学易有丘会トップページ九星トップページカンタン!自分でできる無料易占い易学入門易経詳解古事記と易学 古事記・日本書紀は易を乱数表として利用した暗号文書だった!聖書と易学ーキリスト教二千年の封印を解くーブログ〜折に触れ、あれこれ書いてます。コアランの音楽演奏動画など

前のページ 7−1 女帝達の忌わしい宗教
7−2 母権制社会脱却の失敗
7−3 応神女帝〜推古女帝までの、各女帝の年代

Eメール古事記と易学

発見!想像を絶する真実の古代日本

8−1 神武男帝のクーデター
8−2 雄略男帝〜聖徳太子までの歴史
8−3 大化の改新=父権制社会としての出発

☆ 暗号解読[4]

母権制社会から父権制社会へ

8−1 神武男帝のクーデター・イザ!オウ!

@ 神武男帝と履中・反正両女帝との関係
A 大碓命〜押黒〜墨江中王
B 小碓命〜倭建命〜反正女帝
C 神武男帝崩年と允恭男帝との関係
D 允恭男帝とその崩年
E 綏靖男帝とその崩年
F 神武男帝から綏靖男帝までのまとめ

乱数表はコチラ

@ 神武男帝と履中・反正両女帝との関係

 暗号では、(1)神武男帝は、G履中女帝から逃げ出した人物ということになるとともに、男帝側の系図の出発点でもあり、表向き皇統譜の第1代天皇とされていることからも、歴史上重要な意味がなければおかしい。
 そこで、その辺を探りながら、その年代や崩年を割り出して行こう。

 『古事記』では、1神武天皇と12景行天皇の崩年齢を、ともに137歳としている。これは、すでに話したように、皇紀元年が辛酉革命思想により、机上で算出されたものだということを知らせるためのものだった。しかし、単にそれだけではなく、崩年齢が同じだということで、1神武天皇についての真実の歴史と、12景行天皇の物語には深い関わりがある、というアピールだとも受け取れる。
 また、神武男帝は履中女帝から逃げた人物でもあった。
 とすると、手がかりは18履中天皇にもありそうである。
 まずは、国風諡号がA列B列と対応しなかった18履中天皇の大江之伊邪本和気(おほへのいざほわけ)の意味を考えてみよう。
 頭の大江は、すでに2−1の18履中天皇のところで、6天水訟(てんすいしょう)を通じて即位元年の皇紀1060年を示していると話したが、同時に訟は「訴える」という意味である。
 とすると、下の伊邪本和気ということを訴えていることになる。

 伊邪本和気とは、暗号ならばどういう意味があるのだろうか。これは文字を易の卦に置き換えても判然としないので、言葉の響きから意味を考える。
 伊邪は「イザ!」と呼びかける言葉、本は本文、和気は「分ける」という意味とすれば、18履中天皇に関する話を誰か別の天皇に分けて記述した、ということになる。
 とすると、誰に分けたのか?ということになるが、「イザ!」と呼びかけられたら「オウ!」と応えるものである。
 国風諡号に「オウ!」という応答の言葉を感じられるのは、12景行天皇の大帯日子(おほたらしひこ)淤斯呂和気(おしろわけ)の、まだ暗号としての意味が取れていない部分の淤斯呂和気である。
 この名前は、淤は「オウ!」、斯呂は白で「申す」という意(白状、自白というように、白には申すという意味がある)、和気は「分ける」とすれば、「オウ!と応えて、分けてもらった話を申す」と読めるではないか。
 したがって、この暗号は、18履中天皇に関する話は12景行天皇の話の中に入っている、ということである。
 もちろん、18履中天皇の話というのは、(1)神武男帝が履中女帝から逃げた経緯についてに違いない。
 その視点で探って行く。

乱数表はコチラ

A 大碓命〜押黒〜墨江中王

 12景行天皇の子の中に、大碓命(おほうすのみこと)という人物がいる。
 大碓という名は、大は陽だから(けん)(天)、碓はその形状から()(沢)となるので、合わせて10天沢履(てんたくり)=18履中天皇の履の字を示している。
 大碓命には、押黒之兄日子王(おしぐろのえひこのわう)押黒弟日子王(おしぐろのおとひこのわう)という二人の子があったとあり、この二人に共通する押黒の部分は、次のように読み解ける。
 押という字は、景行7代のところでも触れたが、扌(手偏)と甲に別けると、手(扌)は(ごん)(山)・甲(十干の(きのえ))は(しん)(雷)となるので、合わせて序次27山雷頤(さんらいい)となる。
 この卦は、25仁賢天皇の国風諡号の袁祁についてのところですでに話したが、口を意味する。
 したがって押黒とは、「口の中が黒い」という意味になる。
「口の中が黒い」ということは、墨のような水の中にいたことを連想させる。
「墨のような水の中」と言えば、「履中記」に墨江中王(すみのえのなかつわう)という名前がある。

 表向きの歴史では、墨江中王は仁徳天皇の子で、履中天皇の弟に当たる。「仁徳記」の皇統譜では墨江中津王と表記されているが、実際にこの人物が活躍する「履中記」では、津を省略して墨江中王と表記しているので、ここではその活躍しているときの表記に従った。
 墨江中王についての物語は次のとおりである。

 墨江中王は皇位を奪うために、ある日の豊明(とよのあかり)(宴会)の後、履中天皇が泥酔して寝込んだのをよいことに、大殿(おほどの)(屋敷)に火をつけ、履中天皇を焼死させようとした。
 しかし側近により履中天皇は救出され、波邇賦坂(はにふざか)というところを通り、山を越えて逃げ、なんとか九死に一生を得た。
 墨江中王は、この天皇暗殺の失敗により、その後、履中天皇側の刺客に殺される。

 細部を省略するとこのような物語なのだが、ここに波邇賦坂という地名が出てくる。
 これを易の卦に置き換えると、波は水面にできるものだから(かん)(水)・邇は7孝霊天皇の国風諡号のところで話したが(天)・賦は「計る」とか「分ける」という意味から(沢)・坂は山にあるから(山)とすれば、合わせて、

 (水)
 (天)
 (沢)
 (山)

となる。
 なお、7孝霊天皇の国風諡号のときのように、賦は貝と武に分ければ21火雷噬嗑(からいぜいこう)になるが、その変換をここでやると、八卦が計五つとなってしまい、暗号としての意味を読み取れないので、ここは計四つの卦になるように、賦という文字はその意味からひとつの卦として置き換える。

 さて、この四つの卦だが、上から二つずつまとめると、5水天需(すいてんじゅ)と31沢山咸(たくざんかん)になる。
 需は「待つ」で、咸は「感じる」だから、合わせて「待って感じる」すなわち「待ちくたびれてイライラする」とも取れる。
 ただし、これでは「だからなんなの?」である。暗号として意味をなさない。
 とすると、別の見方があるはずである。
 そう考えてみると、履中という名が気になって来る。

 履中とは、履は中にある、と示す暗号なのではないか、ということである。
 この四つの卦を、最上と最下、真ん中の二つで見ると、39水山蹇(すいざんけん)の中に10天沢履がある。
 確かに履は中にある。
 そして蹇は「足が()える」という意味であり、足が萎えていれば山越えはできない。
 要するに波邇賦坂を通ったとすることは、18履中天皇は逃げられずに焼死した、と、示しているのである。
 いや、暗号なのだから、18履中天皇ではなくG履中女帝は逃げられずに焼死した、ということである。

 このように、暗号ではG履中女帝は墨江中王によって殺されたことになるが、G履中女帝から逃げて男帝側の初代の王となったのが(1)神武男帝である。
 さらに1神武天皇には、東征の際、八咫烏(やたがらす)が道案内をしたとする記述があるが、なんで烏なんだろうかと疑問に思ったことはないだろうか?八咫はヤタ(N垂仁男帝)が提唱した「仁」に基づく社会実現のためのクーデターだと教えるネーミンナグだとしても、なぜ真っ黒で「仁」には相応しくないイメージのカラスにしたのだろうか。鳩とか鷲などのほうが綺麗だしメルヘンチックで物語としても面白いではないか。その上、カラスのそんなマイナス・イメージを思ってか、東征の最後には金鵄(きんし)=金色のトンビが登場する。
 伝説をそのまま書いたものだから、違和感があってもそれを疑問視するのは無意味だという考えもあるが、ここまで話してきたように伝説ではなく、暗号で真実を伝えるために作られたフィクションの物語である。とすればこの疑問の答は、敢えて黒いカラスを登場させることで、神武男帝と墨江中王とを「黒」で結び付けるため、ということである。
 したがって墨江中王が引き起こしたとするこの事件こそ、(1)神武男帝のクーデターだったのである。

 しかし、クーデターを起こせば、追われる身になるはずである。(1)神武男帝はG履中女帝を焼死させた後、どこかへ逃げたに違いない。
 どこへ逃げたのか。
 畿内からどこかへ移動し、そこに留まった人物と言えば、大碓命である。
 「景行記」によると、景行天皇は大碓命に、美濃に容姿美麗な姉妹がいるから、召して来るようにと命じたが、大碓は美濃でその女性を見るなり惚れて、自分のモノとし、そのまま美濃に留まったとある。
 大碓命とその容姿美麗な姉妹との間にできた子が、押黒兄日子と押黒弟日子であり、弟日子の子孫は、牟宜都君(むげつきみ)の祖先だとある。牟宜都というのは地名で、現・岐阜県美濃市(旧武芸郡)付近のことである。

 ここまでのところをまとめてみると、
 (1)神武男帝は、かつてヤタが提唱した「仁」による社会を作ろうと、中央政府でクーデターを起こし、まずG履中女帝を殺害し、現・岐阜県美濃市に逃げ込み、そこを革命政府の砦とした、
 ということである。

乱数表はコチラ

B 小碓命〜倭建命〜反正女帝

 大碓命の弟の小碓命(をうすのみこと)は、またの名を(やまと)男具那(おぐな)と言い、後に倭建命(やまとたけるのみこと)と名乗る。
 まず、小碓を易の卦に置き換えると、小は陰だから(こん)(地)・碓は大碓と同様に(沢)だから、合わせて19地沢臨(ちたくりん)となる。
 この卦は二本で一本と見なせば(雷)になる。
 (雷)と言えば(かみなり)だが、その雷の神様のことを、『記』では建御雷神(たけみかづちのかみ)と名付けている。
 したがって、倭建命の建という字は、この(雷)を意味しているのであって、小碓という名前と易を通じて繋がっているのである。
 また、別名の倭男具那は、『紀』に日本童男(やまとをぐな)と表記されていることから、男性と思い込んでしまいがちだが、那は無を示すものとすれば「男の具が無い」で、女性であると示していることになる。

 ところで、易と親しく接していると、この(雷)という卦と向き合うとき、F反正女帝の反正という漢風諡号がとても気になる。
 『易経』の「説卦伝」というところの八卦の(雷)を解説する文章の中に、「その()におけるや反生(はんぜい)なり」とある。
 訳すと、「栽培植物の中で、(雷)が意味するのは、反生となる草木である」ということでる。
 反生とは、「反転して正しい方に向う」という意味である。
 一度種子から出た芽が、一旦地底の方に向かい、その後反転して地上に芽を出すことで、麻や豆科、イネ科の植物がこれに当たる。
 反生と反正、音は同じである。
 あるいは『記』『紀』編纂当時の日本に伝わっていた『易経』では、反生ではなく反正と書かれていたのかもしれない。
 が、何れにしろ、反正という言葉は、反転して正しい方向に進む、という意味にしか受け取れないので、この反正も反生と同様に(震)が示す事象なのである。
 すなわち、倭建命とF反正女帝は、(雷)という卦で繋がっているのであって、だとすると、この二人は同一人物だと、暗号は示しているのである。

