海風通信 after season...

屋号のこと〜源エム丸と潮端の検証

【集落屋号と漁船名考】
 調査地域:三浦市初声町入江・下宮田、三浦半島内の各漁港
 対象屋号:潮端・塩場・エム・ゼムと名の付く屋号・船名

 [取材日:2018年07月03日]


 『屋号』とは、名字(姓)の代わりに呼称される、平たく言えばあだ名や愛称のようなもの。現代ではお店や会社名のような商号、といったほうが馴染みがあるかも知れませんね。「ふっふっふ…越後屋、お主もワルよのう…」という越後屋、あれも屋号の一形態です。
 ただし、そもそも屋号とは同姓の多い地域の集落などで、互いを呼び合うのに区別するために都合の良いことから生まれたとされています。例えば、同じ場所に3軒の「鈴木さん」がいたとしたら、それらをいちいち「鈴木さん」と呼ぶのは紛らわしいので、一つは「本家」・一つは川のそばにあるから「カワバタ」・あと一つは豆腐を売っているから「豆腐屋」といったカンジです。三浦半島にも、こうした昔ながらの風習を残す地域があり、それらは初声町三戸地区や入江・下宮田あたりに今も息づいています。(※これらは『家号』とも言うようです。)
 で、何が言いたいのかというと、実は『ヨコハマ買い出し紀行』の作中にも、屋号の存在が確認できるのですよ! …まぁ、上の写真を見た段階でもろバレだとは思いますが、6巻第53話「先生のマーク」での『源エム丸』・12巻第118話「町で」での『五ゼム丸』が、それです。私も当初は「何でカタカナなの?」と思ったのですが、現実世界の乗合船もカタカナ表記だったので疑問に思い、聞き込みをしたところ、これはご先祖様の名前が、屋号と同じように船名として使われているということでした。
 辻井善彌氏の『ときめき探訪 三浦半島』によれば、屋号の由来の形態には「ある時代の家の主人の名によるもの」があり、「タエム(太右衛門)、ヨエム(与衛門)、キゼム(喜左衛門)がその例」とあります。おぉ!期せずして「ゼム」の謎まで解けてしまいましたね?つまり、エムは「右衛門」、ゼムは「左衛門」からの転訛ということになります。念のために三戸の民俗誌での屋号調査報告書も見てみると、『市ゼム→市左衛門』・『吉ゼム→吉左ヱ門』・『ヒョーゼム→兵左衛門』と、枚挙に暇がありません。
▲ヨコハマ・ファンなら、真っ先に思いつく場所かも知れません。 ▲先祖に『又右衛門』という人がいたのでしょうね。
 こうしたことを踏まえると、『源エム丸』は『源右衛門丸』、『五ゼム丸』は『五左衛門』がその名の由来となりますが、『五左衛門』というのは何とも呼び方に違和感がありますね。これは現実世界に『五エム丸』が存在したために、少し名前を歪曲させたのかも知れません。そもそも、『五エム丸』の所在地は横浜ではありませんしね。(※ちなみに『源右衛門丸』も、もちろん存在しませんでした。)
 さらに、いつもお世話になっている初声町の図書館分館で興味深い資料を見つけましたので、ここに引用させていただきます。

【『海鳥のなげき −漁と魚の風土記−』内海延吉・著より 抜粋】
 三崎では舟の名の何々丸は、その祖先の名であった。幾代か昔の家を創めた人の名がそのままに吉五郎丸、助九郎丸、清作丸、惣八丸、庄吉丸……とあるいは、九郎エン丸(九郎右衛門)金ベン丸(金兵衛)太ヘン丸(太兵衛)……と呼び易いように転呼されたが、それが昔の人の名であったと今考える者は誰もなく、その家その舟の固有の名と思って親しんで来た。
 昔の漁師町は文字のない社会であった。だから言葉が文字で制御されることはなく、自由奔放に口に乗せ易いリズミカルな調子となって口から口に広まっていった。訛音の多い理由である。なかには元の名を全く失ってしまった転呼が、例えば宇八丸がオハチ丸、喜平治丸がケエヂ丸、左右衛門がサーエン丸となった例もあった。

