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Eメール古事記と易学 発見!想像を絶する真実の古代日本
5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命

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このページのもくじ
@仲哀天皇から導かれる辛酉革命
 A辛酉革命とは B三善清行の革命勘文 C三善清行の思惑

@仲哀天皇から導かれる辛酉革命

 『古事記』序文の裏メッセージがどの程度信用出来るのか。それは暗号解読が可能か否かで決しよう。そこで、ともかく暗号解読を試みることにした。

 差し当たり何かありそうなのは、2.謎めく数字137で取り上げたリスト、すなわち六十四卦の序次と対応関係になかった『古事記』の天皇の崩御時の年齢と撰進の日付の数字である。

        『記』年齢 『紀』元年
 1神武天皇   137歳  皇紀元年
 12景行天皇   137歳  731年
 14仲哀天皇    52歳  852年
 17仁徳天皇    83歳  973年
 21安康天皇    56歳 1114年
 『古事記』撰進  和銅5年正月28日‥‥和銅五年は皇紀1372年に当たる。

 このうち『古事記』序文最後にある撰進の日付「和銅(わどう)5(皇紀1372)年正月28日」と、謎めく繋がりを持っている1神武(じんむ)、12景行(けいこう)、14仲哀(ちゅうあい)の三天皇の『記』年齢の意味を考える。
 17仁徳天皇の83歳と21安康天皇の56歳は、神武、景行、仲哀、『古事記』撰進の日付とは関連がないので、何か別のことを示す暗号なのだろうと考え、触れるのは後回しにした。

 さて、1神武天皇と12景行天皇の二人の年齢137歳は、皇紀1372(和銅5)年を「137が2」(137歳の天皇が2人だけいる)と示すものとして考えれば繋がっているわけだが、さらに12景行天皇の『紀』元年がこの137を逆にした皇紀731年であることと合わせれば、これらは皇紀元年が『記』『紀』編纂に当たり机上で算出された架空の年代であることを教えようとしているに違いないと、誰しもが確信するところだろう。とすると、その算出根拠はどこにあるのだろうか?  
 それは『古事記』撰進の日付と繋がるもうひとり、14仲哀天皇の52歳に手がかりがあると考えるのが順当だ。

 14仲哀天皇は、『紀』『記』共に崩御(ほうぎょ)時の年齢は52歳だったと記載されている。
 しかし『紀』本文をよく読むと、この52歳という記事は矛盾している。ここで必要な数字の部分だけ簡略に記述を示そう。

 14仲哀天皇は、13成務(せいむ)天皇の48年(皇紀838年)に皇太子となり、そのとき31歳だった。
 成務60年(皇紀850年)に成務天皇崩御。その翌々年の皇紀852年に仲哀天皇は即位。
 即位から9年目の皇紀860年に52歳で崩御。

 皇紀838年に31歳ならば、その22年後の皇紀860には52歳ではなく53歳のはずである。
 31+22=53、単純な計算である。
 しかし崩御時には52歳だったと矛盾したことを書いてある。
 念のため付け加えるが、現代のような満年齢なら誕生日前に崩御したから52歳だったということも有り得るが、この時代は誰しもが正月1日に年を取る数え年なので誕生日前とか後は関係なくこの年は53歳なのである。だから52歳とあれば矛盾なのだ。
 この矛盾は『日本書紀』編者の単なる計算ミスだろうか。
 実は、『日本書紀』には、他にも随所にこういった数字の矛盾が見られるのである。
 例えば、3安寧(あんねい)天皇は57歳で崩御と記載されているのだが、別のところでは2綏靖(すいぜい)天皇の25年(皇紀104年)に21歳で立太子とあり、このことから計算すると、崩御の安寧38年(皇紀150年)には67歳でなければ合わない。
 これまでの研究では、単純な計算ミス、あるいは編纂に当って集めた資料の信頼性を考慮し、矛盾した伝承もそのままにしておいた、などと言われている。
 しかしすべてが編纂者の作った虚構の歴史だとすれば、こういった矛盾こそ真実を教えるための暗号の可能性が極めて高い。そう考えて調べを進めた。
 追々明らかにするが、案の定、この14仲哀天皇の崩御時の年齢だけではなく、『日本書紀』にある数字の矛盾のすべてが、真実の歴史を教えるための暗号だったのである。
 ともかく、まずは14仲哀天皇から話そう。

