海風通信 after season...

福泉寺・魚鼓(ぎょく)の玉(ぎょく)?

【福泉寺】(浄土宗)
 所在地:三浦市初声町三戸
 魚鼓とは、「(かいぱん)」という木製の法具で、主に禅宗である黄檗宗や曹洞宗の寺院で見られる。またの名を「(ぎょほう)」・「魚板(ぎょばん)」とも呼ばれ、食事の時刻や来客を知らせる合図などにも使用される。
 魚鼓は魚そのものの形状以外に、龍頭魚身の姿も多く見受けられる。また、口には丸い球(宝珠・宝玉とも)をくわえている場合があり、これは煩悩珠と云われ、「貧・嗔・痴」の三毒を表している。それ故、むしろ宝玉というよりは、この三毒を浄化するために魚鼓の腹を叩いて吐き出させた「あぶく」なのだとする説もある。
 ちなみに、この魚鼓が形を転じ、丸くなったものが「木魚」であるという。
 [取材日:2022年11月08日]


 福泉寺は、小網代に程好く近い場所に存在しているという立地条件の他、『一切亡虫魚墓』や『薬師如来堂』があるということで、私が三浦半島で一番好きなお寺であるということは前にも書きました。
▲浄土宗龍円山福泉寺の本堂。写真は如来開帳時のもの。 ▲夕暮れの木漏れ陽に包まれる薬師如来堂。

 この『一切亡虫魚墓』は、ややもすると見過ごしてしまいそうなほど簡素な石碑(供養塔)なのですが、人間サマだけではなく、ムシやサカナなど、生きとし生けるもの全てに、あまねく憐みの心を差し伸べているという観点からも、非常に珍しい供養塔であるといえるでしょう。人間生活に密接に関わってきた牛馬等の家畜や犬猫の供養塔などはまだ分かりますけど、ムシやサカナですからねー。なかなかここまでは気持が至らないと思います。
 また、寺前には同様に子育観音像の石仏があり、これは良く見ると羽衣のようなものを纏って子供を抱いているお姿から、キリスト教弾圧時代に聖母マリヤ像に見立てて信奉されたとも言われています。いずれにしても、いろいろと優しい気持ちになれるお寺なのですね。福泉寺を取り巻く三戸集落の雰囲気も相変わらずだし、まるで「故郷の夏休み」を歩いているような気分になれる場所。そんな理由から、私は別件で三浦半島に訪れた際も、ついついこのエリアに立ち寄ってしまうのです。
▲寺前に立つ「一切亡虫魚墓」の供養塔。 ▲聖母マリヤを仮託されていたと謂われる子育観音像。

 そんな福泉寺に、また一つお気に入りのモノが見つかりました。それが、本堂内入ってすぐ左手天井に吊り下げられた『魚鼓(ぎょく)』です。
 この存在を知ったのは、松浦 豊氏が著した『神奈川の郷土美探訪』という書籍から。それまでは不覚にも、こんな大きなモノが天井に堂々とぶら下がっていることに、まったく気付いてなかったのです。御朱印帳に揮毫してもらっている時にも、結願成就の証を頂いている時にも、御住職のお話を伺っている時にも全く気がついていない!(←この魚鼓、ホントにけっこう大きいのに!)…私の広範・柔軟な観察力の無さを露呈させられた場面でした。
 その魚鼓は、龍頭魚身のずんぐりむっくりとした姿で、怖いと言うよりはユーモラス。お腹のあたりは長年に亘って叩かれていたことがわかるような年季の入ったささくれや彩色の剥落があり、かなり使い込まれていたことが分かります。その様は少し痛々しいのですが、魚鼓の表情を伺うと、さして気にも留めていなさそう。泰然自若として、ただただぶら下がっているのみです。何にしても、浄財箱(賽銭箱)の前で私が手を合わせていたすぐ左上で、このようなモノに見つめられていたとは…。思わずニヤリとさせられ、以来、この魚鼓にすっかりと魅入られてしまいました。
 そんな魚鼓詣でを数回繰り返すうちに、ふと、あることに気がつきました。
 「あれ?そう言えば福泉寺の魚鼓って、宝玉をくわえてたっけ・・・??」
▲福泉寺・魚鼓の頭部拡大写真。玉は確認できない。 ▲こちらは『チャッキラコ三崎昭和館』に収蔵されている魚鼓。

 前述の書籍によれば、「―――あごを突き出した大きな口には、百八の煩悩を表わす宝玉を銜(くわ)えている。」とあります。
 でも自分が撮った写真を見る限り、どこにも宝玉は確認できません。画像資料も、おそらくは松浦氏のこれ一冊くらいのものでしょう。不思議なことに、浜田勘太氏の『初声の歴史探訪記』では、この事に一切の記述がありません。これは実際に調べてみる必要がありそうです。
 そのような考えで、もう何度目かの現地に赴くと、折よく『お十夜』の準備をしている御住職にお会いすることが出来、お話を伺うことが出来ました。
 忙しい最中ではありましたが、御住職は相変わらず優しげな物腰で対応していただき、宝玉の件を尋ねると、「たしかに、ありませんねぇ。」と、わざわざ高みに上って、魚鼓の口元の細部にまで覗き込んで確認をつけていただけました。そしてこの魚鼓について、次のような経緯を教えてくれました。
 「この魚鼓は、もともとウチの寺のものではなかったんです。先代の住職が東京のお寺(こちらも浄土宗)から譲り受けたもので、由来(何故、禅宗特有の法具が浄土宗のお寺に伝えられていたのか等)などは私も勉強不足でして、聞き及んではおりません。」と恐縮至極。
 あ、いえいえ良いんですよー。私も趣味で調べているだけですからね。でも、これである程度のことは解りました。この魚鼓が福泉寺に来たのは歴史的に比較的浅く、昭和の終わりから平成の境くらいなのでしょう。(※昭和57年発行の浜田本には無く、平成6年発行の松浦本にはある。)
 福泉寺本堂の見取図まで詳細に書き記している浜田氏がこれを見落としているハズはなく、堂内の様子を綴った文章にも全くこの文言が見られないことから、これ以前には福泉寺に魚鼓は存在しなかったと推察できます。三浦市の各郷土資料にも、これまで『福泉寺の魚鼓』が登場してこなかったのは、これがもともとの寺の所有物ではなかったことから、歴史的な文化財としての認識がなされてこなかったのかも知れませんね。でも、三十数年経った今では立派な福泉寺の文化財です。なにせ、この魚鼓を見るために、わざわざ来る私のような者もいるくらいなのですから。
▲お十夜に向けて準備に勤しむ檀家の子どもたち。 ▲三戸浜の静かな夕映えが望める、墓地高台の休憩所。

 というわけで、結局のところ福泉寺の魚鼓に玉は確認できませんでした。それにしても、松浦氏は先入観で思わずそう記してしまったのか?はたまた鼻先の丸っこいものをそう捉えたのか?あるいは煩悩珠とは、そもそも俗人の目には見えないモノなのか・・・・・?
 いろいろな解釈や方向から探ってみるのも、これまた楽しみの一つなのではないかと思います。

参考文献:写真で綴る文化シリーズ 神奈川5 神奈川の郷土美探訪/松浦 豊 著
三浦の歴史シリーズ T 初声の歴史探訪記/浜田勘太 著