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Eメール古事記と易学 発見!想像を絶する真実の古代日本
12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代

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このページのもくじ

@神武男帝登場までの各女帝の崩年 Aサバを読むにも程がある・・・

@神武男帝登場までの各女帝の崩年

 暗号が教える歴史によると、すでに9.暗号解読[5]の最後に示した図34で明らかなように、N垂仁男帝が殺された後はM応神女帝を皮切りに代々女帝たちが皇位を継承している。そこでまず、年代を把握するためにM応神女帝から@推古女帝までの崩年を割り出そう。
 実は暗号が示す歴史では、事件などの具体的なことはG履中女帝以降の時代が男帝側主体で描かれているだけなのである。
 だからと言ってN垂仁男帝から、いきなりG履中女帝に進むわけにもいかない。
 崩年を割り出す作業は、機械的な暗号解読で退屈なものだが、触れておかないわけにもいかない。
 なお表向きの表記に倣い、とりあえず死亡年を崩年と表記しておくが、言うまでもなく自然死などではい。蘇りのための自殺をした年のことである。今後、女帝の崩年と書く場合は、すべて同様である。

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M応神女帝の崩年

 「応神紀」では、16応神天皇は皇紀970年に崩御したことになっている。しかしこれをそのまま当てはめると、N垂仁男帝暗殺が911年だから在位60年となり、いささか信じ難いことになる。とすると「応神記」の甲午(きのえうま)年9月9日がクサイ。
 甲午年はN垂仁男帝が暗殺された皇紀911年以降で最も近いのは、皇紀934年である。
 9月9日にちなみ、9が重なる年を探すと、『紀』の表向きの歴史では11垂仁天皇が99年に崩御した後、12景行天皇が即位している。
 暗号が示す歴史ではM応神女帝の次はL景行女帝7代である。
 逆に言うとL景行女帝7代の前帝はM応神女帝である。
 したがって、この皇紀934年甲午がM応神女帝の崩年となる。
 ただし、神に応じたのだからこれは自然死ではなく、肉体蘇生のための自殺と考えるべきである。

L景行女帝7代

 L景行女帝の位置は7人の女帝をまとめたものだったが、その7人を仮に景行A〜Gとしよう。その景行A〜Gそれぞれの崩年は12景行天皇のことを書いた「景行紀」の記事の様子から割り出された。

 「景行紀」には、景行天皇は垂仁天皇の37年(皇紀668年)に21歳で皇太子となった、とある。
 このことから計算すると、景行60年(皇紀790年)の崩御時には、143歳となっているはずである。
 しかし、景行天皇は崩御時には106歳だった、とある。

 これも矛盾である。とするとこれが真実を引き出す手がかりになるはずである。
 まず、143から106を引くと37になる。
 37は、垂仁天皇の37年に皇太子となった、という記事で印象付けられた数字である。
 とすると、そのとき21歳だったということに、暗号としての意味があるはずである。
 考えられるのは、143から21を引くことだけである。
 143−21=122である。
 7代の合計在位年数が122年だとすると、一代当たり17.4年で、妥当な数字である。
 そこでM応神女帝崩年の皇紀934年に122年を加える。
 すると皇紀1056年になる。
 どうやら、景行7代の最後となる景行Gの崩年が、この皇紀1056年だと示している感触である。
 これが他の景行で括られた6人や、景行の次のK仁徳女帝の在位年と上手く繋がれば、正解ということだ。
 どうすれば他の6代の崩年が割り出せるのか。
 とりあえず「景行紀」の記事のある年を拾ってみた。
 すると、次の図38のように不連続な箇所が7つあることがわかった。

 7つの不連続な箇所と景行7代、数の上で一致する。
 とするとこの不連続な箇所が、景行で括られた7人の女帝の即位年に違いない。
 ただし景行天皇の在位は60年しかなく、暗号が示す景行7代の時代は122年間で、約干支2巡分である。
 ここに出てくる順序をそのまま景行A〜Gの即位年とするわけにはいかない。
 本当の即位年は別の順序のはずである。
 そう考えて、その不連続の年の最初の記事の日付を眺めてみると、それらを易の卦に置き換えたとき、別の順序を示していることがわかった。
 景行Aの即位年から順に話そう。

