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Eメール危険な古代史=古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本
5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命

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このページのもくじ
@仲哀天皇から導かれる辛酉革命
 A辛酉革命とは B三善清行の革命勘文 C辛酉革命の本当の意味 D沢火革と庚申信仰 E三善清行の思惑

このページの内容は、次の6.と合わせて持統天皇と〇〇の危険な情事!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け4〜暗号解読として、約40分の動画にまとめてあります。

 

@仲哀天皇から導かれる辛酉革命

 『古事記』序文の裏メッセージがどの程度信用出来るのか。それは暗号解読が可能か否かで決しよう。そこで、ともかく暗号解読を試みることにした。

 差し当たり何かありそうなのは、2.謎めく数字137で取り上げたリスト、すなわち六十四卦の序次と対応関係になかった『古事記』の天皇の崩御時の年齢と撰進の日付の数字である。

        『記』年齢 『紀』元年
 1神武天皇   137歳  皇紀元年
 12景行天皇   137歳  731年
 14仲哀天皇    52歳  852年
 17仁徳天皇    83歳  973年
 21安康天皇    56歳 1114年
 『古事記』撰進  和銅5年正月28日‥‥和銅五年は皇紀1372年に当たる。

 このうち『古事記』序文最後にある撰進の日付「和銅(わどう)5(皇紀1372)年正月28日」と、謎めく繋がりを持っている1神武(じんむ)、12景行(けいこう)、14仲哀(ちゅうあい)の三天皇の『記』年齢の意味を考える。
 17仁徳天皇の83歳と21安康天皇の56歳は、神武、景行、仲哀、『古事記』撰進の日付とは関連がないので、何か別のことを示す暗号なのだろうと考え、触れるのは後回しにした。

 さて、1神武天皇と12景行天皇の二人の年齢137歳は、皇紀1372(和銅5)年を「137が2」(137歳の天皇が2人だけいる)と示すものとして考えれば繋がっているわけだが、さらに12景行天皇の『紀』元年がこの137を逆にした皇紀731年であることと合わせれば、これらは皇紀元年が『記』『紀』編纂に当たり机上で算出された架空の年代であることを教えようとしているに違いない、と、誰しもが確信するところだろう。とすると、その算出根拠はどこにあるのだろうか?  
 それは『古事記』撰進の日付と繋がるもうひとり、14仲哀天皇の52歳に手がかりがあると考えるのが順当だ。

 14仲哀天皇は、『紀』『記』共に崩御(ほうぎょ)時の年齢は52歳だったと記載されている。
 しかし『紀』本文をよく読むと、この52歳という記事は矛盾している。ここで必要な数字の部分だけ簡略に記述を示そう。

 14仲哀天皇は、13成務(せいむ)天皇の48年(皇紀838年)に皇太子となり、そのとき31歳だった。
 成務60年(皇紀850年)に成務天皇崩御。その翌々年の皇紀852年に仲哀天皇は即位。
 即位から9年目の皇紀860年に52歳で崩御。

 皇紀838年に31歳ならば、その22年後の皇紀860には52歳ではなく53歳のはずである。
 31+22=53、単純な計算である。
 しかし崩御時には52歳だったと矛盾したことを書いてある。
 念のため付け加えるが、現代のような満年齢なら誕生日前に崩御したから52歳だったということも有り得るが、この時代は誰しもが正月1日に年を取る数え年なので誕生日前とか後は関係なくこの年は53歳なのである。だから52歳とあれば矛盾なのだ。
 この矛盾は『日本書紀』編者の単なる計算ミスだろうか。
 実は、『日本書紀』には、他にも随所にこういった数字の矛盾が見られるのである。
 例えば、3安寧(あんねい)天皇は57歳で崩御と記載されているのだが、別のところでは2綏靖(すいぜい)天皇の25年(皇紀104年)に21歳で立太子とあり、このことから計算すると、崩御の安寧38年(皇紀150年)には67歳でなければ合わない。
 これまでの研究では、単純な計算ミス、あるいは編纂に当って集めた資料の信頼性を考慮し、矛盾した伝承もそのままにしておいた、などと言われている。
 しかしすべてが編纂者の作った虚構の歴史だとすれば、こういった矛盾こそ真実を教えるための暗号の可能性が極めて高い。そう考えて調べを進めた。
 追々明らかにするが、案の定、この14仲哀天皇の崩御時の年齢だけではなく、『日本書紀』にある数字の矛盾のすべてが、真実の歴史を教えるための暗号だったのである。
 ともかく、まずは14仲哀天皇から話そう。

「表T 古代天皇と易六十四卦の序次」はコチラ 乱数表はコチラ

 数字をどういうふうに使って暗号とするのか。
 考えられるのはふたつ。
 ひとつは易の卦に置き換えて意味を持たせること、もうひとつはその数字で別の記事を指定してその記事に新たな暗号を仕込んで真実を伝えることだ。
 そもそも易の卦に置き換えるだけでは単純なことしか伝えられない。やはりこの両方を使って暗号は成立していると考えるのが順当だろう。

