| 前のページへ 次のページへ このページのもくじ @神武男帝登場までの各女帝の崩年 Aサバを読むにも程がある・・・ 
 このページの内容は、前のページの内容と合わせると共に、少し話を広げて、大神神社、八幡神社の悲願!秘密の救世主ヤタ!古事記日本書紀のトリッキーな数字仕掛け7〜暗号解読として、約1時間15分にまとめて動画にしてあります。 
   @神武男帝登場までの各女帝の崩年
 暗号が教える歴史によると、すでに9.暗号解読[5]の最後に示した図34で明らかなように、N垂仁男帝が殺された後はM応神女帝を皮切りに代々女帝たちが皇位を継承している。そこでまず、年代を把握するためにM応神女帝から@推古女帝までの崩年を割り出そう。実は暗号が示す歴史では、事件などの具体的なことはG履中女帝以降の時代が男帝側主体で描かれているだけなのである。
 だからと言ってN垂仁男帝から、いきなりG履中女帝に進むわけにもいかない。
 崩年を割り出す作業は、機械的な暗号解読で退屈なものだが、触れておかないわけにもいかない。
 なお表向きの表記に倣い、とりあえず死亡年を崩年と表記しておくが、言うまでもなく自然死などではい。蘇りのための自殺をした年のことである。今後、女帝の崩年と書く場合は、すべて同様である。
 乱数表はコチラ
 
M応神女帝の崩年
 「応神紀」では、16応神天皇は皇紀970年に崩御したことになっている。しかしこれをそのまま当てはめると、N垂仁男帝暗殺が911年だから在位60年となり、いささか信じ難いことになる。とすると「応神記」の甲午年9月9日がクサイ。甲午年はN垂仁男帝が暗殺された皇紀911年以降で最も近いのは、皇紀934年である。
 9月9日にちなみ、9が重なる年を探すと、『紀』の表向きの歴史では11垂仁天皇が99年に崩御した後、12景行天皇が即位している。
 暗号が示す歴史ではM応神女帝の次はL景行女帝7代である。
 逆に言うとL景行女帝7代の前帝はM応神女帝である。
 したがって、この皇紀934年甲午がM応神女帝の崩年となる。
 ただし、神に応じたのだからこれは自然死ではなく、肉体蘇生のための自殺と考えるべきである。
 
L景行女帝7代
 L景行女帝の位置は7人の女帝をまとめたものだったが、その7人を仮に景行A〜Gとしよう。その景行A〜Gそれぞれの崩年は12景行天皇のことを書いた「景行紀」の記事の様子から割り出された。
  「景行紀」には、景行天皇は垂仁天皇の37年(皇紀668年)に21歳で皇太子となった、とある。このことから計算すると、景行60年(皇紀790年)の崩御時には、143歳となっているはずである。
 しかし、景行天皇は崩御時には106歳だった、とある。
  これも矛盾である。とするとこれが真実を引き出す手がかりになるはずである。まず、143から106を引くと37になる。
 37は、垂仁天皇の37年に皇太子となった、という記事で印象付けられた数字である。
 とすると、そのとき21歳だったということに、暗号としての意味があるはずである。
 考えられるのは、143から21を引くことだけである。
 143−21=122である。
 7代の合計在位年数が122年だとすると、一代当たり17.4年で、妥当な数字である。
 そこでM応神女帝崩年の皇紀934年に122年を加える。
 すると皇紀1056年になる。
 どうやら、景行7代の最後となる景行Gの崩年が、この皇紀1056年だと示している感触である。
 これが他の景行で括られた6人や、景行の次のK仁徳女帝の在位年と上手く繋がれば、正解ということだ。
 どうすれば他の6代の崩年が割り出せるのか。
 とりあえず「景行紀」の記事のある年を拾ってみた。
 すると、次の図38のように不連続な箇所が7つあることがわかった。
  
  7つの不連続な箇所と景行7代、数の上で一致する。とするとこの不連続な箇所が、景行で括られた7人の女帝の即位年に違いない。
 ただし景行天皇の在位は60年しかなく、暗号が示す景行7代の時代は122年間で、約干支2巡分である。
 ここに出てくる順序をそのまま景行A〜Gの即位年とするわけにはいかない。
 本当の即位年は別の順序のはずである。
 そう考えて、その不連続の年の最初の記事の日付を眺めてみると、それらを易の卦に置き換えたとき、別の順序を示していることがわかった。
 景行Aの即位年から順に話そう。
 乱数表はコチラ
 