 その倭建命=日本武尊(やまとたけるのみこと)のことを書いた「景行紀」を開いてみると、そこには、まず、
 景行天皇12年に、熊襲(くまそ)が反抗して朝貢を奉らなかった、とあり、景行天皇は熊襲征伐に向った、
 とある。
 その熊襲に向うために、九州に入ると、天皇に従わない者たちが、あちらかこちらにいた。
 その中に、土蜘蛛(つちぐも)と呼ばれる人たちがいて、彼等の名前は、(あを)(しろ)打猨(うちざる)八田(やた)国摩侶(くにまろ)だった、
 とある。
 このうちの四人目の八田は、ヤタ(N垂仁男帝)を象徴しているに違いない。
 とするとこの12景行天皇の熊襲征伐物語は、ヤタの信奉者が女帝政権に対して反抗していたことを示していることになる。
 さらに景行12年ということを正式表記の一十二として易の卦に置き換えると、1は(天)・2は(沢)だから、合わせて10天沢履となる。履と言えばG履中女帝である。

 要するにこの物語は、G履中女帝の時代に九州で女帝政権打倒のクーデターが頻発していたことを示していたのである。
 そして、そのうねりを感じ取ったからこそ、神武男帝は、G履中女帝暗殺を決行したのである。
 おそらく、この本当の歴史の事実を下敷きに、表向きの、1神武天皇は九州から東征して来た、とする物語が作成されたのだろう。

 またその後、12景行天皇の皇子の日本武尊(『記』では倭建命と表記)も、天皇の命を受けて、九州や出雲を征伐したとあるが、こちらは、F反正女帝の即位前の事跡ということになる。
 おそらく九州や出雲をくり返し征伐しないといけないほど、女帝政権打倒の機運が高まっていたのだろう。
 ただし、東国遠征については、『日本書紀』では微妙に表現を変えて、日本武尊のことを「王」と表記しているので、ここだけは違う人物の真実を伝えているに違いない。追って明らかにするが、それは中臣鎌子のことだった。
 しかし、日本武尊薨去の部分になると、「王」という表記はなくなるので、九州や出雲遠征と同様に、F反正女帝の崩御についてを、示しているのである。

 その日本武尊薨去にいたる経緯は、次のようなことである。
 日本武尊(倭建命)は、伊吹山すなわち近江(現・滋賀県)と美濃(現・岐阜県)の国境付近の山に、神を殺そうと出かけた。
 途中で、神の使いの大蛇を見つけても(『記』では白猪)、そんなことに構わず、さらに進んだ。
 すると、神が怒り、日本武尊を大氷雨に遭わせ、道に迷わせた。
 ようやくの思いで、現・米原市醒ヶ井付近に逃げてきたが、身体に痛みがあり、その後どんどん病状は悪化し、三重の能煩野(のぼの)というところまで来たところで、ついに力尽きて薨去した。

 美濃は、(1)神武男帝がG履中女帝暗殺後に逃げた場所である。
 とすると、ここで言う神とは、(1)神武男帝のことを指していることになる。
 したがって、この物語は、
 F反正女帝はG履中女帝の復讐のために美濃に行こうとしたが、途中で(1)神武男帝軍により、返り討ちにされた、
 と示していたのである。

乱数表はコチラ

C 神武男帝崩年と允恭男帝との関係

 そんな(1)神武男帝だが、クーデターを起こして美濃に逃げた後はどうなったのだろうか。
 その辺を探るために、まずは本当の崩年から探ることにしよう。
 (1)神武男帝の崩年は、『記』に崩年干支の記載はなく、『紀』では即位76年目のことだとしている。他の暗号はない。とすると、この即位76年目と同じ干支の年に崩御したものと、暗号は示していることになる。即位元年が辛酉(かのととり)なら、76年は丙子(ひのえね)である。
 履中崩の皇紀1150年庚午歳以降から丙子を探すと6年後の皇紀1156年がこれに当たる。
 したがって皇紀1156年丙子歳が(1)神武男帝の崩年となる。

 ところで、「神武紀」では、42年条で、2綏靖天皇を皇太子としたことを記していながら、「綏靖紀」即位前の記事では、皇位継承のトラブルを伝え、記述が矛盾する。その上、2綏靖天皇の即位元年は、1神武天皇崩御の翌年ではなく、4年後となっている。
 暗号では、(1)神武男帝の次は(2)允恭男帝であって、その次が(3)綏靖男帝になる。
 次に、この意味について調べよう。

 手がかりの第一は、登美能那賀須泥毘古である。
 『古事記』の表向きの物語では、
 1神武天皇一行が大阪付近から倭に入ろうとしたとき、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)という人物から激しく攻撃され、その戦闘で1神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)が殺され、一行は仕方なく南下して熊野に回った、
 とある。
 要約すると、兄弟の兄のほうが、登美能那賀須泥毘古なる人物に殺された、ということである。
 しかし、この登美能那賀須泥毘古という名前は、頭の登と毘古の手前の泥で、次のように(2)允恭男帝を示す。
 登は(山)・泥は(地)だから、登泥と合わせると、20允恭天皇のA列の23山地剥(さんちはく)となるのである。
 残りの美能那賀須の5文字は、順序を入れ替えると、美能賀須那(みのがすな)で「見逃すな」と読める。
 全体では、美能賀須那登泥毘古で「見逃すな登泥毘古」である。
 したがってこの名前は、「(2)允恭男帝を見逃すな」という暗号だったのである。

 殺された五瀬命は、易の卦に置き換えると、五は(風)・瀬は水があるところだから(水)となるので、合わせて59風水渙(ふうすいかん)となる。
 渙とは「散らす」という意味である。
 とすると、五瀬命で、「命を散らす」すなわち死を意味する名前となる。
 五瀬命は1神武天皇の兄であり、暗号では、(1)神武男帝は(2)允恭男帝の兄である。
 したがってこの物語は、(1)神武男帝は弟の(2)允恭男帝によって殺された、と示す暗号だったのである。
 ええ?どういうこと?
 意外な展開だが、とにかく解読を先に進めよう。

 その(2)允恭男帝は、表向きの20允恭天皇であり、「允恭紀」では42年に崩御したとある。
 すでに話したように、「神武紀」では42年に、皇太子として、後の綏靖天皇を立てたとある。
 何やら42という数字が神武と允恭にとって重要な気配である。
 42を易に置き換えると、4は(雷)・2は(沢)だから、合わせて54雷沢帰妹(らいたくきまい)になる。
 帰妹とは、「妹が(とつ)ぐ(嫁ぐ)」という意味なのだが、読み方を変えれば、妹は女性だから、「女性のところに(かえ)る」で、「女帝側に寝返った」という意味にも解釈できる。
 寝返るというのはあまりよいことではないが、そんな事例が神武東征物語の中にはあるではないか。
 弟が寝返り、兄を殺した事例である。
 『神武記』の兄宇迦斯(えうかし)弟宇迦斯(おとうかし)である。

 倭の宇陀に攻め入って来た皇軍を迎撃するために、兄宇迦斯は兵を集めようとした。
 しかし、思うように集まらなかったので、皇軍に奉仕するふりをして、接待する大殿を作り、その中に押機(踏めば打たれて圧死する仕掛け=バネ仕掛けのネズミ捕りのようなもの)を仕掛けて待ち伏せをした。
 ところが、そんなことをしても勝てそうにないと判断したのか、弟宇迦斯はこの仕掛けのことを皇軍に密告した。
 事情を知った皇軍は、兄宇迦斯に対して、「お前が作った大殿なのだから、まずはお前が中に入り、奉仕する姿勢を明白にせよ」と問い詰め、刀や弓矢で脅し、ついにはその大殿の中に追い込み、結局自分が作った押機に打たれて兄宇迦斯は死んだ。

 神武東征のところを通して読むとわかるのだが、これ以前やこの後については、神武天皇たちを指して「皇軍」とは呼んでいないのである。
 どうやら、ここで皇軍という言葉が使われるからには、何か特別な意味がありそうである。
 『古事記』序文では、女帝のことを天皇とは呼んでいなかった。
 とすると、あえて天皇という言葉を避けているのであって、この皇軍というのは、女帝の軍のことだと、教えていたのである。

 (1)神武男帝崩年の皇紀1156丙子歳の女帝側は、E懿徳女帝である。
 これまでの暗号解読の結果によると、E懿徳女帝は、母のG履中女帝と姉のF反正女帝を、(1)神武男帝によって殺されている。
 とすると、真相は次のようなことになる。

 G履中女帝とF反正女帝の敵討ちのために、E懿徳女帝の軍が大挙して押し寄せた。
 (1)神武男帝は、迎撃するために、兵を集めようとした。
 しかし思うように集まらなかったので、計略を考え、降伏するかのように見せかけて大殿を作り、中に押機を仕掛けて待ち伏せた。
 ところが、敗色濃厚と考えた弟の允恭男帝は、この待ち伏せ計画を手土産に、女帝側に寝返り、命乞いをした。
 その結果、女帝軍はこの計略を知り、神武男帝に対して、「お前が作った大殿には、まずお前が入り、奉仕しようとする姿勢を明白にせよ」と問い詰め、刀や弓矢で脅した。
 (1)神武男帝は、ついにその大殿に追い込まれ、自らが作った押機に打たれて死んだ。

乱数表はコチラ

D 允恭男帝とその崩年

 (1)神武男帝がE懿徳女帝によって殺されたのは、(2)允恭男帝が寝返ったからだが、だからと言って、(2)允恭男帝は倭に戻り、革命軍も解散したわけではなかった。

 (2)允恭男帝についての暗号は、次のようになっている。
 「神武記」には、東征を終えた1神武天皇一行の後を追って、天から邇芸速日命が降りて来て、登美能那賀須泥毘古の妹、登美夜毘売(とみやびめ)を娶して、宇摩志麻遅(うましまぢの)(みこと)を生んだとある。
 登美能那賀須泥毘古が(2)允恭男帝を示す暗号であったことはすでに話したが、とすると、この記述も允恭男帝についての暗号に違いない。
 生まれた子の名の宇摩志麻遅を易の卦に置き換えると、宇摩志は6−7−C宇摩志阿斯備比古遅(うましあしかびひこぢ)神の解釈のところで話したように(地)・麻は反正植物なので(雷)・遅は「遅れる」だから、合わせて、21地雷復(ちらいふく)に遅れる、となる。
 この卦は活動開始を意味し、ここで活動と言えば、(1)神武男帝のクーデターのことしかない。
 したがって(2)允恭男帝は、(1)神武男帝が履中女帝を殺害した当初から、この革命に参加していたのではなく、その後、一段落したときに参加した、と示していることになる。
 では、允恭男帝は、いつ革命軍に参加したのか。
 それを示す暗号は、「神世記」の美濃地方に関連を持つ物語の中にあった。

