学易有丘会トップページ九星トップページカンタン!自分でできる無料易占い易学入門易経詳解古事記と易学 古事記・日本書紀は易を乱数表として利用した暗号文書だった!聖書と易学ーキリスト教二千年の封印を解くーブログ〜折に触れ、あれこれ書いてます。コアランの音楽演奏動画など

前のページ
8−1 神武男帝のクーデター・イザ!オウ!

8−2 雄略男帝〜聖徳太子までの歴史
8−3 大化の改新=父権制社会としての出発

Eメール古事記と易学

発見!想像を絶する真実の古代日本

9−1 暗号が示す歴史の全容
9−2 卑弥呼は崇神女帝のことだった!
9−3 解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」

☆ 隠された古代史の全容

9−1 暗号が示す歴史の全容

@ 母権制社会
A 母権制社会脱却の試みと、その失敗
B 応神女帝から成務女帝までの皇位継承の歴史
C 打倒母権制社会のクーデター
D 革命軍が、いよいよ倭に乗り込む
E 大化の改新とその後

 『古事記』『日本書紀』は易の理論を乱数表として利用した暗号文書だった。
 表向きの歴史はすべて架空の物語で、真実は登場人物の名前を易の理論に基づいて解釈すると明らかになる、と、『古事記』序文に暗号で示唆されていた。
 その示唆にしたがって、解読を試みると、男性とされている古代天皇の多くは、実は女帝であった。
 のみならず、恰もジグソーパズルを組み上げるように、女帝と男帝が並立する皇統譜が姿を現し、信じられないような古代日本の忌わしい姿がそこに浮き彫りにされた。
 易に不案内だとわかりにく面もあったと思うが、その解読に至る経過をこれまで書いてきて、漸く最後まで辿り付いた。

 そこで、その暗号解読の結果得られた事実を、言葉を補いながら年代順にまとめることにする。
 しかし、文字だけではわかりにくい面もありそうなので、「図42 暗号が示す全系図」を、別ウィンドウで示しておく。
 必要に応じて眺めていただきたい。

図42 暗号が示す全系図

@ 母権制社会

○ 年代不詳の古代

 古代日本は母と娘の結びつきが極めて強固な女尊男卑の母権制社会だった。
 代々の女帝たちは拝火宗教の巫女として生き、タラシヒコ(帯日子)という名を継承し、あろうことか、食人による蘇生という儀式を考案し、それで永遠の生命を得られるものと信じ、そのとおり行っていた。

 彼女たちは、年老いて身体が利かなくなる前に、自分の肉体を新しく作り替えるためと称して、まず蝮に咬ませて自殺する。
 すると、その末娘が母の屍を食べ、その血を飲む。
 そうすることで、末娘は自分の腹の中に母の魂が宿ったものと考えた。
 あとは、その宿った魂に新しい肉体を与えるために性交して胎児に作り上げ、自分の娘として出産すれば、母は蘇生したことになる。
 不慮の事故などで、突然死んだ場合には、その時点で、この食人が行われたのだろう。
 また、父親を特定しようなどとは考えず、ひたすら数多くの男性と関係を持ち、妊娠の確立を高めたようである。
 生まれたのが男の子だったら、母の魂がその肉体を嫌って乗り移らなかったものとして、改めて胎児から作り直した。
 おそらく、このサイクルを永遠に繰る返すことで、死の恐怖から逃避していたのだろう。
 これに対し、自ら妊娠出産することが不可能な男性は、女性を妊娠させる触媒程度にしか考えられていなかったので、父親という地位は無論あるはずもなく、使い捨ての道具に過ぎなかった。
 それでも、それが当たり前の世界で暮らしていたわけだから、何ら疑問を持たなかったのだろう。
 この時代のことを太安萬侶は、畜生同然の世の中だったと評価し、中国からは、易の卦に置き換えると胎児を意味することにもなる倭という字で呼ばれ、胎児が神である以上、その胎児から生まれた女帝もやはり神であって、神のお告げが絶対的権威を持つ社会システムを形成していた。
 この時代の日本はヤマトイ国と称し、本拠地は奈良県飛鳥地方を中心とした地帯だった。
 系図の出発点にあるQ孝昭女帝は、その女帝たちが神としていたとともに、自分たち自身でもある胎児のこと、P孝安女帝は、この間何代なのか不明だが、太古からこの食人による蘇生を行っていた女帝たちをまとめて表現したものである。

図42 暗号が示す全系図

A 母権制社会脱却の試みと、その失敗

○ 皇紀900年(西暦240年)頃

 「タラシヒコ」を継承しているO崇神女帝の息子に、ヤタ(N垂仁男帝)という名前の人物がいた。
 ヤタは食人による蘇生が幻想に過ぎないと考え、止めさせようとして、「仁」という考え方を発案する。
 「仁」とは「慈愛・博愛」もっと簡単に言えば「思いやり」のことで、「仁により心と心が繋がり合う社会を作れば、老いて醜くなった姿を軽蔑嘲笑する者もなく、また、死んだ者も折に触れて思い出されるので、心の中で永遠に生き続けることになる」と考えた。
 この息子ヤタの発案にO崇神女帝は、自らを神格化するのを思い止まり、神を崇め祀るだけの存在とし、食人による肉体蘇生も行わない決意をする。
 言うなれば、「仁」によりマインドコントロールが解けたということだろうが、これこそが日本神道の始まりだったのであり、この宗教改革は儒教などの影響によるものではなく、ヤタが独自に考案したものだった。

○ 皇紀907年(西暦247年)丁卯歳

 O崇神女帝は食人による蘇生のための自殺を行わなかったので、前年には目が微かにしか見えない老女となり、ついにこの年、自然死を迎える。
 これにより、息子ヤタが男性として始めての日本国王となり、「神のお告げ」ではなく、「仁」に基づく理性をもった社会を構築しようとする。
 なお、このO崇神女帝が、個人を特定できる最初の人物である。

○ 皇紀911年(西暦251年)辛未歳

 クーデターが起こり、ヤタが何者かに暗殺される。
 当時の人々にしてみれば、「仁」などと言われても戸惑うばかりで、食人による蘇生や「神のお告げ」に身を委ねているほうが、肌に合っていたのだろう。
 また、いくら血族的には正統であっても、女尊男卑の中にあっては、男性を王とすることに屈辱を覚える女性も少なくなく、まして前例もない。
 マインドコントロールの悲劇ここにあり、といった感だが、とにかく事態はO崇神女帝の姪に当たるM応神女帝が即位し、昔ながらの神のお告げに応じて国を治める社会に戻すことで落ち着いた。

