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13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター・イザ!オウ!

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このページのもくじ

@神武男帝と履中・反正両女帝との関係 A大碓命〜押黒〜墨江中王 B小碓命〜倭建命〜反正女帝 C神武男帝崩年と允恭男帝との関係 D允恭男帝とその崩年 E綏靖男帝とその崩年 F神武男帝から綏靖男帝までのまとめ

このページと次のページの途中までは神武天皇は西暦450年頃の人物だった!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け8〜暗号解読として、約1時間10分の動画にまとめています。

 

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@神武男帝と履中・反正両女帝との関係

 暗号では、(1)神武男帝はG履中女帝から逃げ出した人物であるとともに、男帝側の系図の出発点でもあり、表向き皇統譜の第1代天皇とされていることからも、歴史上重要な意味がなければおかしい。
 まずはその辺の暗号を探りながら、年代や崩年を割り出そう。

 『古事記』では1神武天皇と12景行天皇の崩年齢を共に137歳としている。これはすでに話したように、皇紀元年が辛酉革命思想により、机上で算出されたものだと知らせるためのものだった。しかし単にそれだけではなく、崩年齢が同じだということで、1神武天皇についての真実の歴史と、12景行天皇の物語には深い関わりがある、というアピールだとも受け取れる。
 また、神武男帝は履中女帝から逃げた人物でもあった。
 とすると、手がかりは18履中天皇にもありそうだ。
 まずは、国風諡号がA列B列と対応しなかった18履中天皇の大江之伊邪本和気(おほへのいざほわけ)の意味を考えてみよう。
 頭の大江は、すでに「2.古代天皇と易六十四卦の序次」の18履中天皇のところで、6天水訟(てんすいしょう)を通じて即位元年の皇紀1060年を示していると話したが、同時に訟は「訴える」という意味である。
 とすると、下の伊邪本和気ということを訴えていることになる。

 伊邪本和気が暗号ならば、どういう意味があるのだろうか。この部分は文字を易の卦に置き換えても判然としないので、言葉の響きから考えるしかない。
 伊邪は「イザ!」と呼びかける言葉、本は本文、和気は「分ける」という意味とすれば、18履中天皇に関する話を誰か別の天皇に分けて記述した、ということになる。
 とすると誰に分けたのか?ということになるが、「イザ!」と呼びかけられたら「オウ!」と応えるものである。
 国風諡号に「オウ!」という応答の言葉を感じられるのは、12景行天皇の大帯日子(おほたらしひこ)淤斯呂和気(おしろわけ)の、まだ暗号としての意味が取れていない部分の淤斯呂和気である。
 この名前は、淤は「オウ!」、斯呂は白で「申す」という意(白状、自白というように、白には申すという意味がある)、和気は「分ける」とすれば、「オウ!と応えて、分けてもらった話を申す」と読めるではないか。
 どうやら18履中天皇に関する話は12景行天皇の話の中に入っている、ということである。
 もちろん、18履中天皇の話というのは、(1)神武男帝が履中女帝から逃げた経緯についてに違いない。
 その視点で探って行こう。

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A大碓命〜押黒〜墨江中王

 12景行天皇の子の中に、大碓命(おほうすのみこと)という人物がいる。
 大碓という名は、大は陽だから(けん)(天)、碓はその形状から()(沢)となるので、合わせて10天沢履(てんたくり)=18履中天皇の履の字を示している。
 大碓命には、押黒之兄日子王(おしぐろのえひこのわう)押黒弟日子王(おしぐろのおとひこのわう)という二人の子があったとあり、この二人に共通する押黒の部分は、次のように読み解ける。
 押という字は、景行7代のところでも触れたが、扌(手偏)と甲に別けると、手(扌)は(ごん)(山)・甲(十干の(きのえ))は(しん)(雷)となるので、合わせて序次27山雷頤(さんらいい)となる。
 この卦は、25仁賢天皇の国風諡号の袁祁についてのところですでに話したが、口を意味する。
 したがって押黒とは、「口の中が黒い」という意味になる。
「口の中が黒い」ということは、墨のような水の中にいたことを連想させる。
「墨のような水の中」と言えば、「履中記」に墨江中王(すみのえのなかつわう)という名前がある。

