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Eメール危険な古代史=古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本
14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実

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@雄略男帝崩年 A雄略男帝が倭に乗り込む B雄略男帝の実力行使 C武烈紀の残虐行為 D崇峻男帝とその崩年 E敏達男帝とその崩年 F聖徳太子とその崩年 G雄略男帝から聖徳太子までのまとめ

このページの途中までと前のページ神武天皇は西暦450年頃の人物だった!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け8〜暗号解読として、約1時間10分の動画にまとめています。

 

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@雄略男帝の崩年

 暗号では、(3)綏靖男帝の次は、(2)允恭男帝と(1)神武男帝の娘との間に生まれた(4)雄略男帝が革命軍の長となったとある。
 まずは、その(4)雄略男帝の時代がいつなのかをはっきりさせるために、崩年を明らかにする。

 『古事記』では、22雄略天皇の崩年を己巳(つちのとみ)年8月9日としている。
 (3)綏靖男帝崩の皇紀1192壬子(みずのえね)歳以後の最も近い己巳年は皇紀1209年である。
 おやおや、このままでも在位は17年だから、常識的な数字である。
 とするとこのままで正しいかのようにも思える。
 しかしこれでは8月9日の意味が解決できない。
 したがって例え常識的な在位年数であってもこれは違うはずだ。

 一方『日本書紀』では、22雄略天皇は23年崩とあり、即位元年は丁酉(ひのととり)年だから、崩年は乙未(きのとひつじ)年となる。
 (3)綏靖男帝崩の1192壬子歳に最も近い乙未年は、皇紀1235年になる。
 暗号では、22雄略天皇と26武烈天皇は同一人物となるわけたが、26武烈天皇の崩年は、『記』に記載なく、『紀』には8年崩とあり、武烈天皇の即位元年は己卯(つちのとう)年だから、崩年は丙戌(ひのえいぬ)年となる。この付近の丙戌年は皇紀1226年である。
 これで候補は出揃った。
 他に崩年を計算させる暗号はないので、この、皇紀1209年己巳、皇紀1226年丙戌、皇紀1235年乙未のうちの、8月9日と関連付けられるものが、雄略男帝の崩年のばずである。
 と考えて眺めていると、どうやら8月9日の意味が見えてきたではないか。
 今回は足し算である。8と9を足して17とし、それを己巳年の1209年に足すのである。
 すると1226年になるではないか。
 すなわち、表向きの26武烈天皇崩年と同じ丙戌年すなわち皇紀1226丙戌歳が、(4)雄略男帝崩年だったのである。

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A雄略男帝が倭に乗り込む

 (3)綏靖男帝の時代には、男帝と女帝の間に動きがあったと示す暗号はなかった。
 おそらく、対峙したまま、あるいは小競り合いはあったとしても、全体としては平和な期間が続いたのだろう。
 しかし、この(4)雄略男帝の時代になると、かなり変化があったようである。

 (4)雄略男帝について書いてあるのは、表向きの22雄略天皇と26武烈天皇である。
 その意味で、22雄略天皇と26武烈天皇は同一人物だと言ったのだが、その「武烈紀」には、は次のような記事がある。
 「設壇場於泊瀬列城、陟天皇位」
 通常は、壇場(たかみくら)泊瀬(はつせ)列城(なみき)というところに設けて……、と、列城を地名だろうと推測して読むのだが、列には「並べる」という意味があるから、泊瀬に城を並べて、という意味にも受け取れる。
 続く「陟天皇位」は、「天皇に即位した」という意味だが、即位記事にこの「(のぼる)」という字を使っているのは、実在が否定される23清寧天皇とこの26武烈天皇だけである。
 「陟」という字の旁は歩だから、位に即く、という意味とともに、実際の移動としての「歩いて上る」という意味もある。
 したがってこの記事は、
 この年に、(1)神武以来美濃にいた男帝側が、初めて女帝政府のある倭に(のぼ)り、女帝政府のある泊瀬の近くに、城を並べて建てた、
 と示しているのである。
 なお、「雄略紀」では、泊瀬の朝倉で即位したとあり、泊瀬というのは、現・奈良県桜井市の三輪山の南あたり一帯、朝倉は、近鉄大和朝倉駅〜長谷寺駅付近だろうと推定されている。

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B雄略男帝の実力行使

 この時代の女帝側は、D安寧女帝(1204年崩)、C安閑女帝(1219年崩)、そしてB継体女帝(1251年崩)である。
 D安寧女帝については、特に暗号はないので、崩年は蘇りのための自殺をした年、ということになるが、C安閑女帝については、いささか血生臭い事件のようである。

