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Eメール危険な古代史=古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本
11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗

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このページのもくじ

@垂仁男帝の宗教改革 A崇神と垂仁と応神の関係 B垂仁男帝の本名はヤタ C個人を特定できる最初の人物は崇神女帝だった D垂仁男帝の崩年 Eここまでの歴史のまとめ

このページの内容は、次のページの内容と合わせると共に、少し話を広げて、大神神社、八幡神社の悲願!秘密の救世主ヤタ!古事記日本書紀のトリッキーな数字仕掛け7〜暗号解読として、約1時間15分にまとめて動画にしてあります。

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@垂仁男帝の宗教改革

 順番からすればQ孝昭P孝安の次はO崇神だが、O崇神N垂仁M応神のところはいささか複雑に三人が絡み合っているので、都合によりN垂仁男帝から話す。

 「垂仁記」によると、11垂仁天皇は8人の妃との間に計16人の子供があったのだが、そのうちの一人の妃の親の名前として、旦波(たにはの)比古多多須美知宇斯(ひこたたすみちうしの)王というのがある。
 この名前の頭の旦は、日と一に分ければ日は(火)・一は(天)だから、合わせて14火天大有を示していることになるが、この卦は垂仁天皇のA列である。
 続く波比古多多須美知宇斯は、宇斯波比古美知多多須と文字を入れ替えれば、「ウシは日子道正す」と読める。ウシは「あなた」という意味の古語である。
 したがってこの名前は、「垂仁天皇よ、あなたは女帝たちの生き方を正した」と言っていることになる。
 どうやって正したのだろうか。
 手がかりは、垂仁という漢風諡号だ。

 9.暗号解読[5]の最後に示した図34を見ると、漢風諡号には規則性があり、やはりこれも暗号なのだと言わざるを得ないことはすでに話したが、とするとこの垂仁という漢風諡号も、何か意味があるはずである。
 垂仁の意味は「(じん)()れる」である。
 「仁」とは慈愛博愛、もっと簡単に言えば「思いやり」である。
 なるほど、思いやりかぁ、上手いことを考えたものだ。

 確かに人々が思いやりに溢れていれれば、老いて醜くなった姿を軽蔑嘲笑する者もなく、また、死んだ者も折りに触れて思い出されるから、心の中で永遠に生き続けることになるではないか。
 しかし「垂仁紀」にある崩御時の年齢140歳を易に直すと、1は(天)・4は(雷)だから、25天雷无妄(てんらいむぼう)になる。
 この卦を説明する『易経』の文章には「天命(たす)けず」とあり、物事が成就しないことを意味する。
 とすると、「女帝たちの生き方を正そうとしたが、失敗した」と示していることになる。

 こうして見ると、崇神と応神という漢風諡号の意味も見えてくる。
 崇神は「神を(あが)める」で、自らを神格化せず、神をただ崇め祭るだけの存在にすること、応神は「神に応じる」で、自らを神格化し神のお告げに応じることである。
 要するに、N垂仁男帝の宗教改革によりO崇神女帝は自らを神格化することを辞め、神をただ崇め祭るだけの存在とした。しかしM応神女帝はその改革を受け入れず、元のように自らを神格化して食人による蘇りを行い、神に応じた、ということである。

A崇神と垂仁と応神の関係

 ここまでで明らかになったのは、次のとおり。

 N垂仁男帝が思いやりを持って生きることを提唱し、O崇神女帝はそれに賛同して神を崇め祭るだけの存在とした。
 しかしM応神女帝は賛同せず、再び神のお告げに応じて食人による蘇りを行う社会に戻した。
 とすると、この三人の関係が気になる。
 M応神女帝とN垂仁男帝の間には、景行A・Bという娘がいるので、この二人は恋人同士あるいは夫婦であるかのようにかなり親しいはずだが、O崇神女帝とこの二人はどういう関係なのだろうか。

 表向き11垂仁天皇は10崇神天皇の子であり、これを否定する暗号はない。とすると、この二人は表向きと同様に親子ということになる。ただし暗号では崇神の性別は女性である。すなわちO崇神女帝はN垂仁男帝の母親だったのである。
 一方のM応神女帝は次にようにその関係が判明する。

