結城城公園の西側には江戸時代に江戸の玉日講によって建てられた玉日姫(*)の墓があり、墓の前には結城市教育委員会の立てた「史跡 玉日姫の墓」の表示板があり「結城城の北に玉日という地名が伝わり、それが親鸞聖人の妻玉日姫に由来する」と記しています。
『御旧跡二十四輩記』には「稲田におられた親鸞聖人が結城の真仏の坊舎に説法に来られていた。元都にいた朝光の女官であった白河の局が、親鸞聖人の妻玉日宮が都の東山に密かに住んでいると朝光に語ったところ、朝光が上洛の折お連れして結城に戻り、白河の局の館と小川を隔てた玉岡というところに新殿をたて住まわせた。そのため今玉岡に白河の橋という名が残っている」と記しています。また「玉日宮は吾妻に留まり人々に仏法を伝え、建長六年に玉岡にて念仏の声とともに往生された。時に六十五歳であった」とも記しています。
称名寺の本堂の左余間にはお厨子に納められた玉日宮の木像が安置されています。その横には木像の体内仏であった観音菩薩像が並べて安置されています。
称名寺の御本尊の阿弥陀如来像は本願寺阿弥陀堂のご本尊と同じ仏師の作です。また右余間には朝光公の像が安置され、寺の宝物として親鸞自筆と伝えられる『往生要集』などがあります。
結城駅から称名寺に向かう途中には観光物産館があり、結城紬をはじめ結城の物産を置いています。また市民のボランティアガイドが常時詰めて芭蕉の足跡や市内に多数残る蔵などを親切に案内してくれます。是非お立ち寄り下さい。新たな出会いが貴方を待っています。
(*)玉日姫 室町期の写本が残る「親鸞聖人御因縁」と「御因縁秘伝抄」では親鸞聖人の妻を九条兼実の娘玉日としているが、玉日姫の存在は確かめられていない。
一五四一(天文十)年に実悟上人が編纂した「大谷一流系図」では親鸞聖人の第一子範意の母を「摂政兼実公女」と記している。