D天智天皇=中大兄皇子=天命開別
鎌足亡き後は、(7)聖徳太子の次男の中大兄皇子が男帝側の長となった。そして、皇極女帝を殺害したことで、日本の正式な政府は、男帝側となった。
とすると、天智天皇の国風諡号の天命開別の意味が見えてきたではないか。
易の基本は天を陽として父とし男性とし、地を陰として母とし女性とするのであって、天命とは、父権制社会の長に降るものである。
したがって、母権制社会を脱却したことで、「初めて天命が開かれた」のである。
天命開別とは、そういうワケだったのである。
晴れて天命が開け、仁による父権制社会となったからには、ここからは男帝と呼ぶ必要はないだろう。表向きと同じように、天皇と表記する。
天皇とは、本来的には、中国の『春秋緯』という書物に出てくるこの世の最初の王統のことだが、どうやら日本では「父権制社会の王」という意味を込めて、天皇と呼んだようである。
易では、天は 乾(天)という卦を通じて父を意味するのである。
そうしてみると、『記・紀』が父系の出自にこだわり、古代の天皇が各豪族の祖先であるかのように書いている意味が、よくわかる。
父親というものを権威付けし、父親の血統にこだわってこそ、父権制社会は有効に機能するのである。
しかし、いつから天皇という呼称が使われたのかは、判然としない。
ところで、天智天皇の皇后は遠智娘とある。持統天皇の母親である。
また、天智天皇は、遠智娘の妹の姪娘も娶っている。
この二人の母親は、蘇我山田石川麻呂の娘とある。
蘇我というからには、女帝の血を引く女性に違いない。
蘇我の下に漢字が六つあるから、それぞれ一文字ずつ易の卦に置き換えてみよう。
山は 艮(山)・田は 坤(地)・石は硬いものだから 乾(天)・川は水があるところだから 坎(水)・麻は 震(雷)・呂は背骨のことだから 艮(山)となる。
6つの八卦を六十四卦に変換するときは、8.暗号解読[4]の179万2470余歳のところで使った方法を用いる。
それを示したのが次の図40で、この場合は14 火天大有と9 風天小畜となる。

14 火天大有は、 離(火)の女性が 乾(天)の男性の上にいるのだから女帝を意味する。
9 風天小畜は、皇極女帝の皇の字を易の卦に置き換えた形でもある。
皇は白と王に分けると、白は 巽(風)・王は 乾(天)だから、合わせて9 風天小畜となる。
したがってこの名前は、皇の字が付く女帝すなわち皇極女帝を示しているのである。
また姪娘は、天智天皇の姪に当たる女性という意味とすれば、姪は兄弟の子であり、持統天皇は後に藤原宮に遷都していることから藤原との繋がりを主張しているので、この遠智娘と姪娘の姉妹は、次の図41のように、とにも鎌足と皇極女帝の間にできた娘となる。

天智天皇について、さらに見て行こう。
表向きの歴史では、中大兄皇子(天智天皇)は斉明天皇(皇極天皇の重祚)とともに、新羅の侵略から百済を救うために、朝鮮半島への玄関口、九州へ行く。
しかし斉明天皇は、その九州の朝倉宮、正式な呼称では朝倉橘広庭宮で、斉明7年7月に崩御する。
暗号が示す歴史では、皇極女帝は皇極4年6月に殺害されているのだから、斉明天皇としての重祚は有り得ない。したがって、これは別の暗号である。
この宮のことを、正式に朝倉橘広庭宮と記述するのは、斉明天皇がこの宮に到着したときだけで、他の箇所では、朝倉宮と、橘広庭を略して表記している。
とすると、表記しないことで、橘広庭が暗号であることを、示しているに違いない。
橘は、永遠の命を得るための非時香菓のことだと「垂仁紀」にあり、この名称が食人による蘇りという風習を知る手がかりであった。
広庭は欽明天皇の国風諡号の天国押波流岐広庭の下二文字である。
したがってこれは、欽明女帝の蘇りが死んだ、というメッセージと受け取れる。
また、斉明天皇が崩御する直前の斉明7年6月条には、伊勢王が薨去したという記事がある。 この伊勢王という人物については、この薨去記事以外には出てこない。
したがって、どういう人物なのか、全く不明である。
しかも、天智7年6月条にも、伊勢王が薨去した、という記事があり、天皇は違うが、同じ7年6月に、同じ人物が二度死んだことになる。
矛盾である。
とすると、これも暗号である。
伊勢ということから考えられるのは、伊勢神宮しかない。
伊勢神宮は天照大御神を祭っているが、暗号では、天照大御神は、食人による蘇り儀式を行う女帝たちとその胎児の象徴だった。
7年6月ということを、易の卦に置き換えると、7は 艮(山)・6は 坎(水)だから、合わせて4・・ 山水蒙になる。
サンスイモウ・・・懐かしい響きである。
この卦は神武天皇のA列であり、この暗号体系を知るきっかけになった卦であった。
が、同時に天智天皇のB列でもある。
いくら懐かしいとしても、ここでは神武天皇は関係ないのだから、天智天皇を指すものと考える。
とすると、女帝側の人間が天智天皇によって殺された、というメッセージと受け取れる。
要するにこの暗号は、欽明女帝の蘇りとなる人物が九州へ逃げたのを、天智天皇が追いかけて行って殺害した、と示しているのである。
表向きの歴史では、大化の改新は孝徳天皇が行い、孝徳天皇が崩御すると、皇極天皇の重祚の斉明天皇が再び皇位に就き、その斉明天皇が崩御して漸く天智天皇の即位となるわけだが、これまで話してきたように、大化の改新の年の11月に鎌足が戦死して後は、天智天皇が天皇だったことになる。
とすると、天智天皇はいつまで在位していたのだろうか。
表向きの天智天皇の崩年は、天智10年(皇紀1331年)である。