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景行A

 応神女帝の崩年は皇紀934年甲午だったが、甲午の翌年の干支は乙未(きのとひつじ)である。
 乙未歳を不連続な年から探すと、景行25年になる。
 景行Aは景行7代の始まりである。
 したがって景行25年と同じ乙未となる皇紀935乙未歳が景行Aの即位年になる。

景行B

 景行Aの即位年になる景行25年の最初の記事の日付は壬午(みずのえうま)である。
 壬午を易の卦に置き換えると、壬は(水)・午は(火)だから、合わせて63水火既済になる。
 序次でこの卦に続くのは、64火水未済(かすいびせい)である。
 景行40年の最初の記事の日付の夏6月は、夏は(火)・六は(水)だから、その64火水未済を示す。
 したがって景行Bの即位年は、この景行40年と干支が共通する皇紀950庚戌(かのえいぬ)歳となる。

景行D

 景行Cは説明の都合により後回しにし、次は景行Dの即位年を割り出す。
 景行Dは4代目だからアルファベットの4番目のDと呼んでいる。
 一方、景行17年の最初の記事の干支は己酉(つちのととり)である。
 己酉は、己(土弟)は(地)・酉は(沢)だから、合わせて19地沢臨(ちたくりん)となる。
 この卦は二本で一本と見なせば(雷)になる。
 (雷)が示す数は4である。
 したがって、この景行17年丁亥(ひのとい)と同じ干支の年すなわち皇紀987丁亥歳が、4番目である景行Dの即位年となる。

景行F

 景行Eは、Cと同様これまた後回しにして、次は景行Fを割り出す。
 景行Fは景行6代目である。
 景行51年の最初の記事の日付の戊子は、易の卦に置き換えると、戊は(山)・子は(水)だから、合わせて4山水蒙(さんすいもう)になる。
 4山水蒙は序次4番目だから、63水火既済から数えると6番目になる。
 1既済、2未済、3乾、4坤、5屯、6蒙・・・である。
 63水火既済を示す日付は景行Aすなわち景行初代のものだった。
 したがって6代目の景行Fの即位年は、この景行51年辛酉(かのととり)と同じ干支の年なのであって、それは皇紀997辛酉歳となる。

景行E、G

 これで景行A、B、D、Fの即位年が確定したわけだが、これにより残っているEとGも判明する。
 景行27年の最初の記事の日付の壬子(みずのえね)を易の卦に置き換えると、壬も子もともに(水)だから、合わせて29坎為水になる。
 また、景行12年の最初の記事の日付の秋7月を易の卦に置き換えると、秋は(沢)・7は(山)だから、こちらは31沢山咸(たくざんかん)になる。
 序次では、29坎為水の次の次が31沢山咸である。
 次の次という関係は、景行CとE、景行EとGだが、年代を考えれば、景行27年丁酉(ひのととり)と同じ干支の皇紀997丁酉歳が景行Eの即位年、景行12年壬午(みずのえうま)と同じ干支の皇紀1042壬午歳が景行Gの即位年となる。

景行C

 最後に残った景行60年の最初の記事の日付の辛卯を易の卦に置き換えると、辛は(沢)・卯は(雷)だから、合わせて17沢雷随(たくらいずい)となる。
 随は「したがう」という意味だから、随ってこの残った景行60年庚午(かのえうま)と同じ干支になる皇紀1042庚午歳が、景行Cの即位年となる。

