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前のページ 6−1 架空の天皇 6−2 隠された女帝達と『古事記』序文の態度
6−3 男帝と女帝の二王朝が並立する皇統譜 6−4 暗号が示す皇統譜の親子関係

Eメール古事記と易学

発見!想像を絶する真実の古代日本

7−1 女帝たちの忌わしい宗教
7−2 母権制社会脱却失敗
7−3 応神女帝〜推古女帝までの、各女帝の年代

☆ 暗号解読[3]

母権制社会の忌わしい歴史

7−1 女帝たちの忌わしい宗教

@ 不老不死・妊娠する女性・自殺・蝮(マムシ)
A 永遠の生命・妊娠する女性
B 母権制社会とは
C 別天神五柱の暗号‥‥母を出産する娘?
D 高天原と天照大御神
E なぜ、倭国と呼ばれたのか
F 太古の日本国名はヤマトイだった!
G 代々の女帝たちはタラシヒコという名を継承していた
H 遣隋使とタリシヒコと蘇我氏
I 母権制社会の忌まわしい実態

 これまでの暗号解読の結果によると、

 古代日本は垂仁男帝の時を除き、代々女帝が支配していた。
 それが、履中女帝のとき、神武男帝が逃げ出すことで、女帝男帝の二王朝並立となった。
 その後、推古女帝と敏達男帝の間に聖徳太子が生まれ、再び一王朝にまとまる。

 といった経過を辿るようだが、だとしたら、何故、神武男帝が履中女帝から逃げ出したのかが、気になるところである。
 探ってみると、その最大の理由が、これから話す女帝達の宗教だったのである。
 それは、現代人の想像を絶する忌わしいもので、次のような手順で解読に至った。

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@ 不老不死・妊娠する女性・自殺・蝮(マムシ)

 解読に至るきっかけは、暗号が即位を否定する32用明天皇の国風諡号橘之豊日(たちばなのとよひ)だった。
 橘は、いわゆる「みかんの木」の類のことである。
 と同時に『日本書紀』では11垂仁天皇が田道間守(たぢまもり)なる人物に命じて、常世国(とこよのくに)(不老不死の国)に採取に行かせた「非時(ときじく)香菓(かくのみ)」という植物の別称だとされている。
 したがって橘は、不老不死すなわち永遠の生命を象徴していることになるのである。
 柑橘系の果物は、特に冬場に食べるとその酸味と甘さでなんだか生き返ったような気分になるものだが、やはり古代からそんなことを感じながら食べていたのだろう。だからこそ、きっとどこかに食べると不老不死や永遠の生命を手に入れることができるみかんもあるはずだ、と、古代人たちは想像したのかもしれない。
 が、それはともかく物語では、田道間守が常世国からこの「非時の香菓」を持ち帰った時には、すでに垂仁天皇は崩御していた、とある。

 続く豊日は、豊は55雷火豊(らいかほう)のこととすれば、この卦は「日中を過ぎて傾く太陽」という中心的な意味のほかに、(しん)(雷)の男性が()(火)の女性の上で震動している形だから、性交およびその結果としての妊娠を意味し、続く日は(火)を通じて女性を指すから、豊日で「妊娠する女性」という意味になる。

 「永遠の生命」と「妊娠する女性」
 何とも不思議な組み合わせだが、これが橘之豊日の示すキーワードである。
 なお、すでに6−2で話したように、この豊日の二文字は、36皇極天皇の国風諡号天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)と、37孝徳天皇の国風諡号天萬豊日(あめよろずとよひ)の中にもある。
 ただし、36皇極天皇は表向きにも女帝だが、37孝徳天皇のは以下のことから男性であると暗号は示していることになる。
 国風諡号の天萬豊日の上の天萬は、天は(けん)(天)、萬は衆多すなわち小さいものが集合したことを意味する文字だから(こん)(地)の示す事象となるので、合わせて12天地否となる。したがって豊日を否定していることになり、37孝徳天皇は「豊日すなわち妊娠する女性であることを否定する」と示していることになるので、表向きと同様、男性となるのである。

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A 永遠の生命・妊娠する女性

 さて、「永遠の生命・妊娠する女性」とは、一体、何のことだろうか?
 当面の手掛かりは、橘の別称とされる「非時の香菓」と、これを採取に行った田道間守という人名である。
 「非時の香菓」は、表向きには「時を選ばずいつでもある香りのよい食物」といった意味だが、時という字を易の卦に置き換えると、次のように、序次21火雷噬嗑(からいぜいこう)となるのである。

 時は日土寸に分割すれば、日は離(火)、土は坤(地)、寸は「測る」という意だから()(沢)となるので、合わせて次のようになり、下の(地)(沢)の部分は、二本で一本と見なせば震(雷)だから、最終的に右の21火雷噬嗑に落ち着く。

日=(火)──→(火)
土=(地)─┬→(雷)
寸=(沢)─┘21火雷噬嗑

 この21火雷噬嗑という卦は「噛み合わせて食べる」という意味を持つので、上二文字の「非時」は、「食べるに非ず」すなわち「食物ではない」と示していることになる。
 食物でないのなら、一体なんなのだろう?
 とにかくこれを念頭に、下二文字の香菓も易の卦に置き換えたらどういう意味になるのか、探ってみるしかない。

 香は、禾と日に分ければ、禾は稲科を示す文字だから(雷)、日は(火)で、合わせて序次55雷火豊になる。
 おやおや、また出てきた!「性交と妊娠」の卦である。

 続く菓は、艸と果に分ければ、艸は草冠だから草を意味する(そん)(風)、果は生気が充実した木の実のことだから(天)となり、合わせて序次9風天小畜(ふうてんしょうちく)となる。
 この卦は6孝安天皇のA列である。
 6孝安天皇は国風諡号大倭帯日子(おほやまとたらしひこ)の解釈から、代々の女帝たちを一人にまとめた暗号だった。
 したがって、香菓で「古代の女帝たちの性交と妊娠」という意味になる。

 どうやら孝安女帝に何かありそうな感触だが、とすると『記』123歳崩という数字が気になる。
 この数字は、A列9風天小畜の卦の形の表現とも受け取れるが、同時に、1は(天)、2は(沢)として、序次10天沢履(てんたくり)の下から3番目の位置を指す暗号とも解釈出来る。
 その10天沢履の下から3番目の記号の位置の意義を『易経』は、次のように書いている。
 「(すがめ)にして()()るとし、(あしなえ)にして能く()むとす。(とら)()を履めば(ひと)(くら)う」
現代語に訳すと、
「目が悪いのによく見えると思い込み、足が悪いのによく歩けると思い込んでいるようなもの。従ってこのまま行けば、例えば虎の尾を踏み、それと気付かずに逃げ遅れ、虎に咬み殺され食われてしまう」
という意味である。
 これが暗号ならば、「孝安女帝としてまとめられた古代の女帝たちは、無知蒙昧だったがために、進んで虎に咥われるようなことを行っていた」と示していることになる。しかし古代日本に虎がいたとは考えられない。とするとここは、進んで死んだ、という意味に考えるべきだ。すなわち「古代の女帝達は、代々最後には自ら命を絶っていた」と示していることになる。
 永遠の生命と自殺は、何やら矛盾するかのようでもあるが、それは後で考えることにして、次に「非時の香菓」を採取に行った人物の名前、田道間守を探ってみよう。
 頭の田は(地)の示す事象で、(地)には母という意味があるから、田道で母道と置き換えられる。この母道を現代の言葉で表現すれば、母権制社会に相当しよう。

