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Eメール古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本
17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった!

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このページのもくじ

@漢風諡号の規則性 A仏教伝来と元興寺伽藍縁起 B魏志倭人伝との比較 C宋書倭国伝との比較 D神武男帝が逃げた美濃にある大矢田神社

@ 漢風諡号の規則性

 ひとまず暗号解読を終えたが、果たしてこれが本当に真実の歴史なのだろうか。ここではその辺を検証してみたい。
 表向きの歴代天皇の漢風諡号には、何ら規則性は感じられない。
 しかし暗号が示す歴史では、図42 暗号が示す全系図に示したように明らかな規則性がある。
 女帝で同じ文字を共有する人物は姉妹となっている。
 K仁徳とJ仁賢、D安寧とC安閑、A欽明・用明・@推古(舒明)・皇極(斉明)である。
 例外は、伯母と姪の関係となるO崇神とM応神、姉妹でありながら同じ文字を共有しないH成務とG履中、F反正とE懿徳だが、これらは別の暗号としての役割があった。
 また、意味が曖昧な神名や天皇の国風諡号、説明できない不自然な長寿、干支や数字の矛盾などはすべて暗号だったのであって、きちんと説明がついた。逆に言えば、暗号がなければ、このような系図を導き出すことも、数字や干支の矛盾から表面上とはまったく違う歴史を導き出すことも不可能なはずである。

図42 暗号が示す全系図

A 仏教伝来と元興寺伽藍縁起

 表向きの歴史では、欽明13年と敏達13年に、仏教が始めて日本に伝来したと記述している。
 しかし欽明13年は皇紀1212壬申(みずのえさる)歳=西暦552年、
 一方の敏達13年は皇紀1244甲辰(きのえたつ)歳=西暦584年だから、
 両者は32年もの隔たりがあり、どちらが正しいのか判然としない。
 多くの日本史紹介本では、さしたる根拠もなく、欽明13年のほうを採用している。
 戦前の教育では、
 イチニイチニ(1212)と仏が来て、大化の改新イサンワイ(1305)・・・、
 などと、七五調の歌のようにして暗誦したらしいが、とにかく、仏教伝来は古いことであったほうが好ましいということのなか……。

 また、飛鳥時代の歴史研究でよく引用される『元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)』では、欽明7年戊午(つちのえうま)歳に仏教が伝来したとある。

 表向きの欽明7年は丙寅(ひのえとら)歳であるばかりか、欽明天皇の時代には、戊午歳は存在しない。
 この付近の戊午歳は皇紀1258年=西暦598年、表向きの歴史で言えば推古6年になってしまう。
 そこで、干支一巡すなわち60年繰上げて、皇紀1198年=西暦538年、表向きの宣化3年のことではないか、とも考えられている。
 このように、『日本書紀』と『元興寺伽藍縁起』と、どちらが正しいのか、あるいは双方とも誤りなのか、悩むところである。

 ところが暗号が示す歴史では、A欽明女帝と(6)敏達男帝は同年に即位しているのだから、欽明7年と敏達7年は同じ年になる。
 前帝崩の翌年を元年とすれば、A欽明女帝と(6)敏達男帝の元年は、共に皇紀1252年となる。
 したがって欽明7年は、皇紀1258戊午歳=西暦598年すなわち『元興寺伽藍縁起』が仏教伝来したとする年に、ビッタリ一致するのである。
 『元興寺伽藍縁起』は、当時の日本が母権制社会であったことなどには触れていないし、他の部分では『日本書紀』の表向きの記述に準じて書かれているので、これをそのまま信じてしまうのは、いささか問題もあるが、とにかく「年代が一致する」からには、暗号が示す歴史の信憑性が、かなり高まるのではないだろうか。

 『元興寺伽藍縁起』は、奥付けによると天平19年=皇紀1405年=西暦745年の成立、
 『日本書紀』は、『続日本紀』によると養老4年=皇紀1380年=西暦720年に成立とある。
 おそらく『元興寺伽藍縁起』も、政府の要請にしたがって母権制社会を隠蔽せざるを得なかったのだろう。
 そもそも『日本書紀』が示す仏教伝来年は、前述のように二種類あり、どちらを取るか迷う。
 どちらを取るにしろ、どうせウソである。
 だったら、真実の仏教伝来年を書いても、大した問題はなく、咎められることはない。
 そんな思いが、この『元興寺伽藍縁起』を書かせたのかもしれない……。

 ともあれ、本当に仏教が伝来したのは、この皇紀1258戊午年=西暦598年だったのだろう。

図42 暗号が示す全系図

B 魏志倭人伝との比較

 『魏志倭人伝』には、
 西暦240年頃、日本には邪馬台国という国があり、鬼道に仕える女王卑弥呼が治めていた。
 卑弥呼が死ぬと男王が立つが、国中が服さず、あちらこちらで殺し合いが起きた。
 そこで卑弥呼の宗女壱与(いよ)なる人物が、その男王に代わって女王となった。
 すると国は治まり、平和を取り戻した。
 とあり、また『宋書倭国伝』では、西暦400年代に、いわゆる「倭の五王」がいたとある。

 しかし、表向きの歴史には、これらの人物についての記述はない。
 これまでの研究では、例えば、卑弥呼は神功皇后、「倭の五王」は仁徳天皇から雄略天皇あたりまでの天皇を指すのではないか、とする説もあるにはあるが、何れも年代や皇位継承順の点から、かなり無理がある。そこで、『記』『紀』とはまったく無関係の王朝が存在したのではないか、と考える人々もいるようである。

