玉川山宝寿院常弘寺
                    二十四輩第二十番 慈善房


常弘寺は二十四輩第二十番慈善坊の開基と伝えられています。
二十四輩の多くの寺が戦乱等により創建の地を離れ寺基を移していますが、常弘寺は開基以来創建の地に寺基を伝える数少ないご旧跡寺院の一つです。「玉川山宝寿院常弘寺縁起」によれば常弘寺は嘉禄元(1225)年に慈善坊によって仏閣として建立されたと伝えています。同縁起によりますと常弘寺の地には以前は太子堂があり、平安末期に常陸国奥郡(常陸国那珂川以北の七郡)に勢力をもっていた佐竹氏の帰依をうけていたと伝えています。

橘寺と聖徳太子
現在常弘寺には県の文化財に指定されている聖徳太子像が本堂の左余間に安置されています。「玉川山宝寿院常弘寺縁起」は孝徳天皇の御宇(645〜654年)に大和国橘寺で聖徳太子自作の尊像の霊告があり、大化元(645)年に当地に遷座され、以降数百年太子堂と呼ばれてきた。仏教が興隆した最初の由緒に繋がる霊跡であると伝えています。
橘寺は聖徳太子が建立された七大寺の一つであり、遺構の調査からかつては四天王寺様式で建てられた大寺院であったことが推定されています。橘寺の地には欽明天皇またその皇子用明天皇の離宮、橘宮がありました。推古天皇(606年)に聖徳太子が橘宮で勝髪経を講義され、その折に庭に蓮の華が降り積もり、聖徳太子の冠から日、月、星の光が集まり輝いたことから、推古天皇はこの地に寺を建てるように命じられ、聖徳太子はお住まいになっていた橘宮を寺とし、橘樹寺とされたと伝えられています。
聖徳太子創建の寺に安置されていた太子自作の太子像が常陸国にもたらされたとする伝承は、太子信仰が広がっていた東国の地において多くの人々の尊崇を受けたことが想定されます。


親鸞聖人と太子信仰
親鸞聖人の妻恵信尼公の書き残されたお手紙には、比叡山で修行をされていた親鸞聖人が聖徳太子創建と伝えられる六角堂に参籠され、九十五日目の未明に夢告を受け吉水の法然聖人の禅房を訪ねたと記されています。六角堂の本尊は救世観音で聖徳太子は救世観音の化身とされていました。親鸞聖人は吉水の禅房に百日間照る日も雨の日も毎日通われ法然聖人の教えを伺った末、比叡山を下り専修念仏に帰入されました。
比叡山においても聖徳太子は中国の南岳大師慧思(天台大師智の師)の再誕とされており、親鸞聖人が六角堂に参籠される背景にはこの比叡山における太子信仰があったことが推察されます。また親鸞聖人は聖徳太子を大変尊崇され、晩年には聖徳太子を讃えるご和讃をつくられています。
後に親鸞聖人は承元の法難に連座し越後に御流罪に処せられますが、六年後に赦免されしばらく越後に留まれた後に関東に移られました。関東において親鸞聖人の教えを受けられた直弟子達の寺々には数々の太子像が伝えられてます。

聖徳大使像

壺井大学頭橘重義
「玉川山宝寿院常弘寺縁起」は開基慈善坊の俗称を後鳥羽天皇の朝臣であった壺井大学頭橘重義という公家と伝え、文学に優れ、歌道を嗜んでいたため、正治元(1199)年武蔵国や相模国を廻られ常陸国に入られた。その折、玉川の流れに日の光が鮮やかに輝いていた。この光景に不思議な思いを感じ、玉川の河畔にあった太子堂に参籠された。
建暦二(1212)年親鸞聖人がご教化のために常陸国に来られ、ご教化をされるなかこの太子堂に礼拝され、それより度々お参詣された。建保三(1215)年重義は親鸞聖人より教えを受け、専修念仏に帰入し、お弟子となり、法名を慈善坊と賜ったと伝えています。

慈眼山西照寺

玉川山宝寿院常弘寺