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武山・四つの参詣道と前不動
前回の武山初不動に於いて、《武山に至る登山道は四つあり、それらの登山口には必ず前不動が立っていて、案内役をつとめる》と書きましたが、この四つの登山道とは、具体的にはどこを指すのでしょう?これは単純明快なように見えて、実はけっこう不明瞭で難解です。 というのも、郷土資料本や観光リーフレット・ネット情報などをつぶさに見ても、皆一様に上記のような【四つの登山道があり、前不動が立っている】的なコトをさも見てきたかのように書いている一方で、それらが何処にあるのかを全然示していないのですね。これは文章の流れ(言い回し)を見るかぎり、明らかにある文献の元ネタからの丸パクリである可能性が否定できません。 「おいおいおいおいおいおい!どいつもこいつも知ったふうなコタツ記事を書いてんじゃねーよ!」(←前回のアンタもだよ!) それにしてもこれ、誰もが疑問に思うような事柄ですが、これまで何の問題にもならなかったのでしょうか?地元の小学生とかが遠足やら社会科実習などで武山について調べるとき、「せんせぇ、四つの前不動ってどこにあるんですかぁ?」ってな感じで質問に出てきそうなんですけど。あと、RPGやADVなどのゲームシナリオ完全攻略が好きな人なら、ゼッタイに気になって仕方がない構成要素なハズ。すべての前不動ルートを攻略&条件を達成させて、隠されたトゥルー・エンドのフラグを立ててみたくなるというのが、人のサガではありますまいか!?(←それはちょっと……でも、やるよね!?) というわけで、あらためて四つの前不動および登山道というものを、本腰を入れて調査してみようという気になったのです。
ところがところが!これが非常に難航連続の旅路となりました。 まずは順当に、地元の武山観光協会へ。当初はここであっさりと謎が解明しちゃうんだろうなー、とタカを括っていたのですが、なにやら不穏な空気。まさかの質問を投げかけるべき観光協会が見つけられません。実はこの観光協会というのは、一応はそれらしく銘打っているものの、実際は地域有志の団体みたいなものらしく、普段は運営実体は無いようなのです。なので平日は不在が多く、この日は横須賀市の観光課の方が対応にあたってくれました。 大変丁寧・熱心に対応して頂いたのですが、なにぶんにもピンポイントで特殊な案件のため、やはり観光ガイドレベルの情報しか引き出せません。館内には郷土資料本の蔵書もあるのですが、意外なことにこれらに関する記述も見つけられませんでした。観光課の方は、「勉強不足で申し訳ない」と恐縮しきりで、わざわざ観光協会の会長さんにまで電話で話を伺っていただくものの、やはり明確な答えはなく、唯一「南武の不動像は盗まれて存在しない」という、落胆しつつも、これだけは非常に有用な情報を得ることが出来ました。 「あとは、不動院の住職さんに直接お話を伺うしかないのでは?」ということで、お寺の方の在院の確認を取りつつ、武山不動院へ。 しかし、ここでも有り得ない事実が。なんと、この不動院でも四つの参詣登山道と前不動の存在は把握していないとのこと!お寺にも、これらにまつわる資料や文献等は所蔵していないらしいのです。(えええぇぇぇ-っ!?境内の案内板にもしっかりと書いてあるのに、そんなコトってあるの?) お寺のかたも大変申し訳なさそうに説明してくれたので、それ以上に強くは追及できません。ただ、ここでも南武の不動像は盗難の被害に遭ったという言質が確認できましたので、情報の正確さは高まったと言えます。 それにしても、ここまで事態が進展しないとは!やはりこうなったら、自らが現地に赴いて一つ一つ調べ上げていくしかないようです。 【北下浦の前不動】 一騎塚の前不動及び登山道は前回にて確認済みですので、そちらを参照の上、まずは北下浦方面を訪ねてみましょう。 『北下浦の前不動』というものは、実は横須賀の民俗や郷土史に興味のある方には、少なからず知られた史跡であると言えます。 