図42 暗号が示す全系図

B 応神女帝から成務女帝までの皇位継承の歴史

○ 皇紀934年(西暦274年)甲午歳

 M応神女帝が太古からの慣例に従い、そろそろ老化し始めた自分の肉体を新しく作り替えるために、マムシに咬ませて自殺する。
 皇位を継承するのはL景行女帝となるのだが、この人物は本来7人のところを、表向きの皇統譜を易六十四卦の序次に合わせるために、ひとりにまとめたものだった。
 7人は仮に景行A〜Gと呼んでおく。この7人の皇位継承順とそれぞれの蘇りのための自殺年は系図に示したとおりである。
 この系図によると、女帝たちの皇位継承順は、まず長女、次に末女、そして末女の娘となるのが原則だが、末女が母の肉体蘇生の大役を担うことが、この順を決定したのだろう。また、女帝たちの系図では、父親は存在しないわけだが、景行AとBだけは例外で、ヤタ(N垂仁男帝)が父親となっている。一時はM応神女帝も「仁」に賛同していたのだろう。

○ 皇紀1056年(西暦396年)丙申歳

 景行G女帝が蘇りのために自殺。よって、長女のK仁徳女帝が皇位継承。

○ 皇紀1087年(西暦427年)丁卯歳

 K仁徳女帝が蘇りのために自殺。妹のJ仁賢女帝が皇位継承。

○ 皇紀1098年(西暦438年)戊寅歳

 J仁賢女帝が蘇りのために自殺。娘のI顕宗女帝が皇位継承。

○ 皇紀1116年(西暦456年)丙申歳

 I顕宗女帝が蘇りのために自殺。長女のH成務女帝が皇位継承。

○ 皇紀1135年(西暦四七五年)乙卯歳

 H成務女帝が蘇りのために自殺。妹のG履中女帝が皇位継承。

 M応神女帝からI成務女帝に至る時代については、ただ皇位継承順と自殺年が示されているだけで、事件事跡といったことは何もない。しかしヤタ(N垂仁男帝)が提唱した「仁」の精神が全く捨てられてしまったわけではなかったようである。
 その意志を受け継ぐ人々が、出雲地方を中心に草の根運動を展開していたのであって、それが出雲大社の始まりだった。
 『記・紀』編纂時に、ヤタの「仁」を受け継いで活動していた人々を神格化したのが、須佐之男命(すさのをのみこと)や、その息子の大国主神(おほくにぬしのかみ)だったようである。
 後世、出雲大社が縁結びの神ともされるようになったのは、「仁」すなわち「思いやり」の心があってこそ、初めて女性は性交相手となる男性をひとりに限定しようと考えるようになり、夫婦という単位が成立する、というメカニズムからだろう。

図42 暗号が示す全系図

C 打倒母権制社会のクーデターが始まる

○ 皇紀1140年代(西暦480年代)頃

 九州や出雲で、「ヤタ」の意志を受け継いだ人々により、母権制社会脱却に向けたクーデターが起き、G履中女帝はその制圧のために奔走する。

○ 皇紀1150年(西暦490年)庚午歳

 H成務女帝の息子が、各地のクーデターに呼応し、ついに立ち上がる。
 そして、とある宴会の後、G履中女帝が寝静まると、屋敷に放火して殺害し、美濃(現・岐阜県美濃市付近)に脱出し、母権制社会脱却のための革命軍の砦を作る。
 このH成務女帝の息子が、(1)神武男帝である。
 また、倭(畿内)の近くでは、美濃地方が母権制社会脱出の草の根運動が盛んだったから、当面の拠点をそこにしたのだろう。

○ 皇紀1151年(西暦491年)辛未歳

 G履中女帝の長女のF反正女帝が、母の敵討ちのために、(1)神武革命軍を攻める。
 しかし、甘く見たのか、逆に痛手を負い、それがもとでF反正女帝は絶命する。

○ 皇紀1153年(西暦493年)癸酉歳

 (1)神武男帝の弟の(2)允恭男帝が革命軍に参加。

○ 皇紀1156年(西暦496年)丙子歳

 F反正女帝の妹のE懿徳女帝の軍が、大挙して革命軍を攻撃に来る。
 反政府分子排除ということもだが、母と姉の仇討ちという意味合いも強かったのだろう。
 対する(1)神武男帝は、迎撃するに足る兵力が集まらなかったことから、女帝軍を罠に嵌める作戦を考案した。
 攻めて来たら、速やかに服従するふりをして、彼女たちを接待する大殿(仮設の家屋)を建て、その中に押機(踏めば打たれて圧死する仕掛け=バネ仕掛けのネズミ捕りのようなもの)を仕掛けて待ち伏せする、というものだった。
 しかし、そんなことではとても勝ち目はないと怖気づいた(1)神武男帝の弟の(2)允恭男帝は、この情報を手土産に、女帝側に寝返った。
 計略を知ったE懿徳女帝軍は、(1)神武男帝と対面し、その大殿を前にすると、「お前が建てた大殿には、まずお前が入り、我々に奉仕しようという姿勢を明らかにせよ」と、剣や弓矢で威嚇して追い詰めた。
 逃げ場を失った(1)神武男帝は、図らずも自分で造った押機に打たれ、絶命した。

 これで母権制社会脱却は夢と消えたのだろうか……。いや、そんなことはなかった。
 一度は寝返った允恭男帝だったが、本心から女帝に忠誠を誓ったわけではなく、女帝軍が引き上げると、我に返り、革命軍をとりしきり、弱々しくではあるが、女帝側に抵抗していた。

○ 皇紀1160年(西暦500年)庚辰歳

 いつまで経っても本心から服従しない革命軍に痺れを切らしたのか、ついに女帝軍は、再び革命軍を攻撃し、(2)允恭男帝を殺害する。
 しかし、革命軍は、美濃の山中に隠れ棲んでいたので、全滅することはなく、その志は(1)神武男帝の息子の(3)綏靖男帝に受け継がれた。
 なお、(3)綏靖男帝は、太安萬侶の父、多臣品治の先祖に当たる。

