前のページへ 次のページへ
このページのもくじ
@神武男帝と履中・反正両女帝との関係 A大碓命〜押黒〜墨江中王 B小碓命〜倭建命〜反正女帝 C神武男帝崩年と允恭男帝との関係 D允恭男帝とその崩年 E綏靖男帝とその崩年 F神武男帝から綏靖男帝までのまとめ
このページと次のページの途中までは神武天皇は西暦450年頃の人物だった!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け8〜暗号解読として、約1時間10分の動画にまとめています。
乱数表はコチラ
@神武男帝と履中・反正両女帝との関係
暗号では、(1)神武男帝はG履中女帝から逃げ出した人物であるとともに、男帝側の系図の出発点でもあり、表向き皇統譜の第1代天皇とされていることからも、歴史上重要な意味がなければおかしい。
まずはその辺の暗号を探りながら、年代や崩年を割り出そう。
『古事記』では1神武天皇と12景行天皇の崩年齢を共に137歳としている。これはすでに話したように、皇紀元年が辛酉革命思想により、机上で算出されたものだと知らせるためのものだった。しかし単にそれだけではなく、崩年齢が同じだということで、1神武天皇についての真実の歴史と、12景行天皇の物語には深い関わりがある、というアピールだとも受け取れる。
また、神武男帝は履中女帝から逃げた人物でもあった。
とすると、手がかりは18履中天皇にもありそうだ。
まずは、国風諡号がA列B列と対応しなかった18履中天皇の大江之伊邪本和気の意味を考えてみよう。
頭の大江は、すでに「2.古代天皇と易六十四卦の序次」の18履中天皇のところで、6 天水訟を通じて即位元年の皇紀1060年を示していると話したが、同時に訟は「訴える」という意味である。
とすると、下の伊邪本和気ということを訴えていることになる。
伊邪本和気が暗号ならば、どういう意味があるのだろうか。この部分は文字を易の卦に置き換えても判然としないので、言葉の響きから考えるしかない。
伊邪は「イザ!」と呼びかける言葉、本は本文、和気は「分ける」という意味とすれば、18履中天皇に関する話を誰か別の天皇に分けて記述した、ということになる。
とすると誰に分けたのか?ということになるが、「イザ!」と呼びかけられたら「オウ!」と応えるものである。
国風諡号に「オウ!」という応答の言葉を感じられるのは、12景行天皇の大帯日子おほたらしひこ淤斯呂和気の、まだ暗号としての意味が取れていない部分の淤斯呂和気である。
この名前は、淤は「オウ!」、斯呂は白で「申す」という意(白状、自白というように、白には申すという意味がある)、和気は「分ける」とすれば、「オウ!と応えて、分けてもらった話を申す」と読めるではないか。
どうやら18履中天皇に関する話は12景行天皇の話の中に入っている、ということである。
もちろん、18履中天皇の話というのは、(1)神武男帝が履中女帝から逃げた経緯についてに違いない。
その視点で探って行こう。
乱数表はコチラ
A大碓命〜押黒〜墨江中王
12景行天皇の子の中に、大碓命という人物がいる。
大碓という名は、大は陽だから 乾(天)、碓はその形状から 兌(沢)となるので、合わせて10 天沢履=18履中天皇の履の字を示している。
大碓命には、押黒之兄日子王と押黒弟日子王という二人の子があったとあり、この二人に共通する押黒の部分は、次のように読み解ける。
押という字は、景行7代のところでも触れたが、扌(手偏)と甲に別けると、手(扌)は 艮(山)・甲(十干の甲)は 震(雷)となるので、合わせて序次27 山雷頤となる。
この卦は、25仁賢天皇の国風諡号の袁祁についてのところですでに話したが、口を意味する。
したがって押黒とは、「口の中が黒い」という意味になる。
「口の中が黒い」ということは、墨のような水の中にいたことを連想させる。
「墨のような水の中」と言えば、「履中記」に墨江中王という名前がある。
表向きの歴史では、墨江中王は仁徳天皇の子で、履中天皇の弟に当たる。「仁徳記」の皇統譜では墨江中津王と表記されているが、実際にこの人物が活躍する「履中記」では、津を省略して墨江中王と表記しているので、ここではその活躍しているときの表記に従う。
墨江中王についての物語は次のとおりである。
墨江中王は皇位を奪うために、難波宮での豊明(宴会)の後、履中天皇が泥酔して寝込んだのをよいことに、大殿(屋敷)に火をつけ、履中天皇を焼死させようとした。
しかし側近により履中天皇は救出され、波邇賦坂(現・大阪府羽曳野市)というところを通って山を越えて逃げ、なんとか九死に一生を得た。
墨江中王は、この天皇暗殺の失敗により、その後、履中天皇側の刺客に殺される。
細部を省略するとこのような物語なのだが、ここに波邇賦坂という地名が出てくる。
