海風通信 after season...

能満寺の蛸薬師如来

【多光薬師如来】
 所在地:横須賀市鴨居(能満寺境内の薬師堂内)
 開帳年:三十三年に一度、四月末から五月末までの一ヶ月間のみ。
 概 要:明応六年(一四九七)創建の能満寺境内にある薬師堂に安置さ
      れた、二尺五寸行基作とされる木像。本来の名称は多光薬師
      如来(たこうやくしにょらい)。開帳条件がかなり限定的な秘仏。
      ★次回の御開帳は、2050年(!)


  ※本ページに掲載した写真は御開帳時に許可を得て撮影したものです。
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 [取材日:2017年05月09日]


 能満寺は明応六年(1497)の創建といわれ、それ以前の寺の名は「松雲庵」であったとされています。ご本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)。その頃から既に本尊とされていたようで、像の胎内からは応永六年(1399)の作という銘文が見つかりました。寺の創建の歴史をも凌ぐ古い仏像ということで、市の文化財にも指定されています。お寺巡りをされている方は、このご本尊にお会いする目的で、ここを訪れる方も多いことでしょう。
 しかし能満寺には、もう一つ魅力的な仏像が存在します。それが境内の薬師堂に安置された、多光薬師如来(たこうやくしにょらい)です。
 この如来像、多光(たこう)から転じて「蛸(たこ)薬師如来」と呼ばれるようになったと言われています。なんともユニークかつ興味深いネーミングなのですが、土地柄から推察すると、単なるシャレでつけたようにも思えません。というのも、この「鴨居」という場所は鯛やの好漁場として昔から知られた地であり、直近の浜である脇方地区では、神事や民俗芸能にその片鱗を見つけることができるからです。
 ちなみに薬師如来に「蛸」を由緒付けるお寺は実は他にもあるようで、京都府新京極や東京目黒の「蛸薬師」などは有名ですね。では何故に蛸なのか?と言うと、蛸の目は大きく目立つだけでなく、非常に発達してることから、昔の人は学識云々は置いといて、「タコはきっと目が良い!」と考え、これにあやかろうとしたのかも知れません。実際、栄養・成分的にも、蛸には「タウリン」というアミノ酸が多く含まれていることが近年知られてきました。このタウリンは視力の維持・強化にも効果があると言われています。もともと薬師如来は文字通り衆生の病気を治していただける医薬の仏様として、殊に眼病予防や平癒には古来より熱心な信仰を得ていましたから、この謂れはそのプラスアルファとして、説得力増し増しになったのかも知れませんね。
▲ソテツが印象的な能満寺の本堂。虚空蔵菩薩はここに。 ▲脇方地区の民俗芸能に使用される蛸と鯛。
 さて、話を本題へと戻しましょう。能満寺の薬師如来がなにゆえ蛸薬師と呼ばれたのかは、それにまつわる数少ない文献を見る限り、前述の聞き伝えに起因するカン違いからだという理由が濃厚のようですが、本当にそれだけなのでしょうか?これだと面白味に欠けるというか、もう少し蛸に関連付けたエピソードがあって欲しいところです。そう思っていろいろと文献を探っていると、唯一、以下のような資料が見つかりました。


【横須賀郷土資料叢書 第二輯 『浦賀町郷土誌』 第四編「鴨居郷土誌」】
 能満寺 ― 東西十八間 南北二十一間 面積一段六畝三歩あり行基作虚空蔵菩薩を安置す。
又寺内に薬師堂あり。薬師の木像二尺五寸行基作を安置す。天正十九年堂領弐石の御朱印を給はる元来此薬師は
多光薬師と称するを土人誤り伝へて蛸薬師と称し奉納物に必ず蛸の絵を画くを常とす。

