鳥喰山遊院本泉寺
                          二十四輩第二十四番唯円

唯円房座像
 「鳥喰山遊院本泉寺縁起」は開基唯円を鳥喰六郎兵衛尉朝業という武士であったと伝えています。同縁起は鳥喰六郎兵衛尉朝業が親鸞聖人のお弟子となった経緯については書かれていませんが、安貞元年(1227)三月二十五日に親鸞聖人の弟子となり法名を唯円と賜ったと記しています。

「歎異抄」には親鸞聖人と唯円房の問答が二箇所されていれます。願入寺所蔵の「二十四輩名位」には二十四輩の最後に「唯円御房跡信浄奥郡トリハミ」と記され唯円という名は一人だけですが、通説では本泉寺と西光寺の開基と伝えられる唯円と、報仏寺と立興寺の開基と伝えられる唯円とは別人とされ、前者を鳥喰の唯円、後者を河和田の唯円と呼んでいます。

 覚如上人の伝記「慕帰絵詞」には正応元年(1288)大谷に河和田唯円房が上洛し、覚如上人と対談されたことが記され、「かの唯円大徳は親鸞聖人の面授なり、鴻才弁舌の名誉あり」と記されていることなどから、現在では「歎異抄」の作者は河和田の唯円だとする説が通説となっています。しかし知切光歳氏は、唯円がはじめ道場を開いたが鳥喰の里で、後に河和田に招聘され報仏寺の開基となったと推察され、鳥喰の唯円と河和田の唯円同一人物としています。

唯円と覚如上人

 「本泉寺縁起」は唯円は寶治二年に鳥喰村に本泉寺を建立し、さらに文永九年二月十四日に如信上人の後見となり、また唯円九十六歳の正應元年冬より覚如上人の後見となったことを記しています。親鸞聖人は弘長二年(1263)十一月にご往生なさいましたが、鳥辺野で荼毘にふされた後、鳥部野の北にあたる大谷に石塔が建てられました。この後十年後の文永九年(1272)には親鸞聖人のご息女覚信尼公の夫小野宮禅念の屋敷に墳墓は回葬され、関東の門弟たちの協力によって石塔を覆う廟堂が建立されました。この廟堂が後に本願寺と発展していくこととなります。廟堂の敷地は小野宮禅念の所有でありましたが、禅念より妻覚信尼公に譲られ、後に覚信尼公は廟堂が永く護持されることを願いその敷地を親鸞聖人の門弟等に寄進され、自らは留守として廟堂を管理されました。

廟堂と覚如上人

 覚信尼公は弘安六年(1283)前夫日野広綱との子である覚恵に廟堂の後継をまかせる旨の譲状を残されご逝去されました。しかし二十年近くが過ぎた後、覚信尼公と小野宮禅念との間に生まれた唯善が廟堂の継承を主張し、覚恵とそのご子息覚如上人との間に継承争いが起こりました。覚如上人は関東の親鸞聖人の門弟に訴訟に対する援助を求めるために関東へ赴かれます。廟堂のある敷地の領主であった青蓮院により覚信尼公の譲状をもつ覚恵側の主張が認められこの争いに終止符が打たれますが、唯円房は関東にて問題の解決のため活動された覚如上人を支援されたものと考えられます。

如信上人

 「本泉寺縁起」で唯円が後見となったと伝えられる如信上人は善鸞大徳のご子息であり、親鸞聖人のお孫さんにあたります。如信上人は祖父親鸞聖人の近くで育ち、父善鸞大徳とともに関東へ下り、関東で活動されました。『最須敬重絵詞』には如信上人は一筋に親鸞聖人の教示を信仰し、幼年の昔より成長するまで聖人の側を離れなかったと記しています。如信上人開基と伝えられる願入寺の伝承によると如信上人は親鸞聖人のご命日にはご往生になるまで二十年間毎年欠かさず、自らが鉄鉢にて喜捨を受けた米をもって京に上られたと伝えられています。

慈眼山西照寺

鳥喰山遊院本泉寺