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Eメール古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本
15.暗号解読[11]大化の改新=父権制社会としての出発!

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@中臣鎌子・天智天皇・天武天皇の関係 A鎌足・天智・天武の三兄弟の母親 B大化の改新の真相と、皇極女帝の蘇り阻止 C鎌足の東征〜諏訪で戦死 D天智天皇=中大兄皇子=天命開別 E大友皇子と壬申の乱

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@中臣鎌子・天智天皇・天武天皇の関係

 このように暗号が示す歴史では、皇極女帝が中臣鎌子と中大兄皇子によって殺害され、大化の改新を迎えることになるのだが、まだ中臣鎌子が何者なのかについては明らかでない。まずはその辺から探って行こう。
 中臣鎌子は、白雉5年正月条より、突然理由もなく、中臣鎌足(かまたり)と表記される。不思議だ。
 これは暗号に違いない。
 早速、鎌子と鎌足を易に置き換えてみよう。
 鎌は金属でできているから(天)、子は十二支の()として(水)、足は(雷)だから、鎌子は6天水訟で「訟える(主張する)」、鎌足は25天雷无妄(てんらいむぼう)となる。

 とすると、まず、中臣鎌子で「中臣であることを主張する」という意味になる。
 中臣ということを考えると、この時代は男帝と女帝の二つの政府があったのだから、その中を取り持つ人物、とするのが最も素直であり、中を取り持つからには、双方の血を受け継ぐ人物と解釈するのが妥当だ。
 鎌足と表記される最初の年、白雉5年は皇紀1314年に当たるが、この下二桁の14を易に直すと、1は(天)・4は(雷)だから、合わせて25天雷无妄となり、鎌足が示す卦となる。

 (7)聖徳太子の真実を教えるための暗号だった37孝徳天皇の即位年(大化元年)の皇紀1305年下二桁を易に直すと、0は(地)・5は(風)だから、合わせて46地風升(ちふうしょう)となる。
 なお0という数字は当時なかったはずだから、そういう置き換えは成り立たないのではないか、という声も聞こえてきそうなので、念のため付け加えると、当時の数字表記法に従えば、一千三百五年となり、十の位がないわけだが、その十の位がないことが無であり、無は陰の極みだから(地)となるので、0という数字があってもなくても、同じ卦を示すのである。

 その46地風升は、25天雷无妄の裏卦(すべての陰陽が逆になった卦)である。
 表裏の関係は、親子または同一人物を指す。
 25天雷无妄を示すのは、40天武天皇の天武という漢風諡号も同様である。天は(天)・武は(雷)だから、天武と合わせれば、25天雷无妄になる。
 鎌足と聖徳太子を同一人物とすると、天武天皇も聖徳太子と同一人物でないと、暗号が矛盾する。
 したがって、鎌足と40天武天皇は、ともに(7)聖徳太子の子となる。

 また、39天智天皇は、中大兄皇子とも呼ばれているとともに、「舒明紀」によると、幼少期は葛城(かつらぎの)皇子と呼ばれていた、とある。
 葛城を易の卦に置き換えると、葛は(雷)・城は(山)だから、合わせて62雷山小過(らいざんしょうか)となり、この卦は二本で一本と見なせば(水)になる。
 (水)には、三人兄弟の真ん中(中男)という意味がある。
 ちなみに長男は(雷)、末っ子(少男)は(山)である。
 表向き、40天武天皇は39天智天皇の弟だとされているが、これを否定する暗号はないので、この二人はそのまま兄弟となる。
 とすると、(7)聖徳太子には三人の子供がいて、長男が中臣鎌足、次男が天智天皇、三男が天武天皇だったのである。
 天智天皇が中大兄と呼ばれたのは、上の兄(長男)ということではなく、中の兄(中男)ということだったのである。