B 母権制社会とは

 母権制社会とは、家督が母から娘へと相続されると共に、女性が絶対的な権力を握る社会のことである。
 母権制社会は、現代とはまったく異なり、女性たちに恋愛という感覚がなく、誰彼かまわずセックスする。
 したがって、生まれてくる子の父親は判然としない。父と子の関係というものが存在しないのだから、男性には子の親としての地位がない。あるのは母と子の関係だけであり、必然的に家督は母から娘へと継承される。親となれない男性は、生涯母の下で与えられた仕事をこなし、夜な夜ないろんな女性の求めに応じ、一夜を共にする。要するにフリーセックスの社会である。

 昭和の頃までは、中国雲南省の奥地に、その母権制社会が存在したという。
 彼……ではなく彼女たちは、モーソ族と呼ばれる少数民族で、険しい山々に閉ざされた湖の辺で、昔ながらの母権制社会を営んでいた。
 ただし中国中央政府の介入により、平成に入ってしばらくした頃から徐々に近代化され、今は昔の風習も大分薄れてきたらしいが・・・。

 一方、我々の住む社会は、父権制社会と呼ばれている。
 『易経』の「序卦伝(じょかでん)」というとこには、この父権制社会と男女の関係を次のように書いている。
 天地ありて然る後に男女あり、男女ありて然る後に夫婦あり、夫婦ありて然る後に父子あり、父子ありて然る後に君臣あり、君臣ありて然る後に上下あり、上下ありて然る後に礼義()くところあり。
 言葉を補って訳すと、
 男女が夫婦となり、女性が性交相手を特定することで、初めて父子という関係が生じ、父子という関係があって、初めて男同士の君臣(命令する者とされる者)という関係が生じ、君臣という関係があって初めて男性社会に上下関係ができ、それぞれに応じた礼義秩序が形成される。
ということである。

 キリスト教の『旧約聖書』「創世記」でも、アダムとイブが楽園から追放されるところに、
「神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。』」
 とある。
 禁断の木の実を食べて羞恥心を知ったアダムとイブに対しての言葉なのだが、女性が羞恥心を持たず、誰彼かまわずセックスするのが母権制社会である。女性が羞恥心を持ち、特定の男性を求め、その人とだけセックスすることを最善だとするのが父権制社会であり、父権制社会は必然的に男尊女卑になり、女性は男性に支配されることになる。

 現代日本では、母権制社会は遥か彼方の幻影でしかないが、「序卦伝」や「創世記」が書かれた時代には、かなり身近だったからこそ、こんな示唆があるのだろう。
 さらに、司馬遷の『史記』「商君列伝第八」には、「始め秦という国は、戎翟(じゅうてき)の野蛮な教えに従い、父と子の区別もなく、同じ女性を性交相手として暮らしていた」(原文「始秦、戎翟之教、父子無別、同家而居」とあるが、これも母権制社会を描写したものと言える。
 『日本書紀』の場合も、12景行天皇の40年秋7月条に、「蝦夷(えみし)(これ)(はなは)だ強し、男女交じり居りて、父子の別無し……」とあり、蝦夷がその母権制社会であるかのような印象を与えるとともに、彼らの社会は天皇を中心とする日本社会とは異質なモノだといった風に描いている。

 さて、田道間守という名前に戻ろう。
 田道はすでにはなしたように、母権制社会を指すわけだが、続く間の字は、門と日に分ければ、門は(ごん)(山)、日は(火)だから、序次22山火賁(さんかひ)に置き換わる。
 この卦は19反正天皇のA列であると共に、その国風諡号蝮之水歯別(たぢひのみずはわけ)の水歯別が示す形だから、残る蝮という文字を強調していることになる。
 蝮とは、マムシのことである。
 そこでこれらの要素を合わせて解釈する。すると、
 「母権制社会は蝮(たぢひ=マムシ)が守っていた」となる。
 永遠の生命、性交と妊娠、自殺、母権制社会、蝮。
 何か見えて来そうな気配もするが、これだけではまだ判然としないので、さらに探って行くと、皇統譜の円周から外れる別天神五柱の神名に、新たなる暗号があることがわかった。

皇統譜の円周図はコチラ  乱数表はコチラ

C 別天神五柱の暗号‥‥母を出産する娘?

 別天神五柱とは次の五柱の神であって、『古事記』ではこの五柱を別天神五柱と呼び、他の神々と区別している。名前を列挙すれば、次のとおり。

 1天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、2高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、3神産巣日神(かみむすひのかみ)
 4宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、5天之常立神(あめのとこたちのかみ)

 まず取り上げたいのは、このうちの二番目に登場する高御産巣日神である。
 この神名は、高は(風)の示す事象、御は5孝昭天皇とA列との対応関係(1ー2参照)のときと同様に数の3のこととすれば(火)、巣は(沢)(鳥の巣は、上部が窪んでいる)、日は(火)と置き換わる。
 したがって、合わせて「高御=37風火家人(ふうかかじん)・産・巣日=49沢火革(たくかかく)」となり、これは次のように解釈出来る。

 37風火家人は34推古天皇のA列であり、「貞淑な女性」という意味を持つのだが、(風)の女性が(火)の火を守っているのだから、「拝火宗教の巫女(シャーマン)」のことにもなる。

 49沢火革は、『易経』のこの卦を説明する文章に、「己日(きじつ)にすなわち(まこと)とせらる(己日乃孚)」とある。この文章の意味は、「(あらた)めるには、(しん)(かのと)の二つ前の()(つちのと)に決意すれば、人々の信頼を得られる」といったことであるが、これでは暗号としての意味をなさないので、文字の意味の取り方を少し変えてみる。
 己は「土弟(つちのと)」だから(地)()土兄(つちのえ)(山))を通じて母。
 日は(火)を通じて女性。
 孚は、そもそも親鳥が爪で卵を転がしながら温め養育している様子の象形文字であって、親が子供に対する気持ちということから、信頼という意味が派生したのだとされている。したがって、その「子供を養育する」という意味を取れば、「母なる女性を養育する」と示していることにもなる。なお、朱子学以降では、己は()(「すでに」という意)の誤りだとして、「革めることがすでに成就したときにこそ人々の信頼を得られる」と解釈するが、朱子は『記』『紀』よりはるか後の時代なので、己だとして解釈する。

 このように解釈して、残る産の字を加えてみると、
 「拝火宗教の巫女は、自分の母親となる女性を出産、養育する」と読める。
 これに準じて解釈すれば、高御産巣日神の次に登場する神産巣日神という神名も、
 「神は自分の母親となる女性を出産、養育する」と読める。
 自分の母親を出産、養育するとはどういうことだろうか。実に奇妙な話である。しかし暗号は、そんなことお構いなしに、さらに信じられないようなことを示していた。

 4番目に登場する宇摩志阿斯訶備比古遅神である。
 この神名は、万葉仮名風に文字の音を借りて書かれているので、その音から当てるべき漢字を推測しながら解釈する。
 宇摩は馬のこととすれば(天)(八卦と動物の関係による)だから、宇摩志である馬志は「(天)の志」となり、志(こころざし)は内に秘めるものだから「表に現れないもの(裏卦)を見よ」との指示と受け取れるので、宇摩志で(天)裏卦(りか)(地)を表現していることになる。
 続く阿斯訶備は、『紀』で葦牙と表記されているので、これを用いて易の卦に置き換えれば、葦はイネ科の植物であって、そのイネ科の植物を易では(雷)とし、牙は堅い物だから陽の極みとして(天)とすれば、合わせて34雷天大壮(らいてんたいそう)となり、この卦は二本で一本と見なせば(沢)となる。
 すなわち、宇摩志の(地)は母、阿斯訶備の(沢)は口を意味するのであって、宇摩志阿斯訶備で母に口を向けていることの表現になり、また宇摩志はその音から「旨し」という食物を味わう時の言葉を連想させもする。とするとこの部分は、「母を食べる」という意味になる。
 残る比古遅は、次のように解釈できる。
 比古は日子とすれば、国風諡号に日子とあるのは、全て女帝だったことから、女帝のこととなる。
 遅は、『紀』の田道間守を『記』では多遅摩毛理と表記していることから、道のことと考えられる。
 すると、比古遅は日子道となり、「女帝たちの風習」という意味になる。