○ 皇紀1192年(西暦532年)壬午歳

 E懿徳女帝が蘇りのために自殺。長女のD安寧女帝が皇位継承。
 また、この年には革命軍の綏靖男帝も崩御していて、こちらは(3)綏靖男帝の妹と(2)允恭男帝との間に生まれた(4)雄略男帝が引き継ぐ。

○ 皇紀1204年(西暦544年)甲午歳

 D安寧女帝が蘇りのために自殺。妹のC安閑女帝が皇位継承。

図42 暗号が示す全系図

D 革命軍が、いよいよ倭に乗り込む

○ 皇紀1219年(西暦559年)己卯歳

 (4)雄略男帝を長とする革命軍は、美濃の山中に隠れ住みながらも徐々に力をつけ、この年、いよいよ倭(飛鳥地方)に乗り込み、女帝の城の近くに革命軍の砦を築き、手始めにC安閑女帝を殺害する。
 と同時に、食人による蘇りの愚かしさを知らしめるために、これを止めさせようと実力行使に出る。
 例えば、妊婦の腹を裂き、胎児を取り出して、それが神でも母の魂が宿ったものでもないと分らせようとしたり、女性を押さえつけて馬と交尾させて、セックスが神懸りと無関係の行為であることを分らせようとしたりと、いささか乱暴なことも行われた。
 しかし、それでもマインドコントロールは解けるものではなく、C安閑女帝の後は、娘のB継体女帝が引き継ぎ、相変わらず食人による肉体蘇生を行っていた。

○ 皇紀1266年(西暦566年)丙戌歳

 (4)雄略男帝崩。革命軍は息子の(5)崇峻男帝が引き継ぐ。

○ 皇紀1251年(西暦591年)辛亥歳

 「仁」をもって誠意を尽くし、母権制社会と食人による蘇生がいかに愚かしいことかと説得しても、女帝側は聞く耳持たずで、どうにもならない。
 そんな状況から、両者はしばしば武力衝突を繰り返したが、そのクライマックスがこの年だった。

 まず、(5)崇峻男帝により、B継体女帝とその次女の用明皇女が殺害される。
 これにより、女帝側は、B継体女帝の長女のA欽明女帝が後を継ぐ。
 すると、同年八月、今度はA欽明女帝により、崇峻男帝が殺害される。
 男帝側は、(5)崇峻男帝の息子の(6)敏達男帝が後を継ぐ。
 報復合戦とでも言おうか、血で血を洗う凄まじさだが、それはともかく、この頃になると、革命軍に共鳴する人々も次第に増え、どうやら女帝側よりも優位になってきた模様である。

 この後、(6)敏達男帝は、自分たちが優位になって来た余裕からか、女帝側と和睦を考え、自分とA欽明女帝の妹(B継体女帝の三女)の@推古女帝とで、肉体関係を持つことを求め、女帝側もこれに応じた。
 その結果として、二人に間に男子が生まれた。
 それが(7)聖徳太子である。
 しかし、いわゆる夫婦というわけではなく、推古女帝はこれまでの女帝たちと同様に、相変わらず父親不明の子供も、何人か設けていた。
 なお、女帝側はA欽明女帝が、男帝側は(6)敏達男帝が長となっていたこの時代に、大陸から仏教が伝来し、それも母権制社会と食人による蘇生の権威を失墜させ、女帝側の力を弱める要因となったのだろう。仏教伝来については、後ほど話す。

○ 皇紀1263年(西暦603年)癸亥歳

 A欽明女帝が蘇りのために自殺。
 慣例では末女が皇位継承するところだが、異例にも、三女の@推古女帝が皇位に就く。@推古女帝は(6)敏達男帝と肉体関係を持ち、(7)聖徳太子を生んだ人物である。
 男帝側が、双方の血を引く聖徳太子をもって、近い将来、(1)神武男帝以来分裂していた国を統一しようと考えたのを、力の衰えた女帝側としはて、飲まざるを得なかったのだろう。

○ 皇紀1282年(西暦622年)壬午歳

 (6)敏達男帝崩。息子の(7)聖徳太子が革命軍を引き継ぐ。

○ 皇紀1296年(西暦636年)丙申歳

 @推古女帝が蘇りのために自殺。
 ついに、(7)聖徳太子が統一王朝として即位、と言いたいところだが、そう簡単に事は運ばなかった。妹の皇極女帝が皇位を継承してしまったのである。いや、妹に皇位を譲るために自殺した、という面もあったのだろう。

○ 皇紀1303年(西暦643年)癸卯歳11月

 皇極女帝により、(7)聖徳太子が殺害される。
 男帝革命軍の論理で国が統一されることを、女帝側は必ずしも歓迎していなかったのだろう。 しかし逆に、これを契機として、女帝側は滅亡へと追い込まれてしまう。
 世間の大多数は、最早、母権制社会や食人による蘇生から離れてしまっていたのである。
 なお、(7)聖徳太子は、欽明女帝の娘との間に三人の男子を設けていた。
 長男は表向きの中臣鎌子=藤原鎌足、次男は中大兄皇子=天智天皇、三男は大海皇子=天武天皇であり、聖徳太子亡き後は、まず長男の鎌足が革命軍を引き継いだ。
 その鎌足は、皇極女帝との間に二人の娘を設け、さらにその二人の娘は、鎌足の弟の中大兄皇子と肉体関係を結び、後の持統天皇他を生む。

図42 暗号が示す全系図

E 大化の改新とその後

○ 皇紀1305年(西暦645年)乙巳歳6月12日

 この日、鎌足と中大兄皇子ら革命軍は、皇極女帝を殺害し、さらに9月12日には、中大兄皇子が、母を蘇生させるための儀式に臨む皇極女帝の末娘も殺害。
 一方、鎌足は、皇極女帝殺害後、東国各地を男帝側に服従させるための旅に出る。
 関東〜東北まで、多くの地域では、目的を達せられたが、信濃地方では強く抵抗され、11月に、無念にも鎌足は諏訪で戦死した。
 としても、反撃はそれまでで、次男の中大兄皇子が革命軍を率いて対峙すると、皇極女帝を蘇生させることが最早不可能となったこともあり、女帝側は急速に力を失い、内部崩壊を起こしf始めた。
 これで、女帝側の直系の皇位継承者はいなくなり、しばらく男帝女帝が並立していた日本の王権は、男帝に一本化され、念願の母権制社会とその忌まわしい風習脱却はほぼ達成されたのであって、これが大化の改新の本当の姿だったのである。
 天皇とは、そもそも中国の『春秋緯』という書物にある言葉で、この世の最初の王統ということだが、日本では、「父権制社会の王」という意味を込めて、使われたようである。
 易では、天は(天)という卦を通じて父を意味するのである。
 ただし、まだ抵抗する女性もいくらか残っていた。