「表T 古代天皇と易六十四卦の序次」はコチラ 乱数表はコチラ

 数字をどういうふうに使って暗号とするのか。
 考えられるのはふたつ。
 ひとつは易の卦に置き換えて意味を持たせること、もうひとつはその数字で別の記事を指定してその記事に新たな暗号を仕込んで真実を伝えることだ。
 そもそも易の卦に置き換えるだけでは単純なことしか伝えられないはず。やはりこの両方を使って暗号は成立していると考えるのが順当だろう。

 14仲哀天皇の52歳は、元年の852年下二桁であると同時に、「137が2」の和銅5年正月28日という日付とも繋がっていた。しかしこれを易の卦に置き換えても別段暗号らしいメッセージは感じられない。それでもこれが暗号であるのなら、この52歳は別の年代の下二桁を指していて、そこに皇紀元年と関係する何かが、あるのではないだろうか。

 暗号解読は、このように数字や文字の意味を考えながら、『記・紀』の記述を探って行くのだが、丁度、漢風諡号が「古きを推しはかる」という意味になる34推古(すいこ)天皇の即位が皇紀1252年12月8日だから、これに当たる(元年は翌1253年)。
 とすると34推古天皇に、皇紀元年についての何かが隠されているはずである。
 しかし言うまでもなく通常の読み方では、どこに秘密が隠されているのか判然としない。そこで、もう一度14仲哀天皇に戻り、今度は『日本書紀』の国風諡号の足仲彦(たらしなかつひこ)を考えた。
 「足」の字(『記』では「帯」と表記)が付く天皇は、34推古天皇以前では計五人だが(神功(じんぐう)皇后を含む)、頭にあるのはこの14仲哀天皇だけで、何やら「足」に特別な意味がありそうではないか。
 暗号として考えられるのは、「足し算」すなわち「52歳の5と2を足して7とせよ」という指示と、足は(雷)(八卦を人体に配する時の約束)だから、(雷)を示す数の「4」である。
 これが見るべき箇所を指示する暗号なら、推古7年の4という数が絡む記事に、皇紀元年の秘密を教える何かがあるはずである。
 『日本書紀』のページをめくってみると、そこには次のような記事があった。

 「七年夏四月乙未朔辛酉(きのとひつじのつきたちかのととり)(27日)、地動(なゐふ)りて舎屋(やかず)(ことごとく)(こほ)たれぬ。」

 ここにある乙未朔辛酉というのは、乙未が1日となる月の辛酉の日、という意で、乙未から数えて辛酉は27番目なので、27日ということになる。まどろっこしい書き方だが、『日本書紀』ではこのように六十干支で日付を表示しているのだから仕方ない。
 現代の単純な〇月〇日という表記ではないので最初は戸惑ったものだが、旧暦(太陰太陽暦)の日付を正確に示すにはこの表記が一番よいらしい。が、それはともかく先へ進もう。

 「地動(なゐふ)る」は地震のことだが、地震は天災だから天命が(あらた)まることに通じ、日付の干支は辛酉(かのととり)である。
 辛酉に天命が革まるとするのは、辛酉革命思想である。
 また、14仲哀天皇は、『紀』に即位から9年目に崩御とあることから、9にちなみ推古9年を見ると、
 「春二月、皇太子(聖徳太子)初めて宮室(みや)斑鳩(いかるが)()てたまふ。」
とあり、この年は皇紀1261年辛酉歳に当たる。

 明治時代の那珂(なか)通世(みちよ)など多くの研究者によって、1神武天皇即位年と辛酉革命(しんゆうかくめい)思想の関係が、この記事と共に論じられているが、以上のことからすれば、『記・紀』の編者は、自ら暗号でそれを明らかにしていたのだった。
 辛酉革命とは、序次49沢火革(たくかかく)と序次50火風鼎(かふうてい)の二卦と干支の関係から導かれた予言思想で、干支(かんし)辛酉(かのととり)(音読みで辛酉(しんゆう))の(とし)には天命が(あらた)まり、天災や偉大なる人物の出現、政治上の変革等が起きるとし、中でも干支21巡の1260年を大革命の年とするものである。