 ところが、この暗号が示す系図を見ると、彼等が誰のことなのか、一目瞭然である。
 卑弥呼が死んだのは、『魏志倭人伝』の記述から、西暦240〜250年の間となるのだが、暗号では、この間の西暦247年(皇紀907年)に、O崇神女帝が崩御している。
 卑弥呼が死んで男王が立つと、国が乱れたので、卑弥呼の宗女壱与が女王となったとあるが、崇神女帝の次には男性のヤタ=N垂仁男帝(崇神女帝の息子)が「仁」による宗教改革を旗印に王となるも、結局は4年後の西暦251年(皇紀911年)に、何者かに殺され、O崇神女帝の姪に当たるM応神女帝が即位し、宗教改革は失敗に終わる。

 見事に一致しているではないか。
 また、鬼道がどういうものなのか、『魏志倭人伝』には記載がなく、判然としないが、母権制社会とワンセットになっていたのが、「食人による蘇生」である。
 これはまさに鬼畜な風習であり、鬼道と呼ぶに相応しいではないか。
 とすると、この食人による蘇生を指して、鬼道と表現したのではないだろうか。

 ただし『魏志倭人伝』では、卑弥呼が立つ以前は男王国だったとするとともに、当時の風俗は淫らではないとしていて、暗号では、はるか昔から女帝が治めていたとあるとともに、畜生のような世の中だったとある。
 儒教文化の中国からすれば、母権制社会は畜生同然の世の中であり、「淫らではない」とは言えないはずである。

図42 暗号が示す全系図

C 宋書倭国伝との比較

 「宋書倭国伝」によると、西暦400年代頃に、日本にはいわゆる「倭の五王」がいたとある。
 「倭の五王」はそれぞれ漢字一文字で、讃、珍、済、興、武、と表記され、宋書倭国伝の記事から推定される死亡時期と続柄は、図43左のようになるのだが、これも暗号が示す仁徳女帝から履中女帝まで(図43右)と、完全に一致している。

 ただし「倭の五王」は、全員男性であるかのように描かれていて、中国から安東大将軍という称号を賜っている。
 もっとも安東大将軍の頭の安の字は、D安寧女帝やC安閑女帝の安でもある。
 とすると、何らかの事情で日本が母権制社会であることを隠しつつ、『魏志倭人伝』や『宋書倭国伝』は書かれた気配もある。
 あるいは安東大将軍も男性ではなく、女王に与えられる称号だったのかもしれない。
 また倭の五王の時代の後から「隋書倭国伝」の時代までは、中国側資料に日本の様子が描かれない。
 丁度、神武男帝がクーデターを起こし、日本が混乱していた時期である。
 再び日本が中国側資料に登場するのは、『隋書倭国伝』の聖徳太子(孝徳男帝)の時代に女帝側の使者が隋に行ったのではないかと思われる記事である。この記事については10.暗号解読[6]のHで触れたので、ここでは割愛するが、やはりこの暗号が示す歴史とのほうが、表向きの歴史よりも内容が合致する。

図42 暗号が示す全系図

D 神武男帝が逃げた美濃にある大矢田神社

 暗号が示す歴史では、(1)神武男帝はG履中女帝を殺害すると、その足で美濃に逃げたとある。
 そのときから、(4)雄略男帝が倭に乗り込むまで、革命軍はその美濃に本拠地を置いていた。
 現・岐阜県美濃市には、市の中心部から長良川を渡って少し行ったところに大矢田(おおやた)神社という神社があり、その後ろには天王山という山が聳えている。
 13.暗号解読[9]のDで話した天若日子(あまわかひこ)の葬儀が行われたとされる場所の近くである。

 縁起によると、御祭神は須佐之男命(すさのをのみこと)と天若日子他で、7孝霊天皇の頃に鎮座したとされる。
 その後、元正天皇の養老2年(西暦716年=皇紀1376年)に、泰澄(たいちょう)大師が天王山一山を開基し、宏大なる堂塔伽藍を建立し、一山を総号して天王山禅定寺と称し、社頭は牛頭天王と称していた。
 牛頭天王とは、須佐之男命を仏教の守護神に擬えたもので、里人は「お天王様」の名で親しみ、遠近の崇敬者から篤く信仰されていた。
 明治維新のときに、神仏分離により、仏堂を撤廃して大矢田神社と改称した。
 現在の本殿は江戸時代初期のもので、地元では紅葉の名所としても名高い。

 大矢田という地名の由来は、天若日子が、天照大御神から賜り、結局自分がそれで死ぬことになった大きな矢にちなむということだが、須佐之男命はヤタ(N垂仁男帝)や神武革命軍の神格化である。
 とすると、偉大なるヤタということで、大矢田という地名が生まれ、神武男帝が革命の拠点としたからこそ、天王山と呼んだ、ということもあったのではないだろうか。
 養老2年と言えば、『日本書紀』を編纂している頃である。
 とすると、この大矢田神社すなわち当時の天王山禅定寺は、神武革命軍ゆかりの地を聖地としたい、という思いが込められていたとしても不思議ではない。

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もくじ

☆ プロローグ  1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密

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最終更新日:令和02年08月27日 学易有丘会
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