○ 皇紀1321年(西暦661年)辛酉歳6月

 A欽明女帝の蘇りとなる孫娘が、もう一度母権制社会を復活させようと、倭(畿内)を捨てて、九州に逃げる。しかし、不穏な動きに、天智天皇はすぐさま後を追い、この日、その孫娘を殺害し、クーデターを未然に防ぎ、事なきを得る。

○ 皇紀1322年(西暦662年)壬戌歳

 持統天皇(当時天武妃)が、百済から朝貢に来た使者と深い仲になり、その結果として草壁皇子を生む。(5−2−Fより)

○ 皇紀1325年(西暦665年)乙丑歳

 天智天皇崩。弟の天武天皇が皇位継承。

○ 皇紀1326年(西暦666年)丙寅歳

 @推古女帝の蘇りとなる孫娘の大友皇女(表向きの大友皇子)が、母権制社会復活を賭けて、近江大津に兵力を結集する。

○ 皇紀1332年(西暦672年)壬申歳6月

 天武天皇は、しばらく近江の様子を静観し、できることなら武力を行使せずに、母権制社会復活を諦めさせようと考えていたが、いつまで経っても服従する様子がないので、仕方なく一戦交える。
 死力を振り絞って応戦する相手に、いささか苦戦を強いられた場面もあったが、最後には大友皇女を殺害し、鎮圧する。
 これがいわゆる「壬申の乱」の正体である。

 これで、B継体女帝の娘のA欽明女帝、@推古女帝、皇極女帝の血を引く者のうち、男帝革命軍に服従しなかった女性はすべていなくなったことになり、日本は父権制社会として、新たに出発する。
 しかし、一旦「仁」を知って、人の死を冷静に受け止めるようになると、食人による肉体蘇生を信じていた母権制社会の時代を、畜生同然と恥じ、これを歴史上から抹殺しようと、多くの人々が考えるようになった。

以下は5−2−Fの再掲。

○ 皇紀1337年(西暦667年)丁丑歳

 壬申の乱が平定されて6年になるが、朝廷内ではこの頃から、平然と汚職をする持統皇后の発言力が強くなって来る。

○ 皇紀1341年(西暦681年)辛巳歳2月庚子朔甲子(25日)

 汚職で得た勢力を後ろ盾にした持統皇后は、予てより天武天皇の子だと偽り続けて来た草壁皇子を、この日、皇太子とすることに成功する。

○ 同年3月

 持統皇后と賄賂で結ばれた朝廷内の大多数勢力が、綺麗事ばかりで飾り、それに都合の悪い真実は全て切り捨てた虚構の歴史物語編纂事業に着手する。これに対して天武天皇は、真実の歴史を後世に伝え残そうと独自に調査し、知り得た全てを愛娘で数少ない味方の一人、稗田阿礼(母は持統皇后)に誦習させる。誦習という手段を用いたのは、文書で残せば焼き捨てられる危険があったからだろう。

○ 皇紀1346年(西暦686年)丙戌歳

 持統皇后が天武天皇に毒を盛り始める。用いられたのは長期間与え続けることで死に至る毒物で、これにより天武天皇は病床に着く。草壁皇子を皇太子としたことで、最早用済みとなったばかりか、汚職や虚構の歴史書編纂に批判的な天武天皇である。生きていては何かと都合が悪かったのだろう。

○ 同年9月戊戌朔丙午(9日)

 天武天皇崩御。よって毒殺計画は成功。しかし、必ずしも持統皇后の思い通りには行かなかった。草壁皇子が天武天皇の後継として即位しようとすると、その出生疑惑を理由に大津皇子(父は天武天皇、母は大田皇女=持統皇后の姉)が実力阻止に出たからである。
 この事件は大津皇子にあまり力がなかったことから、翌十月に大津皇子を謀反者として処刑することで収まったが、これにより世間の目は厳しくなる。そこで草壁皇子の即位は見合わされ、代わりに天武天皇と持統皇后の間に生まれた稗田阿礼が皇位に就く。なお、朱鳥という年号は暗号のためのものであって、実在はしない。

○ 皇紀1349年(西暦689年)戊子歳

 持統皇后を中心とする勢力が稗田阿礼の暗殺を仄めかし譲位を迫ったので、稗田阿礼側は止むを得ずこれに従う。天武天皇の信頼厚かった人物が皇位にあることを不愉快に思ったのだろう。

○ 皇紀1350年(西暦690年)己丑歳正月戊寅朔(1日)

 持統天皇即位。

○ 皇紀1353年(西暦693年)癸巳歳9月戊子朔乙未(8日)

 高市皇子(天武天皇の庶子)が草壁皇子の側近の一人に、「草壁皇子を殺してくれたら、私が皇太子となった暁には御前を大臣にしよう」と言って唆し、天武天皇の命日であるこの日に草壁皇子を暗殺させる。そして意気揚々と事の次第を報告に来ると、「自分の主人を裏切るような奴は信用出来ない」として、今度はこの人物を殺す。大津皇子の無念を晴らしたかったのだろう。

○ 皇紀1354年(西暦694年)甲午歳4月甲寅朔庚辰(27日)

 高市皇子が太政大臣(皇太子格)になる。

○ 皇紀1356年(西暦696年)丙申歳7月辛丑朔癸卯(3日)

 天武天皇の死因が持統天皇による毒殺だったことを、とある偶然から知った高市皇子が、この日に「父の仇」として持統天皇を暗殺する。しかし、いくら「父の仇」であったとしても天皇暗殺は大罪であり、またこれを放置すれば国中が大混乱となる恐れもある。そこで同月10日、高市皇子には死が命じられ、この事は多臣品治によって内密に処理されると共に、持統天皇の遺体も人里離れた山中(現・奈良市東部の奥山地区)に埋葬された。
 この事件により、急遽、稗田阿礼が、持統天皇のいわゆる影武者として皇位に就き、何事もなかったかのように装い、翌年8月には譲位という形式で草壁皇子の息子の文武天皇(当時15歳・母は天智天皇の娘で後の元明天皇)に皇位を継承させる。文武擁立は、持統天皇を支持していた朝廷内主流派の意志だろう。

 

9−2 卑弥呼は崇神女帝のことだった!