 14仲哀天皇の52歳は、元年の852年下二桁であると同時に、「137が2」の和銅5年正月28日という日付とも繋がっていた。しかしこれを易の卦に置き換えても別段暗号らしいメッセージは感じられない。それでもこれが暗号であるのなら、この52歳は別の年代の下二桁を指していて、そこに皇紀元年と関係する何かが、あるのではないだろうか。

 暗号解読は、このように数字や文字の意味を考えながら、『記・紀』の記述を探って行くのだが、丁度、漢風諡号が「古きを推しはかる」という意味になる34推古(すいこ)天皇の即位が皇紀1252年12月8日となっている(元年は翌1253年)。この即位日に並ぶ数字のうち、皇紀の上二桁と月が共に12だからこの二つは相殺するとして消してみると、何と仲哀天皇の元年とも繋がる古事記序文最後の日付けと同じ528が残るではないか。
 とすると34推古天皇に、皇紀元年についての何かが隠されているはずである。
 しかし言うまでもなく通常の読み方では、どこに秘密が隠されているのか判然としない。そこで、もう一度14仲哀天皇に戻り、今度は『日本書紀』の国風諡号の足仲彦(たらしなかつひこ)を考えた。
 「足」の字(『記』では「帯」と表記)が付く天皇は、34推古天皇以前では計五人だが(神功(じんぐう)皇后を含む)、頭にあるのはこの14仲哀天皇だけで、何やら「足」に特別な意味がありそうではないか。
 暗号として考えられるのは、「足し算」すなわち「52歳の5と2を足して7とせよ」という指示と、足は(雷)(八卦を人体に配する時の約束)だから、(雷)を示す数の「4」である。
 これが見るべき箇所を指示する暗号なら、推古7年の4という数が絡む記事に、皇紀元年の秘密を教える何かがあるはずである。
 『日本書紀』のページをめくってみると、そこには次のような記事があった。

 「七年夏四月乙未朔辛酉(きのとひつじのつきたちかのととり)(27日)、地動(なゐふ)りて舎屋(やかず)(ことごとく)(こほ)たれぬ。」

 ここにある乙未朔辛酉というのは、乙未が1日となる月の辛酉の日、という意で、乙未から数えて辛酉は27番目なので、27日ということになる。まどろっこしい書き方だが、『日本書紀』ではこのように六十干支で日付を表示しているのだから仕方ない。
 現代の単純な〇月〇日という表記ではないので最初は戸惑ったものだが、旧暦(太陰太陽暦)の日付を正確に示すにはこの表記が一番よいらしい。が、それはともかく先へ進もう。

 「地動(なゐふ)る」は地震のことだが、地震は天災だから天命が(あらた)まることに通じ、日付の干支は辛酉(かのととり)である。
 辛酉に天命が革まるとするのは、辛酉革命思想である。
 また、14仲哀天皇は、『紀』に即位から9年目に崩御とあることから、9にちなみ推古9年を見ると、
 「春二月、皇太子(聖徳太子)初めて宮室(みや)斑鳩(いかるが)()てたまふ。」
とあり、この年は皇紀1261年辛酉歳に当たる。

 明治時代の那珂(なか)通世(みちよ)など多くの研究者によって、1神武天皇即位年と辛酉革命(しんゆうかくめい)思想の関係が、この記事と共に論じられているが、以上のことからすれば、『記・紀』の編者は、自ら暗号でそれを明らかにしていたのだった。
 辛酉革命とは、序次49沢火革(たくかかく)と序次50火風鼎(かふうてい)の二卦と干支の関係から導かれた予言思想で、干支(かんし)辛酉(かのととり)(音読みで辛酉(しんゆう))の(とし)には天命が(あらた)まり、天災や偉大なる人物の出現、政治上の変革等が起きるとし、中でも干支21巡の1260年を大革命の年とするものである。