 27継体天皇の『古事記』による国風諡号は袁本杼(おほど)である。この名前の3文字のうち、最後の杼は機織のときに横糸を巻きつける器具のことである。したがって袁本杼で、袁の字の付く人物に本文を巻きつけた、と読める。
 袁の字の付く人物と言えば、袁祁之(おけの)石巣別(いはすわけ)の24顕宗天皇である。
 24顕宗天皇は、父親の市辺之忍歯王(いちべのおしはのわう)が22雄略天皇に殺されている。
 市辺之忍歯王という名前は、高市皇子による草壁皇子暗殺を教えるための暗号だった。と同時にこの人物が表向き雄略天皇に殺されていることで、袁の字が付く人物の親が雄略天皇に殺された、と示していることになる。したがって、B継体女帝の親すなわちC安閑女帝は(4)雄略男帝に殺されたのである。
 また、「武烈紀」元年の干支は安閑女帝崩年と同じ己卯である。
 これらの暗号を整理すると、
 (4)雄略男帝は皇紀1219己卯歳に、美濃から倭に乗り込み、女帝の城の近くに革命軍の砦を築き、手始めにC安閑女帝を殺害した、
 ということになる。

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C武烈紀の残虐行為

 こうしてみると、「武烈紀」にある武烈天皇の残虐行為も、その意味が見えてくるではないか。「武烈紀」には、次のような猟奇的で残虐な行為の記事がある。

 2年秋9月、妊婦の腹を裂いて、その胎児を観た。
 3年冬10月、人の指甲(なまづめ)を抜いて、暑預(いも)を掘らせた。
 4年夏4月、人の頭の髪を抜きて、樹の頂上まで登らせ、その樹を切り倒し、登った人を落とし殺すことを楽しみとした。
 5年夏6月、人を水路に入れて、外に流れるところを、(ほこ)で刺し殺すことを楽しみとした。
 7年春2月、人を樹に登らせ、弓矢で射落として笑った。
 8年春3月、女を裸にして、平板な台の上で馬と交接させ、陰部が潤う者は殺し、潤わない者は官婢(つかさやっこ)とした。

 これらのすべてが事実かどうかを確認する暗号は見当たらない。
 しかし、妊婦の腹を裂いて胎児を観る、という記事と、最後の馬と交接させるという記事は、母権制社会の食人による蘇りは妄想に過ぎない、と、女性たちに分らせようとして行われた事実ではないだろうか。
 胎児を見せることで、それが母の蘇りではないことを理解させ、馬と交接させることで、セックスは決して神懸かりのための行為ではない、と教えようとしたのではないだろうか。
 なお、他の性とは関係のない残虐行為は、表向きの歴史をカムフラージュするために追加された架空の残虐行為かとも思われるが、本当のところは判然としない。

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D崇峻男帝とその崩年

 (4)雄略男帝の次は(5)崇峻男帝である。
 表向き33崇峻天皇は、蘇我馬子(そがのうまこ)によって殺されたことになっている。
 しかしすでに10.暗号解読[7]Hで話したように、蘇我氏の始まりの蘇我稲目(そがのいなめ)は「妊娠で蘇る女性」という意味で、女帝を示す暗号だったのだから、その稲目の子の馬子も、女帝を示す暗号でなければおかしい。
 したがって(5)崇峻男帝は、女帝によって殺されたのである。
 いつ殺されたのか。
 『古事記』には、33崇峻天皇が天下を治めたのは4年で、壬子(みずのえね)年11月13日崩とあり、『日本書紀』には、崇峻5年(皇紀1252壬子歳)11月癸卯朔乙巳(みずのとうのつきたちきのとみ)(3日)に、蘇我馬子の配下によって殺され、同日、天皇を(みささぎ)に葬ったとある。
 ここに出てきた崩年の干支の壬子を易の卦に置き換えると、壬も子もともに(水)だから、合わせて29坎為水(かんいすい)になる。
 この卦は険難を意味する最も悪い形のひとつである。とすると、まさに天皇殺害に相応しい年に殺されたことになる。果たして、そんな偶然があるのだろうか……。
 また、壬子年11月ということで『記』『紀』の記述は一致しているが、在位年数が4年と5年で異なることと、『記』では13日、『紀』の癸卯朔乙巳は3日に当たるので、両者で日付も異なっている。
 さらに、『紀』のように、殺された当日に陵に葬るというのは、犬猫なら当然かもしれないが、天皇ならば非常識である。とりあえず棺桶に入れるとしても、その後しかるべき日時に葬儀を行い、その後に葬るものである。
 例えば1神武天皇なら、『紀』では神武紀76年3月に崩御とし、埋葬したのは翌年9月だとしている。無論これは事実ではないが、崩御から埋葬まで、そのくらいの時間差があることを通例としているのである。
 とすると、『記』の崩年の『紀』と一致しない13日の意味が問題になる。
 『紀』のように11月朔を癸卯とすれば、13日は乙卯(きのとう)になる。乙卯を易の卦に置き換えると、乙も卯もともに(雷)だから、合わせて51震為雷(しんいらい)となる。
 この卦は雷すなわち音だけの見せかけで、実体のないことを意味する。とすると、壬子年に崩御というのは実体のないこと、すなわち、殺されたのは違う年だと示していることになる。
 『記』に4年とあるのだから、『紀』の崇峻4年が正しい崩年の可能性が高い。
 そこで、『紀』の崇峻4年を見ると、次の三つの記事があった。(要点のみ記載)