 那珂通世等は、「1神武天皇即位年は、この理論に基づき、聖徳太子が斑鳩の宮を造営した辛酉歳から1260年を逆算し、机上で決定したのだ」と言っている。 

A辛酉革命とは

 ここでひとつ気になることがある。
 確かに那珂通世は神武即位年は辛酉革命によって机上で算出された架空の年代だと言ったわけだが、暗号がそう示しているということは、『紀』『記』の読者は当然のこととして辛酉革命を知っていると考えて『古事記』『日本書紀』を編纂したのだと言える。まぁ、読者は当然のこととして、とは言い過ぎかもしれないが、少なくとも暗号解読ができる読者すなわち易の知識があるのなら辛酉革命も知っていると考えていたはずである。要するに読者は編纂者と同じ知識を共有しているという前提で執筆されたのでないとおかしいのだ。同じ知識を共有していなければ暗号は解読できないではないか。易の理論を乱数表のように使ったのも、当時の国政に関わる権力の側の人間なら誰でも基礎教養として易を勉強していたからに他ならない。
 易は今でこそ単なる占いのひとつで、権力の側に立つ人間にとって必要不可欠な教養とは言えない。むしろ現代において、権力の側の人間で易を知る人はほとんどいないだろう。しかし江戸時代までは易こそ最高の学問であって、易を知らなければ権力の側の人間にはなれなかったのだ。
 「四書五経」という言葉があるが、四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つの書のことで、朱子学で言わば入門書とされた書物である。公家や武士の子弟は幼少期からこれらの書物の素読をし、今で言う中学生くらいになるとその意味を勉強した。
 四書を理解すると次いで五経の勉強をする。五経とは『詩経』『書経』『春秋経』『礼経』そして『易経』なのである。この五経をすべて勉強して、漸く権力側の人間として認められるのである。
 『古事記』『日本書紀』編纂当時も権力の側の人々は五経を勉強していたのは明らかであって、だからこそ易を乱数表のように使って暗号を仕掛けることを思いついたに違いない。乱数表が易であれば、百年先でも五百年先でも千年先でも権力の側の人間の誰かが気づいて解読してもらえる、と考えたのだ。もちろん辛酉革命についても、自分たちと同じように未来の権力の側の人たちも知っている、と思っていたはずだ。

  しかし辛酉革命については『易経』に書いてあるわけではない。『易経』とは別の『易緯』という本に書いてあるのだ。
 『易経』と『易緯』、名前は似ているがどう違うのか。
 古代中国、漢の時代には、この世の中を布に喩え、縦糸(経)となる書物と横糸(緯)となる書物に分類した。縦糸になる書物(経)は、いわゆる五経を始めとする漢籍を指し、社会の在り方や歴史などを学問的に書いたものである。対する横糸になる書物(緯)は、目に見えないこと、普通では予測できない天変地異や社会の混乱、戦争などを避ける方策としてのいわゆる予言的なことを書いたものであって、縦糸となる書物(経)と横糸となる書物(緯)の両方でこの世のすべてを織り上げようという思想に基づいて作られたものらしい……らしいというのは、緯書は社会に不安を与える可能性が高いということで隋の時代に禁書になった。そのため中国に『易緯』の原本はなく、日本にもない。いくつかの書物の中に『易緯』からの断片的な引用がほんの少し見られるだけである。したがって緯書の全体像はまったくわからなくなっていたのである。
 漢代には『詩経』に対して『詩緯』、『書経』に対して『書緯』、『春秋経』に対して『春秋緯』、『礼経』に対して『礼緯』、『易経』に対して『易緯』……と、代表的な経書には緯書があったとのことだ。
 そんな中、『易緯』というのは易の卦と五行の関係などから導き出される予言を書いたものらしいとのことである。
 日本には恐らく遣隋使が中国で禁書になる前に持ち込んだのだろう。原本の完全な写本なのか、抜粋したものなのかは判然としないが。

 隋の滅亡は西暦618年・皇紀1278年だから、それから百年近く経って『古事記』『日本書紀』は編纂されたわけだが、当時としても『易緯』はかなりマイナーな本だったはずである。とすると、この暗号は誰に解読されることを願っていたのか……。
 『易経』は必読図書として読んでいたとしても、こんなマイナーな『易緯』の一節、辛酉革命を知る人は極僅かのはずである。したがって辛酉革命思想を使ったと暗号で教えても、辛酉革命思想を知らない人には通じない。
 まして明治時代は『易経』すら必読図書ではなくなっている。
 それでもなぜ、那珂通世は気づいたのか。
 それは平安時代の改元に関する革命勘文(かくめいかんもん)という文献からだった。