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A鎌足・天智・天武の三兄弟の母親

 前述のように、鎌足・天智・天武の三兄弟の父親は(7)聖徳太子だったが、それでは母親は誰なのだろうか。
 それは聖徳太子関連の婚姻親子関係から導き出される。

 「敏達紀」5年条によると、
 聖徳太子は、敏達天皇と推古天皇の間にできた菟道貝鮹(うぢのかひだこの)皇女、またの名を菟道磯津貝(うぢのしつかひの)皇女という女性を嫁にした、
 とある。
 しかし、同4年条では、敏達天皇と息長真手(おきながまての)王の(むすめ)広姫(ひろひめ)との間にできた娘の一人として、菟道磯津貝皇女という名を挙げている。
 あれれ?この名前は菟道貝鮹皇女の別名と同じではないか。
 どういうことだろう・・・。
 このように、何の注釈もなく同名の人物が出てきたら、読者は戸惑う。
 とすると、これが暗号である。早速解読しよう。

 暗号では、聖徳太子は敏達男帝と推古女帝との間にできたことになっている。
 男帝側は母権制社会を畜生同然と蔑んでいるのだから、少なくとも母が自分と同じ姉妹を嫁にすることは倫理的に有り得ないはずだ。
 したがって、聖徳太子が敏達天皇と推古天皇の間にできた女性を嫁にしたというのは虚偽であって、同名のもうひとり、息長真手王の娘の広姫との間にできた娘としての菟道磯津貝皇女こそが、聖徳太子が嫁とした本当の女性を教える暗号だ、と伝えているに違いない。
 息長真手王の娘の広姫という名前は、息長は舒明天皇の国風諡号の息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)の頭の二文字である。
 続く真手は、易の卦に置き換えると、真は陰陽を考えると陽(偽が陰)になるからその極みの(天)・手は(山)だから、真手で33天山遯(てんざんとん)になる。
 この卦は欽明天皇のA列である。
 広姫の広は、舒明天皇の国風諡号の下の部分の広額と共通するとともに、欽明天皇の国風諡号の天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)の下の部分の広庭とも共通する。
 このような共通項があるからには、
 a、敏達男帝には、欽明女帝の娘との間に生まれた娘がいて、その娘を聖徳太子の嫁とした。
 b、その娘と聖徳太子との間に生まれた子供については、舒明天皇の子として記してある、
 と教えているに違いない。

 「舒明紀」2年条に、舒明天皇は(たからの)皇女(皇極天皇)との間に三人の子供ができたとある。
 葛城皇子(天智天皇)、間人(はしひとの)皇女、大海(おほあまの)皇子(天武天皇)である。
 表向きの歴史では、間人皇女は後に孝徳天皇の妃になるのだが、それは関係ない。
 しかし「間人」という名前は気になるではないか。
 間の人→誰かと誰かの間を取り持つ人、という意味になる。
 同じ意味になる別の名前を探すと、「中臣」である。
 したがってこの間人皇女という名前は、中臣鎌足が天智や天武と同じ両親から生まれたと示す暗号だったのである。
 表向きが間人皇女すなわち女性としたのは、男性とすれば、鎌足が長男でありながら皇位を継承しなかった理由を、表向きにも書かないといけないことになるからだろう。
 その後、中臣は藤原姓となり、奈良時代以降、藤原家から皇后が選ばれるようになったわけだが、ここに鎌足を女性とし、孝徳天皇の皇后としたことと、何か関係もありそうである。
 ともあれこれで、図39のように、鎌足、天智、天武の三兄弟の両親は、聖徳太子と、欽明女帝と敏達女帝の間にできた娘だということがはっきりした。

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B大化の改新の真相と、皇極女帝の蘇り阻止

 暗号が示す歴史では、皇紀1303癸卯(みずのとう)歳、表向きの皇極2年11月、皇極女帝によって聖徳太子が殺害されたことになる。
 とすると、その後の男帝政府を引き継いだのは、その長男のはずである。
 聖徳太子の長男は鎌足である。
 そして皇極4年6月に、皇極女帝が鎌足や中大兄皇子によって殺害され、表向きの大化の改新を迎える。
 どうやら、「大化の改新」の本当の意味は、政権が女帝側から男帝側に移った、ということのようである。
 しかし、そう簡単には物事は運ばなかったようだ。皇極女帝が殺されても、女帝側はまだまだしぶとかったのである。