 4月壬子朔甲子(みずのえねのつきたちきのえね)、31敏達天皇をその皇后と同じ陵に葬った。
 8月庚戌朔(かのえいぬのつきたち)、すでに滅んだ任那(みまな)を再建したいと群臣に伝え、群臣も同意した。
 11月己卯朔壬午(つちのとうのつきたちみずのえうま)、任那再建のための大将軍を任命し、九州に出発させるとともに、新羅(しらぎ)や任那に使いを出して様子を探らせた。

 この記事の内容はさておき、干支だけを見る。

 4月の壬子朔甲子は、壬子は先ほどのように29坎為水で険難の意味となる。甲子は、甲は(雷)・子は(水)だから、合わせて40雷水解(らいすいかい)になり、こちらは「解消」を意味する。
 したがって、壬子と甲子で険難解消という意味になり、このときはまだ(5)崇峻男帝は殺害されていないことになる。

 8月の庚戌朔は、易の卦に置き換えると、庚は(沢)・戌は(天)だから、合わせて43沢天夬(たくてんかい)となり、この卦は決去決壊ということから騒乱なども意味し、天皇殺害に相応しい形となる。

 11月の己卯朔壬午は、己は(地)・卯は(雷)だから、合わせて24地雷復で復活という意味になる。壬午は、壬は(水)・午は(火)だから、合わせて63水火既済(すいかきせい)で、既済は完成されていることを意味する。
 したがって、己卯と壬午で、平和が復活して秩序が整い完成された、となり、暗殺はすでに過去のことだ、という意味になる。

 以上のことから、本文の内容とは無関係に、この崇峻4年の8月に(5)崇峻男帝は殺害された、と暗号は示していることになる。
 崇峻4年は皇紀1251辛亥(かのとい)歳である。
 おやおや、この年は12.暗号解読[8]Aの中で話したが、女帝側でもB継体女帝と用明皇女が暴動に巻き込まれて殺された、という事件があった年ではないか。
 とすると、この暴動とも何らかの関係がありそうだが、それを知る手がかりは、蘇我馬子という名にあった。

 馬子を易の卦に置き換えると、馬は十二支の午とすれば(火)・子も十二支の子とすれば(水)だから、合わせて64火水未済(かすいびせい)となる。
 64火水未済を一文字で示す漢字は「明」(日は(火)・月は(水))である。
 明の字が付くのはB継体女帝の四人の娘の、A欽明、用明、@推古舒明、皇極斉明である。
 このうちの誰だろう?
 この四人の漢風諡号を眺めていたら、考える間もなく、わかった。
 B継体女帝の長女となるA欽明女帝の欽は、ヘンの金は(天)・ツクリの欠は坎の字の一部だから(水)を意味するものと考えられるので、合わせて6天水訟を示している。
 訟は「訟える=主張する」という意味である。
 すなわち、欽明で「64火水未済であることを主張する」という意味になり、この欽明こそが馬子なのだ、と主張しているのである。
 したがって、馬子はA欽明女帝のことであって、(5)崇峻男帝は欽明女帝に殺されたのである。
 どうやら見えてきた。
 B継体女帝と用明皇女は(5)崇峻男帝に殺害され、その報復として、(5)崇峻男帝はA欽明女帝に殺害されたのである。