 那珂通世等は、「1神武天皇即位年は、この理論に基づき、聖徳太子が斑鳩の宮を造営した辛酉歳から1260年を逆算し、机上で決定したのだ」と言っている。 

A辛酉革命とは

 ここでひとつ気になることがある。
 確かに那珂通世は神武即位年は辛酉革命によって机上で算出された架空の年代だと言ったわけだが、暗号がそう示しているということは、『紀』『記』の読者は当然のこととして辛酉革命を知っていると考えて『古事記』『日本書紀』を編纂したのだと言える。まぁ、読者は当然のこととして、とは言い過ぎかもしれないが、少なくとも暗号解読ができる読者すなわち易の知識があるのなら辛酉革命も知っていると考えていたはずである。要するに読者は編纂者と同じ知識を共有しているという前提で執筆されたのでないとおかしいのだ。同じ知識を共有していなければ暗号は解読できないではないか。易の理論を乱数表のように使ったのも、当時の国政に関わる権力の側の人間なら誰でも基礎教養として易を勉強していたからに他ならないはず。
 易は今でこそ単なる占いのひとつで、権力の側に立つ人間にとって必要不可欠な教養とは言えない。むしろ現代において、権力の側の人間で易を知る人はほとんどいないだろう。しかし江戸時代までは易こそ最高の学問であって、易を知らなければ権力の側の人間にはなれなかったのだ。
 「四書五経」という言葉があるが、四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つの書のことで、朱子学で言わば入門書とされた書物である。公家や武士の子弟は幼少期からこれらの書物の素読をし、今で言う中学生くらいになるとその意味を勉強した。
 四書を理解すると次いで五経の勉強をする。五経とは『詩経』『書経』『春秋経』『礼経』そして『易経』なのである。この五経をすべて勉強して、漸く権力側の人間として認められるのである。
 『古事記』『日本書紀』編纂当時も権力の側の人々は五経を勉強していたのは明らかであって、だからこそ易を乱数表のように使って暗号を仕掛けることを思いついたに違いない。乱数表が易であれば、百年先でも五百年先でも千年先でも権力の側の人間の誰かが気づいて解読してもらえる、と考えたのだ。もちろん辛酉革命についても、自分たちと同じように未来の権力の側の人たちも知っている、と思っていたはずだ。

  しかし辛酉革命については『易経』に書いてあるわけではない。『易経』とは別の『易緯』という本に書いてあるのだ。
 『易経』と『易緯』、名前は似ているがどう違うのか。
 古代中国、漢の時代には、この世の中を布に喩え、縦糸(経)となる書物と横糸(緯)となる書物に分類した。縦糸になる書物(経)は、いわゆる五経を始めとする漢籍を指し、社会の在り方や歴史などを学問的に書いたものである。対する横糸になる書物(緯)は、目に見えないこと、普通では予測できない天変地異や社会の混乱、戦争などを避ける方策としてのいわゆる予言的なことを書いたものであって、縦糸となる書物(経)と横糸となる書物(緯)の両方でこの世のすべてを織り上げようという思想に基づいて作られたものらしい……らしいというのは、緯書は社会に不安を与える可能性が高いということで隋の時代に禁書になった。そのため中国に『易緯』の原本はなく、日本にもない。いくつかの書物の中に『易緯』からの断片的な引用がほんの少し見られるだけである。したがって緯書の全体像はまったくわからなくないのである。
 漢代には『詩経』に対して『詩緯』、『書経』に対して『書緯』、『春秋経』に対して『春秋緯』、『礼経』に対して『礼緯』、『易経』に対して『易緯』……と、代表的な経書には緯書があったとのことだ。
 そんな中、『易緯』というのは易の卦と五行の関係などから導き出される予言を書いたものらしいとのことである。
 日本には恐らく遣隋使が中国で禁書になる前に持ち込んだのだろう。原本の完全な写本なのか、抜粋したものなのかは判然としないが。

 隋の滅亡は西暦618年・皇紀1278年だから、それから百年近く経って『古事記』『日本書紀』は編纂されたわけだが、当時としても『易緯』はかなりマイナーな本だったはずである。とすると、この暗号は誰に解読されることを願っていたのか……。
 『易経』は必読図書として読んでいたとしても、こんなマイナーな『易緯』の一節、辛酉革命を知る人は極僅かのはずである。したがって辛酉革命思想を使ったと暗号で教えても、辛酉革命思想を知らない人には通じない。
 まして明治時代は『易経』すら必読図書ではなくなっている。
 それでもなぜ、那珂通世は気づいたのか。
 それは平安時代の改元に関する革命勘文(かくめいかんもん)という文献からだった。

B三善清行の革命勘文

 現代の元号は一世一元である。明治天皇がそう決め、戦後の元号法もその明治天皇の考えを踏襲している。しかし江戸幕末までは頻繁に改元が行われていた。ひとつの元号が続く年数の平均値はヒトケタだろう。天皇が代わるとき以外に、大きな事件や災害が起きたときなどの改元が多いが、干支が辛酉の年と甲子の年にも、辛酉だから、甲子だから、という理由で改元された。
 辛酉は六十干支の58番目、甲子は1番目である。したがって辛酉の三年後が甲子である。例えば明治維新の少し前の万延二年辛酉歳は辛酉だからというだけで文久元年に改元され、文久4年甲子歳には甲子だからというだけで元治元年に改元された。ちなみに翌元治2年に孝明天皇が崩御して新天皇の即位に際して慶応元年と改元され、その後鳥羽伏見の戦いなどがあって慶応4年の東京奠都で明治元年と改元された。
 なぜ、辛酉だから、甲子だから、という理由だけで改元したのか。それは平安時代の中頃、醍醐(だいご)天皇の時代に、昌泰(しょうたい)4年(西暦901年・皇紀1561年)を延喜(えんぎ)元年に改元するべきことを上申した三善清行(みよしきよゆき)の文章に由来する。