 「孝徳紀」大化元年9月丙寅朔丁丑(ひのえとらのつきたちひのとうし)(12日)条を見ると、古人(ふるひと)皇子が蘇我田口臣川堀(そがのたぐちのおみかはほり)等とともに謀反し、中大兄皇子が征討したとある。
 古人皇子という名前は、聖徳太子殺害を教える暗号解読のところで、老人を連想させる役割で出てきたが、古い人とは「古い風習に生きる人」という意味にも取れる。
 したがって、ここでは女帝側の残党を示すものと考えられる。

 そうしてみると、一緒に謀反した人物の蘇我田口臣川堀という名前がクサイ。
 易の卦に置き換えてみよう。
 田は(地)・口は(沢)・川は(水)・堀は(沢)だから、田口で19地沢臨(ちたくりん)、川堀で60水沢節(すいたくせつ)となる。
 臨は「(のぞ)む」、節は節目である。
 したがって、蘇我田口臣川堀は、「蘇我・臨む・節目」で、我は蘇りの節目に臨む、と読める。
 どすると、この古人皇子と蘇我田口臣川堀らが謀反して中大兄皇子が征討した、という事件は、
 皇極女帝の娘が、殺された母を蘇らせようと、その儀式に臨んでいるところを、中大兄皇子が阻止して殺した、
 と示していることになるではないか。
 皇極女帝が殺害されたのは、6月丁酉朔戊申(ひのととりのつきたちつちのえさる)(12日=表向きの蘇我蝦夷・入鹿が殺された日)だから、丁度その三ヵ月後に当たる。 当時、殺されて三ヶ月も人肉を保存する術はないだろうから、おそらく殺されてすぐ食人の儀式を行い、胎内に宿った母の魂に肉体を与えるためと称し、この日に乱交パーティのようなことをしていたのだろう。
 とにかくこれで、皇極女帝の蘇りは阻止できたことになる。

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C鎌足の東征、そして諏訪で戦死

 中臣鎌子は、白雉4年正月条から中臣鎌足と表記され、さらに天智8年冬10月丙午朔庚申(ひのえうまのつきたちかのえさる)(15日)に、姓を賜り藤原氏となり、翌辛酉(かのととり)(16日)に薨去したとある。
 この記事が事実ならば、鎌足は聖徳太子の長男なのになぜ天皇にならなかったのか、という疑問が生じる。
 とすると、この記事は事実ではない可能性が高い。
 そう考えて、この記事の近辺を見ると、少し前に「是秋、藤原内大臣の家に落雷があった」とあった。
 落雷するからには激しくくり返し雷が鳴ったわけであり、そういう状態を示すのは、51震為雷(しんいらい)である。
 この卦は、震(雷)が重なっていることから、雷がくり返し鳴り響いている様子である。とともに、その雷は実態が判然としないことから、実体のないものをも意味する。
 したがって、ここに落雷事件を書くことで、「この家に纏わる記事は、実体のない作り話だ」と、教えていることになり、鎌足の薨去も別の年月日だと示していることなる。

 そこで鎌足薨去の記事だが、その最後には、日本世記(にほんせいき)()はくとして「鎌足は春秋50にして薨去し、碑文には春秋56で薨去と書いてあった」とある(春秋は年齢のこと)。
 「日本世記」とは、『日本書紀』の中にときどき出てくる書物の名前で、実際にそんな書物があったのか否かはまったくわからないものである。とすると、この記事も暗号である。
 50と56を易の卦に置き換えると、5は(風)・0(一の位に数がないこと)は(地)・6は(水)だから、50で20風地観(ふうちかん)、56で59風水渙(ふうすいかん)となる。
 20風地観は、『易経』のこの卦を説明する文中に神道という言葉があるとともに、10.暗号解読[6]Eでも触れたように鳥居のイメージの卦でもあることから、神を意味する。
 59風水渙は、(風)の風が(水)の水の上を行く形であるとともに、その(風)には木という意味もあるので、木の船が水の上を行く様子として、「新しい世界への出発」という意味もある。
 したがって、この20風地観と59風水渙で「神への出発」となり、「鎌足薨去の経緯は、神世(かみよ)の神話の中に描かれている」という暗号と受け取れる。