 表向きの16応神天皇は15仲哀天皇と14神功皇后との間の子だとされている。
 その15神功皇后の出自については、『古事記』の9開化天皇のところに記載されていて、それによると、
 9開化天皇―日子坐(ひこいますの)王―山代之大筒木真若(やましろのおほつつきまわかの)王―迦邇米雷(かにめいかづちの)王―息長宿禰(おきながすくねの)王―14神功皇后、
 となっている。
 実際は9開化天皇も14神功皇后も架空の人物なのだが、とにかくこのように開化天皇から神功皇后まで6代としている。
 これはクサイではないか。
 特に9開花天皇から4代目の迦邇米雷王は迦邇米と万葉仮名風で記されているのが怪しい。万葉仮名は文字の音だけを借用した字で、その漢字の意味は関係ない。とすると、文字に暗号を込めるのにもって来いである。
 迦邇米雷をちょっと考えてみよう。
 迦は加え進めるという意味。
 邇米は、邇は邇邇藝命のときと同様に(天)、米はその細長い形状から陽としてその極みの(天)とすれば、合わせて序次第1の乾為天(けんいてん)となり、序次の第1を示すからには、物事の順序展開について、何か言わんとしているに違いない。
 最後の雷は、(雷)で4という数を示す。
 とすると迦邇米雷で、順番を4つ加え進めた、という意味になる。
 要するに、開化天皇から神功皇后までは、本当は6代ではなく、4引いた2代、すなわち、開化天皇の子が神功皇后だと示しているのである。
 そして、開化天皇は崇神天皇の親であり、神功皇后に至る系統は、その崇神天皇の弟の系統である。
 したがって、この系譜とこの名前は、崇神女帝の妹が、応神女帝の母親(神功)だと、教えていたのである。
 次の図36は、ここのところを系図にしたものである。

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B垂仁男帝の本名はヤタ

 N垂仁男帝の宗教改革は、暗号が教える歴史ではかなり重要なことのようで、暗号で彼の字(あざな)が記されている。
 字とは、幼名ではなく、成人した後の本名といったものである。
 「垂仁記」に記載された妃の中に、阿邪美能伊理毘売(あざみのいりびめの)命という名前があり、その妃が生んだ子として阿邪美都比売(あざみつひめの)命という名がある。
 阿邪美能伊理毘売は、文字の順をちょっと入れ替えると、阿邪能美伊理毘売で、「(あざ)のみ入り姫」すなわち「字を姫(女性)の名の中に入れておいた」、という意味になる。字とは成人した男子が幼名を捨てて名乗る名前のことである。
 とすると、どの姫の名の中にN垂仁男帝の字が入っているのか、ということになるが、他の垂仁天皇の妃や子の名前には、それと思しきものはない。
 そこで、もう一度確認してみる。

 垂仁天皇には、阿邪能美伊理毘売命の子の阿邪美都比売命のほかに、いろいろな女性との間にいろいろな子が生まれたと、それぞれ名前を挙げている。
 そんな中に佐波遅比売(さはぢひめの)命という妃が生んだ子供の名前として、品牟都和気(ほむつわけの)命というのがある。
 この名前は16応神天皇の国風諡号の品陀和気(ほむだわけ)に似ているではないか。
 暗号では垂仁男帝と応神女帝の間には子が生まれているのだから、16応神天皇の国風諡号と似た名前というのは何かありそうである。
 そこで16応神天皇だが、「応神記」には応神天皇の9人の妃とその子たち20人余りの名前があり、その中に
丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)
の娘の宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)を娶して、宇遅能和紀(うぢのわき)郎子(いらつこ)八田若郎女(やたのわかいらつめ)などを生んだとある。
 このうちの宇遅能和紀郎子は「応神紀」では菟道稚郎子と表記され、応神16年条(皇紀945年)に、百済(くだら)から日本にやって来た王仁(わに)という人物から、日本で初めて漢籍を教わった、とあり、「応神記」では、王仁は和邇吉師(わにきし)と表記され、初めて百済から日本に『論語』を持って来た人物とされている。
 『論語』と言えば儒教、儒教と言えば「仁」、「仁」と言えば垂仁・・・と、繋がるではないか。
 やはりこの名前は垂仁男帝と関わりがあるに違いない。