景行A
 応神女帝の崩年は皇紀934年甲午だったが、甲午の翌年の干支は乙未である。乙未歳を不連続な年から探すと、景行25年になる。
 景行Aは景行7代の始まりである。
 したがって景行25年と同じ乙未となる皇紀935乙未歳が景行Aの即位年になる。
 景行B
 景行Aの即位年になる景行25年の最初の記事の日付は壬午である。壬午を易の卦に置き換えると、壬は
  坎(水)・午は  離(火)だから、合わせて63  水火既済になる。 序次でこの卦に続くのは、64
  火水未済である。 景行40年の最初の記事の日付の夏6月は、夏は
  離(火)・六は  坎(水)だから、その64  火水未済を示す。 したがって景行Bの即位年は、この景行40年と干支が共通する皇紀950庚戌歳となる。
 景行D
 景行Cは説明の都合により後回しにし、次は景行Dの即位年を割り出す。景行Dは4代目だからアルファベットの4番目のDと呼んでいる。
 一方、景行17年の最初の記事の干支は己酉である。
 己酉は、己(土弟)は
  坤(地)・酉は  兌(沢)だから、合わせて19  地沢臨となる。 この卦は二本で一本と見なせば
  震(雷)になる。 
  震(雷)が示す数は4である。 したがって、この景行17年丁亥と同じ干支の年すなわち皇紀987丁亥歳が、4番目である景行Dの即位年となる。
 
景行F
 景行Eは、Cと同様これまた後回しにして、次は景行Fを割り出す。景行Fは景行6代目である。
 景行51年の最初の記事の日付の戊子は、易の卦に置き換えると、戊は
  艮(山)・子は  坎(水)だから、合わせて4  山水蒙になる。 4
  山水蒙は序次4番目だから、63  水火既済から数えると6番目になる。 1既済、2未済、3乾、4坤、5屯、6蒙・・・である。
 63
  水火既済を示す日付は景行Aすなわち景行初代のものだった。 したがって6代目の景行Fの即位年は、この景行51年辛酉と同じ干支の年なのであって、それは皇紀997辛酉歳となる。
 
景行E、G
 これで景行A、B、D、Fの即位年が確定したわけだが、これにより残っているEとGも判明する。景行27年の最初の記事の日付の壬子を易の卦に置き換えると、壬も子もともに
  坎(水)だから、合わせて29  坎為水になる。 また、景行12年の最初の記事の日付の秋7月を易の卦に置き換えると、秋は
  兌(沢)・7は  艮(山)だから、こちらは31  沢山咸になる。 序次では、29
  坎為水の次の次が31  沢山咸である。 次の次という関係は、景行CとE、景行EとGだが、年代を考えれば、景行27年丁酉と同じ干支の皇紀997丁酉歳が景行Eの即位年、景行12年壬午と同じ干支の皇紀1042壬午歳が景行Gの即位年となる。
 
景行C
 最後に残った景行60年の最初の記事の日付の辛卯を易の卦に置き換えると、辛は 兌(沢)・卯は  震(雷)だから、合わせて17  沢雷随となる。 随は「したがう」という意味だから、随ってこの残った景行60年庚午と同じ干支になる皇紀1042庚午歳が、景行Cの即位年となる。
  これで景行A〜Gまでの即位年が出揃ったわけだが、即位は前帝崩の翌年を例としているので、それぞれの即位前年が前帝の崩年となる。したがって、
 景行A女帝の崩年は皇紀949己酉歳、
 景行B女帝の崩年は皇紀969己巳歳、
 景行C女帝の崩年は皇紀986丙戌歳、
 景行D女帝の崩年は皇紀996丙申歳、
 景行E女帝の崩年は皇紀1020庚申歳、
 景行F女帝の崩年は皇紀1041辛巳歳、
 景行G女帝の崩年は皇紀1056丙申歳、
 ということになる。
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