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E敏達男帝とその崩年

 『古事記』では、31敏達天皇は甲辰(きのえたつ)年4月6日崩とある。しかしこの4月6日という日付は、4は(雷)・6は(水)だから、40雷水解で解消という意味になる。
 したがって、これは暗号としての意味をなさないから解消すなわち無視せよ、と示していることになる。
 ダミーである。ダミーまで挿入されているとは、念が入ってる。凄い。痺れる。
 が、それはともかく、『記』からは探れないので、崩年は『日本書紀』から探ることになる。
 としても「敏達紀」には暗号が見当たらないので、表向きでは敏達天皇よりも後の時代になる(5)崇峻男帝殺害(皇紀1251年辛亥)以降の記事から探る。
 暗号が示す歴史では、(6)敏達男帝と@推古女帝との間に生まれたのが、(7)聖徳太子だとしていて、その(7)聖徳太子が(6)敏達男帝の次の男帝となる。
 また、(7)聖徳太子と37孝徳天皇は同一人物だということは、すでに8.暗号解読[4]の孝徳天皇と聖徳太子のところで話した。
 したがって表向きの推古29年に(7)聖徳太子が薨ったという記事は事実ではなく、後の37孝徳天皇についての記事にこそ、(7)聖徳太子の真実が隠されているはずである。
 表向きでは、大化の改新のときに皇位が36皇極天皇(女帝)から37孝徳天皇に継承されたとあり、暗号が37孝徳天皇と同一人物とする(7)聖徳太子の前は、(6)敏達男帝である。
 とすると、この皇位継承あたりを探れば、(6)敏達男帝の崩年も明らかになるはずである。
 そう考えて見て行くと、「孝徳紀」大化元年12月条に、いかにも暗号らしい記事があった。

 冬12月乙未朔癸卯(きのとひつじのつきたちみずのとう)(9日)、(みやこ)難波長柄豊碕(なにはのながらのとよさき)(うつ)す。老人等(おきなら)相謂(あいかた)りて()はく、「春より夏に至るまでに、(ねずみ)の難波に()きしは、都を遷す(しるし)なりけり」といふ。
 戊午(つちのえうま)(24日)に、越国言(こしのくにまう)さく、「海の(ほとり)に、枯査(うきき)、東に()きて移り去りぬ。(すな)の上に跡有り。耕田(たつく)れる(かたち)の如し」とまうす。是年、太歳乙巳(きのとみ)

 文中に出てくる難波長柄豊碕というのは、現在の大阪市中央区法円坂にある難波宮跡公園である。
 直前の都は奈良県明日香地方だったから、かなり離れた場所に遷都している。現代ならば近鉄特急と地下鉄を乗り継いで、ざっと1時間の距離だ。
 が、それはともかく、春より夏に至るまでに、鼠が移動すると、遷都の予兆とは、どういうことだろう?
 「春より夏に至る」は、(雷)(風)(火)の方位の干支を示すものとすれば、丁度この歳の乙巳がその範疇にある。乙は春で(雷)、巳は春と夏の間の(風)である。
 小さな鼠が明日香から難波へ移動するのは、とてつもなく大変なことである。
 この遷都は孝徳天皇の即位によるものである。
 とすると孝徳男帝の即位は、本当は乙巳ではなく、それとはかけ離れた年だった、と示しているに違いない。
 そしてこれが暗号なら、その本当の即位の年は、後半に示されているはずである。

 後半の、「海の畔」は要するに水のあるところだから、水を意味する(水)の方角である北を示している。
 「枯査 東に向きて・・・」というのは、そのうちの東にある干支を指す。
 北に配される干支は、十二支の()と、十干の(みずのえ)(みずのと)である。
 このうち、方位図を描くときに、一番東に配されるのは癸である。
 とすると、続く部分には十二支が示されているはずである。
 その続く「沙の上に〜耕田れる状」とは、要するに大地を方形に分割した様子であって、それを易では(地)とする。
 (地)は西南に配される卦だから、十二支では、(ひつじ)(さる)を示していることになる。
 未と申のうち、癸と組むのは、未である。
 なるほど、この暗号は正しい遷都の年は癸未(みずのとひつじ)歳だ、と示していたのである。
 遷都は新帝の即位と同じ意味を持つから、前帝すなわち(7)聖徳太子の父親の(6)敏達男帝の崩年は、その遷都の前年になる。
 癸未の前年は壬午(みずのえうま)である。
 この付近の壬午は、皇紀1282年=表向きの推古30年になる。
 したがって(6)敏達男帝の崩年は、この皇紀1282壬午歳となる。