 これで景行A〜Gまでの即位年が出揃ったわけだが、即位は前帝崩の翌年を例としているので、それぞれの即位前年が前帝の崩年となる。
 したがって、
 景行A女帝の崩年は皇紀949己酉(つちのととり)歳、
 景行B女帝の崩年は皇紀969己巳(つちのとみ)歳、
 景行C女帝の崩年は皇紀986丙戌(ひのえいぬ)歳、
 景行D女帝の崩年は皇紀996丙申(ひのえさる)歳、
 景行E女帝の崩年は皇紀1020庚申(かのえさる)歳、
 景行F女帝の崩年は皇紀1041辛巳(かのとみ)歳、
 景行G女帝の崩年は皇紀1056丙申(ひのえさる)歳、
 ということになる。

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K仁徳女帝崩年

 9.暗号解読[5]の最後に示した図34のように、景行Gから皇位を継承するのは仁徳女帝となっている。
 景行Gの崩年は皇紀1056丙申(ひのえさる)歳だから、K仁徳女帝の即位は翌年の皇紀1057丁酉(ひのととり)歳ということになる。
 『古事記』では、17仁徳天皇は丁卯(ひのとう)年8月15日崩とある。
 このうちの8月は、24地雷復(ちらいふく)を11月とする十二消長卦では、20風地観(ふうちかん)となる。
 この卦は17仁徳天皇のA列である。
 15日は、正式表記では一十五日となるので、1と5で易の卦に置き換えると、1は(天)・5は(風)だから、合わせて44天風姤(てんぷうこう)となる。
 したがって「仁徳天皇は44天風姤すなわち女帝である」という意味になる。
 とすると8月15日で、17仁徳天皇のA列と女帝であることを示し、この年の干支の丁卯が真実であることを示していることになる。
 そこで丁卯年だが、暗号が示すK仁徳女帝即位の皇紀1057丁酉歳以降だと、皇紀1087年に当たる。
 おやおや、『日本書紀』には17仁徳天皇は即位から87年目に崩御したとあるが、このK仁徳女帝崩年の皇紀1087年の下二桁と同じではないか。
 なるほど、この87年目に崩御したという記述は、暗号解読者に対して、「それが正しい」と示す道しるべの役割も考えて作られていたのか。
 なんと緻密な暗号作戦ではないか!
 とにかくこれでK仁徳女帝崩年は皇紀1087丁卯歳だとわかった。

J仁賢女帝崩年

 J仁賢女帝については、『古事記』には崩年干支など、その時代を特定させる暗号はない。
 一方、『日本書紀』を見ると、25仁賢天皇は皇紀1148年戊辰(つちのえたつ)を即位元年とし、11年目(皇紀1158年戊寅(つちのえとら))に崩御としている。
 戊辰は丁卯の翌年である。K仁徳女帝崩年は丁卯である。前帝崩御の翌年が即位元年とするのが『日本書紀』の通例である。したがって仁賢女帝が戊辰年に即位したのは事実ということになる。ただし干支一巡の60年前の仁徳女帝崩御の翌年1088年戊辰に即位である。とすればこの『日本書紀』の崩年干支の戊寅が、そのまま暗号が示す歴史のJ仁賢女帝の崩年干支なのであって、在位11年目に崩御なのだから、皇紀1098戊寅歳が仁賢女帝の崩年となる。

I顕宗女帝崩年

 24顕宗天皇については、『古事記』には崩年干支の記載はなく、『日本書紀』の崩年干支(1147乙丑(きのとうし)歳)をそのまま当てはめると、前帝のJ仁賢女帝崩年が1098年だから、在位49年となり、これまでの最長在位のK仁徳女帝の31年(皇紀1057年〜1087年)を20年近く更新することになり、いささか信じがたい。
 とするとI顕宗女帝の崩年を示すのは、次のH成務女帝の暗号にあるはずである。
 そこで13成務天皇だが、「成務紀」には、
 「12景行天皇の46年=皇紀776年に、24歳で皇太子となった」とあるとともに、
 「即位から60年目=皇紀850年に107歳で崩御した」とある。
 これはおかしい。崩御の皇紀850年に107歳ならば、立太子の皇紀776年には33歳のはず。計算が合わない。またまた数字の矛盾である。
 さらに「景行紀」では、皇太子となったのは12景行天皇の51年=皇紀781年のことだとしていて、これまた合わない。
 なるほど、これが暗号に違いない。