場所は、国道134号線と通研通りが出合う【大作交差点】のすぐ脇。国道沿いでけっこう目に付く石像ですので、見かけている人もいるのではないでしょうか。ただし解説板などは何もありませんので、さほど興味が無ければスルーしてしまうのが普通でしょう。私も以前からその存在は知っていたものの、まさかこれが武山の前不動だとは思いもしませんでした。 石像の台座となる石柱に刻まれた文字を丹念に見ていくと、正面には『武山 不動明王』とあり、右側面には建立年月日とその当時の住職の名前、そして左側面には、なんと『指差しマーク』が刻まれていて、「たけやまみち」の方向を示しています。おぉ!すごく分かりやすいですね。これぞまさしく、道標的な意味合いを色濃く持たせた前不動像と言えるのではないでしょうか。 でも、ここに「たけやまみち」の案内像を建てるというのは、どうなのでしょう?というのも、ここから武山まではまだかなりの距離があり、登山道の始まりと呼ぶにしては、かなり乱暴な解釈になってしまうからです。なので、これを「四つの前不動の一つ」と明確に記した郷土資料もないというのが事実です。おそらく当時から往来の盛んだったこの道(現134号・尻こすり坂もこの先にあるし)に、参拝者の目に留まるような案内道標として、追加でここに設置されたのかも知れません。ともあれ、北下浦にはこれ以外の不動像は、現在のところは確認できませんでした。
では『北下浦の登山道』とは、どこを指すのでしょう? これとても様々なバリエーション・ルートがあるので一概には言えないのですが、「浅間神社バス停」からのルートと、「通研南門バス停」付近の小道から始まるルートが有望株に挙げられます。ただし浅間神社ルートは2つの山を経由しますし、なにより武山詣でに行くのに浅間様に先に御挨拶してしまうと、お不動様のご機嫌を損ないかねません。なので、ここは一気に武山へと辿り着ける南門ルートが、最もそれらしい条件を満たしていると言えるのかも知れません。実際、地元の方にお話を伺ってみると、意外にもこの通研脇の南門ルートを教えてくれる人が多くいたことには驚きでした。 南門ルートは武山への案内板も何も無く、一見すると工事現場へと続いていそうな不安な道を進んで行くと駐車スペースが設けられた場所が現れ、そこから先は二手に分岐します。ここを広いほうの道ではなく、右側のいきなり心細くなる狭い方の道へと向かうと、これが武山への登山道です。 辺りは良い感じに古道の雰囲気を呈しているものの、残念ながら前不動の石像のようなものは見つけられません。あるいは草藪とかに埋もれてしまっているのでは?とも考えたのですが、そんな判らなくなるような場所に道標を立てるハズもないでしょうからね。登山道の始点や分岐路近辺をあらためて慎重に見直して行くも、やはり発見には至りませんでした。ちなみに、浅間神社ルートにも前不動の類は見つかりません。 なんか、いきなり不安になってきました。よもやとは思いますが、まさか津久井浜(観光農園)側からの登山道を指すのでは!?(※野比〜長沢〜津久井浜の一帯を北下浦と呼ぶのです。)でも、それだと先程の大作交差点にある前不動の説明がつかないんですよね。 この北下浦の参詣登山道に関しては、体験旅行記や民俗調査のような資料もまるで見つからないので、これはちょっと謎のままなのかな?北下浦の地を愛した若山牧水さんあたりに、是非ともエッセイか何かで書いておいて欲しかったところですね。まったく、お酒の事ばかり書いてんじゃないよー。
【南武の前不動】 続いては、南武にあるとされる前不動です。 ここも今では歴史に埋もれたマイナーな参詣登山道なのですが、実はこのルートは、北下浦では見つけられなかった体験記的な文献が存在します。