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F聖徳太子とその崩年

 (4)雄略男帝が倭に乗り込み、女帝政府の近くに革命軍の砦を築いてから、男帝側はまずC安閑女帝を殺害し、さらにB継体女帝と用明皇女も殺害した。
 これに対して女帝側は、A欽明女帝が崇峻男帝を殺したにとどまっている。男帝側の度重なる攻撃により、徐々に力を失って行ったということだろう。
 だからこそ和解策として、A欽明女帝の妹の@推古女帝と(6)敏達男帝に肉体関係を持たせたのに他ならず、その結果生まれたのが(7)聖徳太子である。
 男帝側は、この(7)聖徳太子をもって王とすれば女帝側の反感も少しは和らぎ、母権制社会とその忌まわしい宗教儀礼からの脱却も上手く行くのではないか、と、考えたのだろう。

 聖徳太子の表向きの事跡は「十七条の憲法」を作ったことだが、その第12条には「国に二の君非ず、民に両の主無し」とある。
 表向きの歴史から推測すれば、蘇我氏の勝手な振る舞いを睨んでの戒めを、『礼記』曽子問篇の「天に二の日無し、土に二の王無し」という言葉をヒントに作ったのだろうとも言われているが、普通に読んでも、何やら王様が二人いたからこそ、そう書かれたようにも思えるではないか。
 暗号が示す歴史では、確かにこの時代、女帝と男帝が並立していたとのことだ。
 同様の記述は、「皇極紀」元年是歳条に「天に二の日無し、国に二の王無し」、「孝徳紀」即位前年6月19日条に「今より後は、君に二の政無し、臣に二の朝無し」、大化2年3月20日条に「天に双の日無し、国に二の王無し」と、しつこく出てくる。
 どうやら聖徳太子が生まれたのを契機に、男帝と女帝を一つにしようという機運が強くなり、その盛り上がりこそが大化の改新だったようである。
 その大化の改新の真相だが、これは聖徳太子の崩年と密接な繋がりがあった。

 表向きの崩年は推古29年だが、これを易に置き換えると、2は(沢)・9は(天)だから、合わせて43沢天夬となり、この卦は決去決壊を意味する。
 とすると、聖徳太子は殺された、と示していることになる。
 これを踏まえて、暗号が(7)聖徳太子と同一人物だと示す37孝徳天皇の崩御関連の記述を見ると、またしても暗号めいた文章が見つかった。

 「孝徳紀」によると、37孝徳天皇は、白雉(はくち)5年10月癸卯朔壬子(みずのとうのつきたちみずのえね)(10日)に崩御とあり、同年12月条に、「老者(おいひと)語りて曰はく、鼠の(やまと)(むか)ひしは、都を遷す兆しなりけり」とある。
 壬子は、これまでに何度か出て来たが、壬も子もともに(水)だから、合わせて29坎為水となる。
 この卦は最悪の状態=殺害を示していることになる。
 しかしこの鼠の移動記事からは、干支を通じての年の特定は不可能だった。
 そこで、これが「老人の言葉」だというこを念頭に、鼠をモチーフにした記事が別のどこかにないか探ってみた。
 すると、38皇極天皇について書いた「皇極紀」の2年11月条にあった。

 蘇我入鹿(そがのいるか)は、古人(ふるひとの)皇子を次期天皇にしようと、有望な聖徳太子の子の山背大兄(やましろのおほえの)王を殺そうと考え、彼の住む斑鳩(いかるが)を襲う。
 山背大兄王一族は、漸くのことで、一旦は山中に逃れる。
 入鹿は山狩りをして彼らを捕らえようと考える。
 そのとき、古人皇子が「鼠は穴に(かく)れて生き、穴を失ひて死ぬと」と、入鹿に言った。
 入鹿はこの言葉で思い止まる。
 すると、観念した山背大兄王は、山から出てきて、斑鳩寺に入り、自害した。

