海風通信 after season...

長井宿追想 〜前田夕暮の『白秋追憶』 -半島の早春- より

【白秋追憶】
 著 者:前田夕暮(まえだ ゆうぐれ)
 出版社:健文社
 刊行年:1948年(昭和23年)
 概 要:白秋没後、歌友としての思い出の数々を歌と共に綴った随筆集。
     特に追憶編の巻頭を飾った「半島の早春」は、当時の三浦半島の
     風趣を窺い知ることのできる興味深い紀行文でもある。
     ちなみに長井の富浦公園にある歌碑は、昭和3年刊行の第六歌集
     「虹」の中の、「長井村に泊る」からの一首を詠んだもの。
      《宵あさき 長井往還行きにつつ 村湯の明り なつかしみけり》
     夕暮にとって、よほど長井は印象深い場所だったらしい。
 [取材日:2020年10月06日]


 前田夕暮は、明治・大正・昭和にかけて様々な作風の転換を図りながら活躍を続けた、近代短歌の開拓者です。しかしながら歌人としてだけでなく、随筆(エッセイ)においてもその評価は高く、私などはむしろこちらの面で夕暮の作品に惹かれたクチと言えるでしょう。
 そんな夕暮が、歌友である北原白秋とともに三浦半島を清遊して歩いた紀行文的エッセイが、「半島の早春」です。読み易い文調とユーモアを随所に交えた展開は、全編を通して魅力的であり、何気に白秋にまで興味を持ってしまうというオマケつき。私はこれまで「北原白秋」という人物に全く興味が湧かなくて、学校で習う程度の知識しか持ち合わせていませんでしたが、この本で俄然、人間的な親しみを持つことができました。そしてまた、調べてみるほどに奥深いのです……。こうした二人が歩いた三浦半島、なかでもとりわけ当時の情景を興味深く綴った横須賀市・長井の地を、作品本文を交えながら現地を辿ってみることにしました。 ※以降、茶色で示した部分は、作品本文からの引用です。

 【私達は枯草の上に寝ころんで何か話してるまに、連日清遊の疲れが出て、つひうとうとと眠った。暫くして眼をさました二人は帰らうといふ気持をもう持ってゐなかった。どちらからいひ出したといふでもなく、もう一晩どこかへ泊らうといふことになり、野路をぶらぶら歩き出した。
 前方の高畑の上に赤く揺れてゐる大きな物体があった。白秋君は「あれを見給へ、警報球があがってゐる。」と言ふ。近づくと高畑の上には白い測候所の建物があり、空に上がってゐるのはまさしく警報球であった。大風の烈しい流れのなかで、赤く大揺れに揺れてゐた。それを茫然と野路に立って見呆てゐる私達であった。】

 三崎に三日二晩逗留し、八景原・城ヶ島と歩いた二人は、まだ帰りたくないという気持ちから、逗子方面行きの街道を歩いて行くことになります。そうして辿り着いたのが、高台の畑作地。ここは現代のソレイユの丘や経塚のある、長井の高台地付近であろうと思われます。
 それにしても気になるのは、『警報球』というもの。これは気象信号標(暴風警報信号標)と呼ばれるもので、かつて情報伝達手段に乏しかった時代に、広く危険を知らせるものとして、測候所が鉄塔上や櫓・ポールなどに吊り上げた球状の気象標識だということ。強風時や台風の時は、特に赤色の球を掲げるということです。そう考えると、けっこう酷い荒天時に、二人は呑気に昼寝をしながら旅をしているのがわかりますね。
 また、もう一つ気になるのが『測候所』の存在。長井にかつてこうした施設があったのでしょうか?調べてみた限りでは、その事実を示す資料は何一つ見つけられませんでした。まぁ、あの辺りは飛行場→米軍施設→今やレジャー施設と、目まぐるしく変化を遂げてきた地ですからね。その片鱗を見つけることは不可能に近いことなのでしょう。ただ、長井台地の高畑風景だけは、今も昔もそれほど変わらず、我々の目の前に共通認識として見せてくれているように思えました。ひょっとしたら何処かの農道や野路で、夕暮れや白秋たちのあるいた足跡とニアミスしている地点があるのかも知れません。
▲長井の高畑台地。左手に経塚の大樹が見える。 ▲古道の名残りを思わせる石垣土台の坂道。新宿地区あたり。
 【白秋君と私とは警報球の赤くあがってゐる烈風の原っぱから、赫土の坂道を海の方に駆けおりた。ふたりとも寒い寒いといって手拭で頬かぶりをし、その上から帽子をかぶった。この異様な風俗をした男がふたり、坂の上から駆けおりてきたので、道ばたに避けた二人連れの小娘は、驚いて眼を瞠ってゐたが、私達から通りすぎると、空の方に朗らかな声を放りあげ放りあげ笑ふのであった。
 「あの笑ひかたは悪くないな。」
 「さうだ、娘ざかりは来て三崎か。」
 と、二人は興じあって風波に白晒れた長井村に入り、郵便局がこっそりと道の端にあるのを見つけて、東京の友人達に、
 「オキノタイセンユフヤケゴザル」とか、「アメハフルフルジヤウガシマノイソニ」とか、「ケイホウキュウアカシ」など打電した。】