 まず、46年に皇太子となった、とあることから、この46を易の卦に置き換えると、4は(雷)・6は(水)だから、合わせて40雷水解(らいすいかい)となる。解は解消の解である。とすると、皇太子となったということは解消する、ということになる。
 また、崩御時107歳ということから計算すると、景行46年は24歳ではなく33歳のはずだから、これは、24歳は33である、という暗号に違いない。
 3を易に置き換えると(火)だから、33で(火)が二つ重なった30離為火となる。 この卦は皇位継承を意味する。
 そうか、24歳のときに皇太子になったのではなく、皇位を継承した、と示しているのだ。
 すなわち、H成務女帝はI顕宗女帝崩年には24歳だった、ということである。
 したがってI顕宗女帝崩年は、H成務女帝が生まれた年がわかれば、自ずと確定する。
 その成務女帝の生年は、13成務天皇の出生についての記述から割り出せる。

 「成務紀」には、即位から3年目のこととして、「春正月癸酉朔己卯(みずのととりのつきたちつちのとう)に、武内宿禰(たけしうちのすくね)を大臣とした」、とあるとともに、「この武内宿禰と13成務天皇は同じ日に生まれた」、とある。
 また「景行紀」には、12景行天皇即位から3年目のこととして、武内宿禰の出生について次のように書いている。
 天皇は紀伊国の神々の祭祀を行おうとしたが、占いが吉ではなかったので取りやめ、配下の一人に行かせた。彼はその地で神々の祭祀を行うとともに9年間その地に住み、妻を娶って武内宿禰を生んだ。
 これでは武内宿禰が景行3年から9年間すなわち景行12年までのうちのいつ生まれたのか判然としないが、9年と言えば先ほど話した13成務天皇が皇太子となったときの年齢の矛盾と同じ数である。
 これは9年という範囲を示すことで、皇太子となったときの年齢の矛盾とリンクさせ、この記事の年すなわち景行3年と同じ干支の年がI成務女帝の生年だと示しているのに違いない。
 なお、景行46年に24歳ならば、生年は景行23年、33歳ならば、生年は景行14年となり、ともに武内宿禰が生まれた年より後になってしまい、13成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれたことにはならなくなる。
 要するに「景行紀」が、13成務天皇が皇太子になったのを景行51年とし、「成務紀」が景行46年だとするのと矛盾しているのは、ここに暗号があることを強調するためだったのである。

 そこで景行3年の干支だが、干支は60年で一巡し、12景行天皇の在位は60年なので、成務3年と同じになり、12成務天皇の元年は辛未(かのとひつじ)だから、3年は癸酉(みずのととり)である。
 成務3年の記事は、先ほど示したが、「春正月癸酉朔乙卯に、武内宿禰を大臣にした」である。おやおや、この記事の中にも癸酉という干支があるではないか。
 春正月癸酉朔己卯というのは、春正月すなわち1月のこと。
 癸酉はその月の1日の干支で、1日が癸酉となる月の己卯の日、という意味になり、癸酉から数えると己卯は7番目なので、1月7日、という日付を表している。
 しかしこの日付も、架空のものなのだから、何らかの暗号である可能性が高い。
 己卯を易の卦に置き換えると、己は(地)・卯は(雷)だから、合わせて24地雷復になる。
 この卦は復活あるいは物事が始まることを意味する。
 とすると、癸酉が物事の始まりすなわち生まれた、と示し、成務女帝が癸酉歳生まれだということをここでも念を押していたのである。
 したがって「I成務女帝は癸酉歳に生まれ、24歳で皇位を継承した」のであって、このことから計算すると、丙申(ひのえさる)歳が皇位継承の年になる。
 J仁賢女帝崩年が皇紀1098戊寅歳だから、ここで言う丙申は、皇紀1116丙申歳となり、これがI顕宗女帝の崩年である。