 まずは、その丸邇之比布礼能意富美という名前から探ってみよう。
 丸邇は、丸いものと言えば太陽だから丸は(火)・邇は邇邇藝(ににぎの)命のときと同じく(天)とすれば、丸邇で14火天大有を示していることになるが、この卦は垂仁天皇のA列である。
 続く之比布礼能意富美は、文字の順を入れ替えると、意富能美比礼布之で「多のみひれ平伏し」と読める。多は太安萬侶等を指すとすれば、太安萬侶は真実の歴史を知っている人物である。
 したがって丸邇之比布礼能意富美という名前で「真実を知っている人は垂仁天皇に平伏す」と伝えていることにな。なるほど、これが暗号だったのだ。

 そこで、その娘の宮主矢河枝比売という名前を解読しようと試みたのだが、これはどう易の卦に置き換えたり、文字を入れ替えたりしても、メッセージは読み取れなかった。が、この妃が生んだ子の名前、宇遅能和紀郎子と八田若郎女は、何かを伝えている風情である。
 宇遅能和紀は「氏の脇」のこととすれば、氏の脇に添えるものこそ字(あざな)だから、続いて記載されている八田若郎女という名前こそ、垂仁男帝の字を示しているようではないか。
 すなわち八田若郎女から地位を示す若郎女を取った八田=ヤタこそがN垂仁男帝の本名だったのである。無論、八田という漢字は関係なく「ヤタ」という音だけである。
 ヤタ・・・何やら頼りない名前だが、考えてみると、神武天皇東征神話で、神武一行を助けた八咫烏(やたがらす)=日本サッカー連盟のシンボルや、三種の神器の一つ「八咫(やた)の鏡」など、ヤタという名称は神話の中で重要なポジションにあるではないか。
 どうやら、この垂仁男帝が果たせなかった宗教改革の遂行が、その後の神武男帝に始まる男帝系の皇統、そして現在に続く皇室の願いなのだろう。
 しかしこのN垂仁男帝の宗教改革は、一体いつのことなのだろうか。
 次にその辺を探ろう。

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C個人を特定できる最初の人物は崇神女帝だった

 『古事記』では10崇神天皇を、初国知らしし天皇だとしている。
 物語では、10崇神天皇のときに初めて国家体制が整ったのだ、という意味で10崇神天皇を称えたのだとしている。しかし初国知らししという言葉は初代の神武天皇にこそ相応しいのであって、10代の崇神天皇に用いるのは、いささか強引でもあり、疑問が残る。
 一方、暗号が示す系図を見ると、O崇神女帝の前のP孝安女帝は代々の女帝たちで、Q孝昭女帝は胎児だから、O崇神女帝が初めて個人を特定できる人物となっている。すなわちO崇神女帝こそが、まさに初国知らしし人物なのである。
 そして個人を特定できるのなら、生存していた時代が示されているはずである。
 「崇神記」を探ってみると、妃の名前に荒河刀辨女(あらかわとべのむすめ)遠津年魚目目微比売(とほつあゆめまくはしひめ)というのがあった。
 遠津年魚目を普通に読めば遠津(とほつ)年魚(あゆ)目に分かれるところだが、遠津年で、何やらある年を示している気配を感じられるではないか。そこで遠津年と、魚目目微(まくはし)、に分けて考える。
 その遠津は、遠の字は近を陽としたときの陰だから(地)、 続く津の字は水がある場所を意味するから(水)となり、(地)は8が配されると共に端数がないことを意味し、(水)には6が配されている。
 したがって遠津年は86年または十の位に端数がない06年を示していることになるのだが、荒河刀辨の刀辨(とべ)は、この二字は音を(もち)いよという注釈があり、万葉仮名であることを強調しているので、「とべ」という音から本来の漢字が何かを考えてみる。すると「飛べ」という言葉が思い浮かぶ。
 ここで考えられるのは、位を飛ばせ、ということ、すなわち十の位に端数がない06が正しいのだ。
 これを踏まえて名前の続く魚目目微を考える。
 魚目は、魚は水の中にいる生物だから(水)・目は(火)だから、合わせて63水火既済(すいかきせい)で「すでになっている」という意味になる。
 最後の目微は、易に置き換えず、そのまま目が微かにしか見えない、と読む。
 すると、「06年には、すでに目が微かにしか見えなくなった」という意味になる。
 したがってこの暗号は、
 崇神女帝は、06年にはすでに目が微かにしか見えない老人となり、そろそろ寿命も尽きる頃だった、
 と教えているのに違いない。
 とすると、この06年がいつのことなのかを突き止めれば、その年代が確定できるはずである。