 表向きの歴史では、墨江中王は仁徳天皇の子で、履中天皇の弟に当たる。「仁徳記」の皇統譜では墨江中津王と表記されているが、実際にこの人物が活躍する「履中記」では、津を省略して墨江中王と表記しているので、ここではその活躍しているときの表記に従う。
 墨江中王についての物語は次のとおりである。

 墨江中王は皇位を奪うために、難波宮での豊明(とよのあかり)(宴会)の後、履中天皇が泥酔して寝込んだのをよいことに、大殿(おほどの)(屋敷)に火をつけ、履中天皇を焼死させようとした。
 しかし側近により履中天皇は救出され、波邇賦坂(はにふざか)(現・大阪府羽曳野市)というところを通って山を越えて逃げ、なんとか九死に一生を得た。
 墨江中王は、この天皇暗殺の失敗により、その後、履中天皇側の刺客に殺される。

 細部を省略するとこのような物語なのだが、ここに波邇賦坂という地名が出てくる。
 これを易の卦に置き換えると、波は水面にできるものだから(かん)(水)・邇は7孝霊天皇の国風諡号のところで話したが(天)・賦は貝と武に分けて21火雷噬嗑(からいぜいこう)・坂は山にあるから(山)とすれば、合わせて、

(水)
(天)
(火)
(雷)┴21火雷噬嗑
(山)

となる。
 が、これでは上手く読み解けない。ん〜どういうことなのだろう?これは暗号ではないのだろうか……いや、そんなことはない!この部分には他にも逃げた経路として多遅比野(たぢひの)(現・羽曳野市)、当岐麻道(たぎまち)(現・奈良県と大阪府の府県境の山中)という地名も出て来るが、これらはさらに易に直して解釈するのが難しい。したがって波邇賦坂こそが暗号のはずなのだが……。
 そうか!しばし考えて、ハタと気付いたことがある。
 ここでは賦の字を分解せず、他の字と同じように意味で八卦に置き換えればよいのだ。賦は天賦(天から割与えられた)とか月賦(月毎に分割)という熟語があるように、「割る」とか「分ける」という意味を持つから(沢)としてみよう。そうすれば波の坎(水)・邇の乾(天)・賦の兌(沢)・坂の艮(山)と合わせて、

(水)
(天)
(沢)
(山)

となる。これなら読み解けそうだ。

 この四つの八卦を上から二つずつまとめると、5水天需(すいてんじゅ)と31沢山咸(たくざんかん)になる。
 需は「待つ」で、咸は「感じる」だから、合わせて「待って感じる」すなわち「待ちくたびれてイライラする」とも取れる。
 しかし、これでは「だからなんなの?」である。暗号として意味をなさない。別の見方があるはずである。そう考えると履中という名が気になって来た。
 履中とは、履は中にある、と示す暗号なのではないか、ということである。
 この四つの卦を、最上と最下、真ん中の二つで見ると、39水山蹇(すいざんけん)の中に10天沢履がある。
 確かに履は中にある。
 そして蹇は「足が()える」という意味であり、足が萎えていれば山越えはできない。
 したがって波邇賦坂を通ったとすることで、18履中天皇は逃げられずに焼死した、と、示していたのだ。
 いや、暗号なのだから、18履中天皇ではなくG履中女帝は逃げられずに焼死した、ということである。