B三善清行の革命勘文

 現代の元号は一世一元である。明治天皇がそう決め、戦後の元号法もその明治天皇の考えを踏襲している。しかし江戸幕末までは頻繁に改元が行われていた。ひとつの元号が続く年数の平均値はヒトケタだろう。天皇が代わるとき以外に、大きな事件や災害が起きたときなどの改元が多いが、干支が辛酉の年と甲子の年にも、辛酉だから、甲子だから、という理由で改元された。
 辛酉は六十干支の58番目、甲子は1番目である。したがって辛酉の三年後が甲子である。例えば明治維新の少し前の万延二年辛酉歳は辛酉だからというだけで文久元年に改元され、文久4年甲子歳には甲子だからというだけで元治元年に改元された。ちなみに翌元治2年に孝明天皇が崩御して新天皇の即位に際して慶応元年と改元され、その後鳥羽伏見の戦いなどがあって慶応4年の東京奠都で明治元年と改元された。
 なぜ、辛酉だから、甲子だから、という理由だけで改元したのか。それは平安時代の中頃、醍醐(だいご)天皇の時代に、昌泰(しょうたい)4年(西暦901年・皇紀1561年)を延喜(えんぎ)元年に改元するべきことを上申した三善清行(みよしきよゆき)の文章に由来する。

 今年は辛酉だから改元するべきだ。理由は『易緯』に次のようにあるからだ。
 辛酉為革命、甲子為革令、鄭玄曰、天道不遠、三五而反、六甲為一元、四六二六交相乗、七元有三変、三七相乗、廿一元為一蔀、合千三百廿年、

 このように『易緯』を引用して改元理由としているのだが、この部分を書き下すと次のようになる。

 辛酉(かのととり)(めい)(あらた)まると()し、甲子(きのえね)(れい)が革まると為す、鄭玄(じょうげん)(いわ)く、天道(てんどう)(とお)からず、三五(さんご)(かえ)して、六甲(ろっこう)一元(いちげん)と為す、四六(しろく)二六(にろく)(こもごも)(あい)(じょう)じ、七元(しちげん)三変(さんぺん)()り、三七(さんしち)相乗じて、二十一元を一(ほう)と為す、合わせて千三百二十年、

 初めて辛酉革命という言葉を聞いたとき、いわゆる近代の暴力革命のようなものだと勘違いしたものだが、実際はこの書き下しのように、そういう意味ではなかった。
 革とは改まるという意で、天命が改まることが革命という言葉だったのだ。そして令が改まることが革令である。
 命と令はどう違うのか、命も令も字の成り立ちまで遡ると同じ文字だったようだが、ここでは命が主で、令は命の中の一部分、といった位置づけと考えられている。
 例えば命=法律、令=その法律の下の条例といった関係だと考えればよいだろう。
 とにかく辛酉には天命が改まり、甲子にはその天命の中の一部分の令が改まるので、この世界に大変革が起きると考えて、辛酉為革命、甲子為革令と言い、その大変革が起きる確率の高い辛酉と甲子には改元をして、その災いを未然に防ごうとしたのである。

 さて、この引用文だが、『易緯』の本文は「辛酉為革命、甲子為革令、」だけである。「鄭玄曰、」以下は漢代の学者鄭玄による解説である。

 天道不遠=天の法則を敬遠せずによく研究し、三五而反=三皇五帝時代からの歴史を顧みる、
 六甲為一元=甲が六回すなわち十干が六回巡る六十干支一巡の六十年を一元とする、
 四六二六交相乗=四と六、二と六をそれぞれ乗じる(4×6=24、2×6=12)、
 七元有三変=七元すなわち四百二十年(60×7)毎に三回変化する、
 三七相乗、廿一元為一蔀=三と七を乗じた二十一元すなわち千二百六十年(60×21=1260年)をひとくくりとして一蔀と呼ぶ、
 合千三百廿年=合わせて千三百二十年、

 普通に読めば、意味はだいたいこんな感じだが、実は何を伝えようとしているのか曖昧にしかわからないのだ。

 なぜ四六二六交相乗なのか?、なぜ七元有三変なのか?、一蔀が21元の1260年なら、なぜ合わせて1320年なのか?
 これまでの研究では、四六二六交相乗や七元有三変は辛酉革命の影響の強弱を予測する計算式だと考えられている。同じ辛酉でも年によって革命に強弱があり、大変革命となる年、ほんのちょっとの革命となる年があり、その強弱は21元の1260年で一巡する、といったところだ。
 この計算式の解釈はいくつかあるが、例えば次のようにも考えられる。
 最初の大変革命の年から数えて四六(4×60=240)の年に小さな革命があり、そこから数えて二六(2×60=120)の年にまた小さな革命があり、これを七元単位でくり返し、その七元(420年)目毎に中程度の革命があり、21元(7×3)の1260年後の辛酉に再び大変革命となる。この様子を列挙すると次のようになる。
 元年、241年目(四六240年)、361年目(二六120年)、421年目(七元)、661年目(四六)、781年目(二六)、841年目(七元)、1081年目(四六)、1201年目(二六)、1261年目(二十一元・七元)・・・。
 ただしこの考え方だと最後の「合わせて1320年」を無視することになる。