 したがって上の部分と合わせれば、なんと!
 「女帝たちには、自分の母親を食べる風習があった」と示していることになる。

 なお、宇摩志の摩は、麻の下に手だから、34雷山小過(らいざんしょうか)(麻は(雷)、手はG(山))となる。
 この卦は二本で一本と見なせば(かん)(水)になる。
 その(水)には「血」という意味がある。
 残る宇志は牛のこととすれば、牛は(地)(母)になる。
 とすると、宇摩志の三文字を合わせて「母の血」とも受け取れるので、「母の血を飲む」と示していることにもなる。

 ところで、別天神五柱のところには、「久羅下那州多陀用弊流(くらげなすただよへる)」という言葉がある。
 普通は、「全てのものがクラゲのように漂っている時」といった意味に解釈されている。
 しかし、久羅に倉の字を当てれば、倉は大きく畜えるところだから26山天大畜(さんてんたいちく)となるので、倉下で大畜の下の文字、すなわち畜を指していることになる。
 とすると、畜はまた畜生の畜だから、久羅下那州多陀用弊流で、「畜生同然の生活をしていた時代だった」と示す暗号と受け取れる。
 易や儒教が畜生同然と蔑む最も大きな要素は、父親が判然としないことすなわち女性が不特定多数の男性と性交をすることである。

 どうやら少し見えて来たような感触だが、続いて別天神五柱がいるとされる高天原(たかまのはら)という天上界の地名を解釈しよう。
 高は(風)、天は(天)だから、高天で古代の女帝達をひとまとめにした6孝安天皇のA列の9風天小畜となり、原は坤(地)を通じて腹の意と受け取れるので、高天原で「代々の女帝達の腹すなわち子宮」となる。
 そしてこれに従えば、別天神五柱の最初に登場する天之御中主神は、天之は高天原すなわち子宮を指すのだから、「子宮の中の主」ということで、胎児のこととなる。 

 さて、ここまでの暗号を整理しておこう。

 永遠の生命と妊娠する女性(用明天皇の国風諡号の橘之豊日)。
 古代の女帝達は、代々最後には自ら命を絶っていた(非時の香菓)。
 母権制社会は蝮が守っていた(田道間守)。
 拝火宗教の巫女は、自分の母親となる女性を出産、養育する(高御産巣日神)。
 神は自分の母親となる女性を出産、養育する(神産巣日神)。
 女帝達には、自分の母親の血を飲み、その肉を食べるという風習があった(宇摩志阿斯訶備比古遅神)。
 女性達が不特定多数の男性と性交する畜生同然の時代(久羅下那州多陀用弊流)。
 神がいる場所は女帝達の腹すなわち子宮の中(高天原)。
 神は胎児として、その子宮の中にいる(天之御中主神)。

 これらの様子からは、現代とは異なる死生観が窺われるといった感触だが、ともあれこの他にも暗号は、『記・紀』各所に用心深く分散して隠されていた。そこで、次にその辺を補足しよう。

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D 高天原と天照大御神

 高天原という地名が暗号として創作されたものだったことから、持統天皇の国風諡号高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)の意味が見えた。「高天原を広い野原のように描いた姫」であって、すなわち高天原神話は持統天皇によって創作された物語だと示していたのである。
 高天原が創作なら、伊勢神宮に祭られている皇祖、天照大御神(あまてらすおほみかみ)とは何者なのか。
 それは次のようなことだった。

 天照大御神のD列13天火同人(てんかどうじん)は(天照が示す卦)、天之御中主神のB列でもあると同時に、天は(天)・御は数の3として(火)とすれば、天之御中主神の天御が示す形でもある。
 また、『紀』では天照大御神の別名として、大日孁貴(おほひるめのむち)という名を記載しているが、この中の孁という文字は、ここだけにたった一度使用されている文字である。とすると、これも暗号の可能性が高いので、上の大日と合わせて分解し、易に置き換えてみる。

 大日は、大は(天)・日は(火)だから、合わせて13天火同人となる。
 孁は、上の霝の部分は、雨と口3つである。
 雨は(水)となる。
 口は(沢)で少陰だから、口が3つで都合3本の陰すなわちH坤(地)となる。
 とすると、この両者を合わせれば、8水地比(すいちひ)になる。
 残るは、孁の下の部分の女と貴である。
 したがって、大日孁貴という名は、「13天火同人と8水地比とに深く繋がる貴い女性」という意味になる。

 13天火同人と8水地比とに深く繋がる貴い女性と言えば、暗号が皇祖だと教える孝昭女帝を連想させる。5孝昭天皇はA列が8水地比であると共に、国風諡号御真津日子訶恵志泥(みまつひこかゑしね)を「13天火同人を裏返して捩じると8水地比になる」と読めたではないか(1−2参照)。
 とすると天照大御神と天之御中主神、そして孝昭女帝の三人は同一人物であって、その実態は古代の女帝達の腹の中の胎児の象徴だったのである。
 なお表向きの天照大御神は太陽神とされているわけだが、同一人物となる5孝昭天皇の『記』83歳崩を素直に易の卦に置き換えると、36地火明夷(ちかめいい)で「明るさを(やぶ)る」だから、太陽神であることの否定になる。
 そう言えば、三種の神器の一つ勾玉は胎児を象ったものだとも言われているが、このように、皇祖は胎児を神格化したものだったのである。そして、これにより神武天皇の国風諡号の神倭伊波礼毘古と、日本が倭と呼ばれた意味も見えて来た。

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E なぜ、倭国と呼ばれたのか

 1神武天皇には神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)の他に、別名がいくつかある。
 その中に、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)豊御毛沼(とよみけぬの)命という名前がある(「神世記」神武生誕神話)。
 この二つの名前に使われている文字のうち、若は、草冠=艸と右に分ければ、艸は草を意味する(風)、右は陰方だからその極みの(坤)と置き換えられるので、合わせて20風地観(ふうちかん)となり、豊は55雷火豊を示すものと言える。

 なお、若は、その若いという意味で易の卦に置き換えれば、(地)となるが、それでは暗号としての意味が読み取れないので、ここではこの字を分解して置き換えた。
 そもそも漢字を易の卦に置き換えるときには、その意味を取るか、分解するかで違う卦になることが往々にしてある。どちらで置き換えるかは、他の暗号との兼ね合いによる。

 さて、ここに出て来た20風地観は、『易経』に「天の神道(しんとう)()る」とあることから、神道という言葉の典拠とされるとともに、右の図35のように、神社の鳥居の形でもある。

 したがって若は、神を意味する暗号と言える。

 そして、この二つの名前に共通する御毛沼の部分は、文字の順を入れ替えて御沼毛とすれば、「見抜け」の意と解釈出来る。
 以上のことから、若御毛沼と豊御毛沼を合わせると、「神と55雷火豊を見抜け」と示しているものと考えられる。

 神と55雷火豊にはどういう関係があるのだろうか・・・。
 と思いつつ、1神武天皇の国風諡号、神倭伊波礼毘古を眺めていると、何やら見えて来たではないか。
 ()という字はイ(ニンベン)に委である。
 委は、禾は(雷)・女は(火)とすれば、これも合わせて55雷火豊になる。
 この卦は、もう何度も出てきたので、またかと思うかもしれないが、とにかく本来の意味とは別に、妊娠をも意味する。
 そして、イ(ニンベン)は二画だから、この55雷火豊の下から二番目の記号に当っていることを意味する。
 当っているとは、陰陽が変化する、ということである。
 55雷火豊の下から二番目は、現在は陰だが、それが陽に変化する、ということである。
 また、下から二番目は下の(火)の真ん中すなわち女性の体の中であり、陰=無・陽=有とすれば、無から有に変化することを意味する。
 妊娠で女性の体内に無から有が生じるのなら、それは胎児である。
 要するに、倭とは、胎児のことだったのである。
 したがって、万葉仮名風に書かれた伊波礼毘古を、「伊波礼」は「謂れ」、「毘古」は「日子」とすれば、神倭伊波礼毘古は、「倭の謂れは日子の神」という意味だったのである。
 昔の日本が、中国から倭という字で表現されたのは、女帝たちが胎児を神としていたからだ、ということである。

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F 太古の日本国名はヤマトイだった!