天智天皇は、舒明13年(皇紀1301年)10月条に16歳とあるので、計算すると、崩御時は46歳になる。
46歳という数字を易の卦に置き換えると、4は 震(雷)・6は 坎(水)だから、合わせて40 雷水解となる。
この卦は解消を意味するので、この天智10年に崩御したということは解消すなわち事実ではない、と示していることになる。
そこで正しい崩年だが、天智4年春2月癸酉朔丁酉(25日)条に、「間人大后が薨去した」とあり、同3月癸卯朔(1日)条に、「間人大后のために、330人を出家させた」とある。
330を易の卦に置き換えると、3は 離(火)だから、その 離(火)が重なった30 離為火となる。
この卦は継体天皇のA列であるとともに、皇位継承という意味がある。
間人大后は、表向きの舒明天皇と皇極天皇とに間にできた三兄弟の天智・間人・天武の真ん中である。
暗号では、これは鎌足・天智・天武の三兄弟のことで、間人の位置は天智天皇の位置だった。
一方「天武紀」には、天智4年12月に天智天皇が崩御したとあり、「天智紀」にある天智天皇崩年と矛盾し、研究者を悩ませている。
これらのことを繋げれば、天智天皇の本当の崩年は、暗号が間人大后薨去で示す天智4年(皇紀1325乙丑歳)だったと教えていることになる。
乱数表はコチラ
E大友皇子と壬申の乱
表向きの歴史では、天智天皇が崩御したことにより、天智天皇の弟の大海皇子(天武天皇)と、天智天皇の子の大友皇子との間で皇位継承をかけた争いがあり、大海皇子が勝って天武天皇となった、とある。いわゆる壬申の乱である。
なお、念のために付け加えておくと、現代の歴史教育では、大友皇子を弘文天皇としているが、それは明治の初めに、どういう経緯かは知らないが、『日本書紀』の記述を無視して追号したことである。、
『日本書紀』では大友皇子が天皇として即位したとは書いていないし、天皇とも呼んでいない。
さて、本題に入ろう。
天智7年2月条には、大友皇子は天智天皇と伊賀采女宅子との間にできた子で、最初は伊賀皇子と言ったとある。
大友という名は、訓読みすれば「おほとも」だが、音読みすれば「たいゆう」である。
「たいゆう」という響きは、14 火天大有という卦の大有を連想させる。
この卦は、すでに何度か話したように、 離(火)の女性が 乾(天)の男性の上にいる様子ともなるので、女帝を意味することになり、そういう暗号として使われていた。
伊賀皇子という名は、
伊は11垂仁天皇の国風諡号と崩年齢との関係のときと同様に数の5を意味するものとすれば、5は 巽(風)となり、賀の貝は 離(火)だから、 巽(風)に貝の 離(火)を加える、ということで、37 風火家人すなわち34推古天皇のA列を示していることになる。
母親の伊賀采女宅子は、宅は家のことだから、家の子=家人の子、家人は37 風火家人すなわち推古天皇のA列を示している。
したがって、大友皇子の母親は@推古女帝の娘であり、大友皇子自身は@推古女帝そのものである、ということになる。
はあ?大友皇子と推古女帝が同一人物?そんなわけないでしょう?
確かに、そんなわけはない。
正確に言うと、大友皇子は@推古女帝の蘇りとして生まれたのであって、要するに、@推古女帝の孫娘、ということである。
娘が母の遺体を食べることで、母の魂は娘の胎内に宿り、その娘が妊娠すると、魂は胎児に乗り移り、新しい肉体を得て蘇ったとするのが、母権制社会の風習である。
その風習に従えば、自分は孫娘として蘇る、ということになる。
したがって、大友皇子は@推古女帝そのものだ、と女帝側の人々は考えていた、ということである。
なお、蘇りは不特定多数の男性と性交することで成立するのだから、無論天智天皇は大友皇子の父親ではないことになる。
大友皇子の出自がわかったことで、壬申の乱の意味も明らかになった。
母権制社会復活を賭けた最後の反乱だったのである。
皇紀1305年6月、鎌足と天智天皇によって皇極女帝が殺され、同年9月には古人皇子(皇極女帝の娘)も殺され、皇極女帝の蘇りは阻止され、皇紀1321年7月には、天智天皇が、九州に逃げた欽明女帝の蘇りとなる女性も殺した。
そして、最後に残った女帝側の残党が、大友皇子(推古女帝の蘇り)だったのである。
天智5年是冬条に「京都の鼠、近江に向きて遷る」という記事がある。
また鼠の暗号である。
表向きには、天智6年3月の近江遷都の予兆とされているわけだが、暗号では、天智天皇はすでに天智4年に崩御している。
したがって、天智以外の近江に縁のある人物が、この天智5年に近江に移動した、と示していることになる。
この時代で近江と言えば、大友皇子しかいない。
要するに、この鼠の暗号は、大友皇子(推古女帝の蘇り)が、この天智5年すなわち皇紀1326年に、母権制社会復活を賭けて近江に行き、そこでクーデターの準備を開始した、と示しているのである。
しかし、皇紀1332年6月に、天武天皇がその大友皇子(推古女帝の蘇り)を殺したことで、クーデターは未遂に終わった。
これがいわゆる「壬申の乱」の正体である。
そしてこのクーデター失敗で、男帝天皇側に服従しない女帝側の主要な残党はすべて血が絶え、日本は本格的な父権制社会への道を歩み出したのである。
どうやらこれで、すべての解読作業は終わった。
そこで次に、暗号が示す歴史の全容をまとめるとともに、他の古代史資料との整合性を考えてみたい。
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