学易有丘会トップページ九星による吉方凶方カンタン便利!自分でできる無料易占いなるほど!易学入門究極の易経解説漢文として楽しむ論語古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本聖書は易学〜聖書の作者は古代中国の易学者だった!ブログ〜折に触れ、あれこれ書いてます。コアランの音楽演奏動画など

Eメール危険な古代史=古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本
16.暗号解読[12]暗号が示す歴史の全容!

前のページへ 次のページへ

このページのもくじ

@母権制社会 A母権制社会脱却の試みと、その失敗 B応神女帝から成務女帝までの皇位継承の歴史 C打倒母権制社会のクーデター D革命軍が、いよいよ倭に乗り込む E大化の改新とその後

 『古事記』『日本書紀』は易の理論を乱数表として利用した暗号文書だった。
 表向きの歴史はすべて架空の物語で、真実は登場人物の名前を易の理論に基づいて解釈すると明らかになる、と、『古事記』序文に暗号で示されていた。
 それにしたがって解読を試みると、架空の天皇が多数いた。実在だとしても男性とされている古代天皇の多くが、実は女帝であった。のみならず、恰もジグソーパズルを組み上げるように、女帝と男帝が並立する皇統譜が姿を現し、信じられないような古代日本の忌わしい姿がそこに浮き彫りにされた。
 易に不案内だとわかりにく面もあったと思うが、その解読に至る経過をこれまで書いてきて、漸く最後まで辿りついた。

 そこで、その暗号解読の結果得られた事実を、言葉を補いながら年代順にまとめることにする。
 しかし、文字だけではわかりにくい面もありそうなので、「図41 暗号が示す全系図」を、別ウィンドウで示しておく。
 必要に応じて眺めていただきたい。

図41 暗号が示す全系図

@ 母権制社会

○ 年代不詳の古代

 古代日本は母と娘の結びつきが極めて強固な女尊男卑の母権制社会だった。
 代々の女帝たちは拝火宗教の巫女として生き、タラシヒコ(帯日子)という名を継承し、あろうことか、食人による蘇生という儀式を行うことで永遠の生命を得られるものと信じ、そのとおり行っていた。

 彼女たちは年老いて身体が利かなくなる前に、自分の肉体を新しく作り替えるためと称して、まず蝮に咬ませて自殺する。
 すると、その末娘が母の屍を食べ、その血を飲む。
 そうすることで、末娘は自分の腹の中に母の魂が宿ったものと考えた。
 あとは、その宿った魂に新しい肉体を与えるために性交して胎児に作り上げ、自分の娘として出産すれば、母は蘇生したことになる。
 不慮の事故などで、突然死んだ場合には、その時点で、この食人による蘇生が行われたのだろう。
 また、父親を特定しようなどとは考えず、ひたすら数多くの男性と関係を持ち、妊娠の確立を高めたようである。
 生まれたのが男の子だったら、母の魂がその肉体を嫌って乗り移らなかったものとして、改めて胎児から作り直した。
 おそらく、このサイクルを永遠に繰り返すことで、死の恐怖から逃避していたのだろう。
 これに対し、自ら妊娠出産することが不可能な男性は、女性を妊娠させる触媒程度にしか考えられていなかったので、父親という地位は無論あるはずもなく、使い捨ての道具に過ぎなかった。
 それでも、それが当たり前の世界で暮らしていたわけだから、何ら疑問を持たなかったのだろう。
 この時代のことを太安萬侶は、畜生同然の世の中だったと評価し、中国からは、易の卦に置き換えると胎児を意味することにもなる「倭」という字で呼ばれ、胎児が神である以上、その胎児から生まれた女帝もやはり神であって、神のお告げが絶対的権威を持つ社会システムを形成していた。
 この時代の日本はヤマトイ国と称し、本拠地は奈良県飛鳥地方を中心とした地帯だった。
 系図の出発点にあるQ孝昭女帝は、その女帝たちが神としていた自分たち自身でもある胎児のこと。
 P孝安女帝は、この間何代なのか不明だが、太古からこの食人による蘇生を行っていた女帝たちをまとめて表現したものである。