 今年は辛酉だから改元するべきだ。理由は『易緯』に次のようにあるからだ。
 辛酉為革命、甲子為革令、鄭玄曰、天道不遠、三五而反、六甲為一元、四六二六交相乗、七元有三変、三七相乗、廿一元為一蔀、合千三百廿年、

 このように『易緯』を引用して改元理由としているのだが、この部分を書き下すと次のようになる。

 辛酉(かのととり)(めい)(あらた)まると()し、甲子(きのえね)(れい)が革まると為す、鄭玄(じょうげん)(いわ)く、天道(てんどう)(とお)からず、三五(さんご)(かえ)して、六甲(ろっこう)一元(いちげん)と為す、四六(しろく)二六(にろく)(こもごも)(あい)(じょう)じ、七元(しちげん)三変(さんぺん)()り、三七(さんしち)相乗じて、二十一元を一(ほう)と為す、合わせて千三百二十年、

 初めて辛酉革命という言葉を聞いたとき、いわゆる近代の暴力革命のようなものだと勘違いしたものだが、実際はこの書き下しのように、そういう意味ではなかった。
 革とは改まるという意で、天命が改まることが革命という言葉だったのだ。そして令が改まることが革令である。
 命と令はどう違うのか、命も令も字の成り立ちまで遡ると同じ文字だったようだが、ここでは命が主で、令は命の中の一部分、といった位置づけと考えられている。
 例えば命=法律、令=その法律の下の条例といった関係だと考えればよいだろう。
 とにかく辛酉には天命が改まり、甲子にはその天命の中の一部分の令が改まるので、この世界に大変革が起きると考えて、辛酉為革命、甲子為革令と言い、その大変革が起きる確率の高い辛酉と甲子には改元をして、その災いを未然に防ごうとしたのである。

 さて、この引用文だが、『易緯』の本文は「辛酉為革命、甲子為革令、」だけである。「鄭玄曰、」以下は漢代の学者鄭玄による解説である。

 天道不遠=天の法則を敬遠せずによく研究し、三五而反=三皇五帝時代からの歴史を顧みる、
 六甲為一元=甲が六回すなわち十干が六回巡る六十干支一巡の六十年を一元とする、
 四六二六交相乗=四と六、二と六をそれぞれ乗じる(4×6=24、2×6=12)、
 七元有三変=七元すなわち四百二十年(60×7)毎に三回変化する、
 三七相乗、廿一元為一蔀=三と七を乗じた二十一元すなわち千二百六十年(60×21=1260年)をひとくくりとして一蔀と呼ぶ、
 合千三百廿年=合わせて千三百二十年、

 普通に読めば、意味はだいたいこんな感じだが、実は何を伝えようとしているのか曖昧にしかわからないのだ。

 なぜ四六二六交相乗なのか?、なぜ七元有三変なのか?、一蔀が21元の1260年なら、なぜ合わせて1320年なのか?
 これまでの研究では、四六二六交相乗や七元有三変は辛酉革命の影響の強弱を予測する計算式だと考えられている。同じ辛酉でも年によって革命に強弱があり、大変革命となる年、ほんのちょっとの革命となる年があり、その強弱は21元の1260年で一巡する、といったところだ。
 この計算式の解釈はいくつかあるが、例えば次のようにも考えられている。
 最初の大変革命の年から数えて四六(4×60=240)の年に小さな革命があり、そこから数えて二六(2×60=120)の年にまた小さな革命があり、これを七元単位でくり返し、その七元(420年)目毎に中程度の革命があり、21元(7×3)の1260年後の辛酉に再び大変革命となる。この様子を列挙すると次のようになる。
 元年、241年目(四六240年)、361年目(二六120年)、421年目(七元)、661年目(四六)、781年目(二六)、841年目(七元)、1081年目(四六)、1201年目(二六)、1261年目(二十一元・七元)・・・。
 ただしこの考え方だと最後の「合わせて1320年」を無視することになる。