 天孫降臨よりも前の時代、下界(葦原中国(あしはらのなかつくに)=日本)は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の弟、須佐之男(すさのをの)(みこと)の子の、大国主神(おほくにぬしのかみ)が治めていた。
 しかしあるとき、高天原(たかまのはら)(天上界)の天照大御神は、葦原中国を治めるのは弟の子ではなく、自分の子にしたいと考えた。
 そこでまず、大国主神やその配下の神々に国を譲るよう説得するために、天菩比神(あめのほひのかみ)を遣わした。
 しかし天菩比神は、大国主神に媚びて付き従ってしまい、行って3年目に至っても、帰ってこなかった。
 困った天照大御神は、改めて天若日子(あめのわかひこ)に弓矢を下賜して、下界に遣わした。
 ところが、この天若日子は大国主神の娘を娶り、この国を自分のものにしようと考え、8年経っても帰らなかった。
 なかなか帰らぬことに困った天照大御神は、鳴女(なきめ)という雉を遣わし、天若日子に帰らぬ理由を問うことにした。
 天若日子はやって来たこの雉を見つけると、何も言わずに賜った弓矢で射殺した。
 その矢は、そのまま天上界の天照大御神のところにまで届いた。
 天照大御神は驚いた。
 すぐそばにいた高御産巣日神(たかみむすひのかみ)はその矢を取り、「反逆心があるなら、天若日子に命中せよ」と念じて衝き返した。
 矢は天若日子の胸に命中して死んだ。
 天若日子の葬儀を行った場所は、美濃国の藍見河(あゐみがは)の河上の喪山(もやま)(現・岐阜県美濃市)だった。

 物語はその後、建御雷神が新たに下界に遣わされ、神々が服従し、大国主神は国を譲ることに同意した、と続く・・・。

 ここに出てくる数字は、天菩比神が3年帰ってこなかったとする3年と、天若日子が8年帰ってこなかったとする8年である。
 天若日子という名前には、神や命といった敬称が付いていない。
 神世の物語で、このように敬称が付いていないのは、天若日子だけである。
 (2)允恭男帝を念頭に、天菩比神という名と、天若日子という名を比較しながら見ていると、比と日は音が同じなので、天菩比神は菩と神が、天若日子は若と子という文字が印象に残る。
 20允恭天皇の国風諡号は男浅津間若子宿禰だから、こちらも若子という文字があり、他には若子とつく天皇はいない。
 葬儀が行われたという現・岐阜県美濃市付近は、暗号が示す(1)神武男帝が隠れ住んだ地域である。
 したがってこの物語は、(2)允恭男帝が革命軍に参加した時期と、その後についてを書いたものだったのに違いない。

 最初に遣わされた天菩比神の3年後に天若日子が遣わされた、というのは(1)神武男帝がG履中女帝を殺して倭を脱出してから3年目に(2)允恭男帝は革命軍に参加した、ということを示しているのである。
 天若日子も8年間帰らず言うことを聞かなかったので殺されたというのは、その8年後に(2)允恭男帝も女帝側によって殺された、と示しているのである。

 要するに、
 (1)神武男帝がクーデターを起こしたのは、皇紀1150年だから、それから3年目の皇紀1152年に(2)允恭男帝も革命軍に参加し、その8年後の皇紀1160年に(2)允恭男帝は殺された、
 のである。
 なお、その間の皇紀1156年には、一旦女帝側に寝返り、(1)神武男帝を死に追いやっているが、最後には(2)允恭男帝も殺されているのだから、寝返ったのは一時的なことだったのだろう。

 この(2)允恭男帝崩年計算は、『記』崩年干支の暗号とも合う。
 (2)允恭男帝の崩年は、『記』に甲午(きのえうま)年正月15日崩とある。
 女帝ならば、15は44天風姤(てんぷうこう)だから、女帝を示す暗号となるが、(2)允恭男帝は男帝だから、それは違う。
 とするとこの15は、単純に計算させるためのものであって、15日を甲午としたときの1日に当たる干支が、正しい崩年だと示しているはずである。
 計算すると、庚辰(かのえたつ)が1日になり、(1)神武男帝崩年以降から探すと、(2)允恭男帝崩年は皇紀1160庚辰歳となる。

乱数表はコチラ

E 綏靖男帝とその崩年

 「綏靖紀」には、2綏靖天皇は1神武天皇崩御の4年後に即位となっているが、暗号では、(1)神武男帝の次に(2)允恭男帝が革命軍の長となり、4年後に殺されたと示している。暗号が示す系図を見ると、その(2)允恭男帝が殺されたことにより革命軍を引き継いだのが、(3)綏靖男帝となる。
 崩年干支は、『記』には記載がない。
 『記』に示された崩御時の年齢は、4懿徳天皇と同じ45歳である。
 すでに話したように、暗号では、「綏靖紀」の崩年は、E懿徳女帝の崩年を示していた。
 とすると、この(3)綏靖男帝とE懿徳女帝の二人は、同じ年に死んだのであって、E懿徳女帝と同じ皇紀1192壬子(みずのえね)歳が、(3)綏靖男帝の崩年となる。
 (1)神武男帝と(2)允恭男帝は、ともに女帝側に殺されたわけだが、この(3)綏靖男帝には殺されたという暗号は見当たらないので、自然死ということなのだろう。

乱数表はコチラ

F 神武男帝から綏靖男帝までのまとめ

 (1)神武男帝から(3)綏靖男帝までを、女帝側との関係も合わせて、整理しておこう。

○ 皇紀1150庚午(かのえうま)歳。

 少し前から、九州や出雲を中心に、社会変革の波が起こり始めていた。
 母権制社会を脱却して、ヤタ(N垂仁男帝)の唱えた「仁」による社会に変革しようとする動きである。
 そのため、各地で女帝政権に従わない人々が出てきた。
 女帝政府もなんとか食い止めようと、武力で鎮圧して回っていた。

 そんな折、ついに中央政府にもクーデターが起きる。
 H成務女帝の息子の(1)神武男帝が、叔母に当たるG履中女帝を殺害して美濃に逃げ、そこを革命の砦とする。

○ 皇紀1151辛未(かのとひつじ)歳。

 G履中女帝の仇討ちに来た娘のF反正女帝を返り討ちにする。

○ 皇紀1152壬申(みずのえさる)歳。

 (1)神武男帝の弟の(2)允恭男帝が、革命軍に参加する。

○ 皇紀1156丙子(ひのえね)歳。

 (1)神武男帝は、(2)允恭男帝の寝返りにより、E懿徳女帝の軍に殺される。
 なお、(1)神武男帝亡き後は、その寝返った(2)允恭男帝が革命軍の長となる。

○ 皇紀1160庚辰(かのえたつ)歳。

 (2)允恭男帝が女帝側によって殺される。
 おそらく、一度は寝返ったが、本心からは女帝側に服従しなかったためだろう。
 允恭男帝亡き後は、(1)神武男帝の息子の(3)綏靖男帝が革命軍を引き継ぐ。

○ 皇紀1192壬子(みずのえね)歳。

 (3)綏靖男帝とE懿徳女帝が、ともに死ぬ。
 綏靖男帝は自然死、懿徳女帝は蘇りのための自殺であろう。
 なお、(3)綏靖男帝の次は(4)雄略男帝が革命軍の長となった。

8−2 雄略男帝から聖徳太子までの歴史

@ 雄略男帝崩年
A 雄略男帝が倭に乗り込む
B 雄略男帝の実力行使
C 武烈紀の残虐行為
D 崇峻男帝とその崩年
E 敏達男帝とその崩年
F 聖徳太子とその崩年
G 雄略男帝から聖徳太子までのまとめ

乱数表はコチラ

@ 雄略男帝の崩年

 暗号では、(3)綏靖男帝の次は、(2)允恭男帝と(1)神武男帝の娘との間に生まれた(4)雄略男帝が革命軍の長となったとある。
 まずは、その(4)雄略男帝の時代がいつなのかをはっきりさせるために、崩年を明らかにする。

 『古事記』では、22雄略天皇の崩年を己巳(つちのとみ)年8月9日としている。
 (3)綏靖男帝崩の皇紀1192壬子(みずのえね)歳以後の最も近い己巳年は皇紀1209年である。
 おやおや、このままでも在位は17年だから、常識的な数字である。
 とすると、このままで正しいかのようにも思える。
 しかし、これでは8月9日の意味が解決できない。
 したがって、例え常識的な在位年数であっても、これは違う。

 一方、『日本書紀』では、22雄略天皇は23年崩とあり、即位元年は丁酉(ひのととり)年だから、崩年は乙未(きのとひつじ)年となる。
 (3)綏靖男帝崩の1192壬子歳に最も近い乙未年は、皇紀1235年になる。
 暗号では、22雄略天皇と26武烈天皇は同一人物となるわけたが、26武烈天皇の崩年は、『記』に記載なく、『紀』には8年崩とあり、武烈天皇の即位元年は己卯(つちのとう)年だから、崩年は丙戌(ひのえいぬ)年となる。
 この付近の丙戌年は、皇紀1226年である。
 これで候補は出揃った。
 他に崩年を計算させる暗号はないので、この、皇紀1209年己巳、皇紀1226年丙戌、皇紀1235年乙未のうちの、8月9日と関連付けられるものが、雄略男帝の崩年のばずである。
 と考えて眺めていると、どうやら8月9日の意味が見えてきたではないか。
 今回は足し算である。8と9を足して17とし、それを己巳年の1209年に足すのである。
 すると、1226年になるではないか。
 すなわち、表向きの26武烈天皇崩年と同じ丙戌年すなわち皇紀1226丙戌歳が、(4)雄略男帝崩年だったのである。

乱数表はコチラ

A 雄略男帝が倭に乗り込む

 (3)綏靖男帝の時代には、男帝と女帝の間に動きがあったと示す暗号はなかった。
 おそらく、対峙したまま、あるいは小競り合いはあったとしても、全体としては平和な期間が続いたのだろう。
 しかし、この(4)雄略男帝の時代になると、かなり変化があったようである。

 (4)雄略男帝について書いてあるのは、表向きの22雄略天皇と26武烈天皇である。
 その意味で、22雄略天皇と26武烈天皇は同一人物だと言ったのだが、その「武烈紀」には、は次のような記事がある。
 「設壇場於泊瀬列城、陟天皇位」
 通常は、壇場(たかみくら)泊瀬(はつせ)列城(なみき)というところに設けて……、と、列城を地名だろうと推測して読むのだが、列には「並べる」という意味があるから、泊瀬に城を並べて、という意味にも受け取れる。
 続く「陟天皇位」は、「天皇に即位した」という意味だが、即位記事にこの「(のぼる)」という字を使っているのは、実在が否定される23清寧天皇とこの26武烈天皇だけである。
 「陟」という字の旁は歩だから、位に即く、という意味とともに、実際の移動としての「歩いて上る」という意味もある。
 したがってこの記事は、
 この年に、(1)神武以来美濃にいた男帝側が、初めて女帝政府のある倭に(のぼ)り、女帝政府のある泊瀬の近くに、城を並べて建てた、
 と示しているのである。
 なお、「雄略紀」では、泊瀬の朝倉で即位したとあり、泊瀬というのは、現・奈良県桜井市の三輪山の南あたり一帯、朝倉は、近鉄大和朝倉駅〜長谷寺駅付近だろうと推定されている。

乱数表はコチラ

B 雄略男帝の実力行使

 この時代の女帝側は、D安寧女帝(1204年崩)、C安閑女帝(1219年崩)、そしてB継体女帝(1251年崩)である。
 D安寧女帝については、特に暗号はないので、崩年は蘇りのための自殺をした年、ということになるが、C安閑女帝については、いささか血生臭い事件のようである。