 また、鎌足薨去日の10月丙午朔辛酉(16日)は、16は正式な一十六として易の卦に置き換えると、1は(天)・6は(水)だから、6天水訟で「訟える(主張する)」という意味になる。
 したがって、この日の辛酉という干支を主張していることになる。
 表向きの歴史で、辛酉の年に亡くなったとされるのは斉明天皇(皇極天皇の重祚)である。
 とすると、皇極女帝崩と同じ年に鎌足も薨去した、と考えるのが順当である。

 そこでもう一度、そういう視点で皇極4年=大化元年条を見ると、先ほどの古人皇子が謀反して殺された記事に、鎌足のことも書いてあることが判明した。
 先ほどは割愛したが、この古人皇子謀反の記事では、「或本に伝はく」として、殺害に至る経緯の異伝をいくつか挙げるとともに、この人物に対する呼び名が複数あることを書いている。
 古人大兄(ふるひとのおほえ)吉野(よしのの)太子、吉野皇子、古人大市(ふるひとのおほちの)皇子、吉野大兄(よしののおほえの)王である。
 表向きの物語では、皇極天皇から孝徳天皇への皇位継承を穏便にするため、古人皇子は出家して吉野へ行ったので、吉野太子、吉野皇子と呼ばれたとある。
 この謀反についての部分の記述について、少し補足すると、

a まず本文は、9月丙寅朔丁丑(ひのえとらのつきたちひのとうし)(12日)、吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)が中大兄に、「私は吉野の古人皇子たちの謀反に参加した」と自首したとあり、
b 続いて「或本に伝はく」として、吉備笠臣垂は阿倍(あへの)大臣と蘇我大臣に対して、「私は吉野皇子の謀反に参加した」と、自首した、とし、
c 続く本文は、中大兄が兵若干を率いて古人大市皇子等を討った、とし、
d 再び「或本に()はく」として、11月甲午(きのえうま)30日に、中大兄が阿倍渠曾倍(あへのこそへの)臣と佐伯部子麻呂(さへきべのこまろ)の二人とともに兵四十を率いて古人大兄を攻めて、古人大兄たちを斬り殺し、その妃妾は自害した、とあり、
e さらにもうひとつ、「或本に伝はく」として、11月に吉野大兄王が謀反したが、事が発覚して殺された、

 とある。
 このように、本文に異説を上げ、呼び名もそれぞれ微妙に異なっている。
 天智天皇に対しては中大兄だけで通しているのに、なぜ古人皇子に対しては、呼び名をこのように変える必要があるのだろうか。
 また、ここでことさら吉野と呼び変える必要があるのだろうか。
 古人皇子を吉野皇子などと呼ぶのは、この記事しかない。
 そして、最後のeの記事だけは、11月に吉野大兄王が……と、この人物を「王」と表記している。
 とすると、この吉野は暗号で、古人皇子とは別の人物が、11月に殺された、と示しているに違いない。
 そのことをこっそり忍ばせるために、いろいろな異説や異名を出して、表向きの歴史からカモフラージュしているのだろう。
 吉野は、6.暗号解読[2]のD持統天皇・天武天皇・稗田阿礼の関係のところで触れたが、易の卦に置き換えると、16雷地予(らいちよ)になる。
 一方、鎌足が賜った藤原姓は、藤は(雷)(藤は反生植物)・原は(坤)だから、こちらも同じく16雷地予になる。
 なるほど、同じ卦に置き換わるのだから、この11月に吉野大兄王が殺されたというのは、鎌足が殺された、ということを示しているのに違いない。
 しかしなぜ、鎌足は殺されたのか?
 そのヒントは『古事記』の神世にあった。

 表向きでは、鎌足は自宅に落雷があって後、しばらくして薨去している。
 雷の神様と言えば、建御雷神(たけみかづちのかみ)である。
 「神世記」には、次のような神話がある。

