海風通信 after season...

route27-EX カブドライバーのこと」 〜あるいは漠たる妄想考察



⇒ route27『アブドライバーのこと』の作品考察の続きになります。

 このエピソード(※『アブドライバーのこと』)は、第7話『カナブンのこと』と密接なリンクがあり、さらに遡れば短篇読切である『くまばちのこと』、そしてまさかの『あれ』とも繋がる、芦奈野作品全体に通ずる根幹であると私は考えています。ゆえに『コトノバドライブ』のまとめとして、EXナンバーの最終考察レポートとしたかったのですね。
 『あれ』とは何か?それはつまり『カブのイサキ』です。『アブドライバー』は、『カブのイサキ』の世界観・真相を端的にまとめたエピソードではないのだろうかと推察したのです。
 ここで『カブのイサキ』の単行本カバー折り返しに書かれた「メッセージ」に注目してみましょう。コミックス全6巻に示されたメッセージを1つにまとめてみると、実に詩的な物語となっていることがわかります。

 空気の海の中を漂う羽虫 (1)
 この小さい羽根で かきまわして泳ぐ 液体のように濃い空気 (2)
 羽虫に乗った私達にとって 空気の海は 流れるアメのように ねっとりと重い (3)                      
 水アメの空気が地表を包む (4)
 力いっぱい羽根をグルグル、今日は何センチ飛べたかな (5)
 そのように過ごしてきた、ある毎日のお話です (6)
※()内は収録巻番号
 何故このメッセージが添えられたのか?それは本来、『カブのイサキ』とは、羽虫に乗ってその人の記憶世界(精神世界)を飛びまわる、まさに『アブドライバーのこと』のような考え方がベースとなった作品だったのではないでしょうか。
 この羽虫が飛行機に変わったのは、これは全くの私の推測ですが、ただ単に作者の芦奈野先生のシュミなのだろうと(笑)。先生の飛行機に対する並々ならぬ思い入れは、作品内やコメントからも明確ですからね。「ムシ描くよりも、ヒコーキ描いてる方が楽しいや」みたいな感じ?(←失礼だよ!)
 まぁ実際、見映え的に虫より飛行機のほうが読者に受け容れ易そうですし、虫に乗って東京タワーや富士山に行っちゃったら、SFというよりかは、なんだかファンタジーになっちゃいますからね。(私としては、それも「アリ」だったのですが。)ちなみに、虫として描くならどんな羽虫になるだろう?というその答えが、♯14『あきつ』で示されているのかも知れません。
 前フリはこのくらいにして、そろそろ『アブドライバーのこと』の不思議エピソードをもとに、『カブのイサキ』の全体考察へと雪崩込んでいきましょう。
 『くまばちのこと』・『カナブンのこと』で明らかにされなかった「虫に乗って飛ぶ理由」が、『アブドライバーのこと』において、ついに衝撃の事実とともに明らかにされました。それは…
 「よく、「四十九日」とかいうけど」、
 「好きな虫を選んで、初めは「体の思い出」をたどったりして…」、
 「消えるまで」
 カナブンの男の子の時には能天気に思えたエピソードも、このたった3つのセリフだけで急速に謎が解けることになります。そうした考えで『くまばちのこと』も読み返して見ると、実にすんなりと辻褄が合うことになり、「え〜〜〜と……私も?」、「そう」という、作品発表当時としては意味不明に思えたシーンの疑問も氷解します。加えて、ノートに書き込まれた文字を最後に見るコマに示された、“(こ)れからわかる”というメッセージも、「あぁ、そういうことだったのか」という感じで納得しますね。この短篇読切『くまばちのこと』は、是非ともコトノバドライブ第4巻の巻末に収録しておいて欲しかった秀作だと、今更ながらに感じました。
 さて、このように上記の3作品を並列して読み込んでいくと、『カブのイサキ』の世界観に奇妙にリンクしてくると思いませんか。(強引ですか?でもいいです!私、アル…←以下いつもと同文。)……えー(汗)、話の腰を折ってしまいましたが、ここからが、私なりの『カブのイサキ』の最終考察です。
▲誰も 富士山のことを気にしない ▲イサキ あなたは まだ途中で来ちゃった
 まずは「羽虫」=「飛行機」にプラスして、『カブのイサキ』最終話にて、「オートバイの運転感覚は軽飛行機に近い」というフレーズが出てきます。これにて「羽虫」=「飛行機」=「バイク」という図式が出来あがることになります。無論、カブ(飛行機)とカブ(原付)は、既に周知の掛け言葉ですからね。