 このように、神武天皇の国風諡号は、倭と呼ばれた理由を明かしていたのだが、「神武紀」では、31年条で、日本の国の様子や呼称について触れている。浦安国(うらやすのくに)秀真国(ほつまくに)・・・。
 しかし31を易の卦に置き換えると、3は(火)・1は(天)だから、14火天大有(かてんたいゆう)になる。
 この卦は11垂仁天皇のA列である。しかし11垂仁天皇に関する記述を調べても、思い当たるものは何もなかった。とすると、別のことを示す暗号に違いない。
 考えられるのは、この卦は序次14番目だから、『日本書紀』第14巻を見よ、という指示である。
 『日本書紀』は全30巻で、第1巻は「神代・上」、第2巻は「神代・下」、第3巻は「神武天皇」・・・と続き、第30巻が「持統天皇」となっている。途中、複数の天皇を合わせて一巻としている場合もあるので、巻数は天皇の数より少ない。
 が、とにかくその第14巻を開くと、そこは22雄略天皇の巻であって、その元年条に次のような記述があった。

 あるとき雄略天皇は、一晩だけ、とある女性と寝た。
 しばらくするとその女性に女の子が生まれた。
 しかし、たった一晩寝ただけで妊娠したということに、自分の子ではないのではないか?と疑問を持っていた。
 数年後、その女の子も無事に成長し、ある日、歩いて庭を通り過ぎた。
 そのとき、物部目大連(もののべのめのおほむらじ)が「綺麗な女の子だ。昔の人なら、娜毘騰耶皤麼珥(なひとやはばに)(此古語未詳也)と言うところだろう。誰の子だ?」と他の群臣に問いかけた。
 すると天皇は、「なんでそんなことを問うのか?」と質問した。
 大連は「この女の子の容姿は天皇に似ている」と答えた。
 天皇は、「みな同じようなことを言うが、私はこの子の母と一晩しか寝ていない。それで妊娠するとは、信じがたい」と答えた。
 そこで大連は、「一晩に何回やったのですか?」と質問した。
 天皇は「7回やった」と答えた。
 それを聞いて大連は、「そんなにやれば妊娠しますよ」と答え、それで天皇も納得し、晴れて皇女として認められた。

 俗っぽく訳すとこんなカンジになるが、一晩に7回やった、などという露骨な話は、国の正史として相応しいのであろうか。
 明治以降の皇室なら、仮に侍従長とそんな話をしたとしても、それを記録に残すとは考えられない。しかし『日本書紀』には、平然と書かれている。
 当時の性を取り巻く環境が、現代とは比較にならないくらい大らかだった証拠だろう。
 が、それはともかく、重要なのはこの内容ではない。
 原文をそのまま書いた娜毘騰耶皤麼珥の7文字である。
 原文はさらに注として、此古語未詳也と、この言葉の意味はわからない、としている。
 このような注釈があるのはクサイ。
 暗号だから解読してください、と言っているようだ。
 それなら、解読してみましょう、という目でもう一度、娜毘騰耶皤麼珥を見た。

 するとまず、最後の文字は王と耳に分ければ、王(=玉)は(天)・耳は(水)だから、合わせて6天水訟(てんすいしょう)を示していることがわかった。
 訟とは「訴える」ということである。
 とすると、上六文字の娜毘騰耶皤麼までが暗号だと訴えていることになる。
 ただ、これらの文字を易の卦に置き換えても何も出てこないので、ここは易ではなく、もっと簡単に、文字の順をちょっと入れ替えることで、何か出てくるような気配である。
 娜毘騰耶皤麼のままではわかりにくいから、カタカナで書いてみよう。
 ナヒトヤハバ・・・、そうか、表向きでは頭の娜だけ、漢音の「ダ」ではなく、呉音で「ナ」と読み、他は漢音で読んでいるが、麼も呉音で「マ」と読むことにして、文字の順を入れ替えれば、娜皤耶麼騰毘=ナハヤマトヒだ!
 現代仮名遣いにすれば、ナハヤマトイ=名はヤマトイ、ということになる。

 そうか、国の呼称というテーマからたどりついたのだから、このヤマトイこそが、かつての日本の国名だったのだ!
 そしてこのヤマトイは、いわゆる女王卑弥呼の邪馬台国と、音が似ているではないか。
 邪馬台国の読み方は、一般的にはヤマタイコクだが、これはあくまでも仮にそう呼んでいるだけで、実際には、ヤマタイ、ジャバトイ、ヤバタイなど諸説あって、本当のところは判然としないのだが、とにかくヤマトイという音が中国に伝わり、邪馬台という字を宛てられるようになったのではないだろうか。
 それならば、暗号解読をさらに進めて行くと女王卑弥呼のことも明らかになりそうである。
 が、それは後回しにして、もう少し女帝たちについて探って行こう。

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G 代々の女帝たちはタラシヒコという名を継承していた

 ここまでの解読から、神武や履中といった漢風諡号は『紀』『記』編纂時に暗号としての役割も合わせて付けられたのだと断定せざるを得ない。もちろん国風諡号も、である。とすると、本当の名前は何だったのだろうか。それは、帯日子(たらしひこ)と付く女帝たちから導かれる。

 帯日子と付くのは、孝安女帝の大倭帯日子(おほやまとたらしひこ)、景行女帝の大帯日子(おほたらしひこ)、成務女帝の若帯日子(わかたらしひこ)である。大と若の違いは、大は複数、若は単数を意味すると考えるのが最も適切である。それにしたがって解読した結果、景行女帝は7人をひとりにまとめたものだった。
 そこで、今度は若帯日子の成務女帝について、少し探りを入れてみよう。
 「成務記」によると、13成務天皇には和訶奴気(わかぬけの)王という子が一人いるのだが、この人物はただ「生まれた」ということだけが記されているに過ぎない。子供がいるのに皇太子にもなっていない。しかも、13成務天皇の次は甥の14仲哀天皇が即位している。とすると、この和訶奴気王は、どうしたのだろう。幼少の頃に死んだのなら、そう書いてあってしかるべきである。しかし、その辺の経緯については一切触れていない。とするとこれも暗号に違いない。
 和訶奴気王という名前をワカヌケ、ワカヌケ・・・と、何度も読んでいると、「若を抜け」と言っている風ではないか。
 13成務天皇の国風諡号の若帯日子から若を抜くと、帯日子となる。そして、成務天皇の御陵(みささぎ)沙紀之多他那美(さきのたたなみ)とある。これの文字の順をちょっと入れ替えると、沙紀之多他美那で、先のただの御名の意味になるではないか。
 したがって帯日子というのが、代々継承していた女帝たちの名前だったのである。