 このように暗号では、G履中女帝は墨江中王によって殺されたことになるが、G履中女帝から逃げて男帝側の初代の王となったのが(1)神武男帝である。
 さらに1神武天皇には、東征の際、八咫烏(やたがらす)が道案内をしたとする記述があるが、なんで烏なんだろうかと疑問に思ったことはないだろうか?
 八咫はヤタ(N垂仁男帝)が提唱した「仁」に基づく社会実現のためのクーデターだと教えるネーミングだとしても、なぜ真っ黒で「仁」には相応しくないイメージのカラスにしたのだろうか。鳩とか鷲などのほうが綺麗だしメルヘンチックで物語としても面白いではないか。その上、カラスのそんなマイナス・イメージを思ってか、東征の最後には金鵄(きんし)=金色のトンビが登場する。
 伝説をそのまま書いたものだから、違和感があってもそれを疑問視するのは無意味だという考えもあるが、ここまで話してきたように伝説ではなく、暗号で真実を伝えるために作られたフィクションの物語である……。
 とすればこの疑問の答えは、敢えて黒いカラスを登場させることで、神武男帝と墨江中王とを「黒」で結び付けるため、ということである。
 したがって墨江中王が引き起こしたとするこの事件こそ、(1)神武男帝のクーデターの第一歩だったのである。

 しかしこんな事件を起こせば追われる身になるはずである。(1)神武男帝はG履中女帝を焼死させた後、どこかへ逃げたに違いない。
 どこへ逃げたのか。
 畿内からどこかへ移動し、そこに留まった人物と言えば、神武天皇と同じ137歳で崩御したとある景行天皇の息子のひとりの大碓命である。しかも景行天皇の物語は履中天皇についての物語を「オウ」と応えて分けて書いたものではないか(淤斯呂和気)。とすると履中女帝から逃げた神武男帝のことを書いている可能性が極めて高い。
 早速「景行記」を確認してみよう。
 景行天皇は大碓命に、美濃に容姿美麗な姉妹がいるから召して来るようにと命じたが、大碓は美濃でその女性を見るなり惚れて自分のモノとし、そのまま美濃に留まったとある。
 そして大碓命とその容姿美麗な姉妹との間にできた子が、この項の冒頭で話題にした押黒兄日子と押黒弟日子であって、このうちの弟日子の子孫は牟宜都君(むげつきみ)の祖先だとある。牟宜都というのは地名で、現・岐阜県美濃市(旧武芸郡)付近のことである。

 どうやら少し見えてきたが、ここまでのところをまとめておこう。
 (1)神武男帝は、かつてヤタが提唱した「仁」による社会を作ろうと、中央政府でクーデターを起こし、まずG履中女帝を殺害して現・岐阜県美濃市に逃げ込み、そこを革命政府の砦とした。

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B小碓命〜倭建命〜反正女帝

 大碓命の弟の小碓命(をうすのみこと)は、またの名を(やまと)男具那(おぐな)と言い、後に倭建命(やまとたけるのみこと)と名乗る。
 まず、小碓を易の卦に置き換えると、小は陰だから(こん)(地)・碓は大碓と同様に(沢)だから、合わせて19地沢臨(ちたくりん)となる。
 この卦は二本で一本と見なせば(雷)になる。
 (雷)と言えば(かみなり)だが、その雷の神様のことを、『記』では建御雷神(たけみかづちのかみ)と名付けている。雷の威力を称えるために建と付けているのである。
 したがって倭建命の建という字は、この(雷)を意味しているのであって、小碓という名前と易を通じて繋がっているのである。
 別名の倭男具那は、『紀』に日本童男(やまとをぐな)と表記されていることから男性と思い込んでしまいがちだが、那は無を示すものとすれば「男の具が無い」で、女性であると示していることになる。