これを易の卦に置き換えると、波は水面にできるものだから 坎(水)・邇は7孝霊天皇の国風諡号のところで話したが 乾(天)・賦は貝と武に分けて21 火雷噬嗑・坂は山にあるから 艮(山)とすれば、合わせて、
坎(水)
乾(天)
離(火)┐
震(雷)┴21火雷噬嗑
艮(山)
となる。
が、これでは上手く読み解けない。ん〜どういうことなのだろう?これは暗号ではないのだろうか……いや、そんなことはない!この部分には他にも逃げた経路として多遅比野(現・羽曳野市)、当岐麻道(現・奈良県と大阪府の府県境の山中)という地名も出て来るが、これらはさらに易に直して解釈するのが難しい。したがって波邇賦坂こそが暗号のはずなのだが……。
そうか!しばし考えて、ハタと気付いたことがある。
ここでは賦の字を分解せず、他の字と同じように意味で八卦に置き換えればよいのだ。賦は天賦(天から割与えられた)とか月賦(月毎に分割)という熟語があるように、「割る」とか「分ける」という意味を持つから 兌(沢)としてみよう。そうすれば波の坎(水)・邇の乾(天)・賦の兌(沢)・坂の艮(山)と合わせて、
坎(水)
乾(天)
兌(沢)
艮(山)
となる。これなら読み解けそうだ。
この四つの八卦を上から二つずつまとめると、5 水天需と31 沢山咸になる。
需は「待つ」で、咸は「感じる」だから、合わせて「待って感じる」すなわち「待ちくたびれてイライラする」とも取れる。
しかし、これでは「だからなんなの?」である。暗号として意味をなさない。別の見方があるはずである。そう考えると履中という名が気になって来た。
履中とは、履は中にある、と示す暗号なのではないか、ということである。
この四つの卦を、最上と最下、真ん中の二つで見ると、39 水山蹇の中に10 天沢履がある。
確かに履は中にある。
そして蹇は「足が萎える」という意味であり、足が萎えていれば山越えはできない。
したがって波邇賦坂を通ったとすることで、18履中天皇は逃げられずに焼死した、と、示していたのだ。
いや、暗号なのだから、18履中天皇ではなくG履中女帝は逃げられずに焼死した、ということである。
このように暗号では、G履中女帝は墨江中王によって殺されたことになるが、G履中女帝から逃げて男帝側の初代の王となったのが(1)神武男帝である。
さらに1神武天皇には、東征の際、八咫烏が道案内をしたとする記述があるが、なんで烏なんだろうかと疑問に思ったことはないだろうか?
八咫はヤタ(N垂仁男帝)が提唱した「仁」に基づく社会実現のためのクーデターだと教えるネーミングだとしても、なぜ真っ黒で「仁」には相応しくないイメージのカラスにしたのだろうか。鳩とか鷲などのほうが綺麗だしメルヘンチックで物語としても面白いではないか。その上、カラスのそんなマイナス・イメージを思ってか、東征の最後には金鵄=金色のトンビが登場する。
伝説をそのまま書いたものだから、違和感があってもそれを疑問視するのは無意味だという考えもあるが、ここまで話してきたように伝説ではなく、暗号で真実を伝えるために作られたフィクションの物語である……。
とすればこの疑問の答えは、敢えて黒いカラスを登場させることで、神武男帝と墨江中王とを「黒」で結び付けるため、ということである。
したがって墨江中王が引き起こしたとするこの事件こそ、(1)神武男帝のクーデターの第一歩だったのである。
しかしこんな事件を起こせば追われる身になるはずである。(1)神武男帝はG履中女帝を焼死させた後、どこかへ逃げたに違いない。
どこへ逃げたのか。
畿内からどこかへ移動し、そこに留まった人物と言えば、神武天皇と同じ137歳で崩御したとある景行天皇の息子のひとりの大碓命である。しかも景行天皇の物語は履中天皇についての物語を「オウ」と応えて分けて書いたものではないか(淤斯呂和気)。とすると履中女帝から逃げた神武男帝のことを書いている可能性が極めて高い。
早速「景行記」を確認してみよう。
景行天皇は大碓命に、美濃に容姿美麗な姉妹がいるから召して来るようにと命じたが、大碓は美濃でその女性を見るなり惚れて自分のモノとし、そのまま美濃に留まったとある。
そして大碓命とその容姿美麗な姉妹との間にできた子が、この項の冒頭で話題にした押黒兄日子と押黒弟日子であって、このうちの弟日子の子孫は牟宜都君の祖先だとある。牟宜都というのは地名で、現・岐阜県美濃市(旧武芸郡)付近のことである。
どうやら少し見えてきたが、ここまでのところをまとめておこう。
(1)神武男帝は、かつてヤタが提唱した「仁」による社会を作ろうと、中央政府でクーデターを起こし、まずG履中女帝を殺害して現・岐阜県美濃市に逃げ込み、そこを革命政府の砦とした。
乱数表はコチラ
B小碓命〜倭建命〜反正女帝
大碓命の弟の小碓命は、またの名を倭男具那と言い、後に倭建命と名乗る。
