鹿崎山信寿院慈願寺
                         二十四輩第十三番信願房

『鹿崎山信寿院慈願寺略縁起』は信願房の俗姓を下野国の那須の与市の子孫である那須太郎肥前守資村と伝えています。資村は親鸞聖人の徳をしたい、稲田の草庵に参詣し、弘願他力のみ教えを受け、髻を切りお弟子となり、聖人より信願と法名を賜ったとしています。
『大谷遺跡録』の鹿崎山慈願寺記には信願房の俗姓を新田太郎義俊の子常陸国那珂郡鳥喰村に居住していた藤井八郎信親と記し、親鸞聖人のお弟子となったのを承久元年二十九歳の時としています。
 『鹿崎山信寿院慈願寺略縁起』には、信願房は常に聖人のお側に仕えていたが、御年六十一歳で親鸞聖人はで京都へお帰りになられた。信願房は親鸞聖人のご尊願を拝すことができないことを悲しみ、十年後の聖人七十一歳の時、ご高齢になられた聖人のお側に仕えようと京へ上った。聖人は大変悦ばれて、他力のみ教えを説かれた。その折に、関東の同行のご教化のために性信坊を箱根より帰らせたが、性信坊一人では心もとないので、信願房も関東へ帰り、同行を教化するように告げられた。信願房は遠路はるばる上洛したのは一生の間ご給仕申し上げるためと申し上げたが、聖人は信願房に会者定離は娑婆にては当然のこと、驚くべきことではない。あなた一人を帰すことはない、私も下向しようと、自ら鏡を取られて、斧を用いて真影を彫刻なされて、
慈しくば 南無阿弥陀仏を唱ふべし 我も六字のうちにこそすめ
と涙を流されながらお詠みになった歌を添えられて、お形見として与えられた。信願房は故郷に帰り、那須郡粟野鹿崎に一宇を建立し、御鏡の御木像のみ前にて有縁の同行に念仏相続を勧めて、ついに往生の素懐をとげたと伝えています。
 八尾の慈願寺
『大谷遺跡録』の鹿崎山慈願寺記には、信願房は親鸞聖人の命を受け、河内国を教化し一宇を建立した。これが今の八尾の慈願寺だとし、また下野国上那須郡粟野鹿崎に一宇(後の慈願寺)を建立し、数代の後天正年間に馬頭に移り、延文八年に烏山に移ったと記しています。
 また『大谷遺跡録』は信願房が親鸞聖人が帰洛の折お供をし、途中聖人が相模国にご滞在中には側に仕えた。帰洛される聖人に人々がなごりを惜しんだため、聖人は信願房を度々相模に下され、信願房は相模国鎌倉に一宇を建立した。この寺は稲荷山浄妙寺といった。後に三河国赤渋に移ったとし、信願房の往生を文永五年三月十五日七十八歳と伝えています。
 那須与一と法然聖人
 那須与一は『平家物語』で屋島の戦いにて、浜から義経に命ぜられて平氏の船に掲げられた扇の的を見事射落としたことで知られています。那須与一は『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語には紹介されていますが、史料的価値の認められている『吾妻鏡』に記されていないため、その存在は確かめられていませんが、各地に那須与一に関する伝承が残っています。
 滋賀県の弘誓寺や称名寺に伝わる伝承では宗高(与一)は吉水禅室にて法然聖人の弟子となり、秀誉正雲と法名を賜ったと伝えています。また称名寺は開基の俗姓を宗高(与一)の次男石畑民部大輔宗信とし、木部の毘沙門大王の夢告により出家し、親鸞聖人のお弟子となり、願名と称したと伝えています。

慈眼山西照寺

鹿崎山信寿院慈願寺