 で、ここで『カブのイサキ』の世界の広さの話になります。「地面の大きさは10倍になったんだと聞いた(♯1)、「昔聞いた ふしぎな数字―「10倍になった」って何? 何の10倍?」(♯42)という部分。これにはワタクシ的にモノすごい希望的推測があって、『ヨコハマ買い出し紀行』の子海石先生が感じた、「バイクと走り出してから 世界が10倍にもひろがった」(第53話)という感覚を踏襲しているのだと考えたいのです。これだと感覚スケールですので、必ずしもキッチリ測量通りに「10倍である」必要はありません。自分の行動範囲の「記憶」だけが10倍に拡がった、それ故にこの世界は紛れもなくイサキの作り出した「精神世界」であるとも言えます。興味があり、記憶に強く残るものは巨大化し、日常、さして気にも留めない当たり前のものは通常のスケール。大山のフキはデカいのに、キャベツは普通サイズというのは、きっとそういうコトなのでしょう。蛇足ですが、このイサキが誰かから「聞いた」という人物が、実は子海石先生だったという設定だったりしたら、芦奈野作品を股にかけるスゴいリンクになるのになぁと思いましたが、サスガにそれはないですよね。
 こうした、記憶や経験にある場所には行ける、聞いただけで見てない場所(ハナグロの言う「西の森」とか)には行けない、というのも、「体の思い出」をたどったりして…という部分と繋がっています。でもイサキは「それ」を意識して無いんですよね。カジカに引き寄せられただけで、自身は仮死状態(というか、一時的な意識喪失状態?)にあったままだったからなのかも知れません。だからからこそ、特殊事例として現世に戻ることができたのでしょう。
 この、一時的意識喪失状態にあり、精神世界に入り込んでいた時間が、現実世界換算での「45秒」なのではないでしょうか?良く『走馬灯』とか言いますが、精神世界の出来事は「夢の中」のようなものであり、東京タワーも丹沢大山も、城ヶ島も海蛍も、そして富士山頂に辿り着いたことも、全てがほぼ瞬時に展開されていった、その容量が、時間換算にして「45秒」。そのくらい短時間じゃないと、現世に復活した時に色々と不具合が起きてしまいますからね。(最終話1コマ目でも、ほぼ違和感なく意識が復活継続しているようですし。)あるいは、精神世界で経験した記憶容量をデリートするために費やされる時間が「45秒」を要するのかも。いずれにせよ、この「45秒」を「全部 私にちょうだい」と、シロさんは言います。イサキが現世に戻るためには、精神世界での記憶を全て取り上げる(抹消する)必要があったのでしょう。
 「45秒」というキーワードには、よく隠喩や暗示が仕込まれていると、作品掲載当時は様々な解釈がなされましたが、私はこうした観点に落ち着きました。それこそこの数字は、芦奈野先生が仕掛けた巧妙なトラップだったのではないか?と。例えばそれが「45秒」じゃなくて「42秒」でも「49秒」でも、読者はそこに何か因果な意味があると考えてしまいますからね。
 考察がだいぶ『カブのイサキ」』一辺倒になりつつありますが、最後に細かい部分での、いくつかの他作品との相関点を挙げておきましょう。
 最終回直前で判明した、「カジカはイサキの お姉ちゃんだから」(♯47)という困惑の謎設定、これも『アブドライバーのこと』の姉弟関係に、その下敷きがあるように思えてなりません。(キャラの性格は全然違いますけどね。)さらに妄想を暴走させてしまえば、♯45に登場する「海じいさん」、あれも実は「くまばち」に乗ってたじいさんなんじゃないの?と勘繰ってしまいます。「富士山のことを言うヤツは久しぶりだ」、「おめえは まだ行く先があんのか」という言葉も意味深ですよね。イサキが現世で見聞を広めれば、それだけこの精神世界は更なる拡がりを見せていく……、そのことをアドバイスしに現れたのかも。そこにどんな意味があるのかは解りませんが、少なくともシロさんは、「これからも みんなで そうして生きていけたらいいな」と、希望的観測を持って、再び出会えることを信じています。
 それにしても、イサキをこの世界に引き寄せたカジカは、果たして報われた(成就)できたのでしょうか?なにかそのあたりのエピソードが描かれないまま物語が終わってしまったのが、残念と言えば残念でなりません。考えてみれば、この物語の引き鉄となったのはカジカなのに、意外と設定が謎にまみれたままになっているように思われます。『カジカの日々』あたりで、もう少しその背景を引き出して欲しかったようにも感じました。

 願わくば、カジカもシロさんもみんな一緒に、もっと遠くへ行くための器となるために…、イサキが、どこまでも行けますように……。 

 そしてあるいは、これらの出来事をその一部でも垣間見ることの出来るすーちゃんこそが、この作品の語り部となり得るのかも知れません。
 「はるかちゃん」 「はい?」
 「人間には 『ドライブ欲』ってのが あるんだねぇ」


2021/01/23