 建御雷神は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の直系の子孫に日本を統治させるため、その頃日本を治めていた大国主神(おほくにぬしのかみ)に、国を譲るよう説得しにやって来た。
 その際、大国主神の子の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)は素直に従ったが、建御名方神(たけみなかたのかみ)は武力で決着をつけようとした。
 しかし圧倒的な力の差で、建御名方神は逃げ出した。
 建御雷神は後を追いかけ、科野(しなのの)国の州羽(すは)の海(現・長野県の諏訪湖)に追い詰め、建御名方神を殺した。

 この物語で特異なのは、建御名方神の出自である。
 この神は、大国主神の子孫の系譜には書かれていないのに、大国主神の子だとされていることと、この場面にだけ登場する、ということである。
 名前も何やら「建という名前の人」を暗示しているかのようである。
 とすれば、やはりこれも暗号である。
 建と言えば、12景行天皇の子の倭建命(やまとたけるのみこと)である。
 そこで再度、倭建命について探るのだが、さらなる暗号は日本武尊(やまとたけるのみこと)と表記される『日本書紀』のほうにあった。
 「景行紀」では、倭建命は日本武尊と表記され、すでに13.暗号解読[9]Bで触れたように、物語の一部分だけ、「王」と呼ばれている。
 景行四十年、是歳条の東征物語の部分である。

 駿河(静岡県)〜相模(神奈川県)〜上総(千葉県)〜陸奥(東北地方)〜常陸(茨城県)〜甲斐(山梨県)と進み、服従しない蝦夷(えみし)を征伐した。
 さらに、信濃(長野県)と越国(北陸地方)を服従させるために、甲斐から武蔵(東京都や埼玉県)、上野(群馬県)を巡り、碓氷峠を越え、越国は配下の吉備武彦(きびのたけひこ)に任せ、自分は信濃へ向かった。
 信濃へ行くと、山の神に苦しめられ、最後には道に迷った。
 すると、白い狗が導くように現れた。
 狗に随って行くと、なんとか美濃に出て、吉備武彦と合流した。

 この旅程の初めのほうには、
 一行が相模から上総へと海を船で渡ろうとするとき、嵐に遭うのだが、日本武尊の妾の弟橘姫(おとたちばなひめ)が、海に飛び込むと、暴風はおさまり、船は岸に着くことができた、
 というエピソードがある。
 このエピソードのヒロイン、弟橘姫は、穂積氏忍山宿禰(ほづみのうぢのおしやまのすくね)の娘だとある。
 穂積の穂は、易に置き換えると(雷)になるので、穂積で(雷)を積んだ形すなわち51震為雷を示していることになる。
 この卦は雷すなわち建御雷神に通じるではないか。
 忍山は、「山に忍ぶ」という意味になる。
 したがって、この穂積氏忍山宿禰という名前は、「建御雷神は山に忍ぶ」となる。
 日本武尊は、信濃で山の神に苦しめられたとあるが、建御雷神は信濃(科野)の州羽の海(諏訪湖)に建御名方神を追い詰めて殺している。

 これらをひとつに繋げると、次のようになる。
 鎌足は皇極女帝を殺害すると、さらに全国の女帝の支配下にある地域を男帝側に服従させようと、まず、東へ向かった。その旅は、関東から東北にも及んだ。しかし信濃では激しく抵抗され、ついに11月、諏訪にて戦死してしまった。

 なお、日本武尊の物語では、狗に随ったので生き延びて美濃に出たとあるが、それは表向きのストーリーのためのことである。

 とにかく、鎌足は(7)聖徳太子の子なのだから、本来なら天皇として即位して当然なのだが、実際には、天皇とはならなかった。
 それは、このように正式に即位する前に戦死してしまった、ということだったのである。
 鎌足が大化の改新の年すなわち皇紀1305年に戦死したとすると、鎌足の子とされる藤原不比等(ふひと)とは、一体何者なのだろうか。
 不比等が生まれたのは、斉明5年(皇紀1319年)とされているから、鎌足の死後14年も経っている。
 もっとも、『興福寺縁起』によれば、不比等の母は、鎌足とも天智天皇とも肉体関係があったともあり、その出自には謎が多い。
 あるいは天智天皇の子で、戦死した鎌足に敬意を表し、表向き鎌足の子としたのかもしれない・・・。
 が、この点については、暗号が確認できず、残念だが、定かなことはわからない。