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H 遣隋使とタリシヒコと蘇我氏

 帯日子が女帝たちの継承していた名前だとすると、「隋書倭国伝」の記述が気になる。
 「隋書倭国伝」では、倭王の名前を多利思比孤としている。音は帯日子と似ているタリシヒコである。
 とすると、このとき隋に行ったのは女帝たちの使者だったということか。
 さらに同伝は、倭の制度の名称として「伊尼翼」「一軍尼」などがあるとしているが、尼は女性を指す文字である。
 また、『日本書紀』では、このときの遣隋使の長を小野妹子(おののいもこ)だったとしているのだが、この名前も気になる。こんな名前だが、表向きは男性ということになっていて、推古十六年条には、小野妹子が中国では蘇因高(そいんこう)と呼ばれた、とある。ただし中国側資料には小野妹子や蘇因高といった名を記載したものはない。『日本書紀』にだけある記述である。
 その小野妹子だが、ショウノイモコと読み、字音で当てれば蘇因高と似てはいるが、それならなぜ小野は訓でオノと読まず小だけ音で読んだのか、という疑問が残る。とするとこれも暗号である。そして蘇という文字が使われていることも気になる。この時代、表向きには蘇我氏が台頭している。
 蘇我氏の始まりは、蘇我稲目(そがのいなめ)である。
 稲は(雷)・目は(火)だから、稲目で55雷火豊になる。
 また、お馴染みの妊娠の卦が出てきた。
 とすると、蘇我稲目は蘇我妊娠というこで、「我、妊娠で蘇る」という意味になる。
 こう読めるからには、無論この蘇我氏も暗号すなわち架空の人物に違いない。

 そこで小野妹子と蘇因高だが、この二つの名前を易の卦に置き換えてみる。
 小と野は共に(地)だから、小野で2坤為地となり、この卦は母を意味するので、小野妹子で「母は妹の子」という意味に取れる。
 一方の蘇因高は、高という字は、易では(風)で長女を意味するから、こちらは「蘇りを長女に因む」となる。
 両者を合わせると、「蘇りを長女に因んで言えば、母は妹の子となる」と読める。
 んー、まだちょっと意味がわかりづらいが、6−4の最後に示した図34の女帝側の系図を見ると、まず長女、次いで妹、次いで妹の子と、血筋的には、妹の血統で皇位が継承されているではないか。
 何やら少し見えてきた。
 これまでの解読結果を整理してみよう。

 1 永遠の生命と妊娠する女性(用明天皇の国風諡号・橘之豊日)。
 2 古代の女帝達は、代々最後には自ら命を絶っていた(非時の香菓)。
 3 母権制社会は蝮が守っていた(田道間守)。
 4 拝火宗教の巫女は、自分の母親となる女性を出産、養育する(高御産巣日神)。
 5 神は自分の母親となる女性を出産、養育する(神産巣日神)。
 6 女帝達には、自分の母親の血を飲み、その肉を食べるという風習があった(宇摩志阿斯訶備比古遅神)。
 7 女性達が不特定多数の男性と性交する畜生同然の時代(久羅下那州多陀用弊流)。
 8 神がいる場所は女帝達の腹すなわち子宮の中(高天原)。
 9 神はその子宮の中にいる胎児である(天之御中主神)。
 10 高天原を天上界の野原であるかのようにしたのは持統天皇の発案だった(持統天皇の国風諡号)。
 11 中国から倭と呼ばれたのは、胎児を神としていたからだった(神武天皇の国風諡号)。
 12 その頃の日本の名はヤマトイ国だった(雄略紀の娜毘騰耶皤麼珥という言葉)。
 13 代々の女帝たちは帯日子という名前を継承していた(成務天皇の国風諡号と子御陵の名)。
 14 私は妊娠で蘇る(蘇我稲目)
 15 蘇りを長女に因んで言えば、母は妹の子となる(小野妹子と蘇因高)

 多少重複する内容もあるが、とにかくこれだけのキーワードが出てきた。
 そこで、これらすべての意味が通るように、言葉を補いつつまとめてみることにした。
 その結果、次のような古代日本の姿が浮かび上がった。

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I 母権制社会の忌まわしい実態

 古代日本は母と娘の結びつきが極めて強固な女尊男卑の母権制社会で、代々の女帝たちは拝火宗教の巫女として生き、タラシヒコ(帯日子)という名を継承し、あろうことか、食人による蘇生という儀式を考案し、それで永遠の生命を得られるものと信じ、そのとおり行っていた。
 彼女たちは、年老いて身体が利かなくなる前に、自分の肉体を新しく作り替えるためと称して、まず、蝮に咬ませて自殺する。
 するとその末娘が母の屍を食べ、その血を飲む。そうすることで、末娘は自分の腹の中に母の魂が宿ったものと考えた。
 後はその宿った魂に新しい肉体を与えるために性交して胎児に作り上げ、自分の娘として出産する。
 こうして母は、蘇生したことになる。
 その際、父親を特定しようなどとは考えず、ひたすら数多くの男性と関係を持ち、妊娠の確立を高めたことだろう。
 なお、生まれたのが男の子だったら、母の魂がその肉体を嫌って乗り移らなかったものとして、改めて胎児から作り直した。
 おそらく、このサイクルを永遠に繰る返すことで、永遠に生き続けられると信じ、死の恐怖から逃避していたのだろう。
 これに対し、自ら妊娠出産することが不可能な男性は、女性を妊娠させる触媒程度にしか考えられていなかったので、父親という地位は無論あるはずもなく、使い捨ての道具に過ぎなかったものと思われる。
 この時代のことを太安萬侶は、畜生同然の世の中だったと評価し、中国からは、易の卦に置き換えると胎児を意味することにもなる倭という字で呼ばれ、胎児が神である以上、その胎児から生まれた女帝もやはり神であって、神のお告げが絶対的権威を持つ社会システムを形成していた。
 この時代の日本はヤバトイ国と称し、本拠地は奈良県飛鳥地方を中心とした地帯だった。

 なお、当時の男性の役割についての暗号はなかったので、中国雲南省の奥地で今も母権制社会を営む少数民族のモーソ族を参考に、推測した。

 食人による蘇生なんて信じたくない気分になるが、だからこそ多くの人々が隠そうと画策したのだろう。食人の風習を持つ民族は、近代まで東南アジアでもかなりあったと聞く。しかしそれを自国の歴史として忌み嫌わず、きちんと歴史書に残した民族はどれくらいいるのだろうか・・・。

 要するに皇祖となるQ孝昭女帝はその食人の風習のあった女帝たちの蘇りの象徴でもあった胎児のことで、次のP孝安女帝はその風習が代々延々と続いていたことを示していたのである。
 とすると、その年代はいつ頃のことなのだろうか。
 それは、O崇神女帝、N垂仁男帝、M応神女帝についての暗号が教えていた。

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7−2 母権制社会脱却の失敗

@ 垂仁男帝の宗教改革
A 崇神と垂仁と応神の関係
B 垂仁男帝の本名はヤタ
C 個人を特定できる最初の人物は崇神女帝だった
D 垂仁男帝の崩年
E ここまでの歴史のまとめ

@ 垂仁男帝の宗教改革

 順番からすれば、Q孝昭P孝安の次はO崇神だが、O崇神、N垂仁、M応神のところは、いささか複雑に三人が絡み合っているので、都合によりN垂仁男帝から話す。

 「垂仁記」によると、11垂仁天皇は8人の妃との間に計16人の子供があったのだが、そのうちの一人の妃の親の名前として、旦波(たにはの)比古多多須美知宇斯(ひこたたすみちうしの)王というのがある。
 この名前の頭の旦は、日と一に分ければ、日は(火)・一は(天)だから、合わせて14火天大有を示していることになるが、この卦は垂仁天皇のA列である。
 続く波比古多多須美知宇斯は、宇斯波比古美知多多須と文字を入れ替えれば、「ウシは日子道正す」と読める。ウシは「あなた」という意味の古語である。
 したがって、この名前は、「垂仁天皇よ、あなたは女帝たちの生き方を正した」と言っていることになる。
 どうやって正したのだろうか。
 手がかりは、垂仁という漢風諡号にあった。

