海風通信 after season...

三戸のおしょうろ流し

【おしょうろ流し】
 地 域:三浦市初声町三戸
 開催地:三戸海岸(初声漁港付近)
 開催日:8月16日
 時 間:午前8時より
 カテゴリ:盆行事

 [取材日:2016年08月16日]

 


 三戸の『おしょうろ流し』の存在はかねてより認識していたのですが、これまではなかなか足を向ける気にはなりませんでした。
 それというのもこれ、盆の送り行事なのですよ。何か湿っぽいような暗いイメージも持っていましたし、そもそもその地域の部外者である人間が、軽はずみに見学とかしててもいいようなシロモノなのか?ということが気になっていたのです。
 ところが、実際はそうでもないらしく、その地域の古き佳き人々のつながり合いを実感できる行事であるという体験者の話を聞き、少しだけ興味が湧いてきました。さらに調べてみると、この地区では他所の盆行事ではあまり見られない、帰ってきたご先祖様の御霊をのりうつらせる依代(よりしろ)が存在するのです。それこそが、まさに『おしょうろさま』なのでした。
 神サマや精霊といった高位の存在を神事や習俗によって具象化されると、私の興味指数は急激に高まってきてしまいます。さらには、菊名の『飴屋踊り』でも目撃した、あの「花飾り棒」らしきものも確認できるではありませんか!『とっぴきぴー』での来訪からまだ2週間余りしか経過していませんが、再びの三浦半島行きを決意するのに、それほどの時間は要しませんでした。

【おしょうろ流し とは】
 三浦半島南部、とりわけ初声町三戸地区に見られる盆送り行事の独特な形式。8月16日の早暁、『おしょうろさま』と呼ばれる麦藁で作られた祖霊の依代を、オモリモノ(お供え物)とともに『おしょうろぶね』という竹組みの舟に乗せて海上沖にまで送り出す。いわゆる「精霊流し」の一つ。
 依代の存在と、部落単位の共同作業であるということ、送り出す一連の作業を子供たちが行なうという部分が特筆すべき点で、県指定の無形民俗文化財。『ちゃっきらこ』と並び、三浦半島でもっとも有名な民間習俗行事の一つでもある。