 27継体天皇の『古事記』による国風諡号は袁本杼(おほど)である。この名前の3文字のうち、最後の杼は機織のときに横糸を巻きつける器具のことである。したがって袁本杼で、袁の字の付く人物に本文を巻きつけた、と読める。
 袁の字の付く人物と言えば、袁祁之(おけの)石巣別(いはすわけ)の24顕宗天皇である。
 24顕宗天皇は、父親の市辺之忍歯王(いちべのおしはのわう)が22雄略天皇に殺されている。
 市辺之忍歯王という名前は、41持統天皇暗殺を教えるための暗号だった。と同時にこの人物が表向き雄略天皇に殺されたことになっていることで、袁の字が付く人物の親が雄略天皇に殺された、と示していることになる。したがって、B継体女帝の親すなわちC安閑女帝は(4)雄略男帝に殺された、と示しているのである。
 また、「武烈紀」元年の干支は安閑女帝崩年と同じ己卯である。
 これらの暗号を整理すると、
 (4)雄略男帝は皇紀1219己卯歳に、美濃から倭に乗り込み、女帝の城の近くに革命軍の砦を築き、手始めにC安閑女帝を殺害した、
 ということになる。

乱数表はコチラ

C 武烈紀の残虐行為

 こうしてみると、「武烈紀」にある武烈天皇の残虐行為も、その意味が見えてくるではないか。「武烈紀」には、次のような猟奇的で残虐な行為の記事がある。

 2年秋9月、妊婦の腹を裂いて、その胎児を観た。
 3年冬10月、人の指甲(なまづめ)を抜いて、暑預(いも)を掘らせた。
 4年夏4月、人の頭の髪を抜きて、樹の頂上まで登らせ、その樹を切り倒し、登った人を落とし殺すことを楽しみとした。
 5年夏6月、人を水路に入れて、外に流れるところを、(ほこ)で刺し殺すことを楽しみとした。
 7年春2月、人を樹に登らせ、弓矢で射落として笑った。
 8年春3月、女を裸にして、平板な台の上で馬と交接させ、陰部が潤う者は殺し、潤わない者は官婢(つかさやっこ)とした。

 これらのすべてが、事実かどうかを確認する暗号は見当たらない。
 しかし、妊婦の腹を裂いて胎児を観る、という記事と、最後の馬と交接させるという記事は、母権制社会の食人による蘇りは妄想に過ぎない、と、女性たちに分らせようとして行われた事実ではないだろうか。
 胎児を見せることで、それが母の蘇りではないことを理解させ、馬と交接させることで、セックスは決して神懸かりのための行為ではない、と教えようとしたのではないだろうか。
 なお、他の性とは関係のない残虐行為は、表向きの歴史をカムフラージュするために追加された架空の残虐行為かとも思われるが、本当のところは判然としない。

乱数表はコチラ

D 崇峻男帝とその崩年

 (4)雄略男帝の次は(5)崇峻男帝である。
 表向き33崇峻天皇は、蘇我馬子(そがのうまこ)によって殺されたことになっている。
 しかしすでに7−1−Hで話したように、蘇我氏の始まりの蘇我稲目(そがのいなめ)は「妊娠で蘇る女性」という意味で、女帝を示す暗号だったのだから、その稲目の子の馬子も、女帝を示す暗号でなければおかしい。
 したがって(5)崇峻男帝は、女帝によって殺されたのである。
 とすると、いつ殺されたのか、ということになる。
 『古事記』には、33崇峻天皇が天下を治めたのは4年で、壬子(みずのえね)年11月13日崩とあり、『日本書紀』には、崇峻5年(皇紀1252壬子歳)11月癸卯朔乙巳(みずのとうのつきたちきのとみ)(3日)に、蘇我馬子の配下によって殺され、同日、天皇を(みささぎ)に葬ったとある。
 ここに出てきた崩年の干支の壬子を易の卦に置き換えると、壬も子もともに(水)だから、合わせて29坎為水(かんいすい)になる。
 この卦は険難を意味する最も悪い形のひとつである。とすると、まさに天皇殺害に相応しい年に殺されたことになる。果たして、そんな偶然があるのだろうか……。
 また、壬子年11月ということで『記』『紀』の記述は一致しているが、在位年数が4年と5年で異なることと、『記』では13日、『紀』の癸卯朔乙巳は3日に当たるので、両者で日付も異なっている。
 さらに、『紀』のように、殺された当日に陵に葬るというのは、犬猫なら当然かもしれないが、天皇ならば非常識である。とりあえず棺桶に入れるとしても、その後しかるべき日時に葬儀を行い、その後に葬るものである。
 例えば1神武天皇なら、『紀』では神武紀76年3月に崩御とし、埋葬したのは翌年9月だとしている。無論これは事実ではないが、崩御から埋葬まで、そのくらいの時間差があることを通例としているのである。
 とすると、『記』の崩年の『紀』と一致しない13日の意味が問題になる。
 『紀』のように11月朔を癸卯とすれば、13日は乙卯(きのとう)になる。乙卯を易の卦に置き換えると、乙も卯もともに(雷)だから、合わせて51震為雷(しんいらい)となる。
 この卦は雷すなわち音だけの見せかけで、実体のないことを意味する。とすると、壬子年に崩御というのは実体のないこと、すなわち、殺されたのは違う年だと示していることになる。
 『記』に4年とあるのだから、『紀』の崇峻4年が正しい崩年の可能性が高い。
 そこで、『紀』の崇峻4年を見ると、次の三つの記事があった。(要点のみ記載)

 4月壬子朔甲子(みずのえねのつきたちきのえね)、31敏達天皇をその皇后と同じ陵に葬った。
 8月庚戌朔(かのえいぬのつきたち)、すでに滅んだ任那(みまな)を再建したいと群臣に伝え、群臣も同意した。
 11月己卯朔壬午(つちのとうのつきたちみずのえうま)、任那再建のための大将軍を任命し、九州に出発させるとともに、新羅(しらぎ)や任那に使いを出して様子を探らせた。

 この記事の内容はさておき、干支だけを見る。

 4月の壬子朔甲子は、壬子は先ほどのように29坎為水で険難の意味となる。甲子は、甲は(雷)・子は(水)だから、合わせて40雷水解(らいすいかい)になり、こちらは「解消」を意味する。
 したがって、壬子と甲子で険難解消という意味になり、このときはまだ(5)崇峻男帝は殺害されていないことになる。

 8月の庚戌朔は、易の卦に置き換えると、庚は(沢)・戌は(天)だから、合わせて43沢天夬(たくてんかい)となり、この卦は決去決壊ということから騒乱なども意味し、天皇殺害に相応しい形となる。

 11月の己卯朔壬午は、己は(地)・卯は(雷)だから、合わせて24地雷復で復活という意味になる。壬午は、壬は(水)・午は(火)だから、合わせて63水火既済(すいかきせい)で、既済は完成されていることを意味する。
 したがって、己卯と壬午で、平和が復活して秩序が整い完成された、となり、暗殺はすでに過去のことだ、という意味になる。

 以上のことから、本文の内容とは無関係に、この崇峻4年の8月に(5)崇峻男帝は殺害された、と暗号は示していることになる。
 崇峻4年は皇紀1251辛亥(かのとい)歳である。
 おやおや、この年は、7−3−Aで話したが、女帝側でもB継体女帝と用明皇女が暴動に巻き込まれて殺された、という事件があった年ではないか。
 とすると、この暴動とも何らかの関係がありそうだが、それを知る手がかりは、蘇我馬子という名にあった。

 馬子を易の卦に置き換えると、馬は十二支の午とすれば(火)・子も十二支の子とすれば(水)だから、合わせて64火水未済(かすいびせい)となる。
 64火水未済を一文字で示す漢字は「明」(日は(火)・月は(水))である。
 明の字が付くのはB継体女帝の四人の娘の、A欽明、用明、@推古舒明、皇極斉明である。
 このうちの誰だろう?
 この四人の漢風諡号を眺めていたら、考える間もなく、わかった。
 B継体女帝の長女となるA欽明女帝の欽は、ヘンの金は(天)・ツクリの欠は坎の字の一部だから(水)を意味するものと考えられるので、合わせて6天水訟を示している。
 訟は「訟える=主張する」という意味である。
 すなわち、欽明で「64火水未済であることを主張する」という意味になり、この欽明こそが馬子なのだ、と主張しているのである。
 したがって、馬子はA欽明女帝のことであって、(5)崇峻男帝は欽明女帝に殺されたのである。
 どうやら見えてきた。
 B継体女帝と用明皇女は(5)崇峻男帝に殺害され、その報復として、(5)崇峻男帝はA欽明女帝に殺害されたのである。

乱数表はコチラ

E 敏達男帝とその崩年

 『古事記』では、31敏達天皇は甲辰(きのえたつ)年4月6日崩とある。しかしこの4月6日という日付は、4は(雷)・6は(水)だから、40雷水解で解消という意味になる。
 したがって、これは暗号としての意味をなさないから解消すなわち無視せよ、と示していることになる。
 ダミーである。ダミーまで挿入されているとは、念が入ってる。凄い。痺れる。
 が、それはともかく、『記』からは探れないので、崩年は『日本書紀』から探ることになる。
 としても、「敏達紀」には暗号が見当たらないので、表向きでは敏達天皇よりも後の時代になる(5)崇峻男帝殺害(皇紀1251年辛亥)以降の記事から探る。
 暗号が示す歴史では、(6)敏達男帝と@推古女帝との間に生まれたのが、(7)聖徳太子だとしていて、その(7)聖徳太子が(6)敏達男帝の次の男帝となる。
 また、(7)聖徳太子と37孝徳天皇は同一人物だということは、すでに6−3の孝徳天皇と聖徳太子のところで話した。
 したがって、表向きの推古29年に(7)聖徳太子が薨ったという記事は事実ではなく、後の37孝徳天皇についての記事にこそ、(7)聖徳太子の真実が隠されているはずである。
 表向きでは、大化の改新のときに皇位が36皇極天皇(女帝)から37孝徳天皇に継承されたとあり、暗号が37孝徳天皇と同一人物とする(7)聖徳太子の前は、(6)敏達男帝である。
 とすると、この皇位継承あたりを探れば、(6)敏達男帝の崩年も明らかになるはずである。
 そう考えて見て行くと、「孝徳紀」大化元年12月条に、いかにも暗号らしい記事があった。

 冬12月乙未朔癸卯(きのとひつじのつきたちみずのとう)(9日)、(みやこ)難波長柄豊碕(なにはのながらのとよさき)(うつ)す。老人等(おきなら)相謂(あいかた)りて()はく、「春より夏に至るまでに、(ねずみ)の難波に()きしは、都を遷す(しるし)なりけり」といふ。
 戊午(つちのえうま)(24日)に、越国言(こしのくにまう)さく、「海の(ほとり)に、枯査(うきき)、東に()きて移り去りぬ。(すな)の上に跡有り。耕田(たつく)れる(かたち)の如し」とまうす。是年、太歳乙巳(きのとみ)

 文中に出てくる難波長柄豊碕というのは、現在の大阪市中央区法円坂である。
 直前の都は奈良県明日香地方だったから、かなり離れた場所に遷都している。近鉄特急と地下鉄を乗り継いで、ざっと1時間の距離である。
 が、それはともかく、春より夏に至るまでに、鼠が移動すると、遷都の予兆とは、どういうことだろう?
 「春より夏に至る」は、(雷)(風)(火)の方位の干支を示すものとすれば、丁度この歳の乙巳がその範疇にある。乙は春で(雷)、巳は春と夏の間の(風)である。
 小さな鼠が明日香から難波へ移動するのは、とてつもなく大変なことである。
 この遷都は孝徳天皇の即位によるものである。
 とすると孝徳男帝の即位は、本当は乙巳ではなく、それとはかけ離れた年だった、と示しているに違いない。
 そしてこれが暗号なら、その本当の即位の年は、後半に示されているはずである。

