C個人を特定できる最初の人物は崇神女帝だった
『古事記』では10崇神天皇を、初国知らしし天皇だとしている。
物語では、10崇神天皇のときに初めて国家体制が整ったのだ、という意味で10崇神天皇を称えたのだとしている。しかし初国知らししという言葉は初代の神武天皇にこそ相応しいのであって、10代の崇神天皇に用いるのは、いささか強引でもあり、疑問が残る。
一方、暗号が示す系図を見ると、O崇神女帝の前のP孝安女帝は代々の女帝たちで、Q孝昭女帝は胎児だから、O崇神女帝が初めて個人を特定できる人物となっている。すなわちO崇神女帝こそが、まさに初国知らしし人物なのである。
そして個人を特定できるのなら、生存していた時代が示されているはずである。
「崇神記」を探ってみると、妃の名前に荒河刀辨女の遠津年魚目目微比売というのがあった。
遠津年魚目を普通に読めば遠津と年魚目に分かれるところだが、遠津年で、何やらある年を示している気配を感じられるではないか。そこで遠津年と、魚目目微、に分けて考える。
その遠津は、遠の字は近を陽としたときの陰だから 坤(地)、
続く津の字は水がある場所を意味するから 坎(水)となり、 坤(地)は8が配されると共に端数がないことを意味し、 坎(水)には6が配されている。
したがって遠津年は86年または十の位に端数がない06年を示していることになるのだが、荒河刀辨の刀辨は、この二字は音を以いよという注釈があり、万葉仮名であることを強調しているので、「とべ」という音から本来の漢字が何かを考えてみる。すると「飛べ」という言葉が思い浮かぶ。
ここで考えられるのは、位を飛ばせ、ということ、すなわち十の位に端数がない06が正しいのだ。
これを踏まえて名前の続く魚目目微を考える。
魚目は、魚は水の中にいる生物だから 坎(水)・目は 離(火)だから、合わせて63 水火既済で「すでになっている」という意味になる。
最後の目微は、易に置き換えず、そのまま目が微かにしか見えない、と読む。
すると、「06年には、すでに目が微かにしか見えなくなった」という意味になる。
したがってこの暗号は、
崇神女帝は、06年にはすでに目が微かにしか見えない老人となり、そろそろ寿命も尽きる頃だった、
と教えているのに違いない。
とすると、この06年がいつのことなのかを突き止めれば、その年代が確定できるはずである。
「崇神紀」では即位68年に崩御とあり、この年を皇紀に換算すると631年となる。したがって06年とは離れた年なので関連はない。
一方、「崇神記」には、戊寅年十二月崩とある。
『古事記』では、10崇神天皇以外にも14人の崩年干支が記載されている。列挙すると次のとおりである。
(この部分、スマホは横にした方が見やすいかと)
『古事記』崩年干支============『日本書紀』崩年干支
10崇神天皇=戊寅年12月崩=========68年辛卯=皇紀 631年
13成務天皇=乙卯年3月15日崩======60年庚午=皇紀 850年
14仲哀天皇=壬戌年6月11日崩=======9年庚辰=皇紀 860年
16応神天皇=甲午年9月9日崩=======41年庚午=皇紀 970年
17仁徳天皇=丁卯年8月15日崩======87年乙亥=皇紀1059年
18履中天皇=壬申年正月3日崩=======6年乙巳=皇紀1065年