 夕暮と白秋が長井を歩いた大正十二年当時は、ある意味長井が最も栄華を誇っていた時代。この当時の町の中心地は汽船の港があった番場地区で、郵便局も番場に設置されていたとの記述が岡田緑風著の『三浦繁昌記』にもあるので、二人が高台より駆け下りて辿り着いた場所は、この番場地区であろうと思われます。
 話は前後しますが、この郵便局で電報を送ったことにより、自身が北原白秋であるということがバレてしまいます。その時のやりとりが…

 【村の子供四五人、往還から何かわやわや早口にいひながら二階を見あげてゐる。茶を運んできた小女にきくと、何だか知んねえですが、兎の電報だ、白秋さんだといって騒いでいるといふので、白秋君に、
 「君、村の子供達が、兎の電報だといって君を見にきてゐるよ。」と告げると、
 「どうしてわかったらう、僕だといふことが……。」
 「さっき電報を打ったからさ。」
 「あっ、さうか、郵便局のスパイか、困ったね。では頬かぶり二人連れもわかって仕舞ったな。困った。」と、君は頭をかかへて横に寝てしまふ。】

 これ、最初はどういう意味なのかサッパリ解りませんでした。「兎の電報」って何なんだよ?と調べてみたら、そういう童謡を白秋さんが作詞していたのですね。試しに聴いてみたら、やっぱりメロディも歌詞も耳馴染みのないものでした。これって有名なんですかね?ただし夕暮の文意から察するに、当時の子供たちの間ではかなり浸透していた様子です。史実的に見ると、『兎の電報』が発表されたのが大正十年、その二年後には地方の子供たちにまで定着しているのですから、けっこうなヒット作だったのかも知れませんね。蛇足ですが、この時アルス社より刊行された『兎の電報』の書籍表紙のイラストが、まるで「鳥獣戯画」をオマージュしたかのようで味わい深いです。私が古書店で見つけたら、思わず買ってしまうかも知れません。
 ちなみに、白秋と言えば「この道」や「待ちぼうけ」などの童謡が有名ですが、「あわて床屋」っていうのはタイトルだけを知っているのみでしたので、これを機会に聴いてみることにしました。…すると、もしやとは思いつつも、あんなコワい展開の詩になってるとは思いませんでした。そしてさらに、「金魚」という詩が輪をかけて恐ろしい!親を想う子の心理を表して…とか背後に示された理由を踏まえてみても、あんな猟奇的な詩になるものなのか…?気になった人は、ネット検索でもしてみて下さい。ほら、だんだん白秋について興味持ってきたでしょう?
 さて、ここからが今回の本題ともいうべき長井地区の現地検証です。

 【郵便局を出て少し行くと、磯ばたにいかにも旅人宿らしい藤屋といふのがあった。その宿屋の前を通り越して更に少し行くともう村はづれで、万祝を着た漁師が一人ぽつねんと海を見てゐた。その漁師に宿屋をきくと、あの藤屋一軒きりだといふ。で仕方なしにぶらぶら引返して、その汚れにた侘しい宿屋の前に立ったが、鳥渡入る気持になれない。とはいへ、日は暮れるし、何としても寒いし、それに二人共数夜の徹宵行楽でいたく疲れてもゐたので、つひ這入るともなくふらふら這入って行くと、二人の頬かぶりの姿をみて、何者かとうさん臭さうに物識してゐた帳場の五十恰好の小肥りの主婦は、それでも有繁にそっけない態度はみせず、「お客さんだよ、お二人づれ、二階の一番へ御案内。」と大きな声を投げつけるやうにいふと、小女が出てきて、その二階の一番なる部屋に案内する。】

