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このページのもくじ
@仲哀天皇から導かれる辛酉革命 A辛酉革命とは B三善清行の革命勘文 C辛酉革命の本当の意味 D沢火革と庚申信仰 E三善清行の思惑
このページの内容は、次の6.と合わせて持統天皇と〇〇の危険な情事!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け4〜暗号解読として、約40分の動画にまとめてあります。
@仲哀天皇から導かれる辛酉革命
『古事記』序文の裏メッセージがどの程度信用出来るのか。それは暗号解読が可能か否かで決しよう。そこで、ともかく暗号解読を試みることにした。
差し当たり何かありそうなのは、2.謎めく数字137で取り上げたリスト、すなわち六十四卦の序次と対応関係になかった『古事記』の天皇の崩御時の年齢と撰進の日付の数字である。
『記』年齢 『紀』元年
1神武天皇 137歳 皇紀元年
12景行天皇 137歳 731年
14仲哀天皇 52歳 852年
17仁徳天皇 83歳 973年
21安康天皇 56歳 1114年
『古事記』撰進 和銅5年正月28日‥‥和銅五年は皇紀1372年に当たる。
このうち『古事記』序文最後にある撰進の日付「和銅5(皇紀1372)年正月28日」と、謎めく繋がりを持っている1神武、12景行、14仲哀の三天皇の『記』年齢の意味を考える。
17仁徳天皇の83歳と21安康天皇の56歳は、神武、景行、仲哀、『古事記』撰進の日付とは関連がないので、何か別のことを示す暗号なのだろうと考え、触れるのは後回しにした。
さて、1神武天皇と12景行天皇の二人の年齢137歳は、皇紀1372(和銅5)年を「137が2」(137歳の天皇が2人だけいる)と示すものとして考えれば繋がっているわけだが、さらに12景行天皇の『紀』元年がこの137を逆にした皇紀731年であることと合わせれば、これらは皇紀元年が『記』『紀』編纂に当たり机上で算出された架空の年代であることを教えようとしているに違いない、と、誰しもが確信するところだろう。とすると、その算出根拠はどこにあるのだろうか?
それは『古事記』撰進の日付と繋がるもうひとり、14仲哀天皇の52歳に手がかりがあると考えるのが順当だ。
14仲哀天皇は、『紀』『記』共に崩御時の年齢は52歳だったと記載されている。
しかし『紀』本文をよく読むと、この52歳という記事は矛盾している。ここで必要な数字の部分だけ簡略に記述を示そう。
14仲哀天皇は、13成務天皇の48年(皇紀838年)に皇太子となり、そのとき31歳だった。
成務60年(皇紀850年)に成務天皇崩御。その翌々年の皇紀852年に仲哀天皇は即位。
即位から9年目の皇紀860年に52歳で崩御。
皇紀838年に31歳ならば、その22年後の皇紀860には52歳ではなく53歳のはずである。
31+22=53、単純な計算である。
しかし崩御時には52歳だったと矛盾したことを書いてある。
念のため付け加えるが、現代のような満年齢なら誕生日前に崩御したから52歳だったということも有り得るが、この時代は誰しもが正月1日に年を取る数え年なので誕生日前とか後は関係なくこの年は53歳なのである。だから52歳とあれば矛盾なのだ。
この矛盾は『日本書紀』編者の単なる計算ミスだろうか。
実は、『日本書紀』には、他にも随所にこういった数字の矛盾が見られるのである。
例えば、3安寧天皇は57歳で崩御と記載されているのだが、別のところでは2綏靖天皇の25年(皇紀104年)に21歳で立太子とあり、このことから計算すると、崩御の安寧38年(皇紀150年)には67歳でなければ合わない。
これまでの研究では、単純な計算ミス、あるいは編纂に当って集めた資料の信頼性を考慮し、矛盾した伝承もそのままにしておいた、などと言われている。
しかしすべてが編纂者の作った虚構の歴史だとすれば、こういった矛盾こそ真実を教えるための暗号の可能性が極めて高い。そう考えて調べを進めた。
追々明らかにするが、案の定、この14仲哀天皇の崩御時の年齢だけではなく、『日本書紀』にある数字の矛盾のすべてが、真実の歴史を教えるための暗号だったのである。