この文献を手掛かりとして、南武の土地に長らく住んでいる人々に話を聞いてみると、南武川沿いに多く架かる小橋の中でも、車が通れるほどの比較的大きな石の橋を渡った先に続く登山道が、古くから武山参詣に使用された登山道ということでした。しかもその登山道の入口には、お不動さんかどうかは分からないが、石の仏様みたいなものは祀られているとのこと!これはかなり重要な情報です。 さっそく教えていただいた場所へと向かうと、たしかにそこには石の仏さまが慎ましやかに佇んでいました。……でもこれって、その土地の一族関係者の方の墓石のような気もしないではありません。ただ、隣には不自然に台座だけが残る立方体の遺構があり、その石面に彫られた文字を読み込んでいくと、なんとなく「武山」と判読できる部分があります。そしてその右側面には、安政三年の日付と、龍塚山十三世の住職の名が!「龍塚山」とは、武山不動院の山号のこと。つまり、北下浦にあった前不動に彫られた武山十三世と同一人物であることが解ります。 ここで、先程の文献の著述部分との合致点が見えてきます。そして、たしか「南武の不動像は盗まれている」と言ってましたよね?前不動像の本体部分だけが盗まれ、結果このように台座だけが不自然に残ったと考えると、おそらくここが「南武の前不動」があった場所なのだろうと思われます。 そしてこの道標より続く登山道は涼やかな竹林に包まれ、非常に雰囲気の良い古道となっています。武山への登山ルートは数あれど、明らかにここだけは植生が違っているよう。次回再び初不動へと行く機会があれば、この道を通って往時の気分を味わいたいものです。
【須軽谷の前不動】 結論から言うと、この須軽谷の前不動に関しては、なんの手掛かりも得られない全くの不明物件でした。 何人かの地元の人、それも祭礼習俗的に重要拠点となる神社や会館等の近辺に長らく住む人や年輩の方に話を伺うも、前不動の存在に心当たりがないそうです。一方、武山への登山道についてはよく存じ上げていて、「それこそ登る道なんて沢山あるよ。子どもの頃は知らない道をテキトーに登って行って、あぁこの道に繋がってるのかって。結局は武山に着けてたよ。」との武勇伝を語ってくれる人も。おぉっ!それってまさに『土曜の午後』のキッちゃんのようではありますまいか。(←今回、芦奈野関連がまるで無いので、無理矢理ネタをブッ込んでみました。) 勿論、今では案内板すらない須軽谷起点の登山道も知っておられ、行くには行けるが「石像らしきものは見たことがない」と言います。それでも、実際にこの目で検証しないことには納得もいきません。何より、全てのルートを攻略せねば、トゥルー・エンドへの道は見えてこないのです!(←まだ言うか。)
というわけで、教えていただいた情報を頼りに、須軽谷登山口へ。 須軽谷会館手前にある、民家へと続いているだけのような細い坂道を左に曲がると、さらに急登となって果樹園に突き当たる道があります。この果樹園を回り込むようにより細い道が続き、山裾へと辿り着いたあたりが登山道の始まりです。 ここまで前不動はおろか何の道標も無いので、知らなきゃ本当に分かりようもない導入口ですね。こんな登山道起点に前不動を置いても全く意味がないし(気付いてもらえないから)、立てるとしたら最初の坂道の分岐点でしょうか。でも、この辺りは完全に舗装化されてしまっているので、道路工事の際に撤去されてしまったか、あるいは移設されるもその行方が不明となってしまった可能性もあります。そもそもこの須軽谷ルートは地元の人でもあまり使わない登山道らしく、けっこう古い時代から早々に廃れてしまった参詣道なのかもしれません。 登山道は序盤こそある程度は人の手が入って歩きやすくなっているものの、途中からは倒木や蔦が絡まりまくりの凄まじい酷道となります。加えて薄暗くて陽当たりも悪く足元がぬかるんでいるので、快適な山行とはとてもじゃないけど言えません。私も何度かの倒木越えをしたのち、最終的にはこのルートを使っての登山を断念しました。これは訪れる人が少なくなるのも分かる気がします。 では何故、ここにこのような登山道が出来たのでしょう?引き返してきた後に知ることとなった事実に、正式名称:『龍塚山持経寺武山不動院』の真実が明らかになることとなります!(←大袈裟だよ。いや、そうでもないかも?)