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D天智天皇=中大兄皇子=天命開別

 鎌足亡き後は、(7)聖徳太子の次男の中大兄皇子が男帝側の長となった。そして、皇極女帝を殺害したことで、日本の正式な政府は、男帝側となった。
 とすると、天智天皇の国風諡号の天命開別(あめみことひらかすわけ)の意味が見えてきたではないか。
 易の基本は天を陽として父とし男性とし、地を陰として母とし女性とするのであって、天命とは、父権制社会の長に降るものである。
 したがって、母権制社会を脱却したことで、「初めて天命が開かれた」のである。
 天命開別とは、そういうワケだったのである。
 晴れて天命が開け、仁による父権制社会となったからには、ここからは男帝と呼ぶ必要はないだろう。表向きと同じように、天皇と表記する。
 天皇とは、本来的には、中国の『春秋緯』という書物に出てくるこの世の最初の王統のことだが、どうやら日本では「父権制社会の王」という意味を込めて、天皇と呼んだようである。
 易では、天は(天)という卦を通じて父を意味するのである。
 そうしてみると、『記・紀』が父系の出自にこだわり、古代の天皇が各豪族の祖先であるかのように書いている意味が、よくわかる。
 父親というものを権威付けし、父親の血統にこだわってこそ、父権制社会は有効に機能するのである。
 しかし、いつから天皇という呼称が使われたのかは、判然としない。

 ところで、天智天皇の皇后は遠智娘(をちのいらつめ)とある。持統天皇の母親である。
 また、天智天皇は、遠智娘の妹の姪娘(めいのいらつめ)も娶っている。
 この二人の母親は、蘇我山田石川麻呂(そがのやまだのいしかはまろ)の娘とある。
 蘇我というからには、女帝の血を引く女性に違いない。
 蘇我の下に漢字が六つあるから、それぞれ一文字ずつ易の卦に置き換えてみよう。

 山は(山)・田は(地)・石は硬いものだから(天)・川は水があるところだから(水)・麻は(雷)・呂は背骨のことだから(山)となる。
 6つの八卦を六十四卦に変換するときは、8.暗号解読[4]の179万2470余歳のところで使った方法を用いる。
 それを示したのが次の図40で、この場合は14火天大有(かてんたいゆう)と9風天小畜(ふうてんしょうちく)となる。

 14火天大有は、(火)の女性が(天)の男性の上にいるのだから女帝を意味する。
 9風天小畜は、皇極女帝の皇の字を易の卦に置き換えた形でもある。
 皇は白と王に分けると、白は(風)・王は(天)だから、合わせて9風天小畜となる。

 したがってこの名前は、皇の字が付く女帝すなわち皇極女帝を示しているのである。
 また姪娘は、天智天皇の姪に当たる女性という意味とすれば、姪は兄弟の子であり、持統天皇は後に藤原宮に遷都していることから藤原との繋がりを主張しているので、この遠智娘と姪娘の姉妹は、次の図41のように、とにも鎌足と皇極女帝の間にできた娘となる。

 天智天皇について、さらに見て行こう。
 表向きの歴史では、中大兄皇子(天智天皇)は斉明天皇(皇極天皇の重祚)とともに、新羅(しらぎ)の侵略から百済(くだら)を救うために、朝鮮半島への玄関口、九州へ行く。
 しかし斉明天皇は、その九州の朝倉宮(あさくらのみや)、正式な呼称では朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)で、斉明7年7月に崩御する。
 暗号が示す歴史では、皇極女帝は皇極4年6月に殺害されているのだから、斉明天皇としての重祚は有り得ない。したがって、これは別の暗号である。
 この宮のことを、正式に朝倉橘広庭宮と記述するのは、斉明天皇がこの宮に到着したときだけで、他の箇所では、朝倉宮と、橘広庭を略して表記している。
 とすると、表記しないことで、橘広庭が暗号であることを、示しているに違いない。
 橘は、永遠の命を得るための非時香菓(ときじくのかくのみ)のことだと「垂仁紀」にあり、この名称が食人による蘇りという風習を知る手がかりであった。
 広庭は欽明天皇の国風諡号の天国押波流岐広庭の下二文字である。
 したがってこれは、欽明女帝の蘇りが死んだ、というメッセージと受け取れる。