 物語の流れはざっとこんな具合だが、古人皇子の古人は、古い人=老人という意味に取れる。
 山背大兄王の山背は、易の卦に置き換えると、ともに(山)となり、その(山)は7という数を示す。
 また、この山背大兄王とは別人ではあるが、「欽明記」では山代王とある名前を「欽明紀」では山背王と表記している。
 とすると、山背で、山代すなわち7代と暗号は示していることになる。
 (7)聖徳太子は(1)神武男帝から数えて7代目である。
 (1)神武・(2)允恭・(3)綏靖・(4)雄略・(5)崇峻・(6)敏達・(7)聖徳太子、である。
 したがって、この山背大兄王は(7)聖徳太子の子ではなく、(7)聖徳太子本人のことだったのである。
 一方、蘇我入鹿は、稲目や馬子が女帝を示す暗号だったように、やはりこの時代の女帝である皇極女帝を示す暗号に違いない。
 すなわち、聖徳太子は表向きの皇極2年に当たる皇紀1302癸卯(みずのとう)歳に、皇極女帝によって殺害されたのである。
 殺害された理由は、入鹿の別名が示している。
 入鹿には、鞍作(くらつくり)という別名があるのだが、鞍は革と安である。
 革は革命の革。安はD安寧女帝やC安閑女帝といったように、女帝側の漢風諡号として暗号としての意味も込めて使われている文字だから、女帝を示している。
 したがって、鞍作で、女帝による革命構想を作っていた、という意味に取れる。

 言葉を補うと、
 女帝側は、男帝側が聖徳太子によって対立する両政府を統一しようとするのに「待った」をかけたくて、昔日のような絶大な権力を誇った女帝政権を再建しようと、聖徳太子を殺害した、
 ということである。
 しかし、皇極4年6月に、蘇我蝦夷と入鹿の親子は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)中大兄(なかのおほえの)皇子等によって殺されている。
 何度も繰り返しになるが、蘇我氏は女帝を示す暗号である。
 したがって、この出来事は、皇極女帝が殺された、ということを示しているのである。
 念のために付け加えるが、すでに7.暗号解読[3]の皇極天皇のところで話したように、国風諡号の天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)の解釈から、斉明としての重祚重祚(ちょうそ)はない。
 どうやら、大化の改新の本当の意味も見えてきたようでる。
 が、話を先に進める前に、雄略男帝から聖徳太子までを、まとめておこう。

G雄略男帝から聖徳太子までのまとめ

○ 皇紀1219己巳(つちのとみ)歳。

 (4)雄略男帝は、美濃から倭に乗り込み、女帝の城の近くに革命軍の砦を築き、手始めにC安閑女帝を殺害した。
 その後、妊婦の腹を裂き胎児が神ではないことを示し、また、女性と馬と交接させて、セックスが神懸りのための行為ではないことを示すなどして、母権制社会の忌まわしい蘇りシステムを止めさせようとした。

○ 皇紀1226丙戌(ひのえいぬ)歳。

 (4)雄略男帝崩。息子の(5)崇峻男帝が革命軍の長となる。

○ 皇紀1251辛亥(かのとい)歳。

 (5)崇峻男帝がB継体女帝と用明皇女を殺害する。
 後を継いだA欽明女帝は、その報復として、(5)崇峻男帝を殺害する。
 革命軍は、息子の(6)敏達男帝に引き継ぐ。
 革命軍の長となった(6)敏達男帝は、A欽明女帝の妹の@推古女帝と肉体関係を持ち、二人の間に男児が生まれる。これが聖徳太子である。
 血で血を洗うかのような展開をなんとか鎮めようと、女帝側に和睦を提案した結果だろう。

○ 皇紀1263癸亥(みずのとい)歳。

 A欽明女帝崩。慣例では末娘が皇位を継承するところだが、三女の、(6)敏達男帝と肉体関係のある@推古女帝が皇位に就く。
 男帝側が、男帝・女帝双方の血を引く聖徳太子をもって、近い将来、国を統一しようと考えたのを、力の衰えた女帝側が止むなく飲んだのだろう。

○ 皇紀1282壬午(みずのえうま)歳。

敏達男帝崩。革命軍は聖徳太子が引き継ぐ。

○ 皇紀1296丙申(ひのえさる)歳。

 推古女帝崩。いよいよ聖徳太子が王として即位かと思われたが、男帝側の要求を拒否し、@推古女帝の妹の皇極女帝が皇位を継承した。

○ 皇紀1303癸卯(みずのとう)歳11月。

 皇極女帝により、聖徳太子が殺害される。
 男帝革命軍の論理で国が統一されることを、女帝側は必ずしも歓迎していなかったのだろう。 しかし、事態は女帝側に有利には運ばなかった。

○ 皇紀1305乙巳(きのとみ)歳6月12日。

 中臣鎌子や中大兄皇子によって皇極女帝が殺害され、大化の改新となった。

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もくじ

☆ プロローグ  1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密

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最終更新日:令和05年01月24日 学易有丘会
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