 『おしょうろ流し』の開始時間は朝の8時。ただしその前に舟の製作や飾りつけなどがあるので、この行事の全体像を知るには午前5時頃から待機している必要がありそうです。当然、東京からの始発電車ではとても間に合わないので、当日は深夜2時からスクーターを走らせて現地入りしました。
 案の定、『おしょうろ流し』が行われる三戸海岸では既に大量の麦藁が運び込まれ、開催場所は一目で分かります。以前はこの海岸に浜小屋を作り、麦藁を盗まれないように子供たちが遊びながら夜通し番をするという習わしがあったそうなのですが、今では教育面や安全上の問題から行われなくなってしまったそう。大晦日みたいに、一日くらい、そういう特別な日があってもいいのにね。
 ここで『子供たち』というキーワードが出てきましたが、『おしょうろ流し』は、実は子供たちが色々と取り仕切る行事でもあるのです。船の材料である麦藁の見張り番から、当日朝の集落内への開催の告知、舟の飾りつけ準備(製作はサスガに大人たちが行なう)、おしょうろ舟を曳航する泳ぎ手などなど……、子供抜きにしては成しえない行事なのですね。そのため今後、子供が少なくなってくると、『おしょうろ流し』自体が出来なくなる、あるいは方式が変わってくるという危機的状況にもあるわけです。
 現に『おしょうろ流し』は、初声町三戸の『谷戸・上』『北』『神田』の3つの地区で行なわれていたのですが、今年は『神田』地区に泳ぎ手となる子供が確保できなくて中止となっています。『北』地区もなんとかギリギリ泳ぎ手だけは確保したという感じ。なので、本来の『おしょうろ流し』の流れを再現できるのは、今年は『谷戸・上』地区だけです。そこで今回は『谷戸・上』地区に焦点を当てて取材を進めていきましょう。
▲早朝、さっそく舟の骨組み作りに取り掛かる。 ▲約1時間後、大まかな立体構造物となる。
 薄陽の射すなか、浜に集まっているのは若衆…というより、おっちゃんばかり。あれ?子供は?という感じですが、まずは舟の製作に時間がかかるということですので、大人たちが舟の骨組み製作に取り掛かります。
 長さ8m程の竹竿を舟の大まかな展開図となるように並べ、そこに横竿を等間隔に這わせてゆき、交差する部分を荒縄で固定していきます。船底が完成したら側面も同様に製作し、全体的にはショートケーキのような三角形の立体物が出来上がりました。ここまででおよそ1時間。設計図や指示図などは存在せず、どうやら例年の記憶だけが頼りのようで、「おい、ここどうやって作るんだよ?」「ちょっと北(地区)に聞いてくるわ」などと、試行錯誤を繰り返しながらの製作が、なんだか緩々ムードで良かったです。
 大人たちが悪戦苦闘を続けていると、ようやく子供たちが浜へと降りてきました。手に抱えているのは、なんとあの『花飾り棒』です!青・赤・白で構成された花飾りは、『飴屋踊り』のそれと比べて多少地味ですが、統一性があるとも取れますね。ちなみにこの花飾り棒、この地域でも特に正式な呼び名はないそうで、単に『花』とか『飾り』と呼ばれていました。
▲子供たちが『花飾り棒』を抱えてやって来た! ▲大人たちが舟を作製する間、飾り物を積み上げていく。
▲「おしょうろ、こして、けえやっせー!」地区内を練り歩く子供たち。 ▲呼びかけに応え、人々は浜へと『おしょうろさま』を持ち寄る。
 子供たちが『花飾り棒』を浜にどんどん積み上げ、舟の飾り物一式を運び終えると、今度は集落内を「おしょうろ、こして、けえやっせー」(お精霊様を送り出す準備をして下さい)と掛け声を合わせながら練り歩きます。この声を合図に、地区内の各家々は仏壇から『おしょうろさま』と『オモリモノ』を持って浜へと降りてくるのですね。この一連の流れは『おしょうろ流し』を詳細に調査した文献などを読んで知ってはいたのですが、まさか現代でも継承されているとは思いませんでした。これは非常に良いことだと思います。通信手段が異常に発達した「今だからこそ」のローテクな連絡方法、なんだか訳もなく胸が熱くなる想いがしました。大げさですか?でも、いいです!(ココネ風に。)
 子供たちの呼びかけに応え、地区内の人々は次々に『おしょうろさま』を持ち寄って、あの『花飾り棒』の積まれた場所にやってきます。そしてその場で再び『おしょうろさま』と『オモリモノ』を並べ、線香を焚き、お盆の最後の祈りを捧げます。この『オモリモノ』には、キュウリの馬やナスの牛に加え、ほおずきや賽の目に切ったナスなどが供えられますが、近年は環境衛生的に生モノは『おしょうろぶね』に積み込むことはNGだそうで、後で自宅に持ち帰り処分するそうです。ところが、今やナスやキュウリの牛馬はプラスチックやマコモで作られているので、それらは特に問題となりません。とは言え、それもなんだか悲しいことでもありますね。
 そして、今回の最大の関心事である『おしょうろさま』。これは祖先の霊が宿る依代となるものなのですが、それ以外はなんとも説明のしようがなく、写真を見ていただく他はありません。麦藁を円筒状に束ねて2本の角(?)が突き出た形状は、比喩し得るものが見つからないのですね。文献を調べてみても、この形がいったい何を意味するものなのかは定かではないそうです。デザインにはいくつかのパターンがあるのですが、これは『おしょうろさま』の作成者の作風の違いだということ。『おしょうろさま職人(!?)』なる人がいて、お盆が近くなると各戸に行商に来たり、農協の売店などでも売り出されるらしいです。こんな独特の風習、まだ残っているんですね。これは来年、農協などで販売している様子などを見てみたいものです。ちなみに自作をしても良いそうで、私がお話を伺ったおかみさんは、「今年は自分で作ってみたのよ。」と、大事そうに浜に並べていました。