 また、斉明天皇が崩御する直前の斉明7年6月条には、伊勢王が薨去したという記事がある。 この伊勢王という人物については、この薨去記事以外には出てこない。
 したがって、どういう人物なのか、全く不明である。
 しかも、天智7年6月条にも、伊勢王が薨去した、という記事があり、天皇は違うが、同じ7年6月に、同じ人物が二度死んだことになる。
 矛盾である。
 とすると、これも暗号である。

 伊勢ということから考えられるのは、伊勢神宮しかない。
 伊勢神宮は天照大御神を祭っているが、暗号では、天照大御神は、食人による蘇り儀式を行う女帝たちとその胎児の象徴だった。
 7年6月ということを、易の卦に置き換えると、7は(山)・6は(水)だから、合わせて4・・山水蒙(さんすいもう)になる。
 サンスイモウ・・・懐かしい響きである。
 この卦は神武天皇のA列であり、この暗号体系を知るきっかけになった卦であった。
 が、同時に天智天皇のB列でもある。
 いくら懐かしいとしても、ここでは神武天皇は関係ないのだから、天智天皇を指すものと考える。
 とすると、女帝側の人間が天智天皇によって殺された、というメッセージと受け取れる。
 要するにこの暗号は、欽明女帝の蘇りとなる人物が九州へ逃げたのを、天智天皇が追いかけて行って殺害した、と示しているのである。

 表向きの歴史では、大化の改新は孝徳天皇が行い、孝徳天皇が崩御すると、皇極天皇の重祚の斉明天皇が再び皇位に就き、その斉明天皇が崩御して漸く天智天皇の即位となるわけだが、これまで話してきたように、大化の改新の年の11月に鎌足が戦死して後は、天智天皇が天皇だったことになる。
 とすると、天智天皇はいつまで在位していたのだろうか。

 表向きの天智天皇の崩年は、天智10年(皇紀1331年)である。
 天智天皇は、舒明13年(皇紀1301年)10月条に16歳とあるので、計算すると、崩御時は46歳になる。
 46歳という数字を易の卦に置き換えると、4は(雷)・6は(水)だから、合わせて40雷水解となる。
 この卦は解消を意味するので、この天智10年に崩御したということは解消すなわち事実ではない、と示していることになる。
 そこで正しい崩年だが、天智4年春2月癸酉朔丁酉(みずのととりのつきたちひのととり)(25日)条に、「間人大后(はしひとのおほきさき)が薨去した」とあり、同3月癸卯朔(みずのとうのつきたち)(1日)条に、「間人大后のために、330人を出家させた」とある。
 330を易の卦に置き換えると、3は(火)だから、その(火)が重なった30離為火(りいか)となる。
 この卦は継体天皇のA列であるとともに、皇位継承という意味がある。
 間人大后は、表向きの舒明天皇と皇極天皇とに間にできた三兄弟の天智・間人・天武の真ん中である。
 暗号では、これは鎌足・天智・天武の三兄弟のことで、間人の位置は天智天皇の位置だった。
 一方「天武紀」には、天智4年12月に天智天皇が崩御したとあり、「天智紀」にある天智天皇崩年と矛盾し、研究者を悩ませている。
 これらのことを繋げれば、天智天皇の本当の崩年は、暗号が間人大后薨去で示す天智4年(皇紀1325乙丑(きのとうし)歳)だったと教えていることになる。

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E大友皇子と壬申の乱

 表向きの歴史では、天智天皇が崩御したことにより、天智天皇の弟の大海皇子(天武天皇)と、天智天皇の子の大友(おほともの)皇子との間で皇位継承をかけた争いがあり、大海(おほあまの)皇子が勝って天武天皇となった、とある。いわゆる壬申(じんしん)の乱である。
 なお、念のために付け加えておくと、現代の歴史教育では、大友皇子を弘文天皇としているが、それは明治の初めに、どういう経緯かは知らないが、『日本書紀』の記述を無視して追号したことである。、
 『日本書紀』では大友皇子が天皇として即位したとは書いていないし、天皇とも呼んでいない。