 無視とは乱暴だが、これまでに試みられたこの数式の他の解釈でも同じように1320年は無視するか、苦しいこじつけで誤魔化すかである。どのように解釈しても、1320年は辻褄が合わないのだ。しかし『日本書紀』によると皇紀1321年(西暦661年)辛酉歳には次のような事件がある。
 斉明天皇が百済を救うために朝鮮に向けて出兵したが九州で崩御した。崩御してもそのまま日本軍は海を渡り、朝鮮半島に上陸して唐と新羅の連合軍と戦った。しかし負けてしまった。
 いわゆる白村江の戦いである。
 このような事件は辛酉革命による災いの可能性を否定できない。とするとこの1321年目も、計算式とは合わないが重大な革命の年なのだ、とも言える。
 そこで三善清行は、その皇紀1321年・西暦661年から240年(四六)後に当たる皇紀1561年・西暦901年の昌泰4年を延喜元年に改元することを上申したのではないか、といったふうにも推測されている。
 ともあれこの曖昧な解釈しかできない数字のためにどの辛酉の年が危険なのか判然とせず、それ以来辛酉の年には取り敢えず改元しておこうということになり、後年にはついでに甲子革令も災いの恐れがあるから念のため改元しておこうということで、江戸幕末まで続いたようである。

 なお合千三廿年については、こんな解釈もある。
 辛酉が58番目の干支だということによるのだという。
 廿一元為一蔀のところでは、便宜的に一元を辛酉から庚申までとしているが、本来は干支1番目の甲子から60番目の癸亥までのことを指す。
 最初の辛酉革命の年は最初の一元が終わりに近づいた58年目に当たる辛酉歳、続く甲子革令の年は61年目に当たる干支の初めに戻った甲子歳。
 そこから21元過ぎた1260年後の辛酉年は甲子起点の1318年目となり、続く甲子革令の年は最初の一元の甲子歳の1320年後の甲子歳になる、
 確かにそのとおりだが、言われなくてもわかりきっていることである。なぜここで、敢えて言わなければいけないのか?
 干支に馴染みがなくてよく知らない人に対しての注釈ならばわかるが、この鄭玄曰く以下の文章は干支を熟知している人に対しての注釈である。その意味でこの解釈も納得できるものではないと反論されてもいる。

 また、次のような考え方もあるにはある。鄭玄が生きた時代と何か関係があるのではないか、ということである。
 鄭玄が生きた時代は西暦127年〜200年とされていて、この間での辛酉歳は西暦181年である。
 易の理論の基本となる易の卦辞を書いた周の文王が生きた時代は西暦紀元前1056年〜1152年と言われていて、この間での辛酉歳は西暦紀元前1080年と1140年である。
 西暦紀元前1140年辛酉歳(文王13歳)から数えると、鄭玄が生きた時代の辛酉歳西暦181年は1320年となる。
 文王が生きた時代の二度目の辛酉歳西暦紀元前1080年(文王73歳)から数えると西暦181年辛酉歳は1260年となる。
 要するに鄭玄は、自分を文王のような偉大な人物だと言いたくて、しかし文王13歳の辛酉歳と73歳の辛酉歳のどちらを起点とするか判断に苦しみ、21元(1260年)と1320年とを並べて記した、ということかもしれない、と。

 ともあれ、これまでの仮説はこのようなものだが、これだけでおしまいにするのは、易を勉強する者としては物足りない。『古事記』序文や歴代天皇と易六十四卦の関係を考えると、この鄭玄曰以下の文章も、適宜易の卦に置き換えて解釈してみたいものだ。ましてこれは『易緯』の文章だ。本当のところは易の理論で言わば暗号のような形式で書かれている可能性も大いにある。

C辛酉革命の本当の意味

 もう一度、辛酉革命の文章を見てみよう。
  辛酉為革命、甲子為革令、鄭玄曰、天道不遠、三五而反、六甲為一元、四六二六交相乗、七元有三変、三七相乗、廿一元為一蔀、合千三百廿年、
 まずは、辛酉を革命と為し、甲子を革令と為す、鄭玄曰く、天道遠からず、までは普通に読んで意味がわかるのでこれでよいとしよう。
 問題は次からだ。
 三五而反は、三皇五帝時代からの歴史を反りみて、と解釈するのが普通だが、ハタと気付いたのは、三と五は数字だ、ということである。数字は簡単に易の卦に置き換えられる。
 三は離(火)、五は巽(風)だから、合わせて火風鼎(かふうてい) となる。
 この火風鼎(かふうてい) を上下反転させると沢火革(たくかかく)となる。
 沢火革は革まるという現象を意味し、火風鼎は革める道具を意味する。
 したがってこの革と鼎の両卦は、まさに革命にピッタリの卦なのだ。
 要するにこの三五而反は、火風鼎とその上下を反転させた卦の沢火革を指示していたのである。
 ちなみに室町時代の学者一条兼良(いちじょうかねら)も、辛酉革命はこの沢火革から考え出されたものだと指摘している。
 が、両卦についての詳細な解説は、究極の易経解説・沢火革火風鼎のページをご覧いただくとして、話しを先に進めよう。
 続く、六甲を一元と為す、はそのまま甲子から癸亥までの六十年をひとくくりとして一元とする、という普通の解釈でよい。

