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○ 蒙76で暗号発見! 最初に気付いたのは、プロローグでもちょっと触れた『日本書紀』の神武天皇即位前2年 『日本書紀』に書かれていることの全てが、誰しも認めざるを得ない歴史的事実であるのなら、この数字の一致は単なる偶然かも知れない。しかし数多くの天皇の百歳を越える不自然な長寿や、寓話と言わざるを得ないような記述も随所に見受けられ、とても史実をありのままに書いたとは言えない。 とは言っても、これだけではその意図が判然としない。 〇 推古天皇は風火家人だった!現代の一般的な古代史研究は、年代を考えるとき西暦を使う。戦後のGHQによる教育への干渉により、皇紀を使うことを否定されたからだと聞く。アメリカを崇拝し、決してアメリカに反抗しない国にするためには独自の暦法ではなくアメリカと同じ西暦を使わせることが大事なのであって、全世界の人々に西暦を使わせれば白人優位の世界秩序が揺るぎないものになると考えてのことだ、と、かつて教わったことがある。その話を聞いたせいもあるが、私は日本の特に『古事記』『日本書紀』を読むためには西暦は却って邪魔になると常々思っていた。中途半端なところから紀元後、紀元前となり、歴史を計る物差しとして不都合だからだ。まして皇紀元年に神武天皇が即位したということが歴史的事実であろうとなかろうと、この本を書いた人の頭の中に西暦という物差しはなかったはずである。とすれば、唯一の物差しとなり得るのは皇紀しかない。もちろん皇紀という呼称は明治になってから西暦に対抗して作られたものであり、江戸時代までは単に神武天皇即位より〇〇〇〇年といった表現をしていたのだが、とにかくその皇紀で歴史を計ったほうが年代の距離感を掴みやすい、と考えたのである。そこでこの暗号解読でも年代は皇紀を使って把握することにした。追々明らかにするが、偶然にもそれがとても大事なことだったのだ。念のために付け加えておくが、皇紀元年すなわち神武天皇即位年は西暦紀元前660年である。 さて、推古天皇の話に進もう。
これはまるで、「推古天皇の時代は37 目の子で列挙すると次のようになる。 暗号?結ばれている?そんなの偶然かこじつけだ!という声も聞こえてきそうだ。確かに易を知らなければ、この事実を鵜呑みにはできないかもしれない。しかし易を知れば知るほど、こんなことは偶然にはあり得ないと言わざるを得ないのだ。そして偶然ではなく故意でこうなっているのならば、我々が知らない何かとんでもないことが、その裏に隠されている気配が漂っている感触である。 要するに古代天皇の系譜と「六十四卦の序次」との間には、何やらただならぬ関係がありそうなのである。 そこで、他の天皇についても、後述のように一人ずつチェックしてみたのだが、その結果『日本書紀』最後の神武から41代目の持統天皇まで、その多くが「六十四卦の序次」でそれぞれの位置にある卦と対応関係を持っていることが判明した。 34推古以降を目の子で列挙すると、次のようになる。 しかし『日本書記』にはもうひとり、力の強い女性が居る。神武天皇から数えて15代目の神功皇后である。そこで、その神功皇后を44 何なんだこれは!一般に継体天皇以降の歴史は多少の潤色はあるにしても概ね事実だとされているわけだが、この対応関係がある以上、持統天皇までのすべてが事実だとは言えないことにもなる。そんなことがあってよいのだろうか?しかし現実にはそう考えるほうが自然である。が、ここで先走ってだらだら感想を述べていても仕方ないので話しを戻そう。 |
〇 持統天皇と神功皇后の位置 神武天皇を4 持統天皇のA列は44 姤とは遇うという意で、上五陽の男性ばかりの最下に一陰の女性がやって来て出会った形。だから姤と名付けられた。そして男性ばかりの中に入り込んで平然としているのだから、この一陰の女性はとても強い力を持っているわけで、女傑、女帝と形容してもよい人物である。だから「力の強い女性」という意を持つ。 が、それはそれとして『日本書紀』では、その神功皇后は夫の14代 44 神功皇后の国風諡号は、『古事記』では 息長の二文字を易の卦に置き換えるとするなら、共に 息長に続く
そこで、これらの関係を表にまとめてみた。それが表T 古代天皇と易六十四卦の序次(別ウィンドウで開きます)である。ただしスマホだと画面が小さく見づらいので、可能であれば画面が大きいタブレツトやパソコンで閲覧されることをお勧めします。 この表は、A列・B列と各天皇との位置関係をまとめたもので、左から漢風諡号、『日本書紀』による各天皇の元年を皇紀で算出したものとその年の干支、A列、国風諡号、『古事記』に記載された崩御時の年齢、『日本書紀』に記載された崩御時の年齢、各天皇の元年より数えた崩年、B列の順に並び、赤字部分がそれぞれの位置にあるA列の卦と対応する箇所であって、緑字部分はB列との対応を示す箇所である。 ※ 天皇の名前には国風諡号と漢風諡号の二種がある。漢風諡号は『日本書紀』の国風諡号に添える形で小さく表示されているもので、『古事記』では国風諡号のみで表記されている。ただし多くの国風諡号は『古事記』『日本書紀』で使用される文字が異なり、例えば神武天皇(漢風諡号)の国風諡号は神倭伊波礼毘古(『古事記』)・神日本磐余彦(『日本書紀』)、安寧天皇は師木津日子玉手見(『記』)・磯城津彦玉手看(『紀』)といった具合である。なお『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』によると、漢風諡号は奈良時代後期に淡海三船なる人物が制定したとされているが、暗号解読の結果、当初より『日本書紀』にあったことが確認された。『釈日本紀』の注釈のその部分は暗号攪乱の目的で作られたものだろう。そもそも『釈日本紀』は鎌倉時代の本であってその注釈が無条件で正しいとは言えないものである。 |