 「崇神紀」では即位68年に崩御とあり、この年を皇紀に換算すると631年となる。したがって06年とは離れた年なので関連はない。
 一方、「崇神記」には、戊寅(つちのえとら)年十二月崩とある。
 『古事記』では、10崇神天皇以外にも14人の崩年干支が記載されている。列挙すると次のとおりである。
(この部分、スマホは横にした方が見やすいかと)

『古事記』崩年干支============『日本書紀』崩年干支
10崇神天皇=戊寅年12月崩=========68年辛卯=皇紀 631年
13成務天皇=乙卯年3月15日崩======60年庚午=皇紀 850年
14仲哀天皇=壬戌年6月11日崩=======9年庚辰=皇紀 860年
16応神天皇=甲午年9月9日崩=======41年庚午=皇紀 970年
17仁徳天皇=丁卯年8月15日崩======87年乙亥=皇紀1059年
18履中天皇=壬申年正月3日崩=======6年乙巳=皇紀1065年
19反正天皇=丁丑年7月崩===========5年庚戌=皇紀1070年
20允恭天皇=甲午年正月15日崩=====42年癸巳=皇紀1113年
22雄略天皇=己巳年8月9日崩=======23年己未=皇紀1139年
27継体天皇=丁未年4月9日崩=======25年辛亥=皇紀1191年
28安閑天皇=乙卯年3月13日崩=======2年乙卯=皇紀1195年
31敏達天皇=甲辰年4月6日崩=======14年乙巳=皇紀1245年
32用明天皇=丁未年4月15日崩=======2年丁未=皇紀1247年
33崇峻天皇=壬子年11月13日崩======5年壬子=皇紀1252年
34推古天皇=戊子年3月15日癸丑崩==36年戊子=皇紀1288年

 このように10崇神天皇から34推古天皇までの約2/3の天皇に崩年干支を記載していて、他の天皇にはその記載はない。このうち『古事記』に記載のある崩年干支と、『日本書紀』から計算される各天皇の崩年の干支とが一致するのは、34推古、33崇峻、32用明、28安閑だけで、他は一致しない。一致しないのはどちらが正しいのか、研究者の議論のつきないところである。 しかし、仲哀天皇の崩年干支については、草壁皇子の出生の秘密を示す暗号であった。とすると、他の崩年干支も真実を伝えるための暗号であって、これを考えることで、暗号が示す歴史の正しい年代は浮上するに違いない。

 としても、『記』『紀』編纂当時、本当の歴史は表面から抹殺したのだから、この崩年干支も事実ではないだろう。しかし、それとなく事実を仄めかしているはずである。
 最も単純に考えると、戊寅を十二月としたときの正月の干支が、本当の崇神女帝の崩年だ、ということである。
 そもそも月の十二支は、正月が寅、十二月は丑と決まっているので、戊寅が十二月ということは有り得ないのだが、だからこそ、悟られずに本当のことを示せるという利点もある。
 要するに簡単に言うと、正しい崩御年を一番目としたときの十二番目が戊寅歳だ、という暗号である。
 計算すると、正月すなわち一番目は丁卯(ひのとう)になる。
 ただし、干支は60年で一巡だから、これだけではまだいつなのか判然としない。そこで次のように考える。
 暗号が示す歴史では、@推古女帝からO崇神女帝まで、女帝系は景行7人を含めて計22人である。
 一人当たりの在位を15〜20年程度として計算すると、330〜440年になる。
 推古即位の皇紀1253年の330〜440年前は、皇紀813〜923年である。
 この間で当てはまるのは遠津から導かれる年は906年である。
 そして、「崇神記」崩年干支から計算して得られた丁卯は、この間では皇紀907年である。
 おお、907年なら906年に目が微かにしか見えなくなり、翌年に崩御した、ということになり、上手く合うではないか。
 どうやらO崇神女帝の崩御は皇紀907年丁卯で、これが日本の最初にわかっている年代だったのである。
 おそらくこれ以前については、年代を探るのは不可能だったのだろう。
 これ以前の日本について、わかっていたのは食人による蘇生を繰り返す女帝たちが支配していて、彼女たちは胎児を神としていた、ということだけだったのである。