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H成務女帝崩年

 13成務天皇の崩年は、『古事記』に乙卯(きのとう)年3月15日崩とある。
 まず3月ということを、次のように考える。
 『古事記』に崩年干支の記載があるのは、K仁徳女帝の次はこのH成務女帝である。
 途中のJ顕宗女帝とI仁賢女帝には、崩年干支の記載はなかったので、この二人は『日本書紀』の記述から崩年を割り出した。
 このように、K仁徳女帝の次から数えて3人目に、崩年干支が記載されているのであって、その3人目ということと3月は、3という数で一致する。
 一方、15日というのは、17仁徳天皇の『記』崩年干支の丁卯年8月15日と同様に、44天風姤すなわち女帝という意味になる。
 したがって、K仁徳女帝の次から数えて3人目の女帝の崩年干支だと示しているのであって、I顕宗女帝崩年が皇紀1116丙申歳だから、計算するとH成務女帝崩年は皇紀1135乙卯歳ということになる。

G履中女帝崩年

 18履中天皇の崩年は『古事記』に壬申(みずのえさる)年正月3日崩とある。
 なぜ、正月3日としてあるのか。
 これが暗号なら、3日を壬申としたときの正月1日の干支こそが、正しい崩年干支だ、と考えるのが普通である。
 壬申が3日なら辛未が2日で、庚午(かのえうま)が1日である。
 前帝のH成務女帝崩年の皇紀1135乙卯歳以降から探すと、皇紀1150年が庚午になる。したがって、履中女帝の崩年は、この皇紀1150庚午歳となる。

F反正女帝崩年

 19反正天皇の崩年は、『古事記』に丁丑(ひのとうし)年7月崩とある。これは10崇神天皇の戊寅年12月崩と同様に、月までしか書いていない。
 O崇神女帝の崩年は戊寅を12月(12番目)としたときの正月(1番目)の干支である辛卯だった。
 とするとO崇神女帝のときのように、丁丑を7月(7番目)としたときの正月(1番目)の干支がF反正女帝の崩年のはずである。
 丁卯が7番目なら、辛未(かのとひつじ)が1番目となる。
 辛未はG履中女帝崩年の庚午の次である。
 したがってF反正女帝の崩年は、G履中女帝崩の翌年の皇紀1151辛未歳となる。
 皇位継承してたった一年で崩御とは、何やらきな臭いではないか。
 これまでの暗号解読の結果では、G履中女帝から神武男帝が逃げ、そこから男帝系の皇統が始まっている。
 それと何か関係がありそうな気がするが・・・。

Aサバを読むにも程がある・・・

 しかし、表向きの1神武天皇が即位したのは皇紀元年(西暦紀元前660年)であり、この暗号が示す神武男帝が生きた時代は、皇紀1150年(西暦490年)前後である。
その差1150年、ずいぶんとサバを読んだものである。
 皇紀1150年は、『古事記』序文にある撰進の日付の和銅5年=皇紀1372年から、たった220年程前に過ぎない。
 現代を基準にすると、約150年前の明治維新よりは古いが、江戸後期の本居宣長が『古事記伝』や『古訓古事記』を書いた天明の頃よりは新しい時代の話である。それを、はるか平安時代の話にしてしまった、ということになる。
 が、それはさておき、とにかく当面の課題、@推古女帝までの崩年を割り出すことに専念しよう。