@ 漢風諡号の規則性
A 仏教伝来と元興寺伽藍縁起
B 魏志倭人伝との比較
C 宋書倭国伝との比較
D 神武男帝が逃げた美濃にある大矢田神社
E ヤタとキリスト教と『日本書紀』

 この暗号が示す歴史は、果たして真実の歴史なのだろうか?
 ここでは、その辺を検証してみたい。

図42 暗号が示す全系図

@ 漢風諡号の規則性

 表向きの歴代天皇の漢風諡号には、何ら規則性は感じられない。
 しかし、暗号が示す歴史では、図42に示した系図のように、明らかな規則性がある。
 女帝で同じ文字を共有する人物は姉妹となっている。
 K仁徳とJ仁賢、D安寧とC安閑、A欽明・用明・@推古(舒明)・皇極(斉明)である。
 例外は、伯母と姪の関係となるO崇神とM応神、姉妹でありながら同じ文字を共有しないH成務とG履中、F反正とE懿徳だが、これらは別の暗号としての役割があった。
 また、意味が曖昧な神名や天皇の国風諡号、説明できない不自然な長寿、干支や数字の矛盾は、すべて暗号であって、きちんと説明がついた。

図42 暗号が示す全系図

A 仏教伝来と元興寺伽藍縁起

 表向きの歴史では、欽明13年と敏達13年に、仏教が始めて日本に伝来したと記述している。
 しかし欽明13年は皇紀1212壬申(みずのえさる)歳=西暦552年、
 一方の敏達13年は皇紀1244甲辰(きのえたつ)歳=西暦584年だから、
 両者は32年もの隔たりがあり、どちらが正しいのか判然としない。
 多くの日本史紹介本では、さしたる根拠もなく、欽明13年のほうを採用している。
 戦前の教育では、
 イチニイチニ(1212)と仏が来て、大化の改新イサンワイ(1305)・・・、
 などと、七五調の歌のようにして暗誦したらしいが、とにかく、仏教伝来は古いことであったほうが好ましいということのなか……。

 また、飛鳥時代の歴史研究でよく引用される『元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)』では、欽明7年戊午(つちのえうま)歳に仏教が伝来したとある。

 表向きの欽明7年は丙寅(ひのえとら)歳であるばかりか、欽明天皇の時代には、戊午歳は存在しない。
 この付近の戊午歳は皇紀1258年=西暦598年、表向きの歴史で言えば推古6年になってしまう。
 そこで、干支一巡すなわち60年繰上げて、皇紀1198年=西暦538年、表向きの宣化3年のことではないか、とも考えられている。
 このように、『日本書紀』と『元興寺伽藍縁起』と、どちらが正しいのか、あるいは双方とも誤りなのか、悩むところである。

 ところが、暗号が示す歴史では、A欽明女帝と(6)敏達男帝は同年に即位しているのだから、欽明7年と敏達7年は同じ年になる。
 前帝崩の翌年を元年とすれば、A欽明女帝と(6)敏達男帝の元年は、共に皇紀1252年となる。
 したがって欽明7年は、皇紀1258戊午歳=西暦598年すなわち『元興寺伽藍縁起』が仏教伝来したとする年に、ビッタリ一致するのである。
 『元興寺伽藍縁起』は、当時の日本が母権制社会であったことなどには触れていないし、他の部分では『日本書紀』の表向きの記述に準じて書かれているので、これをそのまま信じてしまうのは、いささか問題もあるが、とにかく「年代が一致する」、ということに、私は暗号が示す歴史の信憑性が、かなり高いものと確信した。

 『元興寺伽藍縁起』は、奥付けによると天平19年=皇紀1405年=西暦745年の成立、
 『日本書紀』は、『続日本紀』によると養老4年=皇紀1380年=西暦720年に成立とある。
 おそらく『元興寺伽藍縁起』も、政府の要請にしたがって母権制社会を隠蔽せざるを得なかったのだろう。
 そもそも『日本書紀』が示す仏教伝来年は、前述のように二種類あり、どちらを取るか迷う。
 どちらを取るにしろ、どうせウソである。
 だったら、真実の仏教伝来年を書いても、大した問題はなく、咎められることはない。
 そんな思いが、この『元興寺伽藍縁起』を書かせたのだろう。

 ともあれ、本当に仏教が伝来したのは、この皇紀1258戊午年=西暦598年だったのである。

図42 暗号が示す全系図

B 魏志倭人伝との比較

 『魏志倭人伝』には、
 西暦240年頃、日本には邪馬台国という国があり、鬼道に仕える女王卑弥呼が治めていた。
 卑弥呼が死ぬと男王が立つが、国中が服さず、あちらこちらで殺し合いが起きた。
 そこで卑弥呼の宗女壱与(いよ)なる人物が、その男王に代わって女王となった。
 すると国は治まり、平和を取り戻した。
 とあり、また『宋書倭国伝』では、西暦400年代に、いわゆる「倭の五王」がいたとある。

 しかし、表向きの歴史には、これらの人物についての記述はない。
 これまでの研究では、例えば、卑弥呼は神功皇后、「倭の五王」は仁徳天皇から雄略天皇あたりまでの天皇を指すのではないか、とする説もあるにはあるが、何れも年代や皇位継承順の点から、かなり無理がある。そこで、『記』『紀』とはまったく無関係の王朝が存在したのではないか、と考える人々もいるようである。

 ところが、この暗号が示す系図を見ると、彼等が誰のことなのか、一目瞭然なのである。
 卑弥呼が死んだのは、『魏志倭人伝』の記述から、西暦240〜250年の間となるのだが、暗号では、この間の西暦247年(皇紀907年)に、O崇神女帝が崩御している。
 卑弥呼が死んで男王が立つと、国が乱れたので、卑弥呼の宗女壱与が女王となったとあるが、崇神女帝の次には男性のヤタ=N垂仁男帝(崇神女帝の息子)が「仁」による宗教改革を旗印に王となるも、結局は4年後の西暦251年(皇紀911年)に、何者かに殺され、O崇神女帝の姪に当たるM応神女帝が即位し、宗教改革は失敗に終わる。