ともかく、まずは14仲哀天皇から話そう。
「表T 古代天皇と易六十四卦の序次」はコチラ 乱数表はコチラ
数字をどういうふうに使って暗号とするのか。
考えられるのはふたつ。
ひとつは易の卦に置き換えて意味を持たせること、もうひとつはその数字で別の記事を指定してその記事に新たな暗号を仕込んで真実を伝えることだ。
そもそも易の卦に置き換えるだけでは単純なことしか伝えられない。やはりこの両方を使って暗号は成立していると考えるのが順当だろう。
14仲哀天皇の52歳は、元年の852年下二桁であると同時に、「137が2」の和銅5年正月28日という日付とも繋がっていた。しかしこれを易の卦に置き換えても別段暗号らしいメッセージは感じられない。それでもこれが暗号であるのなら、この52歳は別の年代の下二桁を指していて、そこに皇紀元年と関係する何かが、あるのではないだろうか。
暗号解読は、このように数字や文字の意味を考えながら、『記・紀』の記述を探って行くのだが、丁度、漢風諡号が「古きを推しはかる」という意味になる34推古天皇の即位が皇紀1252年12月8日となっている(元年は翌1253年)。この即位日に並ぶ数字のうち、皇紀の上二桁と月が共に12だからこの二つは相殺するとして消してみると、何と仲哀天皇の元年とも繋がる古事記序文最後の日付けと同じ528が残るではないか。
とすると34推古天皇に、皇紀元年についての何かが隠されているはずである。
しかし言うまでもなく通常の読み方では、どこに秘密が隠されているのか判然としない。そこで、もう一度14仲哀天皇に戻り、今度は『日本書紀』の国風諡号の足仲彦を考えた。
「足」の字(『記』では「帯」と表記)が付く天皇は、34推古天皇以前では計五人だが(神功皇后を含む)、頭にあるのはこの14仲哀天皇だけで、何やら「足」に特別な意味がありそうではないか。
暗号として考えられるのは、「足し算」すなわち「52歳の5と2を足して7とせよ」という指示と、足は 震(雷)(八卦を人体に配する時の約束)だから、 震(雷)を示す数の「4」である。
これが見るべき箇所を指示する暗号なら、推古7年の4という数が絡む記事に、皇紀元年の秘密を教える何かがあるはずである。
『日本書紀』のページをめくってみると、そこには次のような記事があった。
「七年夏四月乙未朔辛酉(27日)、地動りて舎屋悉に破たれぬ。」
ここにある乙未朔辛酉というのは、乙未が1日となる月の辛酉の日、という意で、乙未から数えて辛酉は27番目なので、27日ということになる。まどろっこしい書き方だが、『日本書紀』ではこのように六十干支で日付を表示しているのだから仕方ない。
現代の単純な〇月〇日という表記ではないので最初は戸惑ったものだが、旧暦(太陰太陽暦)の日付を正確に示すにはこの表記が一番よいらしい。が、それはともかく先へ進もう。
「地動る」は地震のことだが、地震は天災だから天命が革まることに通じ、日付の干支は辛酉である。
辛酉に天命が革まるとするのは、辛酉革命思想である。
また、14仲哀天皇は、『紀』に即位から9年目に崩御とあることから、9にちなみ推古9年を見ると、
「春二月、皇太子(聖徳太子)初めて宮室を斑鳩に興てたまふ。」
とあり、この年は皇紀1261年辛酉歳に当たる。
明治時代の那珂通世など多くの研究者によって、1神武天皇即位年と辛酉革命思想の関係が、この記事と共に論じられているが、以上のことからすれば、『記・紀』の編者は、自ら暗号でそれを明らかにしていたのだった。
辛酉革命とは、序次49 沢火革と序次50 火風鼎の二卦と干支の関係から導かれた予言思想で、干支が辛酉(音読みで辛酉)の歳には天命が革まり、天災や偉大なる人物の出現、政治上の変革等が起きるとし、中でも干支21巡の1260年を大革命の年とするものである。
那珂通世等は、「1神武天皇即位年は、この理論に基づき、聖徳太子が斑鳩の宮を造営した辛酉歳から1260年を逆算し、机上で決定したのだ」と言っている。
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