畠谷山清岸院覚念寺
                      二十四輩第二十三番唯信房
佐々木高綱と高重
 覚念寺の伝承では唯信房は佐々木四郎高綱の三男、左衛門尉源高重という武士であったと伝えています。
 佐々木氏は宇多天皇の皇子敦実親王の息子雅信が源姓もらい宇多元源氏で、雅信から四代後の源成頼が近江国蒲生郡佐々木荘に下司職と居住し、佐々木氏を称し沙々貴神社の神職となっています。成頼の孫にあたる佐々木秀義は保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、天皇方につき源義朝らとともに勝利しますが、平治元年(1159年)平治の乱で同じく義朝方として戦いますが、敗れ関東に逃れ相模国にて渋谷重国の庇護を受けています。秀義とその子定綱、経高、盛綱、高綱は治承四年(1180)の源頼朝の平家追討の挙兵に際し馳せ参じ、石橋山の戦いなどで戦功を挙げ、鎌倉幕府成立後、一族は近江をはじめ各地の守護職に任ぜられて幕府の重臣としての地位を築き上げています。高綱は文治元年(1185)の守護地頭の設置に際して長門守護に任ぜられ、その後も各国の守護に任ぜられ、『尊卑分脈』では因幡・伯耆・出雲・備前・安芸・周防・日向等の守護になったと伝えます。また同年には兄定綱とともに左衛門尉に任ぜられています。
唯信の父了智
また高綱は東大寺再建の勧進となった重源に帰依し、東大寺再建のための材木奉行にも任ぜられています。建仁二年(1202)には高野山に入り出家しています。高綱開基と伝えられる寺院は各地に多く、松本の正行寺には高綱の墓があります。正行寺の伝承では佐々木高綱が越後の小丸山に親鸞聖人を訪ね弟子となり、了智と号して諸国を巡り、最後に正行寺を創建しこの地で示寂したと伝えています。
 「覚念寺の沿革」は建保六年(1218) 高重三十三歳の時、世の無常を感じ出離の志をいだいて、稲田の草庵に親鸞聖人を訪ね、一向専修の法を聞信して弟子となり、法名を唯信と賜ったと伝えています。
「覚念寺の沿革」はその後唯信房は那加郡小瀬の畠谷(緒川村)に一宇を建て、覚念寺と名づけたとしています。正行寺の伝承のとおり高綱が親鸞聖人の弟子となっているとすれば、父子で親鸞聖人の弟子となったことになります。な

慈眼山西照寺

覚念寺