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危険な古代史=古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本
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A 履中以後の女帝の系統G履中女帝・F反正女帝 表向き履中天皇と反正天皇は兄弟とされているが、この暗号体系は男帝側がそうであるように、原則として前帝を親とすることで成立している。 E懿徳女帝・D安寧女帝・C安閑女帝 続く懿徳女帝は、『紀』34年崩が履中女帝のA列21 懿徳女帝の国風諡号とA列で繋がる安寧女帝は、前帝の子であることを否定する暗号が見当たらないので、その繋がりと共に懿徳女帝の娘となる。 次の安閑女帝は、国風諡号の B継体女帝・A欽明女帝・用明皇女・@推古(舒明)女帝・皇極女帝 安閑女帝の次は継体女帝だが、この二人が親子ではないとする暗号は見当たらないので、継体女帝は安閑女帝の娘となる。仮に姉妹であるのなら、別の人物が親として示されるはずだが、そういう暗号はない。 継体女帝に続く欽明女帝、用明皇女、推古(舒明)女帝、皇極女帝の四人は、次のことから何れも継体女帝の娘となる。 これで履中女帝以降の女帝側も、皇極まで辿り着いたので、残る孝徳男帝すなわち聖徳太子の両親に関する暗号を解読しよう。 (7)聖徳太子 かつて高額紙幣の肖像にもなった聖徳太子だが、『古事記』『日本書紀』ではこの人物を聖徳太子とは呼んでいない。『古事記』『日本書紀』ではいくつかの呼び名があったことを書いていて、その中に聖徳の文字が入っている名前もあった。聖徳太子と呼ばれるようになったのは『記』『紀』編纂よりも後の時代なのだ。最近の学校教育で厩戸皇子と呼ばれることがあるのはそのためである。が、ここでは無用な混乱を避けるために、取り敢えず一般的な聖徳太子という名前で呼んでおく。 さて、表向き聖徳太子は、用明天皇と 何故この名前に注目したのか。 震(雷) となる。 震(雷)───────┐ この形は最上最下で31敏達天皇のA列34雷天大壮、 抱き包んでいるというのは、要するにセックスをしていることである。 なお推古・舒明のように、表向きの歴史が一人の天皇を名前を変えて複数の天皇であるかのように装ったのは、すでに話した「皇統譜の円周を成立さるために数を揃えた」ということもあるが、もうひとつ、このように暗号を分散させるため、という要素もあったのである。 以上が履中女帝から聖徳太子(孝徳男帝)までの親子関係だが、これをまとめれば、図32のようになる。 図32 履中女帝から聖徳太子までの系図 |
B 履中女帝以前の系図 さて、履中女帝以前に目を転じよう。 G履中・H成務・I顕宗の各女帝 履中の履の字は序次10天沢履の履でもあるが、 L景行女帝、そしてJ仁賢女帝・K仁徳女帝 L景行女帝の国風諡号の 皇位継承と言ってまず思い浮かぶのは、「継体」という漢風諡号である。 妃1
妃2
妃3
妃4 妾(名の記載なし)。
妃5
妃6 伊那毘能大郎女の
妃7 「景行記」には、12景行天皇の子供は、ここに挙げた21人の他に、名の知れない者が59人いて、この計80人のうちの、若帯日子命と倭建命と五百木之入日子命の3人は、太子となった、とある。 とにかく、この不可思議な記述こそが暗号だったのであって、易と文字との関係に従って、妃や子の名を検証すると、この有り得ないことも大きなヒントになって、次の図33のような系図に組み上がるのである。
○ 景行A まず、若建吉備津日子という名の頭の若建を見る。若は老を陽とした時の陰だからその極みの坤(地)、建は建御雷神という神名があることにちなみ震(雷)とすれば、若建で序次24地雷復となる。 続く吉の字は19地沢臨(6.暗号解読[2]のDにある吉野の解釈参照)となり、津はサンズイだから水にちなみ坎(水)、日は離(火)だから、津日で63水火既済となるので、吉備津日子で「19地沢臨を備える63水火既済の子」となる。 ○ 景行B 倭建命の曾孫とあるが、表向きの皇統では、倭建命ー仲哀天皇ー応神天皇ー応神天皇の子に当たり、暗号では応神女帝の子の代が景行である。 ○ 景行C・景行D 子に日子人之大兄王という名があるが、景行Dの子には弟比売命という名があり、他の妃の子には、兄または弟という字が付く名はないので、この二人は姉妹(兄弟)となる。その上、大兄は大枝と音が共通し、景行Bとの繋がりを窺わせるので、この人物は景行Bの子でもあることになる。 ○ 景行E・景行F 景行Eの子の豊国別王と、景行Fの子の豊戸別王という名は、共に豊の字を共有するが、豊が名前に付く易の卦は序次55雷火豊である。 ○ 景行G・K仁徳女帝・J仁賢女帝 景行Fが沼代郎女で6代目であることを主張しているのは、こちらが本流だと示唆しているのであって、景行Gは景行Fの娘となる。 また、押別命という名は、「押という字を別けろ」という意味にも取れるので、押という字を扌(手偏)と甲(十干の 以上が景行という名で括られた七人とK仁徳、J仁賢両女帝の関係だが、これにより、いわゆる五百木之入日子命の謎も明らかになった。 表向きの物語では、12景行天皇には倭建命、若帯日子命、五百木之入日子命という三人の皇太子がいて、このうち倭建命は若くして薨去、若帯日子命は次の13成務天皇として即位と、その消息がはっきりしているのに対し、残る五百木之入日子命については、ただ皇太子だったとするだけで、その後については即位がなかった経緯を含め全く触れていないことから、謎の人物とされている。 ともあれ、表向きとは大分様子が異なるので、ここまでのところを、図34に系図としてまとめておく。 この系図を見ると、表向きの神武天皇から持統天皇に至る皇統譜とは違い、漢風諡号に法則性を感じられるではないか。 |
最終更新日:令和05年01月24日 学易有丘会
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