 後半の、「海の畔」は要するに水のあるところだから、水を意味する(水)の方角である北を示している。
 「枯査 東に向きて・・・」というのは、そのうちの東にある干支を指す。
 北に配される干支は、十二支の()と、十干の(みずのえ)(みずのと)である。
 このうち、方位図を描くときに、一番東に配されるのは癸である。
 とすると、続く部分には十二支が示されているはずである。
 その続く「沙の上に〜耕田れる状」とは、要するに大地を方形に分割した様子であって、それを易では(地)とする。
 (地)は西南に配される卦だから、十二支では、(ひつじ)(さる)を示していることになる。
 未と申のうち、癸と組むのは、未である。
 なるほど、この暗号は、正しい遷都の年は癸未(みずのとひつじ)歳だ、と示していたのである。
 遷都は新帝の即位と同じ意味を持つから、前帝すなわち(7)聖徳太子の父親の(6)敏達男帝の崩年は、その遷都の前年になる。
 癸未の前年は壬午(みずのえうま)である。
 この付近の壬午は、皇紀1282年=表向きの推古30年になる。
 したがって、(6)敏達男帝の崩年は、この皇紀1282壬午歳となる。

乱数表はコチラ

F 聖徳太子とその崩年

 (4)雄略男帝が倭に乗り込み、女帝政府の近くに革命軍の砦を築いてから、男帝側はまずC安閑女帝を殺害し、さらにB継体女帝と用明皇女も殺害した。
 これに対して女帝側は、A欽明女帝が崇峻男帝を殺したにとどまっている。男帝側の度重なる攻撃により、徐々に力を失って行ったということだろう。
 だからこそ和解策として、A欽明女帝の妹の@推古女帝と(6)敏達男帝に肉体関係を持たせたのに他ならず、その結果生まれたのが(7)聖徳太子である。
 男帝側は、この(7)聖徳太子をもって王とすれば、女帝側の反感も少しは和らぎ、母権制社会とその忌まわしい宗教儀礼からの脱却も上手く行くのではないか、と、考えたのだろう。

 聖徳太子の表向きの事跡は「十七条の憲法」を作ったことだが、その第12条には「国に二の君非ず、民に両の主無し」とある。
 表向きの歴史から推測すれば、蘇我氏の勝手な振る舞いを睨んでの戒めを、『礼記』曽子問篇の「天に二の日無し、土に二の王無し」という言葉をヒントに作ったのだろうとも言われているが、普通に読んでも、何やら王様が二人いたからこそ、そう書かれたようにも思えるではないか。
 暗号が示す歴史では、確かにこの時代、女帝と男帝が並立していた。
 同様の記述は、「皇極紀」元年是歳条に「天に二の日無し、国に二の王無し」、「孝徳紀」即位前年6月19日条に「今より後は、君に二の政無し、臣に二の朝無し」、大化2年3月20日条に「天に双の日無し、国に二の王無し」と、しつこく出てくる。
 聖徳太子が生まれたのを契機に、男帝と女帝を一つにしようという機運が強くなり、その盛り上がりこそが大化の改新だったようである。
 その大化の改新の真相は、聖徳太子の崩年と密接な繋がりがあった。

 表向きの崩年は、推古29年だが、これを易に置き換えると、2は(沢)・9は(天)だから、合わせて43沢天夬となり、この卦は決去決壊を意味する。
 とすると、聖徳太子は殺された、と示されていることになる。
 これを踏まえて、暗号が(7)聖徳太子と同一人物だと示す37孝徳天皇の崩御関連の記述を見ると、またしても暗号めいた文章があった。

 「孝徳紀」によると、37孝徳天皇は、白雉(はくち)5年10月癸卯朔壬子(みずのとうのつきたちみずのえね)(10日)に崩御とあり、同年12月条に、「老者(おいひと)語りて曰はく、鼠の(やまと)(むか)ひしは、都を遷す兆しなりけり」とある。
 壬子は、これまでに何度か出て来たが、壬も子もともに(水)だから、合わせて29坎為水となる。
 この卦は最悪の状態=殺害を示していることになる。
 しかしこの鼠の移動記事からは、干支を通じての年の特定は不可能だった。
 そこで、これが「老人の言葉」だというこを念頭に、鼠をモチーフにした記事が別のどこかにないか探ってみた。
 すると、38皇極天皇について書いた「皇極紀」の2年11月条にあった。

 蘇我入鹿(そがのいるか)は、古人(ふるひとの)皇子を次期天皇にしようと、有望な聖徳太子の子の山背大兄(やましろのおほえの)王を殺そうと考え、彼の住む斑鳩(いかるが)を襲う。
 山背大兄王一族は、漸くのことで、一旦は山中に逃れる。
 入鹿は山狩りをして彼らを捕らえようと考える。
 そのとき、古人皇子が「鼠は穴に(かく)れて生き、穴を失ひて死ぬと」と、入鹿に言った。
 入鹿はこの言葉で思い止まる。
 すると、観念した山背大兄王は、山から出てきて、斑鳩寺に入り、自害した。

 物語の流れはざっとこんな具合だが、古人皇子の古人は、古い人=老人という意味に取れる。
 山背大兄王の山背は、易の卦に置き換えると、ともに(山)となり、その(山)は7という数を示す。
 また、この山背大兄王とは別人ではあるが、「欽明記」では山代王とある名前を「欽明紀」では山背王と表記している。
 とすると、山背で、山代すなわち7代と暗号は示していることになる。
 (7)聖徳太子は(1)神武男帝から数えて7代目である。
 (1)神武・(2)允恭・(3)綏靖・(4)雄略・(5)崇峻・(6)敏達・(7)聖徳太子、である。
 したがって、この山背大兄王は(7)聖徳太子の子ではなく、(7)聖徳太子本人のことだったのである。
 一方、蘇我入鹿は、稲目や馬子が女帝を示す暗号だったように、やはりこの時代の女帝である皇極女帝を示す暗号に違いない。
 すなわち、聖徳太子は表向きの皇極2年に当たる皇紀1302癸卯(みずのとう)歳に、皇極女帝によって殺害されたのである。
 殺害された理由は、入鹿の別名が示している。
 入鹿には、鞍作(くらつくり)という別名があるのだが、鞍は革と安である。
 革は革命の革。安はD安寧女帝やC安閑女帝といったように、女帝側の漢風諡号として暗号としての意味も込めて使われている文字だから、女帝を示している。
 したがって、鞍作で、女帝による革命構想を作っていた、という意味に取れる。

 言葉を補うと、
 男帝側が、聖徳太子により、対立する両政府を統一しようとするのに『待った』をかけ、昔日のような絶大な権力を誇った女帝政権を再建しようと、聖徳太子を殺害した、
 ということである。
 しかし、皇極4年6月に、蘇我蝦夷と入鹿の親子は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)中大兄(なかのおほえの)皇子等によって殺されている。
 何度も繰り返しになるが、蘇我氏は女帝を示す暗号である。
 したがって、この出来事は、皇極女帝が殺された、ということを示しているのである。
 念のために付け加えるが、すでに6−2の皇極天皇のところで話したように、国風諡号の天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)の解釈から、斉明としての重祚重祚(ちょうそ)はない。
 どうやら、大化の改新の本当の意味も見えてきたようでる。
 が、話を先に進める前に、雄略男帝から聖徳太子までを、まとめておこう。

G 雄略男帝から聖徳太子までのまとめ

○ 皇紀1219己巳(つちのとみ)歳。

 (4)雄略男帝は、美濃から倭に乗り込み、女帝の城の近くに革命軍の砦を築き、手始めにC安閑女帝を殺害した。
 その後、妊婦の腹を裂き胎児が神ではないことを示し、また、女性と馬と交接させて、セックスが神懸りのための行為ではないことを示すなどして、母権制社会の忌まわしい蘇りシステムを止めさせようとした。

○ 皇紀1226丙戌(ひのえいぬ)歳。

 (4)雄略男帝崩。息子の(5)崇峻男帝が革命軍の長となる。

○ 皇紀1251辛亥(かのとい)歳。

 (5)崇峻男帝がB継体女帝と用明皇女を殺害する。
 後を継いだA欽明女帝は、その報復として、(5)崇峻男帝を殺害する。
 革命軍は、息子の(6)敏達男帝に引き継ぐ。
 革命軍の長となった(6)敏達男帝は、A欽明女帝の妹の@推古女帝と肉体関係を持ち、二人の間に男児が生まれる。これが聖徳太子である。
 血で血を洗うかのような展開をなんとか鎮めようと、女帝側に和睦を提案した結果だろう。

○ 皇紀一二六三癸亥(みずのとい)歳。

 A欽明女帝崩。慣例では末娘が皇位を継承するところだが、三女の、(6)敏達男帝と肉体関係のある@推古女帝が皇位に就く。
 男帝側が、男帝・女帝双方の血を引く聖徳太子をもって、近い将来、国を統一しようと考えたのを、力の衰えた女帝側が止むなく飲んだのだろう。

○ 皇紀1282壬午(みずのえうま)歳。

敏達男帝崩。革命軍は聖徳太子が引き継ぐ。

○ 皇紀1296丙申(ひのえさる)歳。

 推古女帝崩。いよいよ聖徳太子が王として即位かと思われたが、男帝側の要求を拒否し、@推古女帝の妹の皇極女帝が皇位を継承した。

○ 皇紀1303癸卯(みずのとう)歳11月。

 皇極女帝により、聖徳太子が殺害される。
 男帝革命軍の論理で国が統一されることを、女帝側あが必ずしも歓迎していなかったのだろう。 しかし、事態は女帝側に有利には運ばなかった。

○ 皇紀1305乙巳(きのとみ)歳6月12日。

 中臣鎌子や中大兄皇子によって皇極女帝が殺害され、大化の改新となった。

8−3 大化の改新=父権制社会としての出発

@ 中臣鎌子・天智天皇・天武天皇の関係
A 鎌足・天智・天武の三兄弟の母親
B 大化の改新の真相と、皇極女帝の蘇り阻止
C 鎌足の東征、そして諏訪で戦死
D 天智天皇=中大兄皇子=天命開別
E 大友皇子と壬申の乱

乱数表はコチラ

@ 中臣鎌子・天智天皇・天武天皇の関係

 このように、暗号が示す歴史では、皇極女帝が中臣鎌子と中大兄皇子によって殺害され、大化の改新を迎えることになるのだが、まだ中臣鎌子が何者なのかについては明らかでない。まずはその辺から、探って行こう。
 中臣鎌子は、白雉5年正月条より、突然理由もなく、中臣鎌足(かまたり)と表記される。不思議だ。
 これは暗号に違いない。
 早速、鎌子と鎌足を易に置き換えてみよう。
 鎌は金属でできているから(天)、子は十二支の()として(水)、足は(雷)だから、鎌子は6天水訟で「訟える(主張する)」、鎌足は25天雷无妄(てんらいむぼう)となる。