 ところで、易と親しく接していると、この(雷)という卦と向き合うとき、F反正女帝の反正という漢風諡号がとても気になる。
 『易経』の「説卦伝」というところの八卦の(雷)を解説する文章の中に、「その()におけるや反生(はんぜい)なり」とある。
 訳すと、「栽培植物の中で、(雷)が意味するのは、反生となる草木である」ということでる。
 反生とは、「反転して正しい方に向う」という意味である。
 一度種子から出た芽が、一旦地底の方に向かい、その後反転して地上に芽を出すことで、麻や豆科、イネ科の植物がこれに当たる。
 反生と反正、音は同じである。
 あるいは『記』『紀』編纂当時の日本に伝わっていた『易経』では、反生ではなく反正と書かれていたのかもしれない。
 が、何れにしろ、反正という言葉は、反転して正しい方向に進む、という意味にしか受け取れないので、この反正も反生と同様に(震)が示す事象なのである。
 すなわち、倭建命とF反正女帝は、(雷)という卦で繋がっているのであって、だとすると、この二人は同一人物だと暗号は示しているのである。

 その倭建命=日本武尊(やまとたけるのみこと)のことを書いた「景行紀」を開いてみると、そこにはまず、
 景行天皇12年に、熊襲(くまそ)が反抗して朝貢を奉らなかった、とあり、景行天皇は熊襲征伐に向った、
とある。
 その熊襲に向うために九州に入ると、天皇に従わない者たちが、あちらこちらにいた。
 その中に、土蜘蛛(つちぐも)と呼ばれる人たちがいて、彼等の名前は、(あを)(しろ)打猨(うちざる)八田(やた)国摩侶(くにまろ)だった、
 とある。
 このうちの四人目の八田は、ヤタ(N垂仁男帝)を象徴しているに違いない。
 とするとこの12景行天皇の熊襲征伐物語は、ヤタの信奉者が女帝政権に対して反抗していたことを示していることになる。
 さらに景行12年ということを正式表記の一十二として易の卦に置き換えると、1は(天)・2は(沢)だから、合わせて10天沢履となる。履と言えばG履中女帝である。

 要するにこの物語は、G履中女帝の時代に九州で女帝政権打倒のクーデターが頻発していたことを示していたのである。
 そして、そのうねりを感じ取ったからこそ、神武男帝はG履中女帝暗殺を決行したのである。
 おそらくこの本当の歴史の事実を下敷きに、表向きの、1神武天皇は九州から東征して来た、とする物語が作成されたのだろう。

 またその後、12景行天皇の皇子の日本武尊(『記』では倭建命と表記)も、天皇の命を受けて、九州や出雲を征伐したとあるが、こちらはF反正女帝の即位前の事跡ということになる。
 おそらく九州や出雲をくり返し征伐しないといけないほど、女帝政権打倒の機運が高まっていたのだろう。
 ただし、東国遠征については、『日本書紀』では微妙に表現を変えて、日本武尊のことを「王」と表記している。こういった注意深く読まないと見逃してしまいそうな違いこそが、暗号では重要なのである。おそらくこの違いで、ここだけ違う人物の真実を伝えているのだろう。追って明らかにするが、それは中臣鎌子のことだった。

 しかし、日本武尊薨去の部分になると、「王」という表記はなくなるので、九州や出雲遠征と同様に、F反正女帝の崩御についてを示しているのだと言える。

 その日本武尊薨去にいたる経緯は、次のようなことである。
 日本武尊(倭建命)は、伊吹山すなわち近江(現・滋賀県)と美濃(現・岐阜県)の国境付近の山に、神を殺そうと出かけた。
 途中で、神の使いの大蛇を見つけても(『記』では白猪)、そんなことに構わず、さらに進んだ。
 すると、神が怒り、日本武尊を大氷雨に遭わせ、道に迷わせた。
 ようやくの思いで、現・米原市醒ヶ井付近に逃げてきたが、身体に痛みがあり、その後どんどん病状は悪化し、三重の能煩野(のぼの)というところまで来たところで、ついに力尽きて薨去した。

 美濃は(1)神武男帝がG履中女帝暗殺後に逃げた場所である。
 とするとここで言う神とは、(1)神武男帝のことを指していることになる。
 したがって、この物語は、
 F反正女帝はG履中女帝の復讐のために美濃に行こうとしたが、途中で(1)神武男帝軍により、返り討ちにされた、
と示しているのである。