 見事に一致しているではないか。
 また、鬼道がどういうものなのか、『魏志倭人伝』には記載がなく、判然としないが、母権制社会とワンセットになっていたのが、「食人による蘇生」である。
 これはまさに鬼畜な風習であり、鬼道と呼ぶに相応しいではないか。
 とすると、この食人による蘇生を指して、鬼道と表現したのではないだろうか。

 ただし『魏志倭人伝』では、卑弥呼が立つ以前は男王国だったとするとともに、当時の風俗は淫らではないとしていて、暗号では、はるか昔から女帝が治めていたとあるとともに、畜生のような世の中だったとある。
 儒教文化の中国からすれば、母権制社会は畜生同然の世の中であり、「淫らではない」とは言えないはずである。

図42 暗号が示す全系図

C 宋書倭国伝との比較

 「宋書倭国伝」によると、西暦400年代頃に、日本にはいわゆる「倭の五王」がいたとある。
 「倭の五王」はそれぞれ漢字一文字で、讃、珍、済、興、武、と表記され、宋書倭国伝の記事から推定される死亡時期と続柄は、図43左のようになるのだが、これも暗号が示す仁徳女帝から履中女帝まで(図43右)と、完全に一致している。

 ただし「倭の五王」は、全員男性であるかのように描かれていて、中国から安東大将軍という称号を賜っている。
 もっとも安東大将軍の頭の安の字は、D安寧女帝やC安閑女帝の安でもある。
 とすると、何らかの事情で日本が母権制社会であることを隠しつつ、『魏志倭人伝』や『宋書倭国伝』は書かれた気配もある。
 あるいは安東大将軍も男性ではなく、女王に与えられる称号だったのかもしれない。
 また倭の五王の時代の後から「隋書倭国伝」の時代までは、中国側資料に日本の様子が描かれない。
 丁度、神武男帝のクーデターを起こし、日本が混乱していた時期である。
 再び日本が中国側資料に登場するのは、『隋書倭国伝』の聖徳太子(孝徳男帝)の時代に女帝側の使者が隋に行ったのではないかと思われる記事である。この記事については7−1−Hで触れたので、ここでは割愛するが、やはりこの暗号が示す歴史とのほうが、表向きの歴史よりも、内容が合致する。

D 神武男帝が逃げた美濃にある大矢田神社

 暗号が示す歴史では、(1)神武男帝はG履中女帝を殺害すると、その足で美濃に逃げたとある。
 そのときから、(4)雄略男帝が倭に乗り込むまで、革命軍はその美濃に本拠地を置いていた。
 現・岐阜県美濃市には、市の中心部から長良川を渡って少し行ったところに大矢田(おおやた)神社という神社があり、その後ろには天王山という山が聳えている。
 8−1−Dで話した天若日子(あまわかひこ)の葬儀が行われたとされる場所の近くである。

 縁起によると、御祭神は須佐之男命(すさのをのみこと)と天若日子他で、7孝霊天皇の頃に鎮座したとされる。
 その後、元正天皇の養老2年(西暦716年=皇紀1376年)に、泰澄(たいちょう)大師が天王山一山を開基し、宏大なる堂塔伽藍を建立し、一山を総号して天王山禅定寺と称し、社頭は牛頭天王と称していた。
 牛頭天王とは、須佐之男命を仏教の守護神に擬えたもので、里人は「お天王様」の名で親しみ、遠近の崇敬者から篤く信仰されていた。
 明治維新に、神仏分離により、仏堂を撤廃して大矢田神社と改称した。
 現在の本殿は、江戸時代初期のもので、地元では、紅葉の名所としても名高い。

 大矢田という地名の由来は、天若日子が、天照大御神から賜り、結局自分がそれで死ぬことになった大きな矢にちなむということだが、須佐之男命はヤタ(N垂仁男帝)や神武革命軍の神格化である。
 とすると、偉大なるヤタということで、大矢田という地名が生まれ、神武男帝が革命の拠点としたからこそ、天王山と呼んだ、ということもあったのではないだろうか。
 養老2年と言えば、『日本書紀』を編纂している頃である。
 とすると、この大矢田神社すなわち当時の天王山禅定寺は、神武革命軍ゆかりの地を聖地としたい、という思いが込められていたのではないだろうか。

図42 暗号が示す全系図

9−3 解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」

@ ヤボな話
A 十七条の憲法
B 開化天皇と鵜葺草葺不合命
C おわりに・・・

@ ヤボな話

 ときどき、「どちらへ」と尋ねると、「ちょっとヤボ用で……」と、返事を誤魔化されることがある。
 このように、無粋なこと=言いたくないこと=無理なことを、「ヤボ」と表現する。
 なんでヤボと言うのか。
 そもそもは雅楽の楽器「(しょう)」に関する伝承に由来する。
 私が雅楽を演奏する、ということは、プロローグで少し触れたが、私が演奏する篳篥という楽器は、西洋音楽で使うオーボエのように、リードを差し込んで吹く独特の音色の縦笛で、主旋律を担当する。
 しかし音楽はメロディーだけでは寂しい。和音を奏でる楽器が欲しい。
 雅楽でその和音を奏でるのが、これから話題にする「笙」という楽器なのである。
 笙の写真はコチラ(wikipedia)でご覧ください。

 笙は、ふいごの役割をする匏の上に、長短17本の竹管を環状に差し立て、それぞれの竹管の根元付近に開けられた指孔を指で押さえ塞ぐことにより、管の内側に取り付けられたリードを震動させて音を出す楽器である。
 篳篥がオーボエなら、笙はパイプオルガンの遠い親戚とも言われる楽器で、音色もパイプオルガンの高音部に近く、雅楽では通常五声ないし六声の和音をもって演奏される。
 笙の和音は、洋楽で言うところの不協和音なのだが、雅楽では、とても心地よい響きになる。まるで、天の気が降りて来るかのような静寂の音とでも言おうか。洋楽では表現できない幻想的な和音である。
 が、そんな笙には、不思議な言い伝えがあり、現代の楽器も、きちんとその言い伝えに従って、作られているのである。