 さあ、ここからが本番、よくわからない計算式の部分だ。
 易の卦を念頭に考えてみると、四六二六交相乗は四×六、二×六というかけ算ではなく、四(こう)を六爻の上に乗せ、さらに二爻を六爻の上に乗せる、という意味にも取れる。易の卦の記号の場所を入れ替えろ、ということである。
 沢火革の下から四番目の記号を六番目すなわち一番上に移動させ、さらに下から二番目の記号をその新しい六番目の上に移動させろ、と言っているのであって、下図のように、最終的に5水天需(すいてんじゅ)を示していることになる。

 ピーンと来た。なるほど、そういうことか、沢火革=革命が起きると易六十四卦の序次5番目の水天需になるわけだ。といっても易に不案内だとなんだかよくわからないだろうが、それは続く七元有三変を解読してからまとめて話すので、今しばらくお待ち願いたい。

 その七元有三変は、普通は七元に三変有りと読むが、七は元有(げんゆう)し三は変ず、とも読め、この読み方だとやはり易の卦の記号の位置を示しているものと理解できる。
 この場合の七は沢火革の最下すなわち初爻(しょこう)から数えて七番目すなわち六十四卦の序次で次に位置する火風鼎の初爻を示しているのだ。
 元有は「元のままを有する」という意になるからそのままにしておく。
 次の三は変ずは、その火風鼎の初爻から数えて三番目すなわち三爻を変化させる、ということ。
 すなわち火風鼎の三爻は陽だから、これを陰に変化させよという指示である。
 占いのときには、俗に爻変(こうへん)などと呼ばれる易の卦の変化の法則である。
 火風鼎の三爻を変化させると、下図のように火水未済(かすいびせい)となる。

 では、水天需と火水未済が示されたことから読み取れる意味を話そう。
 易は六十四の卦があるから六十四卦と呼ばれる。
 水天需はその易六十四卦の5番目、火水未済は64番目である。
 一方、甲子から始まり辛酉を経て癸亥で一巡する干支は全部で六十だから六十干支とも呼ばれる。
 六十あるものと六十四あるものとをひとつずつ結び付けようとすると、どうしても四つ余る。
 どうしたらよいか?
 それをこの四六二六交相乗 七元有三変で示していたのだ。
 辛酉歳は革命だからそれまでの順番どおりではなく、順番を飛ばしていきなり六十四卦5番目水天需とし、
 最後の六十年目となる庚申歳(辛酉の前年)は六十四番目の火水未済とせよ、ということである。
 本来であれば序次最後の64火水未済の次は序次冒頭の1乾為天が相応しいが、一元の六十年に六十四卦を配置するときは、どこかで数を調整しないといけない。そこで序次冒頭の1乾為天、2坤為地、3水雷中、4山水蒙を抜いて、辛酉歳を5水天需として順に配置し、最後の庚申歳を64火水未済とし、翌年の辛酉歳は再び序次冒頭四卦を飛ばして5水天需とし、以下これを繰り返せ、
 と示していたのである。
 いささか強引にも思えるが、天体の運行にしても、必ずしもいつも同じではなく、ときどき乱れる。
 当時の天文学的知識の範囲で言えば五惑星の動きもそうだし、突然の流れ星もある。それはこのように数が違うものが均等に結びつかないのを強引に調整しようとする働きがあるからであって、そういった調整しようとする働きが、天命が革まるということなのだ。
 といったふうに考えたのではないだろうか。
 とにかくここまでは、六十四卦を六十干支に配置するときのことを示していたのである。
 その年に何が起きるかは、その年に配される六十四卦を観て予測することもできる、ということである。
 先へ進もう。

 三七相乗じて廿一元を一蔀と為すの前半、三七相乗は、次に廿一元とあることからかけ算3×7のことで間違いないが、三と七を易の卦に置き換えてみると、もうひとつ意味があることがわかる。
 三は離(火)、七は艮(山)だから、三を七に乗せた火山旅(かざんりょ)を表現していることになる。
 旅には歴史というニュアンスがある(3ーA参照)。
 したがって廿一元を一蔀としてひと括りとしたのは、六十四卦の中から歴史を意味するものとしてピッタリの卦は火山旅しかないと考え、その示す数字から導き出したということに違いない。
 ただ、なぜ三七乗ではなく三七相乗と、相の字を加えているのかが、気になる。が、それはちょっと置いておき、先に進もう。

 最後の合千三百廿年=1320年は、ちょっと捻ってある。頭を柔軟にして、視点をちょっと変えると、次のように、その意味が見えてくるのだ。
 千三百廿年は、正しく書くと一千三百二十年となり、ここから位を示す千百十の字を除くと、一三二で横棒が計六本である。
 横棒六本と言えば序次第一の乾為天の形ではないか。

