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B 履中女帝以前の系図
さて、履中女帝以前に目を転じよう。
暗号が示す皇統譜は、Q孝昭女帝、P孝安女帝、O崇神女帝、N垂仁男帝、M応神女帝、L景行女帝、K仁徳女帝、J仁賢女帝、I顕宗女帝、H成務女帝、G履中女帝と続き、N垂仁以外は皆女帝となるわけだが、まずは履中女帝から見て行く。
G履中・H成務・I顕宗の各女帝
履中の履の字は序次10 天沢履の履でもあるが、顕宗女帝の国風諡号の袁祁之石巣別の石巣も、石は「堅い」ということから 乾(天)、巣(鳥の巣)はその形状から 兌(沢)とすれば、これまた10 天沢履だから、このG履中女帝とI顕宗女帝の二人には、繋がりがあることになる。
皇位継承順は、I顕宗・H成務・G履中である。
繋がりがなければ、G履中はH成務の子となるところだが、このようにH成務を飛び越えてI顕宗と繋がりがあるということは、順が飛んでいても、I顕宗とG履中は親子だ、と示していることになる。
また、H成務女帝は前帝の子であることを否定する暗号は見当たらないので、H成務女帝もI顕宗女帝の子となる。
したがって、G履中女帝はH成務女帝の妹で、二人はI顕宗女帝の娘となる。
そのI顕宗女帝は、前帝の子であることを否定する暗号は見当たらないので、J仁賢女帝の子となる。
仁賢女帝の前帝は仁徳女帝だが、この二人の関係については、景行女帝に暗号があるので、その話の中で触れることにする。
L景行女帝、そしてJ仁賢女帝・K仁徳女帝
L景行女帝の国風諡号の大帯日子の部分は、成務女帝の若帯日子との比較から、この位置には複数の女帝が代々皇位継承していたと判断したわけだが、その仔細は次のような手続きで明らかになった。
皇位継承と言ってまず思い浮かぶのは、「継体」という漢風諡号である。
「継体紀」によると、武烈天皇で皇統が断絶し、越の国(今の北陸地方)から、皇統を受け継ぐ人物を連れて来て、27継体天皇としたとある。
その中で、継体天皇は、16応神天皇の五世の孫、母の振媛は11垂仁天皇の七世の孫とされている。
しかし、暗号では、継体女帝は安閑女帝の娘だったので、これは記紀編纂時に創作された架空の物語である。
しかし、16応神天皇の五世の孫、母の振媛は11垂仁天皇の七世の孫だった、とする記述は、何やらクサいではないか。
複数の皇位継承者がいて、その順番が判然としないのは、L景行女帝である。
L景行女帝はM応神女帝の次であり、J垂仁男帝の次の次に即位したのだから、実は、応神や垂仁から、時間的にはそんなに遠くない時代である。
すなわち、この「応神天皇の五世の孫、母の振媛は11垂仁天皇の七世の孫だった」という記述こそ、景行という名で括られた女帝の人数と皇位継承を教えるものだったのである。
「景行記」には妃や妾、合わせて7人と、それぞれの子の名前が記載されている。
列挙すると次のとおり。
妃1 若建吉備津日子の女の針間之伊那毘能大郎女。
子供の名=櫛角別王、大碓命、小碓命(別名を倭男具那命、後の名を倭建命)、倭根子命、神櫛王。
妃2 八尺入日子命の女の八坂之入日売命。
子供の名=若帯日子命(成務天皇)、五百木之入日子命、押別命、五百木之入日売命。
妃3 妾(名の記載なし)。
子供の名=豊戸別王、沼代郎女。
妃4 妾(名の記載なし)。
子供の名=沼名木郎女、香余理比売命、若木之入日子王、吉備之兄日子王、高木比売命、弟比売命。
妃5 日向の美波迦斯毘売。
子供の名=豊国別王。
妃6 伊那毘能大郎女の弟(=妹のこと)の伊那毘能若郎女。
子供の名=真若王、日子人之大兄王。
妃7 須売伊呂大中日子王の女で、倭建命の曾孫となる訶具漏比売。
子供の名=大枝王。