 とすると、まず、中臣鎌子で「中臣であることを主張する」という意味になる。
 中臣ということを考えると、この時代は男帝と女帝の二つの政府があったのだから、その中を取り持つ人物、とするのが最も素直であり、中を取り持つからには、双方の血を受け継ぐ人物と解釈できる。
 鎌足と表記される最初の年、白雉5年は皇紀1314年に当たるが、この下二桁の14を易に直すと、1は(天)・4は(雷)だから、合わせて25天雷无妄となり、鎌足が示す卦となる。

 (7)聖徳太子の真実を教えるための暗号だった37孝徳天皇の即位年(大化元年)の皇紀1305年下二桁を易に直すと、0は(地)・5は(風)だから、合わせて46地風升(ちふうしょう)となる。
 なお、0という数字は、当時はなかったはずだから、そういう置き換えは成り立たないのではないか、という声も聞こえてきそうなので、念のため付け加えると、当時の数字表記法に従えば、一千三百五年となり、十の位がないわけだが、その十の位がないことが無であり、無は陰の極みだから(地)となるので、0という数字があってもなくても、同じ卦を示すのである。

 その46地風升は、25天雷无妄の裏卦(すべての陰陽が逆になった卦)である。
 表裏の関係は、親子または同一人物を指す。
 25天雷无妄を示すのは、40天武天皇の天武という漢風諡号も同様である。天は(天)・武は(雷)だから、天武と合わせれば、25天雷无妄になる。
 鎌足と聖徳太子を同一人物とすると、天武天皇も聖徳太子と同一人物でないと、暗号が矛盾する。
 したがって、鎌足と40天武天皇は、ともに(7)聖徳太子の子となる。

 また、39天智天皇は、中大兄皇子とも呼ばれているとともに、「舒明紀」によると、幼少期は葛城(かつらぎの)皇子と呼ばれていた、とある。
 葛城を易の卦に置き換えると、葛は(雷)・城は(山)だから、合わせて62雷山小過(らいざんしょうか)となり、この卦は二本で一本と見なせば(水)になる。
 (水)には、三人兄弟の真ん中(中男)という意味がある。
 ちなみに長男は(雷)、末っ子(少男)は(山)である。
 表向き、40天武天皇は39天智天皇の弟だとされているが、これを否定する暗号はないので、この二人はそのまま兄弟となる。
 とすると、(7)聖徳太子には三人の子供がいて、長男が中臣鎌足、次男が天智天皇、三男が天武天皇だったのである。
 天智天皇が中大兄と呼ばれたのは、上の兄(長男)ということではなく、中の兄(中男)ということだったのである。

乱数表はコチラ

A 鎌足・天智・天武の三兄弟の母親

 前述のように、鎌足・天智・天武の三兄弟の父親は(7)聖徳太子だったが、それでは母親は誰なのだろうか。
 それは聖徳太子関連の婚姻親子関係から導き出される。

 「敏達紀」5年条によると、
 聖徳太子は、敏達天皇と推古天皇の間にできた菟道貝鮹(うぢのかひだこの)皇女、またの名を菟道磯津貝(うぢのしつかひの)皇女という女性を嫁にした、
 とある。
 しかし、同4年条では、敏達天皇と息長真手(おきながまての)王の(むすめ)広姫(ひろひめ)との間にできた娘の一人として、菟道磯津貝皇女という名を挙げている。
 あれれ?この名前は菟道貝鮹皇女の別名と同じではないか。
 どういうことだろう・・・。
 このように、何の注釈もなく同名の人物が出てきたら、読者は戸惑う。
 とすると、これが暗号である。早速解読しよう。

 暗号では、聖徳太子は敏達男帝と推古女帝との間にできたことになっている。
 男帝側は母権制社会を畜生同然と蔑んでいるのだから、少なくとも自分と母が同じ姉妹を嫁にすることは有り得ない。
 したがって、聖徳太子が敏達天皇と推古天皇の間にできた女性を嫁にしたというのは虚偽であって、同名のもうひとり、息長真手王の娘の広姫との間にできた娘としての菟道磯津貝皇女こそが、聖徳太子が嫁とした本当の女性を教える暗号だ、と伝えているはずである。
 息長真手王の娘の広姫という名前は、息長は舒明天皇の国風諡号の息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)の頭の二文字である。
 続く真手は、易の卦に置き換えると、真は陰陽を考えると陽(偽が陰)になるからその極みの(天)・手は(山)だから、真手で33天山遯(てんざんとん)になる。
 この卦は欽明天皇のA列である。
 広姫の広は、舒明天皇の国風諡号の下の部分の広額と共通するとともに、欽明天皇の国風諡号の天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)の下の部分の広庭とも共通する。
 このような共通項があるからには、
 a、敏達男帝には、欽明女帝の娘との間に生まれた娘がいて、その娘を聖徳太子の嫁とした。
 b、その娘と聖徳太子との間に生まれた子供については、舒明天皇の子として記してある、
 と教えているに違いない。

 「舒明紀」2年条に、舒明天皇は(たからの)皇女(皇極天皇)との間に三人の子供ができたとある。
 葛城皇子(天智天皇)、間人(はしひとの)皇女、大海(おほあまの)皇子(天武天皇)である。
 表向きの歴史では、間人皇女は後に孝徳天皇の妃になるのだが、それは関係ない。
 しかし「間人」という名前は気になるではないか。
 間の人→誰かと誰かの間を取り持つ人、という意味になる。
 同じ意味になる別の名前を探すと、「中臣」である。
 したがって、この間人皇女という名前は、中臣鎌足が天智や天武と同じ両親から生まれたと示す暗号だったのである。
 女性としてあるのは、鎌足が長男でありながら皇位を継承しなかった理由を、表向きにも書かないといけないことになるからだろう。
 その後、中臣は藤原姓となり、奈良時代以降、藤原家から皇后が選ばれるようになったわけだが、ここに鎌足を女性とし、孝徳天皇の皇后としたことと、何か関係もありそうである。
 ともあれ、これで、図39のように、鎌足、天智、天武の三兄弟の両親は、聖徳太子と、欽明女帝と敏達女帝の間にできた娘だということがはっきりした。

乱数表はコチラ

B 大化の改新の真相と、皇極女帝の蘇り阻止

 暗号が示す歴史では、皇紀1303癸卯(みずのとう)歳、表向きの皇極2年11月、皇極女帝によって聖徳太子が殺害されたことになる。
 とすると、その後の男帝政府を引き継いだのは、その長男のはずである。
 聖徳太子の長男は鎌足である。
 そして、皇極4年6月に、皇極女帝が鎌足や中大兄皇子によって、殺害され、表向きの大化の改新を迎える。
 どうやら、「大化の改新」の本当の意味は、政権が女帝側から男帝側に移った、ということのようである。
 しかし、そう簡単には物事は運ばなかった。皇極女帝が殺されても、女帝側はまだまだしぶとかったのである。

 「孝徳紀」大化元年9月丙寅朔丁丑(ひのえとらのつきたちひのとうし)(12日)条を見ると、古人(ふるひと)皇子が蘇我田口臣川堀(そがのたぐちのおみかはほり)等とともに謀反し、中大兄皇子が征討したとある。
 古人皇子という名前は、聖徳太子殺害を教える暗号解読のところで、老人を連想させる役割で出てきたが、古い人とは「古い風習に生きる人」という意味にも取れる。
 したがって、ここでは女帝側の残党を示すものと考えられる。

 そうしてみると、一緒に謀反した人物の蘇我田口臣川堀という名前がクサイ。
 易の卦に置き換えてみよう。
 田は(地)・口は(沢)・川は(水)・堀は(沢)だから、田口で19地沢臨(ちたくりん)、川堀で60水沢節(すいたくせつ)となる。
 臨は「(のぞ)む」、節は節目である。
 したがって、蘇我田口臣川堀は、「蘇我・臨む・節目」で、我は蘇りの節目に臨む、と読める。
 どするとこの、古人皇子と蘇我田口臣川堀らが謀反して中大兄皇子が征討した、という事件は、
 皇極女帝の娘が、殺された母を蘇らせようと、その儀式に臨んでいるところを、中大兄皇子が阻止して殺した、
 と示していることになるのである。
 皇極女帝が殺害されたのは、6月丁酉朔戊申(ひのととりのつきたちつちのえさる)(12日=表向きの蘇我蝦夷・入鹿が殺された日)だから、丁度その三ヵ月後に当たる。 当時、殺されて三ヶ月も人肉を保存する術はないだろうから、おそらく殺されてすぐ食人の儀式を行い、胎内に宿った母の魂に肉体を与えるためと称し、この日に乱交パーティのようなことをしていたのだろう。
 とにかくこれで、皇極女帝の蘇りは阻止できたことになる。

乱数表はコチラ

C 鎌足の東征、そして諏訪で戦死

 中臣鎌子は、白雉4年正月条から、中臣鎌足と表記され、さらに天智8年冬10月丙午朔庚申(ひのえうまのつきたちかのえさる)(15日)に、姓を賜り藤原氏となり、翌辛酉(かのととり)(16日)に薨去したとある。
 この記事が事実ならば、鎌足は聖徳太子の長男なのになぜ天皇にならなかったのか、という疑問が生じる。
 とすると、この記事は事実ではない可能性が高い。
 そう考えて、この記事の近辺を見ると、少し前に「是秋、藤原内大臣の家に落雷があった」とあった。
 落雷するからには激しくくり返し雷が鳴ったわけであり、そういう状態を示すのは、51震為雷(しんいらい)である。
 この卦は、震(雷)が重なっていることから、雷がくり返し鳴り響いている様子である。とともに、その雷は実態が判然としないことから、実体のないものをも意味する。
 したがって、ここに落雷事件を書くことで、「この家に纏わる記事は、実体のない作り話だ」と、教えていることになり、鎌足の薨去も別の年月日だと示していることなる。

 そこで鎌足薨去の記事だが、その最後には、日本世記(にほんせいき)()はくとして「鎌足は春秋50にして薨去し、碑文には春秋56で薨去と書いてあった」とある(春秋は年齢のこと)。
 「日本世記」とは、『日本書紀』の中にときどき出てくる書物の名前で、実際にそんな書物があったのか否かはまったくわからないものである。とすると、この記事も暗号である。
 50と56を易の卦に置き換えると、5は(風)・0(一の位に数がないこと)は(地)・6は(水)だから、50で20風地観(ふうちかん)、56で59風水渙(ふうすいかん)となる。
 20風地観は、『易経』のこの卦を説明する文中に神道という言葉があるとともに、7−1−Eでも触れたように鳥居のイメージの卦でもあることから、神を意味する。
 59風水渙は、(風)の風が(水)の水の上を行く形であるとともに、その(風)には木という意味もあるので、木の船が水の上を行く様子として、「新しい世界への出発」という意味もある。
 したがって、この20風地観と59風水渙で「神への出発」となり、「鎌足薨去の経緯は、神世(かみよ)の神話の中に描かれている」という暗号と受け取れる。

 また、鎌足薨去日の10月丙午朔辛酉(16日)は、16は正式な一十六として易の卦に置き換えると、1は(天)・6は(水)だから、6天水訟で「訟える(主張する)」という意味になる。
 したがって、この日の辛酉という干支を主張していることになる。
 表向きの歴史で、辛酉の年に亡くなったとされるのは斉明天皇(皇極天皇の重祚)である。
 とすると、皇極女帝崩と同じ年に鎌足も薨去した、と考えるのが順当である。