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E懿徳女帝崩年

 4懿徳天皇には『古事記』の崩年干支はない。そこで『日本書紀』の記述から崩年を探り出す。
 「懿徳紀」を見ると、元年条に、「9月丙子朔乙丑(ひのえねのつきたちきのとうし)に、前帝の皇后を尊び、皇太后とした」とある。この記事の内容はどうでもよいのだが、干支がおかしい。
 9月丙子朔乙丑というのは、9月1日が丙子となる乙丑の日、という意味なのだが、9月1日が丙子ならば、乙丑は9月50日になってしまうのである。
 しかし、当時の暦(いわゆる旧暦)では、ひと月は29日または30日であって、9月50日などという日付は有り得ない。
 矛盾である。矛盾で乙丑という干支を強調しているのである。
 そこで、乙丑という干支にこだわって付近を探ると、前帝の「3安寧紀」に、「綏靖天皇の33年、綏靖天皇が崩御し、その年の7月癸亥朔乙丑(みずのといのつきたちきのとうし)に、安寧天皇が即位した」とあった。
 表向きには、3安寧天皇の次が4懿徳天皇だが、暗号では、E懿徳女帝の次がD安寧女帝である。
 したがってこの記事は、この年にE懿徳女帝が崩御し、D安寧女帝が即位した、と告げているのであって、綏靖33年の干支は、計算すると壬子(みずのえね)だから、反正女帝崩の皇紀1151年以降の壬子の年すなわち皇紀1192壬子歳が懿徳女帝の崩年となる。

D安寧女帝崩年

 4懿徳天皇と同様に、3安寧天皇にも、『古事記』は崩年干支の記載がないので、『日本書紀』から探し出す。
 「安寧紀」では、2綏靖天皇の25年(皇紀104年)に21歳で皇太子となった、とあるとともに、3安寧天皇の38年(皇紀150年)に崩御し、崩御時の年齢は57歳だった、とある。
 しかし、皇紀104年に21歳ならば、皇紀150年には57歳ではなく、67歳になっていなければおかしい。
 またまた矛盾である。
 そこで、示されている57歳という数字の意味を考える。
 57を易の卦に置き換えると、5は(風)・7は(山)だから、合わせて53風山漸(ふうざんぜん)になる。
 漸とは「一歩ずつ進む」という意味である。
 とすると、D安寧女帝はこの年に崩御したのではなく、表向きの次の時代まで進んで生きたと示していることになる。
 要するに、次の4懿徳天皇の崩年と、干支が共通する年が、D安寧女帝崩年なのである。
 4懿徳天皇の崩年は懿徳34年で、計算するとこの年の干支は甲子(きのえね)になる。
 E懿徳女帝崩年の皇紀1192年以降から甲子を探すと皇紀1204年である。
 したがって、この皇紀1204甲子歳が、D安寧女帝の崩年となる。

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C安閑女帝崩年

 28安閑天皇は、『古事記』に乙卯(きのとう)年3月13日崩とあるので、これがC安閑女帝の崩年を教える暗号に違いない。
 しかし、前帝のD安寧女帝崩年が甲子とすると、乙卯はその51年後ということになり、在位期間が長すぎる。
 とすると、3月13日という日付が正しい干支を教える計算式なのであって、正月1日に相当する干支が正しい崩年に違いない。
 そこでまず日付の13日だが、十二支は1日が卯なら、卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯と繰るので、13日目は1日と同じ卯となる。したがって、この13日というのは、十二支一巡を示していると考えるのが一番素直である。
 3月13日が乙卯なら3月1日は癸卯(みずのとう)になる。
 3月1日が癸卯だとして、それではなぜ3月なのか。
 3月なのだから、正月から三段階進んでいることになるが、何を持って一段階とするのか。
 これまでの暗号の様子から判断すれば、今回は十二支一巡を一段階だとしているのに違いない。それ以外には有り得ない。
 この方法だと、3月1日が癸卯なら、2月1日は辛卯(かのとう)、正月1日は己卯(つちのとう)になる。
 したがって、C安閑女帝の崩年は、D安寧女帝崩年の1204年甲子以降の己卯すなわち皇紀1219己卯歳となる。

