光明を放ち、夢告にてこれより西にあたる稲田というところに名僧知識が(都より)下られて仏法を弘通しておられるので、明日急いで参詣するように告げた。綱宗は不思議に思い、夢の告げの通りに稲田に行くと、僧侶や一般の人々が群集し門前市をなすほどの賑わいであった。親鸞聖人のご説法中だったため、綱宗はその中に混じり聴聞をすると、随喜の余り涙を流し、聖人に弟子としてくださるようにお願い申し上げた。聖人はただちにお弟子として下さり、綱宗は法名を唯円と賜り、さらに六字の名号(南无阿弥陀仏)を自らお書きくださった。建保三年(1215)三月二日のことで唯円坊四十三歳の時であったという。

西光寺本堂
 唯円は親鸞聖人の有縁の地で仏法を伝えるようにとの仰せに従い、鳥喰の地に寺を建立し、円寿院本泉寺と称し仏法を興隆したと伝えています。
本泉寺の移転
 本泉寺の縁起では唯円は鳥喰六郎兵衛尉朝業という武士であったと唯円について、西光寺とは別の出自を伝えています。本泉寺の伝承によると天正十八年(1591)江戸氏と佐竹氏の合戦の折に被災し、宝物、堂舎、朱印などをことごとく焼失し下総へ浪寺となったと伝え、その後鳥喰に戻るが、落雷により焼失し、また古河に行き滞在した旨が記され、寛文四年(1664)に水戸光圀公により野上村に本泉寺を再建したと記されています。
 西光寺の縁起には寛永三年(1625)水戸頼房公の命により現在の地に移転し、今に至っている旨を伝え、その折に山号寺号を改め、鳥喰山無量光院西光寺と号したと伝えられています。

阿弥陀如来像
歎異抄と唯円
 「歎異抄」には親鸞聖人と唯円房の問答が二箇所されていれます。 また覚如上人の伝記「慕帰絵詞」には正応元年(1288)大谷に 河和田唯円房が上洛し、覚如上人と対談されたことが記されています。
 願入寺所蔵の「二十四輩名位」には二十四輩の最後に「唯円御房跡信浄 奥郡トリハミ」と記され唯円という名は一人だけで、また親鸞聖人の門弟を記載した「門侶交名牒」にも唯円という名は一人だけで常陸住と記され、お弟子に慶信、覚明、明円、唯善の四名が記されています。唯善は親鸞聖人のご息女覚信尼公のご子息でありましたが、弟にあたる覚恵房と、そのご子息で覚如上人と京都の大谷本廟の留守式(管理者)の継承権を争った結果破れ、本廟に安置された親鸞聖人の御影像と遺骨を持ち去り鎌倉の常磐の地に安置するという騒動を起こしています。
 「門侶交名牒」には「亡母覚信尼寄進の旨に背き、上人影堂押妨の間、総門弟等中永く当流の号を削りおわんぬ」と門弟達から排斥された旨が記されています。
 唯円には一人説、二人説があり、現在一般的には本泉寺と西光寺の開基と伝えられる唯円と、報仏寺や立興寺の開基と伝えられる唯円とは別人とされ、前者を鳥喰の唯円、後者を河和田の唯円と呼び分けています。
 現在では「歎異抄」の作者は河和田の唯円だとする説が通説となっていますが、知切光歳氏は、 唯円がはじめ道場を開いたが鳥喰の里で、後に河和田に招聘され報仏寺の開基となったと推察され、鳥喰の唯円と河和田の唯円を同一人物としています。な

慈眼山西照寺

西光寺