 ところで、皇紀907年ということは、660を引いて西暦に換算すると247年である。
 これは『魏志倭人伝』にある女王卑弥呼の時代である。
 とすると卑弥呼とはO崇神女帝のことだったのか?
 が、それは後で検証するとして、次にN垂仁男帝の崩御年を探り出そう。

乱数表はコチラ

D垂仁男帝の崩年

 暗号ではO崇神女帝崩御の後は、初めての男性の王としてN垂仁男帝が即位し、「仁(思いやり)」を中心に据えた社会構築に邁進した。しかしそれは、あまり上手く行かなかったようである。

 「垂仁紀」には「垂仁天皇は崇神天皇の29年壬子(みずのえね)の春正月己亥朔(つちのといつきたち)に生まれ、24歳のときに、夢の祥により、皇太子になった」とある。
 春正月己亥朔というのは、1月1日のことで、この日の干支が己亥だ、という意味である。

 一方「崇神紀」には、崇神天皇の48年に夢占いによって垂仁天皇を皇太子とした、と記載している。
 おやおや、これはおかしいではないか。
 崇神天皇の29年に生まれたのなら、24歳になるのは52年のはず。
 崇神48年は20歳である。
 数字が矛盾している。
 ※ 念のために付け加えておくが、『記・紀』の時代、というか、明治維新以前の日本での年齢計算は満年齢ではなく、いわゆる数え年である。数え年は生まれたときを1歳とし、正月が来る毎に年齢を加算する。

 実は『日本書紀』にはこのような数字の矛盾が数多くある。
 単なる誤記なのか、何か意味があるのか、これまでの研究では結論は出ていない。
 また『日本書紀』では、通常各天皇の元年以外、年の干支は記載していないのだが、ここでは「29年壬子」と、わざわざ丁寧に干支まで書いている。
 元年の干支さえ書いてあれば後は計算でわかるのに、である。
 そう言えば、持統天皇関連の暗号解読では、干支の矛盾が真実の年月日を示す暗号だった。
 干支も数字も年月日を示すものである。
 とすると、この数字の矛盾や干支こそ真実を教える暗号に違いない。

 まずは「垂仁紀」にある、垂仁天皇の出生日の29年壬子春正月己亥朔を、易の卦に置き換えてみよう。
 29は、2は(沢)・9は(天)だから、43沢天夬(たくてんかい)になる。
 この卦は決去決潰など物事が壊れることだから、社会的にはクーデターなどを意味する。
 続く壬子という干支は、乱数表に示した干支と八卦と方角の関係から、壬も子も北で(水)となるので、壬子で29坎為水(かんいすい)になる。
 この卦は険難の中でどうにもならない最悪な状態を意味する。
 日付の己亥という干支は、己は西南で(地)・亥は西北で(天)となるので、合わせて11地天泰(ちてんたい)になる。
 この卦は万物生成のおめでたい形ではあるが、同時に天と地の位置が上下逆転しているので、「逆転」という意味にもなる。
 とすると、この生年の日付はクーデター、険難、逆転という意味を提示していることになる。
 クーデターで険難のときに生まれたことが逆転した・・・。

 そうか!生まれたことの逆なのだから、これは死んだときのことを示しているに違いない。
 垂仁男帝はクーデターのときに険難に遭遇して死んだ、すなわち、クーデターで殺された、ということである。
 そして、矛盾する年数の4年の意味を考えると、その殺された年がわかるのだろう。

 垂仁天皇崩御に関する記述は、
 「垂仁紀」には、垂仁天皇は99年秋7月に崩御した、とあり、
 「景行紀」には、垂仁天皇の99年春2月に垂仁天皇は崩御し、翌年秋7月に景行天皇が即位し、この歳は辛未(かのとひつじ)だった、とある。
 おやおや、ここにも記述の矛盾があるではないか。