「景行記」には、12景行天皇の子供は、ここに挙げた21人の他に、名の知れない者が59人いて、この計80人のうちの、若帯日子命と倭建命と五百木之入日子命の3人は、太子となった、とある。
このうちの若帯日子命は後の13成務天皇だから、これは問題ない。
倭建命は太子として遠征の途中、今の三重県で病死したとあり、結局天皇にはなれず、その子が14仲哀天皇となったとあるので、これも問題ない。
ところが、五百木之入日子命については、ここに太子となったとだけあり、その後、天皇になったとも、太子のまま死んだとも、とにかく一切何も書かれていないので、研究者を悩ませている。
また、7の訶具漏比売は、景行天皇の子の倭建命の曾孫だが、自分の子の曾孫を娶るというのは、普通ならば年齢的に有り得ない話である。
まあ、137歳まで生きたとすれば、全く不可能ということではないだろうが・・・。
とにかく、この不可思議な記述こそが暗号だったのであって、易と文字との関係に従って、妃や子の名を検証すると、この有り得ないことも大きなヒントになって、次の図33のような系図に組み上がるのである。
これによると、景行女帝のところは都合7人で、前帝から次帝までで5世となるのである。
なお、7人は仮に景行A〜Gと表記しておく。
図33を見ながら話そう。
○ 景行A
まず、若建吉備津日子という名の頭の若建を見る。若は老を陽とした時の陰だからその極みの 坤(地)、建は建御雷神という神名があることにちなみ 震(雷)とすれば、若建で序次24 地雷復となる。
この卦は一陽来復で始まりを意味する。
したがって、この人物が景行という名で括られたうちの、初代の女帝だと示していることになる。
続く吉の字は19 地沢臨(6.暗号解読[2]のDにある吉野の解釈参照)となり、津はサンズイだから水にちなみ 坎(水)、日は 離(火)だから、津日で63 水火既済となるので、吉備津日子で「19 地沢臨を備える63 水火既済の子」となる。
19 地沢臨は、16応神天皇のA列である。
63 水火既済は、以下のように、11垂仁天皇の『日本書紀』の国風諡号の活目入彦五十狹茅の活目を易の卦に置き換えた形である。
活は水が勢いよく流れる様子を意味する文字だから 坎(水)、目は 離(火)だから、活目と合わせて、63 水火既済となる。
したがって、吉備津日子というのは、「応神天皇の要素を備える垂仁天皇の子」と解釈できるので、この人物の両親は垂仁男帝と応神女帝となる。
○ 景行B
倭建命の曾孫とあるが、表向きの皇統では、倭建命ー仲哀天皇ー応神天皇ー応神天皇の子に当たり、暗号では応神女帝の子の代が景行である。
したがって、この人物も景行Aと同様に応神女帝の子となり、表向きの登場順「A(妃1)・G(妃2)・F(妃3)・D(妃4)・E(妃5)・C(妃6)・B(妃7)」が、景行Aより後なので、妹となる。
また、御子に大枝王という名があり、大きな枝はさらに枝別れして発展するものだから、これは、この人物の子が次の皇位継承者だと示していることになる。
○ 景行C・景行D
子に日子人之大兄王という名があるが、景行Dの子には弟比売命という名があり、他の妃の子には、兄または弟という字が付く名はないので、この二人は姉妹(兄弟)となる。その上、大兄は大枝と音が共通し、景行Bとの繋がりを窺わせるので、この人物は景行Bの子でもあることになる。
○ 景行E・景行F
景行Eの子の豊国別王と、景行Fの子の豊戸別王という名は、共に豊の字を共有するが、豊が名前に付く易の卦は序次55 雷火豊である。
一方、景行Dの子の香余理比売命の香は、禾と日に分けて易の卦に置き換えると、禾は稲科の植物を指す文字だから稲を示す 震(雷)・日は 離(火)だから、合わせてこれも55 雷火豊となる。
また、景行Dの沼名木郎女と、景行Fの沼代郎女では、沼の字が共通するが、同じ卦を示したり、同じ文字を共有するからには、景行Eと景行Fは、景行Dと何らかの関係があるはずである。ここで言う関係は、親子しかない。