 笙の環状に配置されている17本の竹管それぞれには、次のような名前がついている。
 (せん)(じゅう)()(おつ)()()(いち)(はち)()
 (ごん)(しち)(ぎょう)(じょう)(ぼう)(こつ)(もう)()
 しかし、このうちの也と毛と呼ばれる竹管だけは、リードがついていない。
 したがって、その竹管の指孔をいくら押しても、音は出ない。
 だから也と毛の音を出すのはムリなのであって、この也毛(ヤモ)が訛ってヤボとなったのである。
 なぜ、この也と毛にリードをつけないのか。
 それは、ここにリードをつけると、「亡国の音がする」というのである。
 国が亡びる音とは、一体どんな音なのだろうか。
 古来より、『礼記』楽記篇等を参考に、「民衆が困窮して叫ぶような音」あるいは「淫靡な響きの音」のことだと解釈し、種々のリードをつけて実験もなされては来たが、未だ「これが亡国の音だ」と納得できる答えは出ていない。
 とすると、これは音楽的なことではなく、何か、国が亡びるかのような衝撃的な秘密を教える暗号なのではないだろうか、と私は考えた。
 雅楽は(おおの)家を中心に受け継がれて来た音楽で、その多家の祖は、『古事記』の篇者の太安萬侶である。
 さらには、笙を専門とする家柄のひとつに(ぶんの)家というのがある。豊家は、天武天皇崩御のときに謀反者として殺された大津皇子を祖とする家柄である。
 とすると、何やら、このヤボの亡国の音とは、『日本書紀』『古事記』についての何か重大な秘密を隠しているようではないか。

A 十七条の憲法

 そこで頭に浮かんだのは、聖徳太子の「十七条の憲法」である。
 この憲法は、表向きの歴史を踏まえたものなので、暗号を解読してしまった今となっては、『古事記』『日本書紀』篇者の創作なのは明らかである。
 しかし、疑問がひとつだけ残った。なぜ十七条なのだろうか。
 一般的な解釈では、陽の数が9で陰の数が8だから、それを合計して17としたのではないか、とも言われているが、この暗号を解読していて、それとは違う意味があることに気付いた。

 第一条には「和を以って貴しとす」とある。
 第一条は、一番大事なことを書いているはずである。
 「和が大事で、全部で17あるもの」と言えば、この、雅楽の楽器の「笙」である。

 也と毛にリードをつけていなければ、音が出るのは15本だから、「十七条の憲法」とは数の上で一致しない。
 しかし、也と毛にもリードをつけて17本すべてから音が出るようにすれば、それこそ「十七条の憲法」と完全に一致する。
 とすると、十七条の憲法は、聖徳太子が作ったのではなく、『古事記』『日本書紀』編纂段階で創作した架空の憲法だ、と教えようとしたのが、この笙の伝承なのではないだろうか。
 そもそも十七条としたのは、この笙の竹管の数によるのであって、それを曖昧にするという建前で、当面演奏にあまり影響しない竹管2本からリードを外した。
 現代において、十七条の憲法が偽作か否かは、古代史研究者以外には大した問題ではないが、当時なら深刻な問題のはず。まさに亡国の音と呼ぶにピッタリである。

 我ながら、なかなかの推理である・・・と、一旦は納得したのだが、よく考えると、なぜ也と毛の二箇所のリードが外されているのかの説明がなされていない。

 音が出る数を17としないだけのためならば、リードをつけないのは一箇所でもよいはずである。
 そこで、「十七条の憲法」の条文と照らし合わせながら、也と毛の位置に注目してみた。
 残念ながら、関連性はなかった。
 ところが、ああでもないこうでもないと眺めているうちに、この竹管の配列は、『記』『紀』が暗号文書であるということを、示唆していたことがわかったのである。

B 開化天皇と鵜葺草葺不合命

 まずは竹管の配列を視覚的に示そう。次の図44がそうである。

表T 古代天皇と易六十四卦の序次 表U 神世と易六十四卦の序次 乱数表はコチラ

 このうちの、竹管名が数字である一、七、八と、也と毛の位置関係に注目する。
まず、「一」の位置に初代である神武天皇を置き、左回りで表向きの歴代を並べる。すると9代目の開化天皇にリードがない「毛」が当たる。
 また、「七」の位置を7代目である孝霊天皇を置き、同じく左回りで歴代を並べると、今度はリードがないもう一方の「也」に、これまた開化天皇が当たるのである。
 暗号では、開化天皇の実在は否定されたわけだが、開化という漢風諡号は、何かが開いていることを連想させる。
 「也」と「毛」は、ともにリードは存在しないが、指孔は開いている。
 おお、ピタリ一致しているではないか。
しかし、一致はこれだけではなかった。

 『古事記』には、神世七代という言葉がある。国之常立神から伊邪那岐神・妹伊邪那美神までの七代のことを指す。
 そこで、「七」をこの神世七代の位置として、今度は右回りで、神々の登場順に並べる。
 すると、鵜葺草葺不合命(うかやふきあへずのみこと)が「毛」に当たる。
 また、「一」、「八」と並ぶところは、易六十四卦の序次第1の乾為天(けんいてん)(一が示す(天)が重なった形)と第2の坤為地(こんいち)(八が示す(地)が重なった形)とすれば、A列では、1乾為天は邇邇藝(ににぎの)命の、2坤為地は穂穂手見(ほほでみの)命の位置だから、次の「也」は3水雷屯(すいらいちゅん)すなわち、これまた鵜葺草葺不合命に当たるのである。

 国之常立神から持統天皇に至る皇統譜は、易六十四卦の序次が作り出す円周上に並べられたものであり、ひとり欠けてもこの円周は成立せず、それを鵜葺草葺不合命の不合という文字で表現しているのだ、ということは3−2で話したが、この笙の竹管も、その鵜葺草葺不合命の位置に当たる「也」と「毛」にリードがついていなことで、円周を成立させていないことになる。
 逆に言えば、「也」と「毛」にリードを付けると、円周が成立するのである。
 皇統譜が円周上に配列されたものだということが分れば、暗号が解読され、隠した古代史の真実が明らかになる。
だから也と毛は「亡国の音」と表現したのである。
 「十七条の憲法」は、笙という楽器に秘密があることを匂わせるために、十七条なのであって、その秘密が「開化天皇が実在しない」ということと、「皇統譜の円周と鵜葺草葺不合命の関係」だったのである。
 そうすることで、暗号解読者に道標を与える、という側面もあったのだろう。

