石森山本誓寺    
                     二十四輩第十番 是信房

 盛岡の本誓寺の開基は二十四輩第十番に数えられる是信房です。本誓寺の開基是信房の俗称は藤原氏の一門である吉田信明という公家であったと伝えられています。

 本誓寺の寺伝は養和元年吉田信明は朝廷にて大納言に任ぜられたと伝えています。
 また「遺徳法論集」は、信明は越前の国に流罪に処せられ、後に罪が許さたが、信明は京に帰らずに遁世の志を持ち、師を求めた。親鸞聖人が越後国府におられ教化されていることを伝え聞き越後の国府にいくが、その時にはすでに関東へ行かれた後たった。信明は聖人の後を追い、常陸稲田に行き聖人にお遇いし、弟子となり法名を是信とおつけいただき是信房はそれより朝夕聖人に給仕し、昼夜聞法の縁をいただいたと伝えています。
 「大谷遺跡録」に記される本誓寺の縁起では信明が親鸞聖人とみ教えを受けた地を小島としています、また「二十四輩巡拝図会」には信明が親鸞聖人のもとを訪ねる機縁を信明の見た霊夢としています。ある夜の暁におよび青衣の童子が枕下にたち、「おしへ善信の聖世に出て常州に法のはなさく」と三回繰り返し吟じていづことなく消えうせた。信明は驚きたちまちに起きて、歌の心を考えてみると、善信聖人という大善知識がおられて末世の衆生を教導されているという霊告てあると感激し涙を流し、夜ふかきうちに出立し、常陸に赴いた。かの地にて尋ねると里人はその善信と申すのは親鸞聖人のことであろうと答え、今はこの近くの小島の郷におられて専らお法を弘め、人々を勧化されている。誠に有り難い知識で、人は皆如来の再誕生であると話していると言う。信明はいよいよ不思議な思いをいだきただちに小島の里に行き、聖人にお会いしたと記しています。
 奥州への布教
「二十四輩巡拝図会」は信明は信心獲得し、弟子に加えられ法名を是信と賜り、それより
日々聞法し、常に聖人に随いお側でお使えしていたが、聖人は是信の信心が厚く、また才覚が優れていたことから奥州に真宗念仏の功徳を弘通することが、聖人自らの本懐であると伝えたが、是信房は聖人とお別れすることは聞法から遠ざかざると嘆き、固辞したが、聖人が再び強く命じたため師命に従い奥州に趣き、斯波郡石が森という地に堂宇を開き、本誓寺と号し教導ところ、たちまちに遠近の道俗が群集し、是信大徳の化益を受けたと記しています。
 本誓寺寺伝では建保三年に是信房は稲田で聖人より奥州教化の使命をうけと伝え、「遺徳法論集」は是信房は生涯聖人に給仕するつもりでいたが、聖人のご意向を受け別れを悲しむと聖人も袖をぬらされた。遠国の衆生に念仏の法を勧めることは、仏恩、師恩に報いることとして、形見を授け下さるように親鸞聖人に申し上げると、自らのお像を刻まれ、是信房に付属されたと伝えています。「親鸞聖人御真影縁起」は聖人四十三歳の時と伝え、その時「后の世の記念に残す面影は弥陀頼む身のたよりともなれ」と衆生済度のお心を詠まれたと伝えています。
「遺徳法論集」では斯波郡石ケ森に移る前に奥州の和賀郡一ツ柏にじばらく住んだと記しています。
   信明の家老
また「遺徳法論集」は信明が越前へ左遷されたときに随従した家老の千原長左衛門尉と橋本作内も、是信とともに稲田へ行きともに聖人の弟子となり、長左衛門は剃髪し信円と名ったと伝え、二人とも奥州に趣き、斯波の郡彦部というところにて文永二年二月二十五日に往生し、その遺跡に一宇を建立し光照寺というと記しています。作内も彦部村にて命終え、その末裔が代々作内となのり彦部村に住むと記しています。

慈眼山西照寺

本誓寺