とすると、この景行E、景行Fの二人は景行Dの娘となる。
このように、景行Eと景行Fは姉妹ということになるが、豊国別と豊戸別に共通しない国と戸の字をこの順に重ねて易の卦に置き換えると、国は 坤(地)・戸は 艮(山)だから、序次15 地山謙で、12景行天皇のA列となる。
景行Fの沼代郎女の沼を易の卦に置き換えると、沼は水があるところだから 坎(水)となり、その 坎(水)が示す数字は6である。
したがって、沼代で「この人物は6代目である」と教えていることになり、景行Eが姉で5代目、景行Fが妹で6代目となる。
○ 景行G・K仁徳女帝・J仁賢女帝
景行Fが沼代郎女で6代目であることを主張しているのは、こちらが本流だと示唆しているのであって、景行Gは景行Fの娘となる。
景行Gから皇位を継承する人物は、八尺入日子命という名が教える。頭の八尺は、八は 坤(地)・尺は計量単位だから「計る」という意味を持つ 兌(沢)になるので、合わせて序次19 地沢臨となる。
この卦は17仁徳天皇の親に当たる16応神天皇のA列である。
したがって、この八尺で、景行Gは仁徳女帝の親だと示しているのである。
また、押別命という名は、「押という字を別けろ」という意味にも取れるので、押という字を扌(手偏)と甲(十干の甲)に別けて考える。
手は人を制し止めるものだから 艮(山)、甲は方位では東だから 震(雷)となるので、合わせて序次27 山雷頤すなわち25仁賢天皇の国風諡号の袁祁が示す卦となる。
したがって、K仁徳女帝に続くJ仁賢女帝も、この景行Gの娘となる。
以上が景行という名で括られた七人とK仁徳、J仁賢両女帝の関係だが、これにより、いわゆる五百木之入日子命の謎も明らかになった。
表向きの物語では、12景行天皇には倭建命、若帯日子命、五百木之入日子命という三人の皇太子がいて、このうち倭建命は若くして薨去、若帯日子命は次の13成務天皇として即位と、その消息がはっきりしているのに対し、残る五百木之入日子命については、ただ皇太子だったとするだけで、その後については即位がなかった経緯を含め全く触れていないことから、謎の人物とされている。
しかし、この景行7人の仔細がわかってみると、景行G女帝から皇位を継承したのは仁徳女帝なのだから、この五百木之入日子命というのは仁徳女帝のことを指していたのであり、そのことを教えるために、太子だと記載されていたのである。
五百木の五百は、五は 巽(風)・百は 坤(地)だから、合わせて序次20 風地観すなわち17仁徳天皇のA列を示していることになる。
また、木は 巽(風)を通じて5という数の暗示にもなるから、五百木の三文字で「仁徳・5」=「仁徳女帝は景行Aから5世代目に当たる」と教えるための暗号でもあったのである。
ともあれ、表向きとは大分様子が異なるので、ここまでのところを、図34に系図としてまとめておく。
なお景行A、Bの両親となる応神女帝と垂仁男帝以前については、その前に触れておかなければならないことがあるので、もう少し後で話す。

この系図を見ると、表向きの神武天皇から持統天皇に至る皇統譜とは違い、漢風諡号に法則性を感じられるではないか。
K仁徳女帝とJ仁賢女帝の二人、D安寧女帝とC安閑女帝の二人、A欽明女帝と@推古(舒明)女帝、用明皇女、皇極(斉明)女帝の四人である。このように、同じ文字を共有する人物は姉妹だったのである。
とすると、この解読法が間違っていないことを解読者に確認させるため、この法則も用意しに違いない。
事実、この系図でこの法則に接し、これまでの解読法に誤りはない、と、私自身も確信が持て、さらに先を解読しようという好奇心が沸々と涌いて来たものだった。
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