 6−4の最後に示した図34を見ると、漢風諡号には規則性があり、やはりこれも暗号なのだということは、すでに話したが、とすると、この垂仁という漢風諡号も、何か意味があるはずである。
 垂仁の意味は「(じん)()れる」である。
 「仁」とは慈愛博愛、もっと簡単に言えば「思いやり」である。
 なるほど、思いやりかぁ、上手いことを考えたものだ。

 確かに人々が思いやりに溢れていれれば、老いて醜くなった姿を軽蔑嘲笑する者もなく、また、死んだ者も折りに触れて思い出されるから、心の中で永遠に生き続けることになるではないか。
 しかし、「垂仁紀」にある崩御時の年齢140歳を易に直すと、1は(天)・4は(雷)だから、25天雷无妄(てんらいむぼう)になる。
 この卦を説明する『易経』の文章には「天命(たす)けず」とあり、物事が成就しないことを意味する。
 とすると、「女帝たちの生き方を正そうとしたが、失敗した」ということになる。

 こうして見ると、崇神と応神という漢風諡号の意味も見えてくる。
 崇神は「神を(あが)める」で、自らを神格化せず、神をただ崇め祭るだけの存在にすること、応神は「神に応じる」で、自らを神格化し神のお告げに応じることである。
 要するに、N垂仁男帝の宗教改革によりO崇神女帝は自らを神格化することを辞め、神をただ崇め祭るだけの存在とした。しかしM応神女帝は、その改革を受け入れず、昔日のように、自らを神格化して、食人による蘇りを行い、神に応じた、ということである。

A 崇神と垂仁と応神の関係

 ここまでで明らかになったのは、次のとおり。

 N垂仁男帝が思いやりを持って生きることを提唱し、O崇神女帝はそれに賛同して神を崇め祭るだけの存在とした。
 しかし、M応神女帝は賛同せず、再び神のお告げに応じて食人による蘇りを行う社会に戻した。
 とすると、この三人の関係が気になる。
 M応神女帝とN垂仁男帝の間には、景行A・Bという娘がいるので、この二人は恋人同士あるいは夫婦であるかのようにかなり親しいはずだが、O崇神女帝とこの二人はどういう関係なのだろうか。

 表向き、11垂仁天皇は10崇神天皇の子であり、これを否定する暗号はない。とすると、この二人は表向きと同様に親子ということになる。ただし暗号では崇神の性別は女性である。すなわち、O崇神女帝はN垂仁男帝の母親だったのである。
 一方のM応神女帝は次にようにその関係が判明する。

 表向きの16応神天皇は15仲哀天皇と14神功皇后との間の子だとされている。
 その15神功皇后の出自については、『古事記』の9開化天皇のところに記載されていて、それによると、
 9開化天皇―日子坐(ひこいますの)王―山代之大筒木真若(やましろのおほつつきまわかの)王―迦邇米雷(かにめいかづちの)王―息長宿禰(おきながすくねの)王―14神功皇后、
 となっている。
 実際は9開化天皇も14神功皇后も架空の人物なのだが、とにかくこのように開化天皇から神功皇后まで6代としている。
 これはクサイではないか。
 特に9開花天皇から4代目の迦邇米雷王は迦邇米と万葉仮名風で記されているのが怪しい。万葉仮名は文字の音だけを借用した字で、その漢字の意味は関係ない。とすると、文字に暗号を込めるのにもって来いである。
 迦邇米雷を、ちょっと考えてみよう。
 迦は加え進めるという意味。
 邇米は、邇は邇邇藝命のときと同様に(天)、米はその細長い形状から陽としてその極みの(天)とすれば、合わせて序次第1の乾為天(けんいてん)となり、序次の第1を示すからには、物事の順序展開について、何か言わんとしているに違いない。
 最後の雷は、(雷)で4という数を示す。
 とすると、迦邇米雷で、順番を4つ加え進めた、という意味になる。
 要するに、開化天皇から神功皇后までは、本当は6代ではなく、4引いた2代、すなわち、開化天皇の子が神功皇后だと示しているのである。
 そして、開化天皇は崇神天皇の親であり、神功皇后に至る系統は、その崇神天皇の弟の系統である。
 したがって、この系譜とこの名前は、崇神女帝の妹が、応神女帝の母親(神功)だと、教えていたのである。
 次の図36は、ここのところを系図にしたものである。

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B 垂仁男帝の本名はヤタ

 N垂仁男帝の宗教改革は、暗号が教える歴史ではかなり重要なことのようで、暗号で彼の字(あざな)が記されている。
 字とは、幼名ではなく、成人した後の本名といったものである。
 「垂仁記」に記載された妃の中に、阿邪美能伊理毘売(あざみのいりびめの)命という名前があり、その妃が生んだ子として阿邪美都比売(あざみつひめの)命という名がある。
 阿邪美能伊理毘売は、文字の順をちょっと入れ替えると、阿邪能美伊理毘売で、「(あざ)のみ入り姫」すなわち「字を姫(女性)の名の中に入れておいた」、という意味になる。字とは成人した男子が幼名を捨てて名乗る名前のことである。
 とすると、どの姫の名の中にN垂仁男帝の字が入っているのか、ということになるが、他の垂仁天皇の妃や子の名前には、それと思しきものはない。
 そこで、もう一度確認してみる。

 垂仁天皇には、阿邪能美伊理毘売命の子の阿邪美都比売命のほかに、いろいろな女性との間にいろいろな子が生まれたと、それぞれ名前を挙げている。
 そんな中に佐波遅比売(さはぢひめの)命という妃が生んだ子供の名前として、品牟都和気(ほむつわけの)命というのがある。
 この名前は16応神天皇の国風諡号の品陀和気(ほむだわけ)に似ているではないか。
 暗号では垂仁男帝と応神女帝の間には子が生まれているのだから、16応神天皇の国風諡号と似た名前というのは何かありそうである。
 そこで16応神天皇だが、「応神記」には応神天皇の9人の妃とその子たち20人余りの名前があり、その中に丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)の娘の宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)を娶して、宇遅能和紀(うぢのわき)郎子(いらつこ)八田若郎女(やたのわかいらつめ)などを生んだとある。
 このうちの宇遅能和紀郎子は「応神紀」では菟道稚郎子と表記され、応神16年条(皇紀945年)に、百済(くだら)から日本にやって来た王仁(わに)という人物から、日本で初めて漢籍を教わった、とあり、「応神記」では、王仁は和邇吉師(わにきし)と表記され、初めて百済から日本に『論語』を持って来た人物とされている。
 『論語』と言えば儒教、儒教と言えば「仁」、「仁」と言えば垂仁・・・と、繋がるではないか。
 やはりこの名前は垂仁男帝と関わりがあるに違いない。

 まずは、その丸邇之比布礼能意富美という名前から探ってみよう。
 丸邇は、丸は陽だからその極みの(天)・邇も邇邇藝(ににぎの)命のときと同じく(天)とすれば、(天)は1を示すから、丸邇で11という数を示していることになるが、第11代の天皇は垂仁天皇である。
 続く之比布礼能意富美は、文字の順を入れ替えると、意富能美比礼布之で「多のみひれ平伏し」と読める。多は太安萬侶等を指すとすれば、太安萬侶は真実の歴史を知っている人物である。
 したがって、丸邇之比布礼能意富美という名前で、「真実を知っている人は垂仁天皇に平伏す」、と伝えていることになり、これが暗号であることを示していたのである。