 これです!当時の人々の、こうした人間臭い行動の記述を私は知りたかったのですね。「奉納物に蛸の絵を画く」とは、なんと言うか、実に微笑ましい風習ではありませんか。また、こうした習わしは今も続いているのでしょうか?
 そして更なる謎は、33年に一度しか開帳されることのない薬師堂の如来像。こんなにも秘仏にされているということは、ひょっとしたらここの如来様は、何か蛸にまつわるモチーフを施されている仏像なのでは?それがあまりにも他の如来像と比べて異質だったため、秘仏とされたのでは…?などと、思わず勘繰ってしまいます。そんな様々な想像が膨らむなか、2017年、ついに御開帳の年を迎えることとなりました。私の妄想気味な推測は別としても、貴重な秘仏を拝観できるまたとない機会です。これは何は無くとも見に行かないわけにはいかないでしょう。
 ところでこの33年に一度というのは、三浦二十一薬師如来霊場の大開帳に合わせてのタイミングだそうです。それにしても、33年……。どうにも気が遠くなるような時間の間隔です。オリンピックだったら、その間に8回も開催できてしまう計算ですよ!もしも次回、私が再びこの薬師如来霊場開帳に立ち会うことができるとしたら……う〜ん、それは考えたくもない年齢に達しているのですねぇ。ですから、この機会を逃さず訪れることが出来たのは本当に幸いでした。このレポートの検証報告だって、もしかしたら33年後に持ち越し……!なんていう可能性もあったわけですからね。
▲薬師堂の前に立てられた回向柱と、堂内に延びる善の綱。 ▲古銭を使って「め」を鏡文字で表した扁額。
 ということで、さっそく能満寺へ。寺社は急登を上がった斜面に沿ってに築かれた、脇方地区の町なみを見渡せる静かな高台にあります。
 本堂左手より続く階段を上がった先にある小堂が、多光薬師如来様の鎮座する薬師堂。これまでに2回ここへ訪れたことがありますが、その時は薬師堂内部は拝めても、肝心の如来像は厨子に納められていて、その扉は閉ざされたままでした。
 では今回はというと、薬師堂の前には回向柱という角柱が立ち、その上端には「善の綱」と呼ばれる白い綱が結び付けられ、それは薬師堂内部へと延びています。この綱は如来像の御手と繋がっているため、この綱を握ることで、薬師さまと触れ合えたこととなるのですね。どこぞのアイドルグループみたいに、「握手券」などというものは要りません。この時期だけは参拝に来さえすれば、存分にニギニギできるのです。
 あ、話が脱線しましたね。で、この綱の延び行く先には、果たして薬師如来像が厨子の扉を全開帳の上、鎮座なさっているのです。
 そのお姿は、眩いほどの後光に照らされ、まるで黄金色に輝き……って、ホントに金ピカですよ!?あれ、なんだろう?この新しさは。史実では、たしか600年以上前の仏像ということだったのですが……。
 想像を覆され、戸惑いながらお寺の方にお話を伺うと、この如来像は数年前(5〜6年前)のお堂改修の際に、同時に像の修復も兼ねて金色に塗り直したということ。うーん……まぁ…これはこれで良いのでしょうが、出来れば古色が醸しだす、歴史の重みを感じさせる旧来の像のお姿というものも見てみたかった気もします。
 そして肝心の像の外観はと言うと、これはいたってフツー、と言うと語弊があるでしょうか。いわゆる一般的に立派な薬師如来像のお姿そのものです。両脇侍に日光菩薩・月光菩薩、自身は左手に薬壺を持ち、右手は施無畏印を結ぶという典型的な「薬師三尊」のスタイル。厨子の両サイドには眷属である十二神将が護衛するかのように並び、これもまさに教科書通りの配置です。案の定と言うか当然のことでしたが、「蛸」的な要素はおろか、異質な様相は微塵すらもありませんでした。
 それでも諦めきれず、先程の住職の方に「蛸にまつわるものは何かありませんか?文献では、奉納物に蛸の絵を画くとありますが」と訊ねると、私の代ではやっていないし、先代がそういうことをしていたという記憶もない、とのこと。資料や遺物としての「蛸の絵」も全く残されていないので、行なっていたとしても、それはもうかなり昔の話なのではないかということでした。
 残念な結果となってしまいましたが、代わりに教えて頂いたのは、如来像の安置された厨子のすぐ上に掲げられている「めめ」という扁額。「め」という字を鏡文字に左右対称にしたものを古銭で形作ったという、かなり珍しい奉納物です。後で知ることとなりますが、眼病平癒に霊験ありと定評のある薬師様のいるお寺では、俗に『めめ絵馬』という木札に願をかけて奉納するという風習があるようですね。能満寺のそれは、立派な額縁に古銭で作成したというその最たるもの。奉納年月日が「明治三十九年」とありますから、当時はかなりの信奉を集めていたのでしょう。「蛸の絵」を奉納物に画いていたのは、その前後の時代のことなのかも知れません。それにしても、教えてもらわなければ、この扁額のことは気付かなかったかもですね。
 最後に御朱印を賜り、写真撮影の許可もいただきましたが、そもそも前述した通り、「蛸」に関わる外観上の形状はまるで見られなかったので、ここはいたずらに秘仏という存在をネットに晒すのも野暮と考え、画像には敢えてボカシを入れさせていただきました。さんざん引っ張っておいて恐縮なのですが、ある時期・その場所でしか見られないからこその「ありがたみ」というのもあるハズですからね。宗教や信仰に特段の思い入れはないのですが、こうしたことは大切にしたいという考えから、このような判断とさせていただきました。
 それじゃあ見たいなら、また33年も待つの!?と突っ込まれそうですが、安心してください。どうしても見たかったら、年に一度、11月12日の『薬師如来御祈祷会』に於いて、全開帳とはいかないまでも、正面の扉を少し開ける「半開帳」的なことはするそうです。
 ただし、くれぐれも言っておきますよ。能満寺の薬師如来様に、「蛸」要素はありません!

【参考文献】:校訂 三浦古尋録/横須賀市図書館 編著
横須賀郷土資料叢書 第二輯 『浦賀町郷土誌』/横須賀郷土資料復刻刊行会 編著
『新横須賀市史』 別編 民俗/横須賀市 編著