海風通信 after season...

妙音寺の末那板(まないた)不動明王

【末那板不動明王】
 所在地:三浦市初声町下宮田
 開帳年:酉年の四月二十八日〜五月二十八日
 概 要:真奈板不動(三浦古尋録)もしくは俎板不動とも。
     三浦道寸義同の手刻とも伝えられているが、海中より出現したとの謂
     れもあり、詳細は定かでない。所蔵する妙音寺に於いても、すべてが
     口頭による伝承のみなので、確証的な資料は無いらしい。
     さて、気になる「まないた」の由来は…?

  ※本ページに掲載した写真は御開帳時に許可を得て撮影したものです。
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 [取材日:2017年05月23日]


 三浦七福神の寺社の一つである妙音寺を訪ねた際、このお寺には「まな板不動」なる不動明王像があるという話を耳にしました。「まな板」とはまた妙なネーミングですが、海南神社では『食の神祭典』に包丁式を行うことだし、まな板に由来する縁起があっても、それもまぁ三浦らしくて良いのかな?くらいにしか思っていませんでした。しかし、あらためて考えてみるとやっぱり妙です。そこでいろいろと文献を調べてみると、なんとこの不動明王像には、「まな板の如く足がある」というのです。これは一体どういうことでしょう?すぐにでも現地に赴き、実物を拝観願いたかったのですが、この像はいわゆる「秘仏」という存在で、12年に一度、酉年の一時期にしか開帳されないというものでした。2017年、ついにその待望の時を迎えることが出来ましたので、長年の疑問を解消するために、妙音寺へと向かうことにしました。
 ちなみに酉年の守り本尊は不動明王とされているので、この年は妙音寺のみならず、三浦半島各地の不動尊霊場でも貴重な秘仏が御開帳となっています。そこで、他の不動尊巡りも兼ねての今回の調査となりましたが、荘厳寺や立石不動院などの、実に特異かつ魅力的な不動明王像を拝むことが出来、思いもよらずたくさんのネタが出来ました。これらのレポートは、またいずれかの機会にでも掲載したいと思います。
 さて、兎にも角にも、「まな板不動」です。まずは妙音寺の主本尊である「不空羂索観音菩薩」に手を合わせ、本堂内へとあがらせていただくと、内陣右手に『末那板不動明王』と示された札木が見受けられます。多分この札木が無くとも、他の仏像とは違ったその異質ぶりに、ひと目で気付いたことでしょう。この札木の背後に開帳された厨子の中に鎮座している像が、まさしく「まな板不動明王」なのです。
▲12年ぶりの御開帳。普段は須弥壇左手に納められている。 ▲台座部分。俎板…と言われれば、そう…なのかな?
 普段、よく見られる立体仏像とは違い、平板に半肉彫りを施して浮き上がるように見せた手法は、却って立体感と迫力を強調させるよう。まるで顔の部分がこちら側に迫り出してくるようなインパクトがあり、今も鮮やかに残る彩色も相俟って、恐ろしいまでの力強さと存在感を滲ませています。左右に従えている衿迦羅(こんがら)・制多迦(せいたか)の二童子や、火炎模様も見事。長い年月を経てきたにも拘らずここまでの色彩が残ったのは、これが通常時は公開することの無い秘仏だったからの所以でしょう。
 ところで、「まな板の如くの足は?」というと、これが見た感じでは、何だか納得がいくものではありませんでした。
 この理由について、まずは「まな板不動」に関して記述された、いくつかの文献を見ていきましょう。

【三浦古尋録:(乙本)】
 道寸彫刻ノ真奈板不動有 則裏方ニ真奈板ノ如ク足アリ
 (※甲本では、「不動尊ノ後ニ真奈板ノ如ク足有」となっている。)

【三浦半島の史跡と伝説/松浦 豊 著】
 この像は三浦道寸義同の手刻の像と伝えられ、また天文年間、海中より出現したとも伝えられている。この像は俎板不動と呼ばれ、俎板に半肉彫りした風変な像で、利剣と羂索を持ち、眼光鋭く怒りの形相でにらみ、岩座の上に座っている。
 高さ六三センチ、像全体を支える台座は俎板で、中央の部分には切り刻んだ凹部の個所が残り、完全に使い古された俎板が、そのまま用いられている異色の像である。
 私の先入観は、多分この二つの史料によるものからだと思います。一般的通説では、「まな板不動」は像を支える台座にのみ俎板が使われているということですが、実像を見てみると、その平べったさぶりから、本体部分も俎板から彫られたものではないのか?と思ってしまったのです。実際、三浦古尋録でも本尊の「裏側」(もしくは「後ろ」に)足があるとかって書いてありますしね。台座だったら普通、本尊の「下」とか「座」・「底部」といようなニュアンスで書くと思われるのですが…。そして松浦豊氏も「俎板に半肉彫りした風変な像」と決定的なことを書いていますが、実は氏の他の報告書では「俎板を使用したのは台座」になっており、本体部について言及したのは上記の史料のみなのですね。『初声の歴史探訪記』(浜田勘太 著)でも松浦氏の報告書が引用されていますが、ここでも俎板を使用したのは台座だけとなっています。
 そして台座部分も、当初は下駄の歯のようにハッキリとした足がついた俎板状の台座を想像していたのですが、まぁ、中央部に凹状の切り欠きが残っているのは、何となく俎板を輪切りにした感じで、これが足の部分なのかな?というような形状で、イマイチしっくりと来るものではなかったのです。

 ※この草稿を書いてる時点でふと気づきましたが、平成以降生まれの人などは俎板に足があったなんてことを知らないかも?かつての俎板は、裏面に二本の足があって、下駄の親分のようなカタチをしていたのですよ。さらに調べてみると、室町時代の頃(天文年間もこの時代)はこの足が俎板の四方の角に一つずつ、つまり四本の足が付いていたよう(参考資料:七十一番職人歌合/第五十一番「包丁師」等)で、これだと「まな板不動」の台座のさらに下にある四本足の台座が、まさに「俎板の如くの足」なのだ、という説明もつくのですが…。

 …うーん、これではなんか歴史的ロマンというか…縁起由来の面白味に欠けると思うのですが…御本尊の本体部分が俎板から作られているからこそ、「まな板不動」と呼べるのではあるまいか!?そう強く思いたかったのですが、本当に実際のところはどうなのでしょうか?
 ここで折よく、妙音寺の住職の方とお話しをする機会を得られましたので、興味本位先行で大変失礼かとも思われましたが、「まな板不動」の詳細について伺ってみることにしました。
 お忙しいなか、ざっとの概略のみでしたが、お話によると、「確かに本尊は平たい板に半肉彫りという手法で彫られていますが、私の聞く限りでは、俎板を使用したのは台座の部分だけだったと知らされています。本体部分は俎板では無いようです。では何故、平たい像なのか?というと、そういう事も含めて、お寺に残された史料や書物は無いのです。口頭によってのみ伝承されているだけですので。」ということでした。念の為、期間をおいて再度質問をしてみたのですが、やはり同じような回答でしたので、これがすべてなのだと思います。まぁ、あまり深く詮索するものでもないのかも知れませんね。縁起由来は曖昧なくらいが、いろいろなロマンが生まれて丁度良いのかも?

 「まな板不動」は厨子へと納められ、次に再び相見えるのは12年後です……。

参考文献:校訂 三浦古尋録/横須賀市図書館 編著
写真で綴る文化シリーズ 神奈川4 三浦半島の史跡と伝説/松浦 豊 著
三浦の歴史シリーズ T 初声の歴史探訪記/浜田勘太 著