図41 暗号が示す全系図

A 母権制社会脱却の試みと、その失敗

○ 皇紀900年(西暦240年)頃

 「タラシヒコ」を継承しているO崇神女帝の息子に、ヤタ(N垂仁男帝)という名前の人物がいた。
 ヤタは食人による蘇生が幻想に過ぎないと考え、止めさせようとして、「仁」という考え方を発案する。
 「仁」とは「慈愛・博愛」もっと簡単に言えば「思いやり」のことで、「仁により心と心が繋がり合う社会を作れば、老いて醜くなった姿を軽蔑嘲笑する者もなく、また、死んだ者も折に触れて思い出されるので、心の中で永遠に生き続けることになる」と考えた。
 この息子ヤタの発案にO崇神女帝は、自らを神格化するのを思い止まり、神を崇め祀るだけの存在とし、食人による肉体蘇生も行わない決意をする。
 言うなれば、「仁」によりマインドコントロールが解けたということだろうが、これこそが日本神道の始まりだったのであって、この宗教改革は儒教などの影響によるものではなく、ヤタが独自に考案したものだった。

○ 皇紀907年(西暦247年)丁卯歳

 O崇神女帝は食人による蘇生のための自殺を行わなかったので、前年には目が微かにしか見えない老女となり、ついにこの年、自然死を迎える。
 これにより、息子ヤタが男性として始めての日本国王となり、「神のお告げ」ではなく、「仁」に基づく理性をもった社会を構築しようとする。
 なお、このO崇神女帝が、個人を特定できる最初の人物だった。

○ 皇紀911年(西暦251年)辛未歳

 クーデターが起こり、ヤタが何者かに暗殺される。
 当時の人々にしてみれば、「仁」などと言われても戸惑うばかりで、食人による蘇生や「神のお告げ」に身を委ねているほうが、肌に合っていたのだろう。
 また、いくら血族的には正統であっても、女尊男卑の中にあっては、男性を王とすることに屈辱を覚える女性も少なくなく、まして前例もない。
 マインドコントロールの悲劇ここにあり、といった感だが、とにかく事態はO崇神女帝の姪に当たるM応神女帝が即位し、昔ながらの神のお告げに応じて国を治める社会に戻すことで、落ち着いた。

図41 暗号が示す全系図

B 応神女帝から成務女帝までの皇位継承の歴史

○ 皇紀934年(西暦274年)甲午歳

 M応神女帝が太古からの慣例に従い、そろそろ老化し始めた自分の肉体を新しく作り替えるために、マムシに咬ませて自殺する。
 皇位を継承するのはL景行女帝となるのだが、この人物は本来7人のところを、表向きの皇統譜を易六十四卦の序次に合わせるために、ひとりにまとめたものだった。
 7人は仮に景行A〜Gと呼んでおく。この7人の皇位継承順とそれぞれの蘇りのための自殺年は系図に示したとおりである。
 この系図によると、女帝たちの皇位継承順は、まず長女、次に末女、そして末女の娘となるのが原則だが、末女が母の肉体蘇生の大役を担うことが、この順を決定したのだろう。また、女帝たちの系図では、父親は存在しないわけだが、景行AとBだけは例外で、ヤタ(N垂仁男帝)が父親となっている。一時はM応神女帝も「仁」に賛同していたのだろう。

○ 皇紀1056年(西暦396年)丙申歳

 景行G女帝が蘇りのために自殺。よって、長女のK仁徳女帝が皇位継承。

○ 皇紀1087年(西暦427年)丁卯歳

 K仁徳女帝が蘇りのために自殺。妹のJ仁賢女帝が皇位継承。

○ 皇紀1098年(西暦438年)戊寅歳

 J仁賢女帝が蘇りのために自殺。娘のI顕宗女帝が皇位継承。

○ 皇紀1115年(西暦455年)乙未歳

 I顕宗女帝が蘇りのために自殺。長女のH成務女帝が皇位継承。

○ 皇紀1135年(西暦四七五年)乙卯歳

 H成務女帝が蘇りのために自殺。妹のG履中女帝が皇位継承。

 M応神女帝からI成務女帝に至る時代については、ただ皇位継承順と自殺年が示されているだけで、事件事跡といったことは何もない。しかしヤタ(N垂仁男帝)が提唱した「仁」の精神が全く捨てられてしまったわけではなかったようである。
 その意志を受け継ぐ人々が、出雲地方を中心に草の根運動を展開していたのであって、それが出雲大社の始まりだった。
 『記・紀』編纂時に、ヤタの「仁」を受け継いで活動していた人々を神格化したのが、須佐之男命(すさのをのみこと)や、その息子の大国主神(おほくにぬしのかみ)だったようである。
 後世、出雲大社が縁結びの神ともされるようになったのは、「仁」すなわち「思いやり」の心があってこそ、初めて女性は性交相手となる男性をひとりに限定しようと考えるようになり、夫婦という単位が成立する、というメカニズムからではないだろうか。