 とすると、なるほど1乾為天を合わせろと示していたのだ。
 合わせろとはどういうことか、単純に思い浮かぶのは、
 六十干支に六十四卦を割り振るときは、序次冒頭の1乾為天、2坤為地、3水雷屯、4山水蒙の四卦を抜くことはすでに話したが、六十年毎のおおきな一元という括りで卦を割り振るときは、序次冒頭の1乾為天〜4山水蒙を抜かずに置け、ということである。例えば、最初の大革命の一元を1乾為天とすれば、二十一元後すなわち二十二元目は22山火賁(さんかひ)、一元目を50火風鼎とすれば、十四元目が64火水未済、十五元目が序次冒頭に戻って1乾為天、そして1261年目である二十二元目は7地水師(ちすいし)、といった具合である。
 その1乾為天から数えて次の大革命の1261年目から始まる一元の22山火賁は、中心的意義に「夕映えの美しさ」とあるように、飾ることを意味すると共に、三七相乗の火山旅とは上下が入れ替わった卦である。
 とすると三七相乗には、3×7という掛け算と、三に七を乗せる、七に三を乗せる、という意味が込められていたのである。これで、単純に三七乗ではなく三七相乗と記述した理由がはっきりするではないか。要するに三七相乗と、相の字を入れることで、三に七を乗せることと、七に三を乗せることの両方を考えよと示していたのである。
 したがって三七相乗には「歴史」と「飾る」という二つの意味が込められていたのであって、合千三百廿年には、そのことを教える役割もあったのだ。歴史という意と飾るという意を重ねれば、歴史を飾るとなる。歴史を飾るとは、本当の歴史を大幅に潤色したり虚構の歴史物語を作り上げることに他ならない。したがって、その歴史を潤色したり虚構の歴史を作るための方程式が辛酉革命理論だったのである。
 なるほど、だから合千三百廿年という書き方で、易を知らない人々をはぐらかしていたのである。

 以上が辛酉革命の易学的解釈だが、日本の場合、神武天皇即位の年を50火風鼎の六十年間の最初の年として、そこから六十年毎に順に六十四卦を割り振ると、聖徳太子が斑鳩宮を建てた辛酉年は7地水師(ちすいし)の最初の年ということになる。地水師の中心的意義は「軍隊の指揮官」だが、同時に、究極の易経解説・地水師の項で解説しているように、下から二番目の唯一の陽の臣が君主から全権を委ねられていることを意味している。聖徳太子は推古天皇から全権を委ねられていたのだから、ピッタリではないか。これだと神武天皇が虚構であるのみならず、聖徳太子も虚構だということになってしまうが……、これについては追々明らかにするので、ここではこれ以上の言及は避ける。

 ところで、辛酉革命理論を使ったのは、実は日本だけではなかった。西暦元年とユダヤ暦元年もこの辛酉革命理論によって机上で算出したものだったのである。詳細はコチラを御覧ください。

D庚申信仰と辛酉革命

 せっかくここまで掘り下げたので、余談ではあるが、ついでに庚申(こうしん)信仰にも触れておきたい。
 東京の都電荒川線の大塚と王子の間に庚申塚という駅があるが、日本各地にはこのように庚申塚、庚申堂といった地名があちらこちらにある。
 江戸時代、多くの庶民が58辛酉の前日である57庚申の日に集まって、夜通し寝ないでドンチャン騒ぎをやった場所である。明治になって次第に人気がなくなり、大正時代にはほぼ廃れたらしいが、60日毎に巡って来る庚申の日は、信仰を大義名分にした気晴らしの日といったところだったのだろう。
 個人的には、今でもクラブとかで庚申イベントをやったら面白いと思うのだが。歌っても踊っても笑っても泣いても真面目な議論をしても不純なアソビをしても、とにかく朝まで寝なければ何をやっても構わないのだ。
 庚申信仰とは、そもそもは道教に由来し、庚申の日の夜に寝ると、人間の体内に潜んでいる三尸(さんし)の虫が天帝に悪事を知らせて寿命を縮めるから、この夜は決して寝ないようにする、というものである。日本ではお寺や神社のイベントとして、平安時代には貴族の間で盛んに行われ、時代とともに広まり、江戸時代には庶民もこの日は徹夜で遊んだという。とにかく寝なければ何をやっていてもよいのだ。
 なぜ庚申の日はそうなのか?
 一般には五行説を持ち出しての曖昧な説明がなされているようだが、易の知識があれば辛酉革命から派生したものだということが容易にわかる。
 沢火革において革命が起きる位置は四爻であり、ここが辛酉の位置である。辛酉革命は『易緯』の説だが、別に『詩緯』(『詩経』の緯書)には戊午為革運という言葉が添えられている。沢火革の四爻が58辛酉であれば、55戊午は初爻になる。ちなみに革令の1甲子は、沢火革全卦の時代が終わり、次の火風鼎の初爻の位置となる。したがって辛酉の前の庚申は歳の干支の場合は革命前年、日の干支の場合は革命前夜なのだ。革命前夜になぜ三尸の虫が天帝に悪事を伝えるのかは、沢火革の卦象を観れば納得できる。
 庚申の位置すなわち三爻は陽だが、陽は起きていることを意味する。これが変じれば陰で、寝ていることになる。
 沢火革の三爻が陽から陰に変じた卦は沢雷随(たくらいずい)である。
 沢雷随を逆すなわち天の方向から見ると山風蠱(さんぷうこ)である。