 続いてもう一つ。これは作品中では屋号としての登場ではありませんが、11巻第109話「潮端の子」で、表題通り『潮端(しょんばた)』という単語が出てきます。潮端とは、三浦半島および逗子・葉山あたりまで使われている方言だとされていますが、潮の端っこ→波打ち際ということで、その土地の者でなくても、なんとなく理解出来ますよね。この「ションバタ」を屋号に持つ家が、かつて初声の若宮神社の山側にあったということです。
 この史実は数点の文献から確認できますが、たいていはかつて「あった」と記されており、その明確な場所は示されていません。今回はこの件についても具体的な位置関係を探るべく、現地で聞き込みをしてみることにしました。
 しかし、この調査は意外にも難航しました。文献から読み取れる「若宮神社の山側にある」とされる家屋は2軒しかなく、その1軒は現在では『学童ハウス』として運用され、残る1軒ではご主人自らにお話を伺うことが出来るも、「もう50年近く住んでいるが、そんな屋号で呼んでいた家は知らない。」と言います。また、若宮神社の海側、初声小学校校門付近にも2件の家があり、そのうちの1軒はお店を営んでいることから、この地域の情報には精通しているかも?と思いきや、ここでも空振りとなりました。どうやらこの屋号で呼んでいた時代というのは、もうかなり昔のことのようです。
 半ば諦めかけていた所に、「ウチの親戚の家には行った?あそこは『塩屋』という屋号で呼ばれていたし、昔のことを聞きたかったら、あっちに行った方がいいわよ。」と、先ほどのお店のおかみさんから思わぬ情報を頂きました。この『塩屋』という屋号の家は郷土史料等でもたびたび登場しており、その存在は知っていたのですが、若宮神社からも少し離れており、実はノーチェックでした。けれど考えてみれば確かに、『塩屋』と『潮端』…これは何か関連性があるのかも知れません。
▲初声の若宮神社と、背後に残る小さな山。 ▲山側にある初声学童ハウス。位置的にはピッタリだが?
 さっそく『塩屋』という屋号を持つお宅へと向かうと、御高齢ながら手際良く農作業をしているお母さんと出会うことが出来ました。残念ながらご主人は数年前に亡くなられたということですが、このお母さんも塩屋の由来のことをよく覚えておられ、いろいろとお話を伺うことが叶いました。
 この辺りはかつて入江が深く入り込んでおり、初声小学校付近まで海だったと言います。その時代に製塩業を行なっていたことから、『塩屋』と呼ばれるようになったそう。以前は塩を精製する当時の器具なども保管していたそうですが、時が過ぎ、今では大部分を処分してしまい、その名残りはほとんど無いようです。『塩屋』という呼び方もまだ辛うじて通用していますが、その本来の意味を知らない人たちには、『シオヤ』→『ショーヤ』→『庄屋』と誤解してしまう人も多いそう。残念ですが、それほど時が経ち過ぎていたのですね。
 梅雨明けの炎天下のなか、お母さんは自ら先に立ち、かつて塩田だったという『塩場』と呼ばれる畑を案内してくれました。一見、何の変哲も無さそうな畑でしたが、よく見ると土に白いモノがちらちらと目立ちます。
 「このあたりの白いの、みんな貝殻。ここらへんまで海だったから、掘るといくらでも出てくるよ。」
 促されるまま、足先で地面をちょっと引っ掻いてみると、貝殻の破片がゾロゾロ見つかりました。これは言われてみないと気付かなかったかもですね。正確な場所を地図上で聞くだけでも良かったと思っていたのですが、わざわざ案内していただいた甲斐がありました。
『塩場』と呼ばれていた畑。土壌の白い粒は、ほぼ貝殻。 貝の化石を含む岩石の露頭。かなり削った跡がある。
 話が一段落したところで、『塩屋』さんの屋号のように、この付近で『潮端』と呼ばれた家がなかったかどうかを尋ねてみました。
 結論は……「お父さんに聞けば解ったのかも知れないけれど…申し訳ないけれど、私は聞いたことがない。」とのこと。ホントに、どれだけ古い話なのでしょう?けれどお母さんは、「ここも波打ち際(潮端)みたいなものなのよ。」と言って、庭先の岩を指差しました。
 見ると、そこには海岸の岩礁地帯にあるような岩が突然現れており、それは道路で寸断されているものの、道を挟んで向こう側にまで続いています。
 「専門の先生が言うには、この岩が、当時ここが波打ち際だったことを示すみたい。いろんな人が、この岩を調べに来たわよ。」
 岩石の知識はあまりありませんが、砂泥岩質の内部には貝殻の化石が多数見つけられました。この貝の化石を研究用に採取するため、かつては学生やら研究生が多数訪れたと言います。岩が不自然にカーブを描くように凹んでいるのは、サンプルを削り取った際の名残だということです。
 貝の化石を多く含む地層……調べてみると、これは『宮田層』という三浦半島南部に広く分布する第四紀の地層のようです。その境界線部分が、ここに露頭として現れているのですね。この境界線を地質図の上で辿っていくと、まさにかつての入江の輪郭が浮かび上がりました。紛れもなく、この場所も潮端だったのです。

 というわけで、これらの点在する岩石を脳内で繋ぎ合わせていくと、なんとなく当時の波打ち際の様子をイメージ出来る…かも知れません。
 『ションバタ』という屋号を持つ家(があったとされる場所)は結局のところ特定できませんでしたが、なにより、『潮端』という言葉が普通に通用する地域があるということが、とても嬉しく感じた今回の検証レポートでした。

【参考文献】:ときめき探訪 三浦半島/辻井善彌 著
海鳥のなげき−漁と魚の風土記−/内海延吉 著
三浦半島の歴史をたずねて/高橋恭一 編・田辺 悟 著
三浦市民俗シリーズ[XIII] 三戸民俗誌2/三浦市教育委員会
三浦の歴史シリーズ T 初声の歴史探訪記/浜田勘太 著