図41 暗号が示す全系図

C 打倒母権制社会のクーデターが始まる

○ 皇紀1140年代(西暦480年代)頃

 九州や出雲で、「ヤタ」の意志を受け継いだ人々により、母権制社会脱却に向けたクーデターが起き、G履中女帝はその制圧のために奔走する。

○ 皇紀1150年(西暦490年)庚午歳

 H成務女帝の息子が、各地のクーデターに呼応し、ついに立ち上がる。
 とある宴会の後、G履中女帝が寝静まると、屋敷に放火して殺害し、美濃(現・岐阜県美濃市付近)に脱出し、母権制社会脱却のための革命軍の砦を作る。
 このH成務女帝の息子が、(1)神武男帝である。
 また、倭(畿内)の近くでは、美濃地方が母権制社会脱出の草の根運動が盛んだったから、当面の拠点をそこにしたのだろう。

○ 皇紀1151年(西暦491年)辛未歳

 G履中女帝の長女のF反正女帝が、母の敵討ちのために、(1)神武革命軍を攻める。
 しかし、甘く見たのか、逆に痛手を負い、それがもとでF反正女帝は絶命する。

○ 皇紀1153年(西暦493年)癸酉歳

 (1)神武男帝の弟の(2)允恭男帝が革命軍に参加。

○ 皇紀1156年(西暦496年)丙子歳

 F反正女帝の妹のE懿徳女帝の軍が、大挙して革命軍を攻撃に来る。
 反政府分子排除ということもだが、母と姉の仇討ちという意味合いも強かったのだろう。
 対する(1)神武男帝は、迎撃するに足る兵力が集まらなかったことから、女帝軍を罠に嵌める作戦を考案した。
 攻めて来たら、速やかに改心服従するふりをして、彼女たちを接待する大殿(仮設の家屋)を建て、その中に押機(踏めば打たれて圧死する仕掛け=バネ仕掛けのネズミ捕りのようなもの)を仕掛けて待ち伏せする、というものだった。
 しかし、そんなことではとても勝ち目はないと怖気づいた(1)神武男帝の弟の(2)允恭男帝は、この情報を手土産に、女帝側に寝返った。
 計略を知ったE懿徳女帝軍は、(1)神武男帝と対面し、その大殿を前にすると、「お前が建てた大殿には、まずお前が入り、我々に奉仕しようという姿勢を明らかにせよ」と、剣や弓矢で威嚇して追い詰めた。
 逃げ場を失った(1)神武男帝は、図らずも自分で造った押機に打たれ、絶命した。

 これで母権制社会脱却は夢と消えたのだろうか……。
 いや、そんなことはなかった。
 一度は寝返った允恭男帝だったが、本心から女帝に忠誠を誓ったわけではなく、女帝軍が引き上げると、我に返り、革命軍をとりしきり、ささやかではあるが、女帝側に抵抗していた。

○ 皇紀1160年(西暦500年)庚辰歳

 いつまで経っても本心から服従しない革命軍に痺れを切らしたのか、ついに女帝軍は、再び革命軍を攻撃し、(2)允恭男帝を殺害する。
 しかし、革命軍は、美濃の山中に隠れ棲んでいたので、全滅することはなく、その志は(1)神武男帝の息子の(3)綏靖男帝に受け継がれた。
 なお、(3)綏靖男帝は、太安萬侶の父、多臣品治の先祖に当たる。

○ 皇紀1192年(西暦532年)壬午歳

 E懿徳女帝が蘇りのために自殺。長女のD安寧女帝が皇位継承。
 また、この年には革命軍の綏靖男帝も崩御していて、こちらは(3)綏靖男帝の妹と(2)允恭男帝との間に生まれた(4)雄略男帝が引き継ぐ。