 山風蠱は簡単に言えば悪事を意味するとともに、蠱は三匹の虫が皿の上に居る形の字である。
 これは三匹の虫が天帝に向かって悪事を告げていることになるではないか。
 皿に集る虫はだいたいがハエや蛆虫だが、ハエや蛆虫は人間の屍にもたかる。ハエはどこからか飛んで来たのだろうが、蛆虫はどこから来たのかわからず、恰も自然に発生したかのようだ。そこで古代には蛆虫のことを、生きている間から人間の体内に潜んでいて屍になると姿を現すのだと考え、三尸の虫と呼んだ。尸とは屍のことである。
 要するにこの卦を観て、このように考えて作られたのが庚申信仰だったのである。
 しかしこう言ってしまうとあまり有難味がないので、木火土金水の五行の説だけを持ち出して曖昧なところで伝承としたのだろう。
 まあ、三尸の虫が悪事を天帝に告げるなんてことを本気で信じていたというより、それを夜通しドンチャン騒ぎをして遊ぶ口実にしていたということらしい。もちろん中には本気で信じていた人もいたではあろうが。
 ともあれ余談はこれくらいにして、本題に戻る。

E三善清行の思惑

 それにしてもなぜ三善清行はこの『易緯』の文章を引用しただけで、解説を何も付け加えず改元を上申したのだろうか。そんな曖昧な勘文でもなぜ醍醐天皇は同意して改元したのだろうか。醍醐天皇は昌泰元年に満12歳で即位し、延喜への改元当時は16歳。詳細は気にせず三善清行の言うがままに改元に同意した、ということだろうか。確かにこの年の1月には菅原道真が藤原時平によって九州大宰府へ左遷させられるという大事件が起きた。しかしこの大事件を辛酉革命のせいだとするのならば、その後に改元しても無意味ではないか。辛酉革命の改元は災いを未然に防ぐためにすることである。すでに政変が起きた後に改元するのであれば、それは政変とは別の理由でなければおかしい。考えれば考えるほど謎である。そしてこの謎を解決する答えはひとつしかない。
 三善清行は改元という大義名分でこの『易緯』の辛酉革命を後世に伝え続けようとしたのではないか、ということである。
 三善清行は文章博士の地位にあったので、当時いろいろな書物を調べていた。その中で『古事記』『日本書紀』の暗号に気づき、解読に際して辛酉革命に気づいた。しかしその当時、すでに辛酉革命などほとんど知る人はいなかった。博学な三善はかつてどこかで読んだことがあるのを思い出したか、あるいは朝廷の書庫に『古事記』と一緒にその『易緯』の辛酉革命の一節の写しが添えられていたのかもしれない。

 この暗号で記された歴史を今ここで公表すれば身の危険があるのみならず、場合によっては日本が崩壊する可能性もありそうだ、それならばいつの時代になっても暗号がちやんと解読され、朝廷内の一部の人たちだけには真実の古代史が伝わり続けるようにしたほうがよいと考え、その解読の手がかりとして辛酉革命による改元を思いついたのではないだろうか。そうすれば、後世の人たちはなぜ辛酉だからと改元するのか調べ、そこから『古事記』『日本書紀』の暗号に気づき、真実の歴史が伝わるはずだと。
 ともあれこの辛酉革命は沢火革(たくかかく)火風鼎(かふうてい) から導き出されたのである。
 沢火革の裏卦(りか)(全爻の陰陽を逆にした卦)は山水蒙(さんすいもう)、火風鼎の裏卦は水雷屯(すいらいちゅん)である。
 水雷屯と山水蒙はこの暗号にそもそも気づいたきっかけの、「神武紀」の「今運屯蒙に属ひて」の卦である。
 ということは、神武天皇は辛酉革命によってその時代が設定されたと示す目的もあって、「今運屯蒙に属ひて」という文言が添えられていたのに違いない。

 このように神武天皇の即位が辛酉革命によるものだと暗号は示していたわけだが、では六十四卦の序次と対応関係のない残る天皇の年齢は何を意味するのか。次にその辺を探ることにした。

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もくじ

☆ プロローグ  1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密

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最終更新日:令和05年01月24日 学易有丘会
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