 無視とは乱暴だが、これまでに試みられたこの数式の他の解釈でも同じように1320年は無視するか、苦しいこじつけで誤魔化すかである。どのように解釈しても、1320年は辻褄が合わないのだ。しかし『日本書紀』によると皇紀1321年(西暦661年)辛酉歳には次のような事件がある。
 斉明天皇が百済を救うために朝鮮に向けて出兵したが九州で崩御した。崩御してもそのまま日本軍は海を渡り、朝鮮半島に上陸して唐と新羅の連合軍と戦った。しかし負けてしまった。
 いわゆる白村江の戦いである。
 このような事件は辛酉革命による災いの可能性を否定できない。とするとこの1321年目も、計算式とは合わないが重大な革命の年なのだ、とも言える。
 そこで三善清行は、その皇紀1321年・西暦661年から240年(四六)後に当たる皇紀1561年・西暦901年の昌泰4年を延喜元年に改元することを上申したのではないか、といったふうにも推測される。
 ともあれこの曖昧な解釈しかできない数字のためにどの辛酉の年が危険なのか判然とせず、それ以来辛酉の年には取り敢えず改元しておこうということになり、後年にはついでに甲子革令も災いの恐れがあるから念のため改元しておこうということで、江戸幕末まで続いたといったところだろう。

C三善清行の思惑

 それにしてもなぜ三善清行はこの『易緯』の文章を引用しただけで、解説を何も付け加えず改元を上申したのだろうか。そんな曖昧な勘文でもなぜ醍醐天皇は同意して改元したのだろうか。醍醐天皇は昌泰元年に満12歳で即位し、延喜への改元当時は16歳。詳細は気にせず三善清行の言うがままに改元に同意した、ということだろうか。確かにこの年の1月には菅原道真が藤原時平によって九州大宰府へ左遷させられるという大事件が起きた。しかしこの大事件を辛酉革命のせいだとするのならば、その後に改元しても無意味ではないか。辛酉革命の改元は災いを未然に防ぐためにすることである。すでに政変が起きた後に改元するのであれば、それは政変別の理由でなければおかしい。考えれば考えるほど謎である。そしてこの謎を解決する答えはひとつしかない。
 三善清行は改元という大義名分でこの『易緯』の辛酉革命を後世に伝え続けようとしたのではないか、ということである。
 三善清行は文章博士の地位にあったので、当時いろいろな書物を調べていた。その中で『古事記』『日本書紀』の暗号に気づき、解読に際して辛酉革命に気づいた。しかしその当時、すでに辛酉革命などほとんど知る人はいなかった。博学な三善はかつてどこかで読んだことがあるのを思い出したか、あるいは朝廷の書庫に『古事記』と一緒にその『易緯』の辛酉革命の一節の写しが添えられていたのかもしれない。

 この暗号で記された歴史を今ここで公表すれば身の危険があるのみならず、場合によっては日本が崩壊する可能性もありそうだ、それならばいつの時代になっても暗号がちやんと解読され朝廷内の一部の人たちだけには真実の古代史が伝わり続けるようにしたほうがよいと考え、その解読の手がかりとして辛酉革命による改元を思いついたのではないだろうか。そうすれば、後世の人たちはなぜ辛酉だからと改元するのか調べ、そこから『古事記』『日本書紀』の暗号に気づき、真実の歴史が伝わるはずだと。
 ともあれ革命を連想させる卦と言えば沢火革(たくかかく)火風鼎(かふうてい) である。沢火革は革まるという現象を意味し、火風鼎は革める道具を意味する。
 この沢火革の裏卦(りか)(全爻の陰陽を逆にした卦)は山水蒙(さんすいもう)、火風鼎の裏卦は水雷屯(すいらいちゅん)である。水雷屯と山水蒙はこの暗号にそもそも気づいたきっかけの、「神武紀」の「今運屯蒙に属ひて」の卦である。
 ということは、神武天皇は辛酉革命によってその時代が設定されたと示す目的もあって、「今運屯蒙に属ひて」という文言が添えられていたのに違いない。

 このように神武天皇の即位が辛酉革命によるものだと暗号は示していたわけだが、では六十四卦の序次と対応関係のない残る天皇の年齢は何を意味するのか。次にその辺を探ってみよう。

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もくじ

☆ プロローグ  1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密


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最終更新日:平成30年03月06日 学易有丘会
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