須軽谷に何故、登山道があったのか?それは、『龍塚』(りゅうちょう)を経由するルートであったからに他なりません。 『龍塚』とはまさしく、龍(大蛇)を弔った塚。そして武山不動院の山号である「龍塚山」(りゅうちょうざん)の由来となった場所でもあるのです。
「龍塚に詣ってから不動院本堂へと奉拝する。おぉ、これこそ本来あるべき真の参拝方法では?トゥルー・エンドついにキターーーーー!」(←前不動を全然見つけてないけどな!) 思いがけない新事実に、これは是非とも行って見たくなりました。幸いにも津久井浜ルート(武山直結コース)の分岐からでも、このコースに合流可能ということで、大きく迂回しつつ、あらためて龍塚を目指しましょう。 【津久井の前不動??そして龍塚へ】 津久井浜ルートの登山道は、A:三浦富士経由コース B:砲台山経由コース C:武山直結コースの3つがあり、近年の武山ハイキングコースとしては最もポピュラーな登山道と言えます。これらの登山道が、何故に昔の文献ではカウントされていなかったのかが謎ですね。あるいはC:武山直結コースが、須軽谷ルートと同義として捉えられていたのかも?なのでここも一応調査を行なってみたのですが、やはり前不動は確認できず、代わりに何故か地蔵菩薩さまの石像だけが、簡素ながらも丁重に祀られていました。 武山直結コースは、もうホントに武山の真南から一直線に登り詰めていくだけの面白味の無い道で、ひたすらの階段の連続!なので途中に龍塚へと経由するバリエーションルートが出来たことは、この道を選択する魅力の一つになることでしょう。分岐点も分かり易く、案内板も各所に設置されているので、迷うこともまずありません。道中、須軽谷へ抜ける(ハズの)分岐点も見つかり、「先ほど断念していなければ、ここに辿り着くのか…」と、少しフクザツな気分にもなります。そこから下り基調の小道をしばらく進んで行くと、意外にもアッサリと、ブロック石組みに青い屋根を乗せた祠が見えてきました。 これが、『龍塚山龍塚』です。コース整備に伴い、祠はキレイに修繕され、上に掲示した案内立て札もすぐ傍に設置されていました。 なかなかに雰囲気の良い場所なのですが、あまりにもカンタンに到達できてしまうため、達成感は今一つかも。出来ればここはコース整備がされる以前の、人知れずひっそりと鎮座し続ける状態だった時に、苦労して見つけ出しておきたかったなぁ……。後日家に帰ってから調べてみたら、昭和50〜60年代の旅行ガイドブックとかをよくよく見ると、地味に地図上に「龍塚(竜塚)」の表示が確認できるんですよね。 それにしても武山は様々なバリエーションルートがあって、実に興味深い山です。想像するに初不動詣り全盛期の江戸時代、人々はこれらの登山道をアリンコのように四方八方から登り連ねていたのでしょうか?そう考えると面白可笑しくもあります。 さて、前不動と龍(大蛇)の加護を受け、いざ武山不動院へ!果たしてご利益はあるのでしょうか? RPGだったら、絶対に何かが起こりそうなテッパン展開なんですけどねー。
MEMO:2020年から2021年にかけて、ハイキングコースは横須賀市が、龍塚への道は武山不動院の住職と信徒が整備し行けるようになりました。 また龍塚は住職が修繕しました。(武山観光協会頒布資料「龍塚山龍塚について」より。) 参考文献:三浦半島の歴史をたずねて/高橋恭一 編 三浦半島の一年 ―祭礼と年中行事―/田辺 悟・金子和子 共著
新横須賀市史 別編 民俗/横須賀市 編 ブルーガイドブックス11 箱根・湘南・三浦半島/伊佐 九三四郎 著 |
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