 『日本書紀』に記載された古代天皇の場合、通常は前帝崩御の翌年正月に即位である。
 前帝が99年春2月に崩御したのなら、翌年正月即位が普通なのであって、何の説明もなくその正月の約半年後の秋7月即位としているのは不審である。しかも垂仁崩御の月が「垂仁紀」とは違っている。
 とすると、この99年というのも暗号に違いない。
 9という数を示す卦は(天)だが、その(天)は同時に1も示すので、99年は易を通じて11年を示していることにもなる。
 O崇神女帝の崩年は皇紀907年丁卯だった。
 垂仁立太子の記述からは、クーデターで殺された、という意味が読み取れるとともに、4年という数字の矛盾があった。
 11年を911年のこととすると、N垂仁男帝はO崇神女帝崩御の4年後にクーデターで殺されたことになり、矛盾する年数と一致し、さらにはこの911年の干支は辛未で、12景行天皇即位の年と同じである。
 どうやらこれで答えは出た。
 N垂仁男帝は911年辛未に、クーデターにより、殺されたのである。

 なお、王仁が日本に『論語』などの漢籍を持ち込んだとする「応神紀」十六年は、皇紀945年だから、暗号が示す歴史では、N垂仁男帝が殺された後である。したがってこの記述は、宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)と垂仁という名前を結びつけ、N垂仁男帝の字がヤタだと教えるための暗号に過ぎないのであって、このときの論語伝来は事実ではない。
 要するに、垂仁男帝は独自に「仁」を思いついたのである。いや、正確に表現すると、漢字の「仁」に相当するもっと簡単な概念すなわち「人々が思いやりを持ち合う」ということを発案した、のだろう。

乱数表はコチラ

Eここまでの歴史のまとめ

 N垂仁男帝死亡年が判明したところで、ここまでの暗号が示す歴史をまとめておこう。
 なお、これより前の歴史は、上の10.暗号解読[6]のI母権制社会の忌まわしい実態にまとめてある。

○ 皇紀900年(西暦240年)頃

 「タラシヒコ」を継承しているO崇神女帝の息子に、ヤタ(N垂仁男帝)という名前の人物がいた。
 ヤタは食人による蘇生など本当はあるはずがないと考え、止めさせようとして、「仁」という考え方を発案する。
 「仁」とは「慈愛・博愛」もっと簡単に言えば「思いやり」のことで、「仁により心と心が繋がり合う社会を作れば、老いて醜くなった姿を軽蔑嘲笑する者もなく、また、死んだ者も折に触れて思い出されるので、心の中で永遠に生き続けることになる」と考えた。
 この息子ヤタの発案に、O崇神女帝は自らを神格化するのを思い止まり、神を崇め祀るだけの存在とし、食人による肉体蘇生も行わない決意をする。
 言うなれば「仁」によりマインドコントロールが解けたということだろうが、これこそが日本神道の始まりだったのであり、この宗教改革は中国などの影響によるものではなく、ヤタが独自に考案したものだった。

○ 皇紀907年(西暦247年)丁卯(ひのとう)

 O崇神女帝は食人による蘇生のための自殺を行わなかったので、前年には目が微かにしか見えない老女となり、ついにこの年、自然死を迎える。
 これにより、息子ヤタが男性として始めての日本国王となり、「神のお告げ」ではなく、「仁」に基づく理性をもった社会を構築しようとする。
 なお、このO崇神女帝が個人を特定できる最初の人物である。

○ 皇紀911年(西暦251年)辛未(かのとひつじ)

 クーデターが起こり、ヤタが何者かに暗殺される。
 当時の人々にしてみれば、「仁」などと言われても戸惑うばかりで、食人による蘇生や「神のお告げ」に身を委ねているほうが、肌に合っていたのだろう。
 また、いくら血族的には正統であっても、女尊男卑の中にあっては、男性を王とすることに屈辱を覚える女性も少なくなく、まして前例もない。
 マインドコントロールの悲劇ここにあり、といった感だが、とにかく事態はO崇神女帝の姪に当たるM応神女帝が即位し、昔ながらの神のお告げに応じて国を治める社会に戻すことで落ち着いた。

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もくじ

☆ プロローグ  1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密

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最終更新日:令和05年01月24日 学易有丘会
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