B継体女帝崩年と用明皇女薨年

 27継体天皇は『古事記』に丁未(ひのとひつじ)年4月9日崩とある。
 用明皇女の表向きの姿の32用明天皇は、『古事記』に丁未年4月15日崩とあり、『日本書紀』には、用明2年丁未の夏4月乙巳朔癸丑(きのとみのつきたちみずのとうし)(9日)崩と記されている。
 「継体記」と「用明紀」に従えば、27継体天皇と32用明天皇は同じ日に死んだことになる。
 しかし、4月9日ということを易の卦に置き換えると、4は(雷)・9は(天)だから、合わせて34雷天大壮(らいてんたいそう)となる。
 この卦は勢いがとても盛んで、とても死亡日に相応しいとは言えない。
 無論、事実ならば相応しくないか否かは関係ないわけだが、これは事実を書いたものではなく、暗号である。
 とするとこの日付は、この二人すなわちB継体女帝と用明皇女が、丁未の年にはまだ元気で、それ以降の何れかの年の同じ日に死んだ、と示していることになる。

 そこで『日本書紀』の継体天皇のところを開くと、継体25年春2月丁未に崩御とし、その理由として、「『百済本記』によれば、辛亥(かのとい)年に日本の天皇および太子皇子が(とも)崩薨(かむさ)り、辛亥は継体25年に当たる」と記している。
 ただし、この記事の中にある天皇および太子皇子が倶に崩薨ったとすることは、『日本書紀』には対応する事件がなく、誰を指すのか研究者を悩ませている。
 また、『百済本記』という書物が、実際に存在したのか否かも不明である。
 一方、『記』にある丁未年は継体21年に当たり、21を易の卦に置き換えると、2は(沢)・1は(天)だから、合わせて43沢天夬(たくてんかい)となる。
 この卦は決去決壊ということから、暴動騒乱などの意味を持つ。
 とすると、この『百済本記』からの引用としている部分こそ暗号なのであって、これは辛亥年に暴動騒乱があって、継体女帝(天皇)と用明皇女(皇子)は、巻き込まれて死んだと示していることになる。なお、もうひとり太子も死んだとあるが、これは(5)崇峻男帝のことであって、その説明はもう少し後にする。
 とにかく、前帝崩の皇紀1219年以降から辛亥年を探すと、皇紀1251年になる。
 したがって、継体女帝と用明皇女の崩年は皇紀1251辛亥歳となる。

 なお、『用明記』丁未年4月15日崩の15日という日付の数字は、『古事記』の17仁徳天皇崩年干支の丁卯年8月15日や13成務天皇の乙卯年3月15日と同様に、44天風姤(てんぷうこう)すなわち女帝という意味である。
 4月の部分は、十二消長の4月の卦すなわち1乾為天(けんいてん)を暗示している。
 1乾為天の最下が、陽から陰に変化したのが、44天風姤である。
 このように、1乾為天と44天風姤を示すからには、1乾為天の最下の位置の意義を示す易経の文章を暗示しているとしか考えられない。
 その文章とは、「潜竜(せんりょう)なり、(もち)うる(なか)れ」というものであって、潜竜とは、即位前の王様のことである。
 要するに、このように示すことで、用明皇女が即位前に薨去したと告げていたのである。

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A欽明女帝崩年

 30欽明天皇の崩年干支は『古事記』にはない。
 一方、『日本書紀』には不思議な記述がある。
 30欽明天皇は即位のとき、「年は若干だった」とあり、欽明32年の崩御のときにも、「年は若干だった」とある。
 若干とは、それほど多くない数を意味する言葉である。
 即位の時は若干だったとしても、その32年後の崩御時にも年は若干だった、というのは不自然である。
 したがってこれが暗号であり、崩御の欽明32年を即位の時とし、その32年後がA欽明女帝の崩年だと示しているに違いない。
 欽明天皇元年(即位の翌年)は庚申(かのえさる)だから崩御の欽明32年は辛卯(かのとう)になり、その32年後は癸亥(みずのとい)になる。
 前帝崩の皇紀1251年以降の癸亥は皇紀1263年である。
 すなわち皇紀1263癸亥歳がA欽明女帝の崩年となる。