C おわりに・・・

 『記・紀』の暗号を解読したのは、おそらく私が初めてではないだろう。
 ただ、戦後になってからは、誰も気付かなかったのかもしれない。
 恰もこの暗号がわからないようにするための教育がなされて来たからである。
 その第一は、西暦を使って歴史を考えることである。
 この暗号は、皇紀を使ってこそ初めて気付くとともに、解読できるのである。
 第二は、易についての智識が古代史と関わる人たちにほとんどない、ということである。

 これが江戸時代までなら、「76は蒙だ」と言えば、その意味はそこそこわかったはずである。
 当時の知識階層の必須教養の中には、ちゃんと「易」があったのである。
 もちろん『古事記伝』や『古訓古事記』を書いた本居宣長(もとおりのりなが)もである。
 おそらく宣長はこの暗号を解読していたように思う。
 解読したからこそ、『古事記』は名前などの文字の意味は無視して音だけを手掛かりに理解するべきだといったことを述べたのではないだろうか。その宣長の指示を守って音だけを手掛かりにしているのが現代の『古事記』『日本書紀』研究の主流のようでもある。その研究姿勢が「易」を面倒臭がって、これまで遠ざけきたのかもしれない。
 また、宣長が言う「もののあはれ」とは、まさに垂仁男帝が考えた「仁」のことのようでもある。
 しかし、当時は言論の自由はない時代、解読してもそれを一般に公開する必要はなかったのだろう。
 『論語』に「中人以下には以って上を語ぐべからず」という言葉もある。
 主権者である朝廷や幕府の中の一部の人たちに話せばそれでよかったし、76は蒙だ、と言ってその意味がそこそこわかる程度の易の智識さえあれば、誰でも解読できるものである。

 さて、今は言論の自由がある時代ではあるが、戦後、GHQの指導により、私たちは日本の伝統文化から遠ざかるように教育されて来た。
 その結果、皇紀を使う人はとても少なくなってしまった。まして、易の知識がある古代史研究者もまずいない。
 とすると、せっかく『古事記』『日本書紀』を誰でも読める状況にありながら、主権者である国民が、誰でも簡単に解読できるということにはなっていない。
 だから私は、こうして解読の結果を公開することにした。
 より多くの方々に、この真実の古代史を知ってほしい、と願っている。

 今後の社会の在り方や、人としての生き方を考える上で、この古代の宗教改革の意義を振り返っていただければ幸いである。

 荒削りで読みづらい文章に、ここまでお付き合いいただき、感謝する。

誠惶誠恐、頓首頓首。

コアラン/koalan

このページのトップへ Eメール

古事記と易学

発見!想像を絶する真実の古代日本

もくじ

☆ プロローグ

☆ 謎めく数字137と皇統譜の円周
1−1 暗号発見までの経緯

1−2 古代天皇と易六十四卦の序次 @

2−1 古代天皇と易六十四卦の序次 A

2−2 謎めく数字137

3−1 神世と易六十四卦の序次

3−2 円を描く皇統譜とその不合

☆ 『古事記』序文に隠されたメッセージ
4    歴史を腐敗させた女帝とは?

☆ 暗号解読[1]
持統天皇暗殺!
5−1 神武天皇と辛酉革命

5−2 持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代

☆ 暗号解読[2]
41ピースのジグソーパズル

6−1 架空の天皇

6−2 隠された女帝達と『古事記』序文の態度

6−3 男帝と女帝の二王朝が並立する皇統譜

6−4 暗号が示す皇統譜の親子関係

☆ 暗号解読[3]
母権制社会の忌わしい歴史
7−1 女帝たちの忌わしい宗教

7−2 母権制社会脱却の失敗

7−3 応神女帝〜推古女帝までの、各女帝の年代

☆ 暗号解読[4]
母権制社会から父権制社会へ
8−1 神武男帝のクーデター・イザ!オウ!

8−2 雄略男帝〜聖徳太子までの歴史

8−3 大化の改新=父権制社会としての出発

☆ 隠された古代史の全容
9−1 暗号が示す歴史の全容

9−2 卑弥呼は崇神女帝のことだった!

9−3 解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」

古事記と易学

発見!想像を絶する真実の古代日本

もくじ

☆ プロローグ

☆ 謎めく数字137と皇統譜の円周
1−1 暗号発見までの経緯

1−2 古代天皇と易六十四卦の序次 @

2−1 古代天皇と易六十四卦の序次 A

2−2 謎めく数字137

3−1 神世と易六十四卦の序次

3−2 円を描く皇統譜とその不合

☆ 『古事記』序文に隠されたメッセージ
4    歴史を腐敗させた女帝とは?

☆ 暗号解読[1]
持統天皇暗殺!
5−1 神武天皇と辛酉革命

5−2 持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代

☆ 暗号解読[2]
41ピースのジグソーパズル

6−1 架空の天皇

6−2 隠された女帝達と『古事記』序文の態度

6−3 男帝と女帝の二王朝が並立する皇統譜

6−4 暗号が示す皇統譜の親子関係

☆ 暗号解読[3]
母権制社会の忌わしい歴史
7−1 女帝たちの忌わしい宗教

7−2 母権制社会脱却の失敗

7−3 応神女帝〜推古女帝までの、各女帝の年代

☆ 暗号解読[4]
母権制社会から父権制社会へ
8−1 神武男帝のクーデター・イザ!オウ!

8−2 雄略男帝〜聖徳太子までの歴史

8−3 大化の改新=父権制社会としての出発

☆ 隠された古代史の全容
9−1 暗号が示す歴史の全容

9−2 卑弥呼は崇神女帝のことだった!

9−3 解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」


学易有丘会トップページ九星トップページカンタン!自分でできる無料易占い易学入門易経詳解古事記と易学 古事記・日本書紀は易を乱数表として利用した暗号文書だった!聖書と易学ーキリスト教二千年の封印を解くーブログ〜折に触れ、あれこれ書いてます。コアランの音楽演奏動画など
最終更新日:平成29年09月09日 学易有丘会
Copyright Heisei-12th〜28th(2660〜2676) (C)2000〜2016 GakuEki-UQkai
当サイトの内容はすべて無断転載を禁止します