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C神武男帝崩年と允恭男帝との関係

 そんな(1)神武男帝だが、クーデターを起こして美濃に逃げた後はどうなったのだろうか。
 その辺を探るために、まずは本当の崩年から探ることにしよう。
 (1)神武男帝の崩年は、『記』に崩年干支の記載はなく、『紀』では即位76年目のことだとしている。他の暗号はない。とすると、この即位76年目と同じ干支の年に崩御したものと考えてよいだろう。違うのであればそれなりの暗号があるはずである。即位元年が辛酉(かのととり)なら、76年は丙子(ひのえね)である。
 履中崩の皇紀1150年庚午歳以降から丙子を探すと6年後の皇紀1156年がこれに当たる。
 したがって皇紀1156年丙子歳が(1)神武男帝の崩年となる。

 ところで、「神武紀」では、42年条に2綏靖天皇を皇太子としたことを記していながら、「綏靖紀」即位前の記事では、皇位継承のトラブルを伝え、記述が矛盾する。しかも2綏靖天皇の即位元年は1神武天皇崩御の翌年ではなく、4年後となっている。
 暗号では、(1)神武男帝の次は(2)允恭男帝であって、その次が(3)綏靖男帝になる。
 次に、この辺について調べよう。

 手がかりの第一は、登美能那賀須泥毘古である。
 『古事記』の表向きの物語では、
 1神武天皇一行が大阪付近から倭に入ろうとしたとき、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)という人物から激しく攻撃され、その戦闘で1神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)が殺され、一行は仕方なく南下して熊野に回った、
 とある。
 要約すると、兄弟の兄のほうが、登美能那賀須泥毘古なる人物に殺された、ということである。
 しかし、この登美能那賀須泥毘古という名前は、頭の登と毘古の手前の泥で、次のように(2)允恭男帝を示す。
 登は(山)・泥は(地)だから、登泥と合わせると、20允恭天皇のA列の23山地剥(さんちはく)となるのである。
 残りの美能那賀須の5文字は、順序を入れ替えると、美能賀須那(みのがすな)で「見逃すな」と読める。
 全体では、美能賀須那登泥毘古で「見逃すな登泥毘古」である。
 したがってこの名前は、「(2)允恭男帝を見逃すな」という暗号だったのである。

 殺された五瀬命は、易の卦に置き換えると、五は(風)・瀬は水があるところだから(水)となるので、合わせて59風水渙(ふうすいかん)となる。
 渙とは「散らす」という意味である。
 とすると五瀬命で、「命を散らす」すなわち死を意味する名前となる。
 五瀬命は1神武天皇の兄であり、暗号では、(1)神武男帝は(2)允恭男帝の兄である。
 五瀬命を殺した登美能那賀須泥毘古は(2)允恭男帝と繋がる名前である。
 したがってこの物語は、(1)神武男帝は弟の(2)允恭男帝によって殺された、と示す暗号だったのである。
 ええ?どういうこと?
 意外な展開だが、とにかく解読を先に進めよう。

 その(2)允恭男帝は、表向きの20允恭天皇であり、「允恭紀」では42年に崩御したとある。
 すでに話したように、「神武紀」では42年に、皇太子として後の綏靖天皇を立てたとある。
 何やら42という数字が神武と允恭にとって重要な気配である。
 42を易に置き換えると、4は(雷)・2は(沢)だから、合わせて54雷沢帰妹(らいたくきまい)になる。
 帰妹とは、「妹が(とつ)ぐ(嫁ぐ)」という意味なのだが、読み方を変えれば、妹は女性だから、「女性のところに(かえ)る」で、「女帝側に寝返った」という意味にも解釈できる。
 寝返るというのはあまりよいことではないが、そんな事例が神武東征物語の中にはあるではないか。
 弟が寝返り、兄を殺した事例である。
 『神武記』の兄宇迦斯(えうかし)弟宇迦斯(おとうかし)である。