 郵便局と宿屋という、2つの大きなキーワードが出てきました。この特徴的な場所を見つけ出すことによって、当時の長井宿での、彼らの足取りを辿ることは出来ないものでしょうか。
 まずは宿屋から。この「藤屋」に関しては、数点の郷土研究資料を見ても番場にあったであろうことは定説になっています。ただし、この宿の決定的な場所と言うものは明確になっていないのですね。この件について、なんと藤屋の女主人であった「浦島千代」という人物の献身を称える碑が、荒崎地区にある熊野神社に建立されているという事実を得ました。さっそく現地に赴いてみると、それは熊野神社の海岸道路沿い斜面の、けっこう目立つ位置に立っていました。けれど、それは参道沿いにあるわけではないので、そうと知らない人なら、まず気付くことがないでしょう。
 『烈婦 浦島千代之碑』と刻まれたその碑は、戦時中、荒崎にあった海軍官舎の人たちが官舎創設から戦争中に至るまで、この浦島千代さんに大変世話になったので、その感謝の意を込めて立てられたものだということ。石碑の裏を見ると、《神奈川縣横須賀市長井町番場四四六七番地浦島千代事常ニ報恩感謝ノ…》とあるので、「あ、なんだ、番地まで判明してるじゃん」と思いましたが、それでもなお場所が解明されていないということは、これはおそらく浦島千代さんの自宅の方の番地なのかも?実際私も地元の人に聞き込みをしましたが、結局わからずじまいでした。そもそもがこの石碑の碑文には、浦島千代さんが藤屋の女主人だったという事実は、何処にも書かれていないのですね。また、番場地区の神社ではなく、何故に荒崎地区の熊野神社に建立されたのかも甚だ疑問。この辺りは、いずれ熊野神社の神主の方に聞いてみたいところですね。けれど、あの神社っていつ行っても社務所とかに人がいないんですよねー。『長井飴屋踊り』の件も、いまだに聞き込みができていません。
▲烈婦・浦島千代の碑。石碑裏に建立要旨が刻まれている。 ▲屋形公園付近の石垣と段差。手前側はかつて磯場だった。
 気を取り直して、再び番場地区に戻って聞き込みを進めると、もともと旅館(ホテル)があったという場所は聞き出せました。ただしそれが藤屋であったかどうかの確証が得られないのですね。しかも今では全くその片鱗も掴めない更地となっているので、当時を偲ぶような面影は何ひとつ見つけられません。
 そんな折、古地図にも載るほどの歴史あるお寺ならば何か知ってるかも?ということで訪ねた屋形地区の長徳寺で、貴重な言葉が得られました。藤屋があった場所は、どうやら先程の更地となった場所だったようです。「ようだ」と書いたのは、これとても物証が無いので、軽々に結論を出すわけにはいかないのですね。また、今では一般住宅に挟まれた一画にあり、撮影すべき対象もないことから、場所の公開は控えさせていただきました。
 長徳寺の若い僧職のかたは、突然の私の訪問にも丁寧に応対していただき、かつては海がもっと近かったこと、埋め立てられる前の石垣の名残りがある場所なども教えていただき、当時の宿が「磯宿」と呼べるにふさわしい場所であるという信憑性にも近付けさせてくれました。ちなみにこれらが顕著に見られる場所は「長井屋形公園」付近。不自然な土地の段丘・傾斜や石垣が随所に見られます。
 宿の大まかな位置が分かったところで、次は郵便局です。これは過去の明細地図(住宅地図)から、簡単に割り出すことができました。けれど、こちらも残念ながら空地…というか駐車場?物置場所?のようなことになっています。付近に住んでいる方に話を伺うと、そこは紛れもなく、かつて郵便局があった場所だということです。「今ではこんな低い塀だけど、子供時分には随分高い壁に思えてね、これをよじ登って郵便局に入ろうとしたんだ。」とは、その人の幼少時代の話。「えッ!?ということは、今ここに残ってる塀は、当時の郵便局のものなんですか?」と訊ねると、そうだと言います。私は思わず興奮して写真を何枚か取りながら、「いや〜、番場に郵便局があったという事実を確認できただけでも報われましたよー。」とお礼を言うと、「え?ここは番場じゃないよ、新宿だよ」と、不思議な話になってきました。
▲新宿地区の郵便局跡地の石塀。フェンスは後年のもの。 ▲番場地区中心地直下へと下ることのできる古道。
 後日、情報を整理してみると、石塀の残っていた郵便局は番場地区にギリギリ近い新宿地区に属していました。ということは、明治六年に番場地区に郵便取扱所(のちの郵便局)が設置されて以降、どこかの年代で新宿地区に移転したようですが、その時期がいつだったのかは分からず、夕暮と白秋がどちらの郵便局を利用したのかも曖昧になってしまいました。また、これにて番場にあったという郵便局の場所も全くの不明ということに…。これまでの郷土研究資料にここらへんの明記がされていないというのは、そういうことなのかも知れません。また、かつての歴史を辿ってみると、長井の漁村地区はたびたび大火のあったところだということで、特に大正十五年十二月の大火では、長徳寺の本堂のみを残し、番場・屋形・東の3地区が灰燼と化すほどの壊滅的被害を受けたということ。加えて、大正十二年の関東大震災でもかなりの被害が出たとの記録があります。このどちらも、夕暮と白秋が旅した大正十二年二月の後に起こっているのです。町の様子はもう、全くと言っていいほど変わってしまったのかも知れません。
 なんだか収穫もなく、暗い話になりつつあるので、最後に本書で語られた面白いエピソードを一つ、ご紹介しましょう。

