仏性山金剛院無為信寺

                       二十四輩の第十一番無為信

無為信寺の寺伝によれば無為信の俗姓は武田信勝といい、武田信義と鹿島神宮の大宮司権頭の娘の間に生まれた武士であったと伝えられています。
『二十四輩参拝図絵』には信勝の誕生の地を奥州会津郡柳津とし、幼年より武勇と才覚に秀でていたと記しています。
 無為信と親鸞聖人
無為信寺の寺伝は常陸稲田に逗留中の親鸞聖人を訪れ帰依し、その門弟となり、無為信(又は無為子)の名を与えられたと伝えています。
 『二十四輩参拝図絵』は信勝が聖人の弟子となるきっかけとして、奥州綾和の館の庭さきに山蟻か土砂を運び巣をつくり、虫などを運んで蓄えていたが、雀が二羽飛んできてたちまちに巣をつつき破壊し、蟻を皆食べたのを見て、今は乱世が落ち着いているが、人の心は虎狼のようで、他人の所領を奪おうと合戦をいどみ弱いものはたちまちに滅び、強いものは暫くは勢力をもつが、五十年の命を保つものは少ない、自分はこの道理をわきまえずに武をみがきいてきたが、全く愚であることに気付き、師を求め未来永劫の苦を遁れようと覚悟して稲田に親鸞聖人を訪ねたと記しています。
寺伝では無為信は聖人のお側に仕え、聖人帰洛後は、その命により奥州教化に従事し、最初に奥州会津門田町一ノ堰に一宇を建立したとしています。
『二十四輩参拝図絵』では無為信は奥州宮城野に一宇を造営し(仙台の称念寺)、その其同国会津郡大房にさらに一宇を造営し、文永元年十月二十三日に七十九歳でご往生されたと記しています。
  無為信寺と太子信仰
無為信寺の資料調査をされた山口昭彦氏は「大房」は地名ではなく太子守宗の僧を指す呼称で中・近世における会津における聖徳太子信仰の一形態であり、無為信寺も、それに深く関わっていたと推察できると指摘しています。
 同氏は無為信寺の文書に、無為信の墓が会津若松市の門田町一ノ堰の天台宗の光明寺にあることが記されていると指摘しています。無為信寺の住職は門田の大関という地には二十一世帯があるが、その内十二世帯が真宗門徒で、無為信によって教化されたと言い伝えが今も残っており、その地の造酒屋が近年「無為信」という名の酒を造ったこと。また天台宗の光明寺には武田家の墓が現存していると話してくださいました。
  無為信寺の変遷
無為信寺は承応三年(1654)に内藤氏によって内藤氏の城下であった奥州棚倉(福島県白河郡棚倉町)へ招かれ移転し、内藤氏の移封に伴い駿府国田中(静岡県藤枝市)へ移転し一時廃絶しています。その後享保年間に京都東本願寺寺内に再興され、宝暦年間に越後の現在の地に再興されています。この地への再興は下条村の大地主であった佐藤伊左衛門が各方面に働きかけた尽力したものです

慈眼山西照寺

無為信寺