19反正天皇=丁丑年7月崩===========5年庚戌=皇紀1070年
20允恭天皇=甲午年正月15日崩=====42年癸巳=皇紀1113年
22雄略天皇=己巳年8月9日崩=======23年己未=皇紀1139年
27継体天皇=丁未年4月9日崩=======25年辛亥=皇紀1191年
28安閑天皇=乙卯年3月13日崩=======2年乙卯=皇紀1195年
31敏達天皇=甲辰年4月6日崩=======14年乙巳=皇紀1245年
32用明天皇=丁未年4月15日崩=======2年丁未=皇紀1247年
33崇峻天皇=壬子年11月13日崩======5年壬子=皇紀1252年
34推古天皇=戊子年3月15日癸丑崩==36年戊子=皇紀1288年
このように10崇神天皇から34推古天皇までの約2/3の天皇に崩年干支を記載していて、他の天皇にはその記載はない。このうち『古事記』に記載のある崩年干支と、『日本書紀』から計算される各天皇の崩年の干支とが一致するのは、34推古、33崇峻、32用明、28安閑だけで、他は一致しない。一致しないのはどちらが正しいのか、研究者の議論のつきないところである。 しかし、仲哀天皇の崩年干支については、草壁皇子の出生の秘密を示す暗号であった。とすると、他の崩年干支も真実を伝えるための暗号であって、これを考えることで、暗号が示す歴史の正しい年代は浮上するに違いない。
としても、『記』『紀』編纂当時、本当の歴史は表面から抹殺したのだから、この崩年干支も事実ではないだろう。しかし、それとなく事実を仄めかしているはずである。
最も単純に考えると、戊寅を十二月としたときの正月の干支が、本当の崇神女帝の崩年だ、ということである。
そもそも月の十二支は、正月が寅、十二月は丑と決まっているので、戊寅が十二月ということは有り得ないのだが、だからこそ、悟られずに本当のことを示せるという利点もある。
要するに簡単に言うと、正しい崩御年を一番目としたときの十二番目が戊寅歳だ、という暗号である。
計算すると、正月すなわち一番目は丁卯になる。
ただし、干支は60年で一巡だから、これだけではまだいつなのか判然としない。そこで次のように考える。
暗号が示す歴史では、@推古女帝からO崇神女帝まで、女帝系は景行7人を含めて計22人である。
一人当たりの在位を15〜20年程度として計算すると、330〜440年になる。
推古即位の皇紀1253年の330〜440年前は、皇紀813〜923年である。
この間で当てはまるのは遠津から導かれる年は906年である。
そして、「崇神記」崩年干支から計算して得られた丁卯は、この間では皇紀907年である。
おお、907年なら906年に目が微かにしか見えなくなり、翌年に崩御した、ということになり、上手く合うではないか。
どうやらO崇神女帝の崩御は皇紀907年丁卯で、これが日本の最初にわかっている年代だったのである。
おそらくこれ以前については、年代を探るのは不可能だったのだろう。
これ以前の日本について、わかっていたのは食人による蘇生を繰り返す女帝たちが支配していて、彼女たちは胎児を神としていた、ということだけだったのである。
ところで、皇紀907年ということは、660を引いて西暦に換算すると247年である。
これは『魏志倭人伝』にある女王卑弥呼の時代である。
とすると卑弥呼とはO崇神女帝のことだったのか?