 そこで、その娘の宮主矢河枝比売という名前を解読しようと試みたのだが、これはどう易の卦に置き換えたり、文字を入れ替えたりしても、メッセージは読み取れなかった。が、この妃が生んだ子の名前、宇遅能和紀郎子と八田若郎女は、何かを伝えている風情である。
 宇遅能和紀は「氏の脇」のこととすれば、氏の脇に添えるものこそ字(あざな)だから、続いて記載されている八田若郎女という名前こそ、垂仁男帝の字を示しているようではないか。
 すなわち八田若郎女から若郎女を取った八田=ヤタこそがN垂仁男帝の本名だったのである。無論、八田という漢字は関係なく「ヤタ」という音だけである。
 ヤタ・・・何やら頼りない名前だが、考えてみると、神武天皇東征神話で、神武一行を助けた八咫烏(やたがらす)=日本サッカー連盟のシンボルや、三種の神器の一つ「八咫(やた)の鏡」など、ヤタという名称は神話の中で重要なポジションにあるではないか。
 どうやら、この垂仁男帝が果たせなかった宗教改革の遂行が、その後の神武男帝に始まる男帝系の皇統、そして現在に続く皇室の願いなのだろう。
 しかしこのN垂仁男帝の宗教改革は、一体いつのことなのだろうか。
 次にその辺を探ろう。

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C 個人を特定できる最初の人物は崇神女帝だった

 『古事記』では、1神武天皇と10崇神天皇の二人を、初国知らしし天皇だとしている。
 通説では、1神武天皇は初代天皇という意味でこの言葉を使い、10崇神天皇のときに初めて国家体制が整ったのだ、という意味で10崇神天皇にも使ったと解釈している。しかし、違うことを同じ言葉で表現するのは、いささか強引でもあり、疑問が残る。
 しかし暗号が示す系図を見ると、O崇神女帝の前のP孝安女帝は代々の女帝たちで、Q孝昭女帝は胎児だから、O崇神女帝が初めて個人を特定できる人物となっている。すなわち初国知らしし天皇とは、(1)神武男帝は男帝側の初代、O崇神女帝は初めて個人を特定できる人物、だと示していたのである。
 個人を特定できるのなら、生存していた時代が示されているはずである。
 「崇神記」を探ってみると、妃の名前に遠津年魚目目微比売(とほつあゆめまくはしひめ)というのがあった。
 遠津年魚目を普通に読めば遠津(とほつ)年魚(あゆ)目に分かれるところだが、遠津年で、何やらある年を示している気配を感じられるので、遠津年と、魚目目微(まくはし)、に分けて考える。
 その遠津は、遠は陰だからその極みの(地)、津は水があるところだから(水)となり、(地)が示す数は8または0(無)、(水)は6だから、遠津年は86年または06年を示していることになる。
 続く魚目は、魚は水の中にいる生物だから(水)・目は(火)だから、合わせて63水火既済(すいかきせい)で「すでになっている」という意味になる。
 最後の目微は、易に置き換えず、そのまま目が微かにしか見えない、と読む。
 すると、「86年または06年には、すでに目が微かにしか見えなくなった」という意味になる。

 ※ここでは簡単に06年と書いているが、『記』『紀』編纂当時はまだ0という考え方はない。正しくは「十の位に数字がない」という意味合いである。ただ現代人にとっては、こう書くと煩雑で却ってわかりにくいので、便宜上06年と書いたまでである。

 したがってこの暗号は、
 崇神女帝は、この86年または06年には、すでに目が微かにしか見えない老人となり、そろそろ寿命も尽きる頃だ、
 と教えているのに違いない。
 とすると、この86年か06年がいつのことなのかを突き止めれば、その年代が確定できるはずである。

 「崇神紀」では即位68年に崩御とあり、この年を皇紀に換算すると631年となる。したがって86年とも06年とも、やや離れた年なので、関連はなさそうである。
 一方、「崇神記」には、戊寅(つちのえとら)年十二月崩とある。
 『古事記』では、10崇神天皇以外にも14人の崩年干支が記載されている。列挙すると、次のとおりである。

『古事記』にある崩年干支・・・・・・・・『日本書紀から計算した崩年の干支』
10崇神天皇 戊寅年12月崩・・・・・・・崇神68年 皇紀 631年 辛卯
13成務天皇 乙卯年3月15日崩・・・・・成務60年 皇紀 850年 庚午
14仲哀天皇 壬戌年6月11日崩・・・・・仲哀 9年 皇紀 860年 庚辰
16応神天皇 甲午年9月9日崩・・・・・・応神41年 皇紀 970年 庚午
17仁徳天皇 丁卯年8月15日崩・・・・・仁徳87年 皇紀1059年 乙亥
18履中天皇 壬申年正月3日崩・・・・・・履中 6年 皇紀1065年 乙巳
19反正天皇 丁丑年7月崩・・・・・・・・反正 5年 皇紀1070年 庚戌
20允恭天皇 甲午年正月15日崩・・・・・允恭42年 皇紀1113年 癸巳
22雄略天皇 己巳年8月9日崩・・・・・・雄略23年 皇紀1139年 己未
27継体天皇 丁未年4月9日崩・・・・・・継体25年 皇紀1191年 辛亥
28安閑天皇 乙卯年3月13日崩・・・・・安閑 2年 皇紀1195年 乙卯
31敏達天皇 甲辰年4月6日崩・・・・・・敏達14年 皇紀1245年 乙巳
32用明天皇 丁未年4月15日崩・・・・・用明 2年 皇紀1247年 丁未
33崇峻天皇 壬子年11月13日崩・・・・崇峻 5年 皇紀1252年 壬子
34推古天皇 戊子年3月15日癸丑崩・・・推古36年 皇紀1288年 戊子

 このように、10崇神天皇から34推古天皇までの約2/3の天皇に、崩年干支を記載していて、他の天皇にはその記載はない。このうち『古事記』に記載のある崩年干支と、『日本書紀』から計算される各天皇の崩年の干支とが一致するのは、34推古、33崇峻、32用明、28安閑だけで、他は一致しない。一致しないのはどちらが正しいのか、研究者の議論のつきないところである。 しかし、仲哀天皇の崩年干支については、草壁皇子の出生の秘密を示す暗号であった。とすると、他の崩年干支も真実を伝えるための暗号であって、これを考えることで、暗号が示す歴史の正しい年代は浮上するに違いない。

 としても、『記』『紀』編纂当時、本当の歴史は表面から抹殺したのだから、この崩年干支も事実ではないだろう。しかし、それとなく事実を仄めかしているはずである。
 最も単純に考えると、戊寅を十二月としたときの正月の干支が、本当の崇神女帝の崩年だ、ということである。
 そもそも月の十二支は、正月が寅、十二月は丑と決まっているので、戊寅が十二月ということは有り得ないのだが、だからこそ、悟られずに本当のことを示せるという利点がある。
 要するに簡単に言うと、正しい崩御年を一番目としたときの十二番目が戊寅歳だ、という暗号である。
 計算すると、正月すなわち一番目は丁卯(ひのとう)になる。
 ただし、干支は60年で一巡だから、これだけではまだいつなのか判然としない。そこで次のように考える。
 暗号が示す歴史では、@推古女帝からO崇神女帝まで、女帝系は景行7人を含めて計22人である。
 一人当たりの在位を15〜20年程度として計算すると、330〜440年になる。
 推古即位の皇紀1253年の330〜440年前は、皇紀813〜923年である。
 この間で、86年または06年となるのは、皇紀886年、906年である。
 そして、「崇神記」崩年干支から計算して得られた丁卯は、この間では皇紀847年、907年である。
 とすると、907年なら、06年に目が微かにしか見えなくなり、翌年に崩御した、ということになり、上手く合うではないか。
 どうやら、O崇神女帝の崩御は皇紀907年丁卯で、これが日本の最初にわかっている年代だったのである。
 これ以前については、年代を探るのは不可能だったのである。
 これ以前の日本について、わかっていたのは、食人による蘇生を繰り返す女帝たちが支配していて、彼女たちは胎児を神としていた、ということだけだったのである。