 倭の宇陀に攻め入って来た天神の御子(神武一行)を迎撃するために、兄宇迦斯は兵を集めようとした。
 しかし思うように集まらなかったので、天神の御子に奉仕するふりをして、接待する大殿を作り、その中に押機(踏めば打たれて圧死する仕掛け=バネ仕掛けのネズミ捕りのようなもの)を仕掛けて待ち伏せをした。
 ところが、そんなことをしても勝てそうにないと判断したのか、弟宇迦斯はこの仕掛けのことを天神の御子の軍に密告した。
 事情を知った天神の御子の軍は、兄宇迦斯に対して、「お前が作った大殿なのだから、まずはお前が中に入り、奉仕する姿勢を明白にせよ」と問い詰め、刀や弓矢で脅し、ついにはその大殿の中に追い込み、結局自分が作った押機に打たれて兄宇迦斯は死んだ。

 実はこの部分、内容云々以前に『古事記』としては特異な言葉を使っているのだ。「天神の御子」である。神武東征のところを通して読むとわかるのだが、これ以前やこの後については、神武天皇たちを指して「天神の御子」とは呼んでいないのである。
 したがって、ここで天神の御子という言葉が使われるからには、何か特別な意味があるはずだ。
 厳密に言うと神武天皇は天孫邇邇芸命の曽孫であって、天神の直接の子=御子ではない。
 しかし物語の流れから、普通は神武天皇のことだとして解釈しているに過ぎない。
 とすると、暗号解読者に対しては、あえて神武と呼ばないことで、この天神の御子は女帝の軍のことだと教えているに他ならない。

 (1)神武男帝崩年の皇紀1156丙子歳の女帝側は、E懿徳女帝である。
 これまでの暗号解読の結果によると、E懿徳女帝は、母のG履中女帝と姉のF反正女帝を、(1)神武男帝によって殺されている。
 とすると、真相は次のようなことになる。

 G履中女帝とF反正女帝の敵討ちのために、E懿徳女帝の軍が大挙して押し寄せた。
 (1)神武男帝は、迎撃するために、兵を集めようとした。
 しかし思うように集まらなかったので、計略を考え、降伏するかのように見せかけて大殿を作り、中に押機を仕掛けて待ち伏せた。
 ところが、敗色濃厚と考えた弟の允恭男帝は、この待ち伏せ計画を手土産に、女帝側に寝返り、命乞いをした。
 その結果、女帝軍はこの計略を知り、神武男帝に対して、「お前が作った大殿には、まずお前が入り、奉仕しようとする姿勢を明白にせよ」と問い詰め、刀や弓矢で脅した。
 (1)神武男帝は、ついにその大殿に追い込まれ、自らが作った押機に打たれて死んだ。

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D允恭男帝とその崩年

 (1)神武男帝がE懿徳女帝によって殺されたのは、(2)允恭男帝が寝返ったからだが、だからと言って、(2)允恭男帝は倭に戻り、革命軍も解散したわけではなかった。

 (2)允恭男帝についての暗号は、次のようになっている。
 「神武記」には、東征を終えた1神武天皇一行の後を追って、天から邇芸速日命が降りて来て、登美能那賀須泥毘古の妹、登美夜毘売(とみやびめ)を娶して、宇摩志麻遅(うましまぢの)(みこと)を生んだとある。
 登美能那賀須泥毘古が(2)允恭男帝を示す暗号であったことはすでに話したが、とすると、この記述も允恭男帝についての暗号に違いない。
 生まれた子の名の宇摩志麻遅を易の卦に置き換えると、宇摩志は暗号解読[6]のC宇摩志阿斯備比古遅(うましあしかびひこぢ)神の解釈のところで話したように(地)・麻は反正植物なので(雷)・遅は「遅れる」だから、合わせて、21地雷復(ちらいふく)に遅れる、となる。
 この卦は活動開始を意味し、ここで活動と言えば、(1)神武男帝のクーデターのことしかない。
 したがって(2)允恭男帝は、(1)神武男帝が履中女帝を殺害した当初から、この革命に参加していたのではなく、その後、一段落したときに参加した、と示していることになる。
 では、允恭男帝は、いつ革命軍に参加したのか。
 それを示す暗号は、「神世記」の美濃地方に関連を持つ物語の中にあった。