@推古女帝の崩年

 34推古天皇は『古事記』に戊子(つちのえね)年3月15日癸丑(みずのとうし)崩とある。
 一方、『日本書紀』では、推古36年3月丁未朔癸丑(ひのとひつじのつきたちみずのとうし)(7日)とある。
 推古36年は戊子だから、干支と月までは、両者は一致している。
 異なるのは日付が、干支は同じだが、『日本書紀』は7日、『古事記』は15日としていることである。
 とすると、この誤差が暗号である。
 15から7を引くと8である。
 これが暗号ならば、無論8日ということではなく、8年後が推古女帝の崩年に違いない。
 しかし、これだけではいささか心もとない。補足する暗号はないものだろうか。
 『日本書紀』の推古36年、推古天皇崩御周辺の記事を見ると、3月丁未朔戊申(ひのとひつじのつきたちつちのえさる)に日蝕があった、とあり、壬子(みずのえね)に崩御したとある。
 持統天皇暗殺関連の暗号では、日蝕は天皇の崩御とリンクしていた。
 暗号が示す歴史では、34推古天皇と35舒明天皇は同一人物となっている。
 とすると、この推古36年の日蝕も暗号で、本当の崩年に、さりげなく日蝕記事を入れてある可能性が高い。
 そこで日蝕記事を調べてみると、舒明8年春正月壬辰朔(みずのえたつのつきたち)と、翌舒明9年3月乙酉朔丙戌(きのととりのつきたちひのえいぬ)に、日蝕があったと記されていた。
 前者の舒明8年の日蝕は、推古崩から丁度8年後である。
 とすると、この日蝕記事も、推古女帝の崩年を示す暗号だったのである。
 おそらく翌舒明9年の日蝕記事はダミーなのだろう。
 なお日蝕記事は、『日本書紀』の中でも、持統天皇関連のところと、ここにしか出て来ず、ともに暗号だったことを付け加えておく。
 ともあれ、以上のことから、@推古女帝の崩年は表向きの舒明8年すなわち皇紀1296丙申(ひのえさる)歳となる。
 @推古女帝の次には皇極女帝が残るが、それはここまでの男帝の歴史を辿った後に話す。
 ここで、O崇神女帝から@推古女帝までの各崩年をまとめておく。

O崇神女帝…………皇紀 907年丁卯/西暦247年
N垂仁男帝…………皇紀 911年辛未/西暦251年
M応神女帝…………皇紀 934年甲午/西暦274年
L景行A女帝………皇紀 949年己酉/西暦289年
 景行B女帝………皇紀 969年己巳/西暦309年
 景行C女帝………皇紀 986年丙戌/西暦326年
 景行D女帝………皇紀 996年丙申/西暦336年
 景行E女帝………皇紀1020年庚申/西暦360年
 景行F女帝………皇紀1041年辛巳/西暦381年
 景行G女帝………皇紀1056年丙申/西暦396年
K仁徳女帝…………皇紀1087年丁卯/西暦427年
J仁賢女帝…………皇紀1098年戊寅/西暦438年
I顕宗女帝…………皇紀1116年丙申/西暦456年
H成務女帝…………皇紀1135年乙卯/西暦475年
G履中女帝…………皇紀1150年庚午/西暦490年
F反正女帝…………皇紀1151年辛未/西暦491年
E懿徳女帝…………皇紀1192年壬子/西暦532年
D安寧女帝…………皇紀1204年甲子/西暦544年
C安閑女帝…………皇紀1219年己卯/西暦559年
B継体女帝…………皇紀1251年辛亥/西暦591年
 用明皇女…………皇紀1251年辛亥/西暦591年
A欽明女帝…………皇紀1263年癸亥/西暦603年
@推古(舒明)女帝…皇紀1296年丙申/西暦636年

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もくじ

☆ プロローグ  1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密


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最終更新日:平成30年03月12日 学易有丘会
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