 そこでもう一度、そういう視点で皇極4年=大化元年条を見ると、先ほどの古人皇子が謀反して殺された記事に、鎌足のことも書いてあることが判明した。
 先ほどは割愛したが、この古人皇子謀反の記事では、「或本に伝はく」として、殺害に至る経緯の異伝をいくつか挙げるとともに、この人物に対する呼び名が複数あることを書いている。
 古人大兄(ふるひとのおほえ)吉野(よしのの)太子、吉野皇子、古人大市(ふるひとのおほちの)皇子、吉野大兄(よしののおほえの)王である。
 表向きの物語では、皇極天皇から孝徳天皇への皇位継承を穏便にするため、古人皇子は出家して吉野へ行ったので、吉野太子、吉野皇子と呼ばれたとある。
 この謀反についての部分の記述について、少し補足すると、

a まず本文は、9月丙寅朔丁丑(ひのえとらのつきたちひのとうし)(12日)、吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)が中大兄に、「私は吉野の古人皇子たちの謀反に参加した」と自首したとあり、
b 続いて「或本に伝はく」として、吉備笠臣垂は阿倍(あへの)大臣と蘇我大臣に対して、「私は吉野皇子の謀反に参加した」と、自首した、とし、
c 続く本文は、中大兄が兵若干を率いて古人大市皇子等を討った、とし、
d 再び「或本に()はく」として、11月甲午(きのえうま)30日に、中大兄が阿倍渠曾倍(あへのこそへの)臣と佐伯部子麻呂(さへきべのこまろ)の二人とともに兵四十を率いて古人大兄を攻めて、古人大兄たちを斬り殺し、その妃妾は自害した、とあり、
e さらにもうひとつ、「或本に伝はく」として、11月に吉野大兄王が謀反したが、事が発覚して殺された、

 とある。
 このように、本文に異説を上げ、呼び名もそれぞれ微妙に異なっている。
 天智天皇に対しては中大兄だけで通しているのに、なぜ古人皇子に対しては、呼び名をこのように変える必要があるのだろうか。
 また、ここでことさら吉野と呼び変える必要があるのだろうか。
 古人皇子を吉野皇子などと呼ぶのは、この記事しかない。
 そして、最後のeの記事だけは、11月に吉野大兄王が……と、この人物を「王」と表記している。
 とすると、この吉野は暗号で、古人皇子とは別の人物が、11月に殺された、と示しているに違いない。
 そのことをこっそり忍ばせるために、いろいろな異説や異名を出して、表向きの歴史からカモフラージュしているのだろう。
 吉野は、持統天皇・天武天皇・稗田阿礼の関係について話した5−2−Dで触れたが、易の卦に置き換えると、16雷地予(らいちよ)になる。
 一方、鎌足が賜った藤原姓は、藤は(雷)(藤は反生植物)・原は(坤)だから、こちらも同じく16雷地予になる。
 なるほど、同じ卦に置き換わるのだから、この11月に吉野大兄王が殺されたというのは、鎌足が殺された、ということを示しているのに違いない。
 しかしなぜ、鎌足は殺されたのか?
 そのヒントは『古事記』の神世にあった。

 表向きでは、鎌足は自宅に落雷があって後、しばらくして薨去している。
 雷の神様と言えば、建御雷神(たけみかづちのかみ)である。
 「神世記」には、次のような神話がある。

 建御雷神は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の直系の子孫に日本を統治させるため、その頃日本を治めていた大国主神(おほくにぬしのかみ)に、国を譲るよう説得しにやって来た。
 その際、大国主神の子の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)は素直に従ったが、建御名方神(たけみなかたのかみ)は武力で決着をつけようとした。
 しかし圧倒的な力の差で、建御名方神は逃げ出した。
 建御雷神は後を追いかけ、科野(しなのの)国の州羽(すは)の海(現・長野県の諏訪湖)に追い詰め、建御名方神を殺した。

 この物語で特異なのは、建御名方神の出自である。
 この神は、大国主神の子孫の系譜には書かれていないのに、大国主神の子だとされていることと、この場面にだけ登場する、ということである。
 名前も何やら「建という名前の人」を暗示しているかのようである。
 とすれば、やはりこれも暗号である。
 建と言えば、12景行天皇の子の倭建命(やまとたけるのみこと)である。
 そこで再度、倭建命について探るのだが、さらなる暗号は日本武尊(やまとたけるのみこと)と表記される『日本書紀』のほうにあった。
 「景行紀」では、倭建命は日本武尊と表記され、すでに8−1−Bで触れたように、物語の一部分だけ、「王」と呼ばれている。
 景行四十年、是歳条の東征物語の部分である。

 駿河(静岡県)〜相模(神奈川県)〜上総(千葉県)〜陸奥(東北地方)〜常陸(茨城県)〜甲斐(山梨県)と進み、服従しない蝦夷(えみし)を征伐した。
 さらに、信濃(長野県)と越国(北陸地方)を服従させるために、甲斐から武蔵(東京都や埼玉県)、上野(群馬県)を巡り、碓氷峠を越え、越国は配下の吉備武彦(きびのたけひこ)に任せ、自分は信濃へ向かった。
 信濃へ行くと、山の神に苦しめられ、最後には道に迷った。
 すると、白い狗が導くように現れた。
 狗に随って行くと、なんとか美濃に出て、吉備武彦と合流した。

 この旅程の初めのほうには、
 一行が相模から上総へと、海を船で渡ろうとするとき、嵐に遭うのだが、日本武尊の妾の弟橘姫(おとたちばなひめ)が、海に飛び込むと、暴風はおさまり、船は岸に着くことができた、
 というエピソードがある。
 このエピソードのヒロイン、弟橘姫は、穂積氏忍山宿禰(ほづみのうぢのおしやまのすくね)の娘だとある。
 穂積の穂は、易に置き換えると(雷)になるので、穂積で(雷)を積んだ形すなわち51震為雷を示していることになる。
 この卦は雷すなわち建御雷神に通じるではないか。
 忍山は、「山に忍ぶ」という意味になる。
 したがって、この穂積氏忍山宿禰という名前は、「建御雷神は山に忍ぶ」となる。
 日本武尊は、信濃で山の神に苦しめられたとあるが、建御雷神は信濃(科野)の州羽の海(諏訪湖)に建御名方神を追い詰めて殺している。

 これらをひとつに繋げると、次のようになる。
 鎌足は皇極女帝を殺害すると、さらに全国の女帝の支配下にある地域を男帝側に服従させようと、まず、東へ向かった。その旅は、関東から東北にも及んだ。しかし信濃では激しく抵抗され、ついに11月、諏訪にて戦死してしまった。

 なお、日本武尊の物語では、狗に随ったので生き延びて美濃に出たとあるが、それは表向きのストーリーのためのことである。

 とにかく、鎌足は(7)聖徳太子の子なのだから、本来なら天皇として即位して当然なのだが、実際には、天皇とはならなかった。
 それは、このように、正式に即位する前に戦死してしまった、ということだったのである。
 鎌足が大化の改新の年すなわち皇紀1305年に戦死したとすると、鎌足の子とされる藤原不比等(ふひと)とは、一体何者なのだろうか。
 不比等が生まれたのは、斉明5年(皇紀1319年)とされているから、鎌足の死後14年も経っている。
 もっとも、『興福寺縁起』によれば、不比等の母は、鎌足とも天智天皇とも肉体関係があったともあり、その出自には謎が多い。
 あるいは天智天皇の子で、戦死した鎌足に敬意を表し、表向き鎌足の子としたのかもしれない・・・。
 が、この点については、暗号が確認できず、残念だが、定かなことはわからない。

乱数表はコチラ

D 天智天皇=中大兄皇子=天命開別

 鎌足亡き後は、(7)聖徳太子の次男の中大兄皇子が男帝側の長となった。そして、皇極女帝を殺害したことで、日本の正式な政府は、男帝側となった。
 とすると、天智天皇の国風諡号の天命開別(あめみことひらかすわけ)の意味が見えてきたではないか。
 易の基本は天を陽として父とし男性とし、地を陰として母とし女性とするのであって、天命とは、父権制社会の長に降るものである。
 したがって、母権制社会を脱却したことで、「初めて天命が開かれた」のである。
 天命開別とは、そういうワケだったのである。
 晴れて天命が開け、仁による父権制社会となったからには、ここからは男帝と呼ぶ必要はないだろう。表向きと同じように、天皇と表記する。
 天皇とは、本来的には、中国の『春秋緯』という書物に出てくるこの世の最初の王統のことだが、どうやら日本では「父権制社会の王」という意味を込めて、天皇と呼んだようである。
 易では、天は(天)という卦を通じて父を意味するのである。
 そうしてみると、『記・紀』が父系の出自にこだわり、古代の天皇が各豪族の祖先であるかのように書いている意味が、よくわかる。
 父親というものを権威付けし、父親の血統にこだわってこそ、父権制社会は有効に機能するのである。
 しかし、いつから天皇という呼称が使われたのかは、判然としない。

 ところで、天智天皇の皇后は遠智娘(をちのいらつめ)とある。持統天皇の母親である。
 また、天智天皇は、遠智娘の妹の姪娘(めいのいらつめ)も娶っている。
 この二人の母親は、蘇我山田石川麻呂(そがのやまだのいしかはまろ)の娘とある。
 蘇我というからには、女帝の血を引く女性に違いない。
 蘇我の下に漢字が六つあるから、それぞれ一文字ずつ易の卦に置き換えてみよう。

 山は(山)・田は(地)・石は硬いものだから(天)・川は水があるところだから(水)・麻は(雷)・呂は背骨のことだから(山)となる。
 6つの八卦を六十四卦に変換するときは、6−36−4−@で使った方法を用いる。
 それを示したのが次の図40で、この場合は14火天大有(かてんたいゆう)と9風天小畜(ふうてんしょうちく)となる。

 14火天大有は、(火)の女性が(天)の男性の上にいるのだから女帝を意味する。
 9風天小畜は、皇極女帝の皇の字を易の卦に置き換えた形でもある。
 皇は白と王に分けると、白は(風)・王は(天)だから、合わせて9風天小畜となる。

 したがってこの名前は、皇の字が付く女帝すなわち皇極女帝を示しているのである。
 また姪娘は、天智天皇の姪に当たる女性という意味とすれば、姪は兄弟の子であり、持統天皇は後に藤原宮に遷都していることから藤原との繋がりを主張しているので、この遠智娘と姪娘の姉妹は、次の図41のように、とにも鎌足と皇極女帝の間にできた娘となる。

 天智天皇について、さらに見て行こう。
 表向きの歴史では、中大兄皇子(天智天皇)は斉明天皇(皇極天皇の重祚)とともに、新羅(しらぎ)の侵略から百済(くだら)を救うために、朝鮮半島への玄関口、九州へ行く。
 しかし斉明天皇は、その九州の朝倉宮(あさくらのみや)、正式な呼称では朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)で、斉明7年7月に崩御する。
 暗号が示す歴史では、皇極女帝は皇極4年6月に殺害されているのだから、斉明天皇としての重祚は有り得ない。したがって、これは別の暗号である。
 この宮のことを、正式に朝倉橘広庭宮と記述するのは、斉明天皇がこの宮に到着したときだけで、他の箇所では、朝倉宮と、橘広庭を略して表記している。
 とすると、表記しないことで、橘広庭が暗号であることを、示しているに違いない。
 橘は、永遠の命を得るための非時香菓(ときじくのかくのみ)のことだと「垂仁紀」にあり、この名称が食人による蘇りという風習を知る手がかりであった。
 広庭は欽明天皇の国風諡号の天国押波流岐広庭の下二文字である。
 したがってこれは、欽明女帝の蘇りが死んだ、というメッセージと受け取れる。