 天孫降臨よりも前の時代、下界(葦原中国(あしはらのなかつくに)=日本)は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の弟、須佐之男(すさのをの)(みこと)の子の、大国主神(おほくにぬしのかみ)が治めていた。
 しかしあるとき、高天原(たかまのはら)(天上界)の天照大御神は、葦原中国を治めるのは弟の子ではなく、自分の子にしたいと考えた。
 そこでまず、大国主神やその配下の神々に国を譲るよう説得するために、天菩比神(あめのほひのかみ)を遣わした。
 しかし天菩比神は、大国主神に媚びて付き従ってしまい、行って3年目に至っても、帰ってこなかった。
 困った天照大御神は、改めて天若日子(あめのわかひこ)に弓矢を下賜して、下界に遣わした。
 ところが、この天若日子は大国主神の娘を娶り、この国を自分のものにしようと考え、8年経っても帰らなかった。
 なかなか帰らぬことに困った天照大御神は、鳴女(なきめ)という雉を遣わし、天若日子に帰らぬ理由を問うことにした。
 天若日子はやって来たこの雉を見つけると、何も言わずに賜った弓矢で射殺した。
 その矢は、そのまま天上界の天照大御神のところにまで届いた。
 天照大御神は驚いた。
 すぐそばにいた高御産巣日神(たかみむすひのかみ)はその矢を取り、「反逆心があるなら、天若日子に命中せよ」と念じて衝き返した。
 矢は天若日子の胸に命中して死んだ。
 天若日子の葬儀を行った場所は、美濃国の藍見河(あゐみがは)の河上の喪山(もやま)(現・岐阜県美濃市)だった。

 物語はその後、建御雷神が新たに下界に遣わされ、神々が服従し、大国主神は国を譲ることに同意した、と続く・・・。

 ここに出てくる数字は、天菩比神が3年帰ってこなかったとする3年と、天若日子が8年帰ってこなかったとする8年である。
 数字とは別に特異なのは、天若日子という名前には神や命といった敬称が付いていないことだ。
 神世の物語で、このように敬称が付いていないのは、天若日子だけである。
 まずは(2)允恭男帝を念頭に、天菩比神という名と天若日子という名を比較してみよう。
 天菩比神
 天若日子
 比と日は音が同じなので、天菩比神は菩と神が、天若日子は若と子という文字が印象に残る。
 20允恭天皇の国風諡号は男浅津間若子宿禰だから、こちらも若子という文字があり、他には若子とつく天皇はいない。
 葬儀が行われたという現・岐阜県美濃市付近は、暗号が示す(1)神武男帝が隠れ住んだ地域である。
 したがってこの物語は、(2)允恭男帝が革命軍に参加した時期と、その後についてを書いたものに違いない。

 最初に遣わされた天菩比神の3年後に天若日子が遣わされた、というのは(1)神武男帝がG履中女帝を殺して倭を脱出してから3年目に(2)允恭男帝は革命軍に参加した、ということを示しているに違いない。
 したがって天若日子も8年間帰らず言うことを聞かなかったので殺されたというのは、その8年後に(2)允恭男帝も女帝側によって殺された、と示していることになる。

 要するに、
 (1)神武男帝がクーデターを起こしたのは、皇紀1150年だから、それから3年目の皇紀1152年に(2)允恭男帝も革命軍に参加し、その8年後の皇紀1160年に(2)允恭男帝は殺された、
 のである。
 なお、その間の皇紀1156年には、一旦女帝側に寝返り、(1)神武男帝を死に追いやっているが、最後には(2)允恭男帝も殺されているのだから、寝返ったのは一時的なことだったのだろう。