○ 皇紀1204年(西暦544年)甲午歳

 D安寧女帝が蘇りのために自殺。妹のC安閑女帝が皇位継承。

図41 暗号が示す全系図

D 革命軍が、いよいよ倭に乗り込む

○ 皇紀1219年(西暦559年)己卯歳

 (4)雄略男帝を長とする革命軍は、美濃の山中に隠れ住みながらも徐々に力をつけ、この年、いよいよ倭(飛鳥地方)に乗り込み、女帝の城の近くに革命軍の砦を築き、手始めにC安閑女帝を殺害する。
 と同時に、食人による蘇りの愚かしさを知らしめるために、これを止めさせようと実力行使に出る。
 例えば、妊婦の腹を裂き、胎児を取り出して、それが神でも母の魂が宿ったものでもないと分らせようとしたり、女性を押さえつけて馬と交尾させて、セックスが神懸りと無関係の行為であることを分らせようとしたりと、いささか乱暴なことも行われた。
 しかし、それでもマインドコントロールは解けるものではなく、C安閑女帝の後は、娘のB継体女帝が引き継ぎ、相変わらず食人による肉体蘇生を行っていた。

○ 皇紀1266年(西暦566年)丙戌歳

 (4)雄略男帝崩。革命軍は息子の(5)崇峻男帝が引き継ぐ。

○ 皇紀1251年(西暦591年)辛亥歳

 「仁」をもって誠意を尽くし、母権制社会と食人による蘇生がいかに愚かしいことかと説得しても、女帝側は聞く耳持たずで、どうにもならない。
 そんな状況から、両者はしばしば武力衝突を繰り返したが、そのクライマックスがこの年だった。

 まず、(5)崇峻男帝により、B継体女帝とその次女の用明皇女が殺害される。
 これにより女帝側は、B継体女帝の長女のA欽明女帝が後を継ぐ。
 すると同年八月、今度はA欽明女帝により、崇峻男帝が殺害される。
 男帝側は、(5)崇峻男帝の息子の(6)敏達男帝が後を継ぐ。
 報復合戦とでも言おうか、血で血を洗う凄まじさだが、それはともかく、この頃になると、革命軍に共鳴する人々も次第に増え、どうやら女帝側よりも優位になってきた模様である。

 この後、(6)敏達男帝は、自分たちが優位になって来た余裕からか、女帝側と和睦を考え、自分とA欽明女帝の妹(B継体女帝の三女)の@推古女帝とで、肉体関係を持つことを求め、女帝側もこれに応じた。
 その結果として、二人に間に男子が生まれた。
 それが(7)聖徳太子である。
 しかし、いわゆる夫婦というわけではなく、推古女帝はこれまでの女帝たちと同様に、相変わらず父親不明の子供も、何人か設けていた。
 なお、女帝側はA欽明女帝が、男帝側は(6)敏達男帝が長となっていたこの時代に、大陸から仏教が伝来したようだ。それも母権制社会と食人による蘇生の権威を失墜させ、女帝側の力を弱める要因となったのだろう。なお仏教伝来については、後ほど改めて話す。

○ 皇紀1263年(西暦603年)癸亥歳

 A欽明女帝が蘇りのために自殺。
 慣例では末女が皇位継承するところだが、異例にも、三女の@推古女帝が皇位に就く。@推古女帝は(6)敏達男帝と肉体関係を持ち、(7)聖徳太子を生んだ人物である。
 男帝側が、双方の血を引く聖徳太子をもって、近い将来、(1)神武男帝以来分裂していた国を統一しようと考えたのを、力の衰えた女帝側としはて、飲まざるを得なかったのだろう。

○ 皇紀1282年(西暦622年)壬午歳

 (6)敏達男帝崩。息子の(7)聖徳太子が革命軍を引き継ぐ。

○ 皇紀1296年(西暦636年)丙申歳

 @推古女帝が蘇りのために自殺。
 ついに、(7)聖徳太子が統一王朝として即位、と言いたいところだが、そう簡単に事は運ばなかった。妹の皇極女帝が皇位を継承してしまったのである。いや、推古女帝はそろそろ妹に皇位を譲るために自殺した、という面もあったのだろう。

○ 皇紀1303年(西暦643年)癸卯歳11月

 皇極女帝により、(7)聖徳太子が殺害される。
 男帝革命軍の論理で国が統一されることを、女帝側は必ずしも歓迎していなかったのだろう。 しかし逆に、これを契機として、女帝側は滅亡へと追い込まれてしまう。
 世間の大多数は、最早、母権制社会や食人による蘇生から離れてしまっていたのである。
 なお、(7)聖徳太子は、欽明女帝の娘との間に三人の男子を設けていた。
 長男は表向きの中臣鎌子=藤原鎌足、次男は中大兄皇子=天智天皇、三男は大海皇子=天武天皇であり、聖徳太子亡き後は、まず長男の鎌足が革命軍を引き継いだ。
 その鎌足は、皇極女帝との間に二人の娘を設け、さらにその二人の娘は、鎌足の弟の中大兄皇子と肉体関係を結び、後の持統天皇他を生む。