 また、斉明天皇が崩御する直前の斉明7年6月条には、伊勢王が薨去したという記事がある。 この伊勢王という人物については、この薨去記事以外には出てこない。
 したがって、どういう人物なのか、全く不明である。
 しかも、天智7年6月条にも、伊勢王が薨去した、という記事があり、天皇は違うが、同じ7年6月に、同じ人物が二度死んだことになる。
 矛盾である。
 とすると、これも暗号である。

 伊勢ということから考えられるのは、伊勢神宮しかない。
 伊勢神宮は天照大御神を祭っているが、暗号では、天照大御神は、食人による蘇り儀式を行う女帝たちとその胎児の象徴だった。
 7年6月ということを、易の卦に置き換えると、7は(山)・6は(水)だから、合わせて4・・山水蒙(さんすいもう)になる。
 サンスイモウ・・・懐かしい響きである。
 この卦は神武天皇のA列であり、この暗号体系を知るきっかけになった卦であった。
 が、同時に天智天皇のB列でもある。
 いくら懐かしいとしても、ここでは神武天皇は関係ないのだから、天智天皇を指しているものと考える。
 とすると、女帝側の人間が天智天皇によって殺された、というメッセージと受け取れる。
 したがってこの暗号は、欽明女帝の蘇りとなる人物が九州へ逃げたのを、天智天皇が追いかけて行って殺害した、と示しているのである。

 表向きの歴史では、大化の改新は孝徳天皇が行い、孝徳天皇が崩御すると、皇極天皇の重祚の斉明天皇が再び皇位に就き、その斉明天皇が崩御して漸く天智天皇の即位となるわけだが、これまで話してきたように、大化の改新の年の11月に鎌足が戦死して後は、天智天皇が天皇だったことになる。
 とすると、天智天皇はいつまで在位していたのだろうか。

 表向きの天智天皇の崩年は、天智10年(皇紀1331年)である。
 天智天皇は、舒明13年(皇紀1301年)10月条に16歳とあるので、計算すると、崩御時は46歳になる。
 46歳という数字を易の卦に置き換えると、4は(雷)・6は(水)だから、合わせて40雷水解となる。
 この卦は解消を意味するので、この天智10年に崩御したということは解消すなわち事実ではない、と示していることになる。
 そこで正しい崩年だが、天智4年春2月癸酉朔丁酉(みずのととりのつきたちひのととり)(25日)条に、「間人大后(はしひとのおほきさき)が薨去した」とあり、同3月癸卯朔(みずのとうのつきたち)(1日)条に、「間人大后のために、330人を出家させた」とある。
 330を易の卦に置き換えると、3は(火)だから、その(火)が重なった30離為火(りいか)となる。
 この卦には継体天皇のA列であるとともに、皇位継承という意味がある。
 間人大后は、表向きの舒明天皇と皇極天皇とに間にできた三兄弟の天智・間人・天武の真ん中である。
 暗号では、これは鎌足・天智・天武の三兄弟のことで、間人の位置は天智天皇の位置だった。
 一方「天武紀」には、天智4年12月に天智天皇が崩御したとあり、「天智紀」にある天智天皇崩年と矛盾し、研究者を悩ませている。
 これらのことを繋げれば、天智天皇の本当の崩年は、暗号が間人大后薨去で示す天智4年(皇紀1325乙丑(きのとうし)歳)だったと教えていることになる。

乱数表はコチラ

E 大友皇子と壬申の乱

 表向きの歴史では、天智天皇が崩御したことにより、天智天皇の弟の大海皇子(天武天皇)と、天智天皇の子の大友(おほともの)皇子との間で皇位継承をかけた争いがあり、大海(おほあまの)皇子が勝って天武天皇となった、とある。いわゆる壬申(じんしん)の乱である。
 なお、念のために付け加えておくと、現代の歴史教育では、大友皇子を弘文天皇としているが、それは明治の初めに、どういう経緯かは知らないが、『日本書紀』の記述を無視して追号したことで、『日本書紀』では大友皇子が天皇として即位したとは書いていないし、天皇とも呼んでいない。

 さて、本題に入ろう。
 天智7年2月条には、大友皇子は天智天皇と伊賀采女宅子(いがのうねめのやかこ)との間にできた子で、最初は伊賀皇子と言ったとある。
 大友という名は、訓読みすれば「おほとも」だが、音読みすれば「たいゆう」である。
 「たいゆう」という響きは、14火天大有という卦の大有を連想させる。
 この卦は、すでに何度か話したように、(火)の女性が(天)の男性の上にいる様子ともなるので、女帝を意味することになり、そういう暗号として使われていた。

 伊賀皇子という名は、
 伊は11垂仁天皇の国風諡号と崩年齢との関係のときと同様に数の5を意味するものとすれば、5は(風)となり、賀の貝は(火)だから、(風)に貝の(火)を加える、ということで、37風火家人(ふうかかじん)すなわち34推古天皇のA列を示していることになる。

 母親の伊賀采女宅子は、宅は家のことだから、家の子=家人の子、家人は37風火家人すなわち推古天皇のA列を示している。

 したがって、大友皇子の母親は@推古女帝の娘であり、大友皇子自身は@推古女帝そのものである、ということになる。
 はあ?大友皇子と推古女帝が同一人物?そんなわけないでしょう?
 確かに、そんなわけはない。
 正確に言うと、大友皇子は@推古女帝の蘇りとして生まれたのであって、要するに、@推古女帝の孫娘、ということである。

 娘が母の遺体を食べることで、母の魂は娘の胎内に宿り、その娘が妊娠すると、魂は胎児に乗り移り、新しい肉体を得て蘇ったとするのが、母権制社会の風習である。
 その風習に従えば、自分は孫娘として蘇る、ということになる。
 したがって、大友皇子は@推古女帝そのものだ、と女帝側の人々は考えていた、ということである。
 なお、蘇りは不特定多数の男性と性交することで成立するのだから、無論天智天皇は大友皇子の父親ではないことになる。

 大友皇子の出自がわかったことで、壬申の乱の意味も明らかになった。
 母権制社会復活を賭けた最後の反乱だったのである。
 皇紀1305年6月、鎌足と天智天皇によって皇極女帝が殺され、同年9月には古人皇子(皇極女帝の娘)も殺され、皇極女帝の蘇りは阻止され、皇紀1321年7月には、天智天皇が、九州に逃げた欽明女帝の蘇りとなる女性も殺した。
 そして、最後に残った女帝側の残党が、大友皇子(推古女帝の蘇り)だったのである。

 天智5年是冬条に「京都の鼠、近江に向きて遷る」という記事がある。
 また鼠の暗号である。
 表向きには、天智6年3月の近江遷都の予兆とされているわけだが、暗号では、天智天皇はすでに天智4年に崩御している。
 したがって、天智以外の近江に縁のある人物が、この天智5年に近江に移動した、と示していることになる。
 この時代で近江と言えば、大友皇子しかいない。
 要するに、この鼠の暗号は、大友皇子(推古女帝の蘇り)が、この天智5年すなわち皇紀1326年に、母権制社会復活を賭けて近江に行き、そこでクーデターの準備を開始した、と示しているのである。
 しかし、皇紀1332年6月に、天武天皇がその大友皇子(推古女帝の蘇り)を殺したことで、クーデターは未遂に終わった。
 これがいわゆる「壬申の乱」の正体である。

 これで、男帝天皇側に服従しない女帝側の残党はすべて血が絶え、日本は本格的な父権制社会への道を歩み出したのである。

 どうやら、すべての解読作業は終わったようである。

 それでは次に、暗号が示す歴史の全容をまとめるともに、他の古代史資料との整合性を考えてみたい。

このページのトップへ Eメール

次のページ 9−1 暗号が示す歴史の全容
  9−2 卑弥呼は崇神女帝のことだった!
  9−3 解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」

古事記と易学

発見!想像を絶する真実の古代日本

もくじ

☆ プロローグ

☆ 謎めく数字137と皇統譜の円周
1−1 暗号発見までの経緯

1−2 古代天皇と易六十四卦の序次 @

2−1 古代天皇と易六十四卦の序次 A

2−2 謎めく数字137

3−1 神世と易六十四卦の序次

3−2 円を描く皇統譜とその不合

☆ 『古事記』序文に隠されたメッセージ
4    歴史を腐敗させた女帝とは?

☆ 暗号解読[1]
持統天皇暗殺!
5−1 神武天皇と辛酉革命

5−2 持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代

☆ 暗号解読[2]
41ピースのジグソーパズル

6−1 架空の天皇

6−2 隠された女帝達と『古事記』序文の態度

6−3 男帝と女帝の二王朝が並立する皇統譜

6−4 暗号が示す皇統譜の親子関係

☆ 暗号解読[3]
母権制社会の忌わしい歴史
7−1 女帝たちの忌わしい宗教

7−2 母権制社会脱却の失敗

7−3 応神女帝〜推古女帝までの、各女帝の年代

☆ 暗号解読[4]
母権制社会から父権制社会へ
8−1 神武男帝のクーデター・イザ!オウ!

8−2 雄略男帝〜聖徳太子までの歴史

8−3 大化の改新=父権制社会としての出発

☆ 隠された古代史の全容
9−1 暗号が示す歴史の全容

9−2 卑弥呼は崇神女帝のことだった!

9−3 解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」

 

 

古事記と易学

発見!想像を絶する真実の古代日本

もくじ

☆ プロローグ

☆ 謎めく数字137と皇統譜の円周
1−1 暗号発見までの経緯

1−2 古代天皇と易六十四卦の序次 @

2−1 古代天皇と易六十四卦の序次 A

2−2 謎めく数字137

3−1 神世と易六十四卦の序次

3−2 円を描く皇統譜とその不合

☆ 『古事記』序文に隠されたメッセージ
4    歴史を腐敗させた女帝とは?

☆ 暗号解読[1]
持統天皇暗殺!
5−1 神武天皇と辛酉革命

5−2 持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代

☆ 暗号解読[2]
41ピースのジグソーパズル

6−1 架空の天皇

6−2 隠された女帝達と『古事記』序文の態度

6−3 男帝と女帝の二王朝が並立する皇統譜

6−4 暗号が示す皇統譜の親子関係

☆ 暗号解読[3]
母権制社会の忌わしい歴史
7−1 女帝たちの忌わしい宗教

7−2 母権制社会脱却の失敗

7−3 応神女帝〜推古女帝までの、各女帝の年代

☆ 暗号解読[4]
母権制社会から父権制社会へ
8−1 神武男帝のクーデター・イザ!オウ!

8−2 雄略男帝〜聖徳太子までの歴史

8−3 大化の改新=父権制社会としての出発

☆ 隠された古代史の全容
9−1 暗号が示す歴史の全容

9−2 卑弥呼は崇神女帝のことだった!

9−3 解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」


学易有丘会トップページ九星トップページカンタン!自分でできる無料易占い易学入門易経詳解古事記と易学 古事記・日本書紀は易を乱数表として利用した暗号文書だった!聖書と易学ーキリスト教二千年の封印を解くーブログ〜折に触れ、あれこれ書いてます。コアランの音楽演奏動画など
最終更新日:平成29年09月09日 学易有丘会
Copyright Heisei-12th〜28th(2660〜2676) (C)2000〜2016 GakuEki-UQkai
当サイトの内容はすべて無断転載を禁止します