 この(2)允恭男帝崩年計算は、『記』崩年干支の暗号とも合う。
 (2)允恭男帝の崩年は、『記』に甲午(きのえうま)年正月15日崩とある。
 女帝ならば15は44天風姤(てんぷうこう)だから、女帝を示す暗号となるが、(2)允恭男帝は男帝だから、それは違う。
 とするとこの15は、単純に計算させるためのものであって、15日を甲午としたときの1日に当たる干支が、正しい崩年だと示しているはずである。
 計算すると、庚辰(かのえたつ)が1日になり、(1)神武男帝崩年以降から探すと、(2)允恭男帝崩年は皇紀1160庚辰歳となる。

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E綏靖男帝とその崩年

 「綏靖紀」には、2綏靖天皇は1神武天皇崩御の4年後に即位となっているが、暗号では、(1)神武男帝の次に(2)允恭男帝が革命軍の長となり、4年後に殺されたと示している。暗号が示す系図を見ると、その(2)允恭男帝が殺されたことにより革命軍を引き継いだのが(3)綏靖男帝となる。
 崩年干支は『記』には記載がない。
 『記』に示された崩御時の年齢は、4懿徳天皇と同じ45歳である。
 すでに話したように、暗号では、「綏靖紀」の崩年はE懿徳女帝の崩年を示していた。
 とすると、この(3)綏靖男帝とE懿徳女帝の二人は、同じ年に死んだのであって、E懿徳女帝と同じ皇紀1192壬子(みずのえね)歳が、(3)綏靖男帝の崩年となる。
 (1)神武男帝と(2)允恭男帝は、ともに女帝側に殺されたわけだが、この(3)綏靖男帝には殺されたという暗号は見当たらないので、自然死ということなのだろう。

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F神武男帝から綏靖男帝までのまとめ

 (1)神武男帝から(3)綏靖男帝までを、女帝側との関係も合わせて、整理しておこう。

○ 皇紀1150庚午(かのえうま)歳。

 少し前から九州や出雲を中心に、社会変革の波が起こり始めていた。母権制社会を脱却して、ヤタ(N垂仁男帝)の唱えた「仁」による社会に変革しようとする動きである。そのため、各地で女帝政権に従わない人々が出てきた。女帝政府もなんとか食い止めようと、武力で鎮圧して回っていた。
 そんな折、ついに中央政府にもクーデターが起きる。
 H成務女帝の息子の(1)神武男帝が、叔母に当たるG履中女帝を殺害して美濃に逃げ、そこを革命の砦とする。

○ 皇紀1151辛未(かのとひつじ)歳。

 G履中女帝の仇討ちに来た娘のF反正女帝を返り討ちにする。

○ 皇紀1152壬申(みずのえさる)歳。

 (1)神武男帝の弟の(2)允恭男帝が、革命軍に参加する。

○ 皇紀1156丙子(ひのえね)歳。

 (1)神武男帝は、(2)允恭男帝の寝返りによってE懿徳女帝の軍に殺される。
 なお(1)神武男帝亡き後は、その寝返った(2)允恭男帝が革命軍の長となる。

○ 皇紀1160庚辰(かのえたつ)歳。

 (2)允恭男帝が女帝側によって殺される。
 おそらく一度は寝返ったものの、本心からは女帝側に服従していなかったのだろう。
 允恭男帝亡き後は、(1)神武男帝の息子の(3)綏靖男帝が革命軍を引き継ぐ。

○ 皇紀1192壬子(みずのえね)歳。

 (3)綏靖男帝とE懿徳女帝が、ともに死ぬ。
 綏靖男帝は自然死、懿徳女帝は蘇りのための自殺であろう。
 なお、(3)綏靖男帝の次は(4)雄略男帝が革命軍の長となった。

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もくじ

☆ プロローグ  1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密

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最終更新日:令和05年01月24日 学易有丘会
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