玉日姫伝説の里  結城・称名寺界隈

高級絹織物として知られる結城紬の里結城は、古い歴史を持つ町です。周辺には十三塚、三十三塚と呼ばれる古墳群があり、日本三戒壇であった下野薬師寺にも近く、古来より仏教文化の影響を深く受けた地でもあります。
鎌倉時代藤原秀郷の子孫にあたる下野の小山政光の四男であった朝光が、頼朝の挙兵に応じた功によって、下総国結城を与えられ、結城氏と称しここに館を築き結城城の基礎を築きました。後に結城氏は足利尊氏の鎌倉攻めにも参加し、室町時代には佐竹氏、小山氏らとともに関東に勢力を持ちました。
江戸初期十八代の秀康が越前福井に国替えになりましたが、新たに城主となった水野氏のもと明治維新まで城下町として栄えました。結城氏の初代となった朝光は篤い念仏信仰をもち、法堂を構えていたといいます。その朝光は一二一四(建保二)年のころ越後より関東に移られた親鸞聖人と会い深く聖人に帰依し、法堂を結城の館の西に移し、親鸞聖人の高弟であった真仏上人を招き開基とし、朝光が聖人より賜った法号称名を寺号としたと伝えられています。称名寺には朝光、朝広、広綱、時広と四代までの結城氏の墓があります。今年の二月十六日には初代結城朝光七五〇年祭が結城市公民館や市内の寺社を会場として開かれ、称名寺では、記念大法要が勤められました。

結城城公園の西側には江戸時代に江戸の玉日講によって建てられた玉日姫(*)の墓があり、墓の前には結城市教育委員会の立てた「史跡 玉日姫の墓」の表示板があり「結城城の北に玉日という地名が伝わり、それが親鸞聖人の妻玉日姫に由来する」と記しています。
『御旧跡二十四輩記』には「稲田におられた親鸞聖人が結城の真仏の坊舎に説法に来られていた。元都にいた朝光の女官であった白河の局が、親鸞聖人の妻玉日宮が都の東山に密かに住んでいると朝光に語ったところ、朝光が上洛の折お連れして結城に戻り、白河の局の館と小川を隔てた玉岡というところに新殿をたて住まわせた。そのため今玉岡に白河の橋という名が残っている」と記しています。また「玉日宮は吾妻に留まり人々に仏法を伝え、建長六年に玉岡にて念仏の声とともに往生された。時に六十五歳であった」とも記しています。

称名寺の本堂の左余間にはお厨子に納められた玉日宮の木像が安置されています。その横には木像の体内仏であった観音菩薩像が並べて安置されています。
称名寺の御本尊の阿弥陀如来像は本願寺阿弥陀堂のご本尊と同じ仏師の作です。また右余間には朝光公の像が安置され、寺の宝物として親鸞自筆と伝えられる『往生要集』などがあります。
結城駅から称名寺に向かう途中には観光物産館があり、結城紬をはじめ結城の物産を置いています。また市民のボランティアガイドが常時詰めて芭蕉の足跡や市内に多数残る蔵などを親切に案内してくれます。是非お立ち寄り下さい。新たな出会いが貴方を待っています。

(*)玉日姫 室町期の写本が残る「親鸞聖人御因縁」と「御因縁秘伝抄」では親鸞聖人の妻を九条兼実の娘玉日としているが、玉日姫の存在は確かめられていない。
一五四一(天文十)年に実悟上人が編纂した「大谷一流系図」では親鸞聖人の第一子範意の母を「摂政兼実公女」と記している。

慈眼山西照寺

結城 称名寺