▲これが依代となる『おしょうろさま』。色々なデザインがある。 ▲浜に持ち込まれた『オモリモノ』の数々。
▲自作の『おしょうろさま』もある。ナスやキュウリも何だかラブリー。 ▲賽の目状に切ったナス。御先祖様のゴハン代わり?
 浜でいろいろと話をしているうちに、子供たちがリヤカーに麦藁を積んで戻ってきました。子供たちの年齢は小学校低学年から中学生まで様々で、年長者の中から『たいしょう』と呼ばれる役柄が一人選ばれ、その者の指示に従って作業を進めていくということ。低学年にはけっこう負担の大きい仕事もあるのですが、意外にも皆、淡々と作業をこなしていきます。
▲トラックの荷台からリヤカーに麦藁を積み下ろす。仕事してます! ▲骨組みの舟の中に、麦藁をしっかりと詰めてゆく。
 運びこまれた麦藁は、すぐさま骨組みだけの『おしょうろ舟』の中に詰め込まれ、隙間なくしっかりと敷き詰められていきます。そして帆柱が立てられ、提灯などの飾りつけが進んでくると、ようやくショートケーキから舟らしいモノへと形が整えられてきました。『おしょうろさま』も続々と集まり、浜は地区の人たちで賑わいを見せ始めます。しんみり…というよりは、ホントにわいわいガヤガヤと和やかな雰囲気。そんな中、舟を作っていた若衆のうちの2人が『おしょうろさま』の集められた浜に腰を下ろし、おもむろに『おしょうろさま』を長い竹棒に串刺しにし始めました!文献を読んである程度は知っていたのですが、この光景はなかなかショッキングです。『ダンゴ3兄弟』どころじゃない、『おしょうろ10兄弟』ぐらいに次々と串刺しにされたそれは、もはや一本の太い棒状のようなものになって、舟の舳先へと取り付けられました。
▲竹棒に『おしょうろさま』を串刺しにしていく。本来は子供の仕事。 ▲舳先へビッシリと取り付けられた『おしょうろさま』。
 「あのー、これって祖先の霊の依代なんですよね?なんで串刺しに…ご先祖様の御霊(みたま)とか大丈夫なんですか?」
 我ながらヘンな質問ですが、おかみさんたちの話によれば、仏壇から下ろした時点、もしくは浜でお線香を焚いて挨拶を済ませた時点で、霊魂は依代から抜け出ているのだという。つまりこれは完全に抜け殻状態のもの、ならば『おしょうろぶね』の飾りとして使ってしまおうということなのですね。なんだか安心しましたが、しかしそう考えてみると、今やご先祖サマの霊魂は舟の完成を見守りながら、この浜に大勢待機しているということになるのですね!?
▲華やかな飾りつけを済ませると、『おしょうろぶね』の完成だ! ▲光照寺の住職の読経により、全ての準備が整う。
 8時15分前、子供たちの手による『花飾り棒』が舟の周囲を取り巻くように飾りつけられ、一切の『オモリモノ』が舟に積み込まれると、ついに『おしょうろぶね』の完成です。
 浜にはこの地区にある光照寺の住職が現れ、最後のお見送りとしての読経を始めます。地区の人々は住職と舟を取り囲むように集まり、静かに祈りをささげます。この瞬間が、まさしくこれが法事であるということを思い出させる神妙な一場面でもありました。
 読経が終わると、いよいよ舟の出航となります。舳先には7本のロープ(正式には8本?泳ぎ手の人数で変わる)が結ばれ、その先にはビート板のような『舟板』と呼ばれるものがついています。子供たちはその舟板を抱えて海に飛び込み、大人たちは総出で砂浜から舟を海上へと押し出します。かなりの大きさと重量のある舟なのですが、子供たちの懸命なバタ足により何とか推進しているよう。無事に『おしょうろ流し』が始まりました。
 舟が完全に海上に出ると、地区内の人々は念仏を唱えたり、合掌したりして見送ります。住職のもとにはおかみさん達が集まり、一緒に御詠歌を詠い上げています。きっと何十年も前から変わらない、三戸の盆送り行事の姿なのだと思うと、胸に沁み入るものがありました。
▲舟が渚へと担ぎ出され、『おしょうろ流し』が始まる。 ▲おかみさんたちは御詠歌を詠って送り出す。
 この日は台風7号が接近しつつあり、海況が心配されていたのですが、どうやらギリギリ間に合ったよう…なのかな?子供たちは「台風7号がァ!風がー!」と、若干の弱音を吐きながら、もがくように泳いでいます。舟はこれから伊豆天城山方面の西へ向かって、つまり祖霊の帰る西方浄土へという考え方に沿って1キロばかり沖合へと向かうのですが、今年はこの天候と交替の泳ぎ手がいないという状況から、漁港の突堤先端までの約200mまでは泳ぎ切ろうということになりました。私も突堤沿いに歩きながら彼らの航跡を追いましたが、波もあり確かに大変そう。けれどこれが台風の影響なのかというと、そうでもないのですね。それでも子供たちは泳ぎながら「くそー!台風のヤツめー。進まねー!」「台風7号ー!くぉのー野郎ぉ!」と連発しています。もはや完全に台風7号は悪者扱いです。いやいや、まだ全然遠くですよー、台風。
▲懸命に曳航する子供たち。目標はあのテトラポッドまでだ! ▲御先祖様の魂も、無事に西方浄土に向かうことでしょう。
 そんな子供たちも突堤先端まで辿り着く頃にはサスガに無口になりましたが、見事に泳ぎ切りました!サポートとして並航する漁船に引き上げられ、波打ち際まで戻ってくると、地区の人々によって暖かく迎え入れられます。この後も、子供たちには地区の風習に則った作業があるのですが、部外者である私がそこまで踏み込むのも何なので、『おしょうろ流し』のレポートはここまでとします。

 9時を過ぎると、浜は再び「夏の三戸海岸」の風景を取り戻し、海水浴客も目立ち始めてきました。夏はもう、あとわずかに数えるばかりです。

参考文献:神奈川県民俗シリーズ[3] 三戸のおしょうろ流し/赤橋尚太郎 著
三浦市民俗シリーズ[IV] 海辺の暮らし -三戸民俗誌-/田辺 悟 編著