まず、小碓を易の卦に置き換えると、小は陰だから 坤(地)・碓は大碓と同様に 兌(沢)だから、合わせて19 地沢臨となる。
この卦は二本で一本と見なせば 震(雷)になる。
震(雷)と言えば雷だが、その雷の神様のことを、『記』では建御雷神と名付けている。雷の威力を称えるために建と付けているのである。
したがって倭建命の建という字は、この 震(雷)を意味しているのであって、小碓という名前と易を通じて繋がっているのである。
別名の倭男具那は、『紀』に日本童男と表記されていることから男性と思い込んでしまいがちだが、那は無を示すものとすれば「男の具が無い」で、女性であると示していることになる。
ところで、易と親しく接していると、この 震(雷)という卦と向き合うとき、F反正女帝の反正という漢風諡号がとても気になる。
『易経』の「説卦伝」というところの八卦の 震(雷)を解説する文章の中に、「その稼におけるや反生なり」とある。
訳すと、「栽培植物の中で、 震(雷)が意味するのは、反生となる草木である」ということでる。
反生とは、「反転して正しい方に向う」という意味である。
一度種子から出た芽が、一旦地底の方に向かい、その後反転して地上に芽を出すことで、麻や豆科、イネ科の植物がこれに当たる。
反生と反正、音は同じである。
あるいは『記』『紀』編纂当時の日本に伝わっていた『易経』では、反生ではなく反正と書かれていたのかもしれない。
が、何れにしろ、反正という言葉は、反転して正しい方向に進む、という意味にしか受け取れないので、この反正も反生と同様に 震(震)が示す事象なのである。
すなわち、倭建命とF反正女帝は、 震(雷)という卦で繋がっているのであって、だとすると、この二人は同一人物だと暗号は示しているのである。
その倭建命=日本武尊のことを書いた「景行紀」を開いてみると、そこにはまず、
景行天皇12年に、熊襲が反抗して朝貢を奉らなかった、とあり、景行天皇は熊襲征伐に向った、
とある。
その熊襲に向うために九州に入ると、天皇に従わない者たちが、あちらこちらにいた。
その中に、土蜘蛛と呼ばれる人たちがいて、彼等の名前は、青、白、打猨、八田、国摩侶だった、
とある。
このうちの四人目の八田は、ヤタ(N垂仁男帝)を象徴しているに違いない。
とするとこの12景行天皇の熊襲征伐物語は、ヤタの信奉者が女帝政権に対して反抗していたことを示していることになる。
さらに景行12年ということを正式表記の一十二として易の卦に置き換えると、1は 乾(天)・2は 兌(沢)だから、合わせて10 天沢履となる。履と言えばG履中女帝である。
要するにこの物語は、G履中女帝の時代に九州で女帝政権打倒のクーデターが頻発していたことを示していたのである。
そして、そのうねりを感じ取ったからこそ、神武男帝はG履中女帝暗殺を決行したのである。
おそらくこの本当の歴史の事実を下敷きに、表向きの、1神武天皇は九州から東征して来た、とする物語が作成されたのだろう。
またその後、12景行天皇の皇子の日本武尊(『記』では倭建命と表記)も、天皇の命を受けて、九州や出雲を征伐したとあるが、こちらはF反正女帝の即位前の事跡ということになる。
おそらく九州や出雲をくり返し征伐しないといけないほど、女帝政権打倒の機運が高まっていたのだろう。
ただし、東国遠征については、『日本書紀』では微妙に表現を変えて、日本武尊のことを「王」と表記している。こういった注意深く読まないと見逃してしまいそうな違いこそが、暗号では重要なのである。おそらくこの違いで、ここだけ違う人物の真実を伝えているのだろう。追って明らかにするが、それは中臣鎌子のことだった。
しかし、日本武尊薨去の部分になると、「王」という表記はなくなるので、九州や出雲遠征と同様に、F反正女帝の崩御についてを示しているのだと言える。
その日本武尊薨去にいたる経緯は、次のようなことである。
日本武尊(倭建命)は、伊吹山すなわち近江(現・滋賀県)と美濃(現・岐阜県)の国境付近の山に、神を殺そうと出かけた。
途中で、神の使いの大蛇を見つけても(『記』では白猪)、そんなことに構わず、さらに進んだ。
すると、神が怒り、日本武尊を大氷雨に遭わせ、道に迷わせた。
ようやくの思いで、現・米原市醒ヶ井付近に逃げてきたが、身体に痛みがあり、その後どんどん病状は悪化し、三重の能煩野というところまで来たところで、ついに力尽きて薨去した。
美濃は(1)神武男帝がG履中女帝暗殺後に逃げた場所である。
とするとここで言う神とは、(1)神武男帝のことを指していることになる。
したがって、この物語は、
F反正女帝はG履中女帝の復讐のために美濃に行こうとしたが、途中で(1)神武男帝軍により、返り討ちにされた、
と示しているのである。
|