が、それは後で検証するとして、次にN垂仁男帝の崩御年を探り出そう。
乱数表はコチラ
D垂仁男帝の崩年
暗号ではO崇神女帝崩御の後は、初めての男性の王としてN垂仁男帝が即位し、「仁(思いやり)」を中心に据えた社会構築に邁進した。しかしそれは、あまり上手く行かなかったようである。
「垂仁紀」には「垂仁天皇は崇神天皇の29年壬子の春正月己亥朔に生まれ、24歳のときに、夢の祥により、皇太子になった」とある。
春正月己亥朔というのは、1月1日のことで、この日の干支が己亥だ、という意味である。
一方「崇神紀」には、崇神天皇の48年に夢占いによって垂仁天皇を皇太子とした、と記載している。
おやおや、これはおかしいではないか。
崇神天皇の29年に生まれたのなら、24歳になるのは52年のはず。
崇神48年は20歳である。
数字が矛盾している。
※ 念のために付け加えておくが、『記・紀』の時代、というか、明治維新以前の日本での年齢計算は満年齢ではなく、いわゆる数え年である。数え年は生まれたときを1歳とし、正月が来る毎に年齢を加算する。
実は『日本書紀』にはこのような数字の矛盾が数多くある。
単なる誤記なのか、何か意味があるのか、これまでの研究では結論は出ていない。
また『日本書紀』では、通常各天皇の元年以外、年の干支は記載していないのだが、ここでは「29年壬子」と、わざわざ丁寧に干支まで書いている。
元年の干支さえ書いてあれば後は計算でわかるのに、である。
そう言えば、持統天皇関連の暗号解読では、干支の矛盾が真実の年月日を示す暗号だった。
干支も数字も年月日を示すものである。
とすると、この数字の矛盾や干支こそ真実を教える暗号に違いない。
まずは「垂仁紀」にある、垂仁天皇の出生日の29年壬子春正月己亥朔を、易の卦に置き換えてみよう。
29は、2は 兌(沢)・9は 乾(天)だから、43 沢天夬になる。
この卦は決去決潰など物事が壊れることだから、社会的にはクーデターなどを意味する。
続く壬子という干支は、乱数表に示した干支と八卦と方角の関係から、壬も子も北で 坎(水)となるので、壬子で29 坎為水になる。
この卦は険難の中でどうにもならない最悪な状態を意味する。
日付の己亥という干支は、己は西南で 坤(地)・亥は西北で 乾(天)となるので、合わせて11 地天泰になる。
この卦は万物生成のおめでたい形ではあるが、同時に天と地の位置が上下逆転しているので、「逆転」という意味にもなる。
とすると、この生年の日付はクーデター、険難、逆転という意味を提示していることになる。
クーデターで険難のときに生まれたことが逆転した・・・。
そうか!生まれたことの逆なのだから、これは死んだときのことを示しているに違いない。
垂仁男帝はクーデターのときに険難に遭遇して死んだ、すなわち、クーデターで殺された、ということである。
そして、矛盾する年数の4年の意味を考えると、その殺された年がわかるのだろう。
垂仁天皇崩御に関する記述は、
「垂仁紀」には、垂仁天皇は99年秋7月に崩御した、とあり、
「景行紀」には、垂仁天皇の99年春2月に垂仁天皇は崩御し、翌年秋7月に景行天皇が即位し、この歳は辛未だった、とある。
おやおや、ここにも記述の矛盾があるではないか。
『日本書紀』に記載された古代天皇の場合、通常は前帝崩御の翌年正月に即位である。
前帝が99年春2月に崩御したのなら、翌年正月即位が普通なのであって、何の説明もなくその正月の約半年後の秋7月即位としているのは不審である。しかも垂仁崩御の月が「垂仁紀」とは違っている。
とすると、この99年というのも暗号に違いない。
9という数を示す卦は 乾(天)だが、その 乾(天)は同時に1も示すので、99年は易を通じて11年を示していることにもなる。
O崇神女帝の崩年は皇紀907年丁卯だった。
垂仁立太子の記述からは、クーデターで殺された、という意味が読み取れるとともに、4年という数字の矛盾があった。
11年を911年のこととすると、N垂仁男帝はO崇神女帝崩御の4年後にクーデターで殺されたことになり、矛盾する年数と一致し、さらにはこの911年の干支は辛未で、12景行天皇即位の年と同じである。
どうやらこれで答えは出た。
N垂仁男帝は911年辛未に、クーデターにより、殺されたのである。
なお、王仁が日本に『論語』などの漢籍を持ち込んだとする「応神紀」十六年は、皇紀945年だから、暗号が示す歴史では、N垂仁男帝が殺された後である。したがってこの記述は、宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)と垂仁という名前を結びつけ、N垂仁男帝の字がヤタだと教えるための暗号に過ぎないのであって、このときの論語伝来は事実ではない。
要するに、垂仁男帝は独自に「仁」を思いついたのである。いや、正確に表現すると、漢字の「仁」に相当するもっと簡単な概念すなわち「人々が思いやりを持ち合う」ということを発案した、のだろう。
乱数表はコチラ
|