図41 暗号が示す全系図

E 大化の改新とその後

○ 皇紀1305年(西暦645年)乙巳歳6月12日

 この日、鎌足と中大兄皇子ら革命軍は、皇極女帝を殺害し、さらに9月12日には、中大兄皇子が、母を蘇生させるための儀式に臨む皇極女帝の末娘も殺害。
 一方、鎌足は、皇極女帝殺害後、東国各地を男帝側に服従させるための旅に出る。
 関東〜東北まで、多くの地域では、目的を達せられたが、信濃地方では強く抵抗され、11月に、無念にも鎌足は諏訪で戦死した。
 としても、反撃はそれまでで、次男の中大兄皇子が革命軍を率いて対峙すると、皇極女帝を蘇生させることが最早不可能となったこともあり、女帝側は急速に力を失い、内部崩壊を起こしf始めた。
 これで、女帝側の直系の皇位継承者はいなくなり、しばらく男帝女帝が並立していた日本の王権は、男帝に一本化され、念願の母権制社会とその忌まわしい風習脱却はほぼ達成されたのであって、これが大化の改新の本当の姿だったのである。
 天皇とは、そもそも中国の『春秋緯』という書物にある言葉で、この世の最初の王統ということだが、日本では、「父権制社会の王」という意味を込めて、使われたようである。
 易では、天は(天)という卦を通じて父を意味するのである。
 ただし、まだ抵抗する女性もいくらか残っていた。

○ 皇紀1321年(西暦661年)辛酉歳6月

 A欽明女帝の蘇りとなる孫娘が、もう一度母権制社会を復活させようと、倭(畿内)を捨てて、九州に逃げる。しかし、不穏な動きに、天智天皇はすぐさま後を追い、この日、その孫娘を殺害し、クーデターを未然に防ぎ、事なきを得る。

○ 皇紀1322年(西暦662年)壬戌歳

 持統天皇(当時天武妃)が、百済から朝貢に来た使者と深い仲になり、その結果として草壁皇子を生む。(6.暗号解読2−Fより)

○ 皇紀1325年(西暦665年)乙丑歳

 天智天皇崩。弟の天武天皇が皇位継承。

○ 皇紀1326年(西暦666年)丙寅歳

 @推古女帝の蘇りとなる孫娘の大友皇女(表向きの大友皇子)が、母権制社会復活を賭けて、近江大津に兵力を結集する。

○ 皇紀1332年(西暦672年)壬申歳6月

 天武天皇は、しばらく近江の様子を静観し、できることなら武力を行使せずに、母権制社会復活を諦めさせようと考えていたが、いつまで経っても服従する様子がないので、仕方なく一戦交える。
 死力を振り絞って応戦する相手に、いささか苦戦を強いられた場面もあったが、最後には大友皇女を殺害し、鎮圧する。
 これがいわゆる「壬申の乱」の正体である。

 これで、B継体女帝の娘のA欽明女帝、@推古女帝、皇極女帝の血を引く者のうち、男帝革命軍に服従しなかった女性はすべていなくなったことになり、日本は父権制社会として、新たに出発する。
 しかし、一旦「仁」を知って、人の死を冷静に受け止めるようになると、食人による肉体蘇生を信じていた母権制社会の時代を、畜生同然と恥じ、これを歴史上から抹殺しようと、多くの人々が考えるようになった。

以下は6.暗号解読2−Fの再掲。

○ 皇紀1337年(西暦667年)丁丑歳

 壬申の乱が平定されて6年になるが、朝廷内ではこの頃から、平然と汚職をする持統皇后の発言力が強くなって来る。

○ 皇紀1341年(西暦681年)辛巳歳2月庚子朔甲子(25日)

 汚職で得た勢力を後ろ盾にした持統皇后は、予てより天武天皇の子だと偽り続けて来た草壁皇子を、この日、皇太子とすることに成功する。

○ 同年3月

 持統皇后と賄賂で結ばれた朝廷内の大多数勢力が、綺麗事ばかりで飾り、それに都合の悪い真実は全て切り捨てた虚構の歴史物語編纂事業に着手する。これに対して天武天皇は、真実の歴史を後世に伝え残そうと独自に調査し、知り得た全てを愛娘で数少ない味方の一人、稗田阿礼(母は持統皇后)に誦習させる。誦習という手段を用いたのは、文書で残せば焼き捨てられる危険があったからだろう。