 【湯からあがって私はぐっすりねてしまった。すると隣に寝てゐた白秋君のうなり声がきこえるので眼を覚して、どうかしたかときくと、君は夜具からはだけた胸をあらはにして、苦しい苦しいといふ。死にさうだといふ。そして、いかにもせつなさうにうなってゐる。
 「君、これをみてくれ、僕の手も胸も真青だ、今にも心臓まひを起こしさうだ。医者を呼んでくれ。すぐ呼んでくれ。北原白秋がこんな安宿で死んだとあっては物笑ひになる。さあすぐ医者を呼んでくれ、愚図愚図してゐると間にあわん。」と瀕死の病人にしては可成り雄弁である。
 で、私は、「鳥渡僕に診せてくれ」といって、白秋君の手頸をとって脈にふれる。速度は少し速いが、異状なしと診断した。と、気がついてみると、君はいびきをたててもう眠ってゐる。
 そこで、私もまた寝床にむぐり込んでとろりとしたと思ふと、頭の上で高らかに呼ばる声―
 「素晴らしいぞ、この朝あけの海は…。おい、前田君、早くおきて見給へ。」
 私は驚いて、また心臓まひかと蹴ねおきると、頭の上の高窓をあけて、朝あけの海を見渡してゐる白秋君の横顔があった。
 あとで朝食を食べながら、夜半の心臓まひの話をすると、
 「さうか、それはすまなかった。何にね、ふと眼を覚してみると胸や腕が真青なので、てっきりこれは心臓まひと思ってうなったんだ。うなってゐるうちに気持がよくなって寝てしまったよ。」といふ。
 白秋君の体が青く染ってゐるやうに私の体もまた青く染ってゐた。それはいろいろ検討の結果、宿屋の主婦が私達を優遇するつもりで、新しい裏地の夜具を出してくれた。夜なかの熱い湯あがりで汗をかいた体が、その夜具の新しい藍にすっかり染まったことがわかった。】

 こんなオチまで付けてくるとは、夕暮さんもなかなかお茶目です。(というより、白秋さんのキャラが強いのか?)ともあれ、当時としても前田夕暮のエッセイのファンは多かったのではないでしょうか。
 磯宿でのこの珍事件の翌日、二人は長井村をあとに、前夜、頬かぶりをして駆けおりた坂を、昨日とは違ったゆったりとした気持ちで上っていき、三崎街道沿いにある長井の立場まで歩き、そこから帰路についたといいます。
 最後に、この「頬かぶりをして駆けおりた坂」とは、どのあたりだったのでしょう?先ほどの郵便局の件でお話を伺った方に尋ねると、高畑台地から町へと下りる小道程度のものなら、沢山あると言います。それこそ、各地区へと繋がる地図にも載っていないような道が多くあるのでしょう。その中から、なるべく古道と呼べるようなもので、番場地区直下へと辿り着くことが出来るものはあるのでしょうか?と訊くと、番場地区の鎮守の神社脇の斜面にそれらしいものがあるようです。さっそく向かって見ると、それは心細くも、確かにしっかりと判別できる小道が、台地上へと向かって続いていました。
 台地の上に出て、農道へと合流すると、彼方に経塚の大樹とサイロ塔が見渡せます。農道は台地の縁を辿るように続き、眼下には長井の町並み、他方は高畑の丘陵という光景…。夕暮と白秋が歩いた道は、まさにこの辺りだったのかも知れません。

 農道に沿って歩いて行くと、集団下校途中の小学生の一群と出くわしました。子どもたちはふざけ合いつつ歩きながら、やがて各々の住む各地区へと向かって、まるで台地から流れ降りる澪筋のように、それぞれの小道へと下りて行きます。
 やがて遠くに聞こえてくる笑い声を耳にしながら、「うむ、あの笑ひかたも悪くはないな。」と、私は夕暮を気取りながら長井をあとにするのでした。
▲右上写真の古道分岐より高畑を望む。彼方にサイロ塔。 ▲長井の立場は、現在の長井バス停あたりだろうか。

参考文献:横須賀市長井地区における沿岸集落の地域特性とその変遷/歴史地理学野外研究
新横須賀市史 別編 民俗/横須賀市
三浦半島の文学/野上飛雲 著
三浦繁昌記/岡田緑風 著
長井のあゆみ/長井小学校 編