華輪山真風院願船寺
                           24輩第14番 定信房

願船寺の開基、定信房は元天台宗の僧で、親鸞聖人の弟子となり定信房と法名を授かっている。


願船寺山門
願船寺の寺伝では三井寺の僧安心法印堯範阿闍梨が建保二(1214)年に常陸国追領使佐竹末堅の招きにより石神に下り、末堅は石神に堂宇を建立し祈祷所として願泉寺と名づけ、堯範阿闍梨を住持としたと伝えています。堯範阿闍梨と親鸞聖人の出会いを寺伝は承久元(1219)年堯範阿闍梨の夢に観音堂の前の梅ノ木のちかくに聖徳太子が現れ、堯範阿闍梨に親鸞聖人のおられる稲田へ参詣し、親鸞聖人の弟子となるよう、また法名を定信と授けると告げた。早速堯範阿闍梨は稲田へ親鸞聖人を尋ね弟子となったと伝えています。親鸞聖人47歳の時のことです。

大山の道場
堯範阿闍梨が佐竹末堅の招きにより石神に来た建保二(1214)年に親鸞聖人は越後より関東へ来られています。また同年に常陸国那珂西郡大山に道場を開き、法然聖人の3回忌を修したという伝承があります。
知切光歳氏は東茨城郡桂村阿波山の畑が大山の遺跡にあたるとされ、土地の人はこの地を「アンドウ」と呼んでおり、「アンドウ」は「阿弥陀堂」が訛ったものだと推察しておられます。願船寺住職のお話では願船寺から稲田へ抜ける山越えの道筋に大山の道場跡があるということです。
親鸞聖人は大山の道場を阿弥陀寺と名づけ定信に譲られたと阿弥陀寺の寺伝は伝えています。


願船寺本堂
水戸光圀公と願船寺
願船寺は開基から12世住職まで願泉寺と称していました。江戸期にこの地の領主であった佐竹氏が秋田に国替えとなり、代わりに徳川氏が水戸城に入り、この地を知行するようになりました。
光圀公は、願泉寺に度々寄られ、願泉寺の建つ丘の麓から湧く泉からの水を愛でられ、毎年新年に竹単筒に入れ、晩年住まわれた西山荘(常陸太田市)で立てる茶の水に運ばせ、その茶水料として二段二畝を寺に寄進しています。その折に宗祖の教えに適うよう「泉」の字を「船」に変え願船寺とさせたと伝えられています。

水戸藩の廃仏
天保十五(1844)年水戸藩は領内の寺院を全て廃絶し、住職は還俗させる布達をだしました。藩内の多くの寺院は藩命に従いましたが、当時の願船寺住職学玄は身の危険を顧みず藩命の不当を訴えますが、弘化三(1846)年水戸藩の焼き討ちを受け、十間四面の本堂を始め庫裏、鐘楼、山門がことごとく焼失してしまいました。学玄はすぐに庫裏を再建するとともに江戸の浅草御坊に水戸藩の所行を訴え、また京都の本山東本願寺にも訴えています。東本願寺から幕府への働きかけによって「水戸斉昭の所業あまりにも非道」として藩主斉昭は江戸藩邸に蟄居を命ぜられ、家督を子の義篤に譲らされています。東本願寺の達如上人は学玄の身命をかけた活動に感激し、本堂再建資金として30両と白絹二疋を与えています。学玄はその後4年間全国を廻り本堂再建の懇志を集め、安政三(1853)年本堂の工事がほぼ終わろうとした時、藩命を受けた職人に屋根から突き落とされ暗殺されてしまいました。
願船寺の本堂右余間には東本願寺より贈られた達如上人の寿像が今も掛けられています。

慈眼山西照寺

願船寺