○ 皇紀1346年(西暦686年)丙戌歳

 持統皇后が天武天皇に毒を盛り始める。用いられたのは長期間与え続けることで死に至る毒物で、これにより天武天皇は病床に着く。草壁皇子を皇太子としたことで、最早用済みとなったばかりか、汚職や虚構の歴史書編纂に批判的な天武天皇である。生きていては何かと都合が悪かったのだろう。

○ 同年9月戊戌朔丙午(9日)

 天武天皇崩御。よって毒殺計画は成功。しかし、必ずしも持統皇后の思い通りには行かなかった。草壁皇子が天武天皇の後継として即位しようとすると、その出生疑惑を理由に大津皇子(父は天武天皇、母は大田皇女=持統皇后の姉)が実力阻止に出たからである。
 この事件は大津皇子にあまり力がなかったことから、翌十月に大津皇子を謀反者として処刑することで収まったが、これにより世間の目は厳しくなる。そこで草壁皇子の即位は見合わされ、代わりに天武天皇と持統皇后の間に生まれた稗田阿礼が皇位に就く。なお、朱鳥という年号は暗号のためのものであって、実在はしない。

○ 皇紀1349年(西暦689年)戊子歳

 持統皇后を中心とする勢力が稗田阿礼の暗殺を仄めかし譲位を迫ったので、稗田阿礼側は止むを得ずこれに従う。天武天皇の信頼厚かった人物が皇位にあることを不愉快に思ったのだろう。

○ 皇紀1350年(西暦690年)己丑歳正月戊寅朔(1日)

 持統天皇即位。

○ 皇紀1353年(西暦693年)癸巳歳9月丁亥朔乙未(9日)

 高市皇子(天武天皇の庶子)が草壁皇子の側近の一人に、「草壁皇子を殺してくれたら、私が皇太子となった暁には御前を大臣にしよう」と言って唆し、天武天皇の命日であるこの日に草壁皇子を暗殺させる。そして意気揚々と事の次第を報告に来ると、「自分の主人を裏切るような奴は信用出来ない」として、今度はこの人物を殺す。大津皇子の無念を晴らしたかったのだろう。

○ 皇紀1354年(西暦694年)甲午歳4月甲寅朔庚辰(27日)

 高市皇子が太政大臣(皇太子格)になる。

○ 皇紀1356年(西暦696年)丙申歳7月辛丑朔癸卯(3日)

 天武天皇の死因が持統天皇による毒殺だったことを、とある偶然から知った高市皇子が、この日に「父の仇」として持統天皇を暗殺する。しかし、いくら「父の仇」であったとしても天皇暗殺は大罪であり、またこれを放置すれば国中が大混乱となる恐れもある。そこで同月10日、高市皇子には死が命じられ、この事は多臣品治によって内密に処理されると共に、持統天皇の遺体も人里離れた山中(現・奈良市東部の奥山地区)に埋葬された。
 この事件により、急遽、稗田阿礼が、持統天皇のいわゆる影武者として皇位に就き、何事もなかったかのように装い、翌年8月には譲位という形式で草壁皇子の息子の文武天皇(当時15歳・母は天智天皇の娘で後の元明天皇)に皇位を継承させる。文武擁立は、持統天皇を支持していた朝廷内主流派の意志だろう。

 以上が暗号が示す歴史の全容だが、果たしてこれが真実なのだろうか。次にその辺を探ってみたい。

このページのトップへ
前のページへ 次のページへ

もくじ

☆ プロローグ 1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密

有丘文庫トップ

学易有丘会トップページ九星による吉方凶方カンタン便利!自分でできる無料易占いなるほど!易学入門究極の易経解説漢文として楽しむ論語古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本聖書は易学〜聖書の作者は古代中国の易学者だった!ブログ〜折に触れ、あれこれ書いてます。コアランの音楽演奏動画など
最終更新日:令和05年01月24日 学易有丘会
Copyright Heisei12th〜Reiwa5th(2660〜2683) (C)2000〜2023 GakuEki-UQkai
当サイトの内容はすべて無断転載を禁止します