 さて、本題に入ろう。
 天智7年2月条には、大友皇子は天智天皇と伊賀采女宅子(いがのうねめのやかこ)との間にできた子で、最初は伊賀皇子と言ったとある。
 大友という名は、訓読みすれば「おほとも」だが、音読みすれば「たいゆう」である。
 「たいゆう」という響きは、14火天大有という卦の大有を連想させる。
 この卦は、すでに何度か話したように、(火)の女性が(天)の男性の上にいる様子ともなるので、女帝を意味することになり、そういう暗号として使われていた。

 伊賀皇子という名は、
 伊は11垂仁天皇の国風諡号と崩年齢との関係のときと同様に数の5を意味するものとすれば、5は(風)となり、賀の貝は(火)だから、(風)に貝の(火)を加える、ということで、37風火家人(ふうかかじん)すなわち34推古天皇のA列を示していることになる。

 母親の伊賀采女宅子は、宅は家のことだから、家の子=家人の子、家人は37風火家人すなわち推古天皇のA列を示している。

 したがって、大友皇子の母親は@推古女帝の娘であり、大友皇子自身は@推古女帝そのものである、ということになる。
 はあ?大友皇子と推古女帝が同一人物?そんなわけないでしょう?
 確かに、そんなわけはない。
 正確に言うと、大友皇子は@推古女帝の蘇りとして生まれたのであって、要するに、@推古女帝の孫娘、ということである。

 娘が母の遺体を食べることで、母の魂は娘の胎内に宿り、その娘が妊娠すると、魂は胎児に乗り移り、新しい肉体を得て蘇ったとするのが、母権制社会の風習である。
 その風習に従えば、自分は孫娘として蘇る、ということになる。
 したがって、大友皇子は@推古女帝そのものだ、と女帝側の人々は考えていた、ということである。
 なお、蘇りは不特定多数の男性と性交することで成立するのだから、無論天智天皇は大友皇子の父親ではないことになる。

 大友皇子の出自がわかったことで、壬申の乱の意味も明らかになった。
 母権制社会復活を賭けた最後の反乱だったのである。
 皇紀1305年6月、鎌足と天智天皇によって皇極女帝が殺され、同年9月には古人皇子(皇極女帝の娘)も殺され、皇極女帝の蘇りは阻止され、皇紀1321年7月には、天智天皇が、九州に逃げた欽明女帝の蘇りとなる女性も殺した。
 そして、最後に残った女帝側の残党が、大友皇子(推古女帝の蘇り)だったのである。

 天智5年是冬条に「京都の鼠、近江に向きて遷る」という記事がある。
 また鼠の暗号である。
 表向きには、天智6年3月の近江遷都の予兆とされているわけだが、暗号では、天智天皇はすでに天智4年に崩御している。
 したがって、天智以外の近江に縁のある人物が、この天智5年に近江に移動した、と示していることになる。
 この時代で近江と言えば、大友皇子しかいない。
 要するに、この鼠の暗号は、大友皇子(推古女帝の蘇り)が、この天智5年すなわち皇紀1326年に、母権制社会復活を賭けて近江に行き、そこでクーデターの準備を開始した、と示しているのである。
 しかし、皇紀1332年6月に、天武天皇がその大友皇子(推古女帝の蘇り)を殺したことで、クーデターは未遂に終わった。
 これがいわゆる「壬申の乱」の正体である。

 そしてこのクーデター失敗で、男帝天皇側に服従しない女帝側の主要な残党はすべて血が絶え、日本は本格的な父権制社会への道を歩み出したのである。

 どうやらこれで、すべての解読作業は終わった。
 そこで次に、暗号が示す歴史の全容をまとめるとともに、他の古代史資料との整合性を考えてみたい。

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もくじ

☆ プロローグ  1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密

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最終更新日:令和02年08月29日 学易有丘会
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