 ところで、皇紀907年ということは、660を引いて西暦に換算すると257年である。
 これは、『魏志倭人伝』にある女王卑弥呼の時代である。
 とすると、卑弥呼とはO崇神女帝のことだったのか?
 が、それは後で検証するとして、次にN垂仁男帝の崩御年を探り出そう。

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D 垂仁男帝の崩年

 暗号では、O崇神女帝崩御の後は、初めての男性の王として、N垂仁男帝が即位し、「仁(思いやり)」を中心に据えた社会構築に邁進した。しかしそれは、あまり上手く行かなかったようである。

 「垂仁紀」には「垂仁天皇は崇神天皇の29年壬子(みずのえね)の春正月己亥朔(つちのといつきたち)に生まれ、24歳のときに、夢の祥により、皇太子になった」とある。
 春正月己亥朔というのは、1月1日のことで、この日の干支が己亥だ、という意味である。

 一方、「崇神紀」には、崇神天皇の48年に、夢占いによって垂仁天皇を皇太子とした、と記載している。
おやおや、これはおかしいではないか。
 崇神天皇の29年に生まれたのなら、24歳になるのは52年のはず。
 崇神48年は20歳である。
 数字が矛盾している。
 ※ 念のために付け加えておくが、『記・紀』の時代、というか、明治維新以前の日本での年齢計算は、満年齢ではなく、いわゆる数え年である。数え年は、生まれたときを1歳とし、正月が来る毎に、年齢を加算する。

 実は『日本書紀』には、このような数字の矛盾が数多くある。
 単なる誤記なのか、何か意味があるのか、これまでの研究では結論は出ていない。
 また『日本書紀』では、通常各天皇の元年以外、年の干支は記載していないのだが、ここでは「29年壬子」と、わざわざ丁寧に干支まで書いている。
 元年の干支さえ書いてあれば後は計算でわかるのに、である。
 そう言えば、持統天皇関連の暗号解読では、干支の矛盾が真実の年月日を示す暗号だった。
 干支も数字も年月日を示すものである。
 とすると、この数字の矛盾や干支こそ、真実を教える暗号に違いない。

 まずは「垂仁紀」にある、垂仁天皇の出生日の29年壬子春正月己亥朔を、易の卦に置き換えてみよう。
 29は、2は(沢)・9は(天)だから、43沢天夬(たくてんかい)になる。
 この卦は決去決潰など物事が壊れることだから、社会的にはクーデターなどを意味する。
 続く壬子という干支は、乱数表に示した干支と八卦と方角の関係から、壬も子も北で(水)となるので、壬子で29坎為水(かんいすい)になる。
 この卦は険難の中でどうにもならない最悪な状態を意味する。
 日付の己亥という干支は、己は西南で(地)・亥は西北で(天)となるので、合わせて11地天泰(ちてんたい)になる。
 この卦は万物生成のおめでたい形ではあるが、同時に天と地の位置が上下逆転しているので、「逆転」という意味にもなる。
 とすると、この生年の日付は、クーデター、険難、逆転という意味を提示していることになる。
 クーデターで険難のときに生まれたことが逆転した・・・。

 そうか!生まれたことの逆なのだから、これは死んだときのことを示しているに違いない。
 垂仁男帝はクーデターのときに険難に遭遇して死んだ、すなわち、クーデターで殺された、ということである。
 そして、矛盾する年数の4年の意味を考えると、その殺された年がわかるのだろう。

 垂仁天皇崩御に関する記述は、
 「垂仁紀」には、垂仁天皇は99年秋7月に崩御した、とあり、
 「景行紀」には、垂仁天皇の99年春2月に垂仁天皇は崩御し、秋7月に景行天皇が即位し、この歳は辛未(かのとひつじ)だった、とある。
 おやおや、ここにも記述の矛盾があるではないか。

 『日本書紀』に記載された古代天皇の場合、通常は、前帝崩御の翌年正月に即位である。
 前帝が99年春2月に崩御したのなら、翌年正月即位が普通なのであって、何の説明もなく秋7月即位としているのは不審である。また「景行紀」だけを読むと、何やら垂仁天皇が崩御した同じ年の秋に景行天皇が即位したかのようにも読める。しかも垂仁崩御の月が「垂仁紀」とは違っている。
 とすると、この99年というのも暗号に違いない。
 9という数を示す卦は(天)だが、その(天)は同時に1も示すので、99年は易を通じて11年を示していることにもなる。
 O崇神女帝の崩年は皇紀907年丁卯だった。
 垂仁立太子の記述からは、クーデターで殺された、という意味が読み取れるとともに、4年という数字の矛盾があった。
 11年を911年のこととすると、N垂仁男帝はO崇神女帝崩御の4年後にクーデターで殺されたことになり、矛盾する年数と一致し、さらにはこの911年の干支は辛未で、12景行天皇即位の年と同じである。
 どうやらこれで答えは出た。
 N垂仁男帝は九11年辛未に、クーデターにより、殺されたのである。

 なお、王仁が日本に『論語』などの漢籍を持ち込んだとする「応神紀」十六年は、皇紀945年だから、暗号が示す歴史では、N垂仁男帝が殺された後である。したがってこの記述は、宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)と垂仁という名前を結びつけ、N垂仁男帝の字がヤタだと教えるための暗号に過ぎないのであって、このときの儒教伝来は事実ではない。
 要するに、垂仁男帝は独自に「仁」を思いついたのである。いや、正確に表現すると、漢字の「仁」に相当する概念すなわち「人々が思いやりを持ち合う」ということを発案した、のだろう。

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E ここまでの歴史のまとめ

 N垂仁男帝死亡年が判明したところで、ここまでの暗号が示す歴史をまとめておこう。
 なお、これより前の歴史は、上の7−I 母権制社会の忌まわしい実態にまとめてある。

○ 皇紀900年(西暦240年)頃

 「タラシヒコ」を継承しているO崇神女帝の息子に、ヤタ(N垂仁男帝)という名前の人物がいた。
 ヤタは食人による蘇生など本当はあるはずがないと考え、止めさせようとして、「仁」という考え方を発案する。
 「仁」とは「慈愛・博愛」もっと簡単に言えば「思いやり」のことで、「仁により心と心が繋がり合う社会を作れば、老いて醜くなった姿を軽蔑嘲笑する者もなく、また、死んだ者も折に触れて思い出されるので、心の中で永遠に生き続けることになる」と考えた。
 この息子ヤタの発案に、O崇神女帝は自らを神格化するのを思い止まり、神を崇め祀るだけの存在とし、食人による肉体蘇生も行わない決意をする。
 言うなれば「仁」によりマインドコントロールが解けたということだろうが、これこそが日本神道の始まりだったのであり、この宗教改革は儒教などの影響によるものではなく、ヤタが独自に考案したものだった。

○ 皇紀907年(西暦247年)丁卯(ひのとう)

 O崇神女帝は食人による蘇生のための自殺を行わなかったので、前年には目が微かにしか見えない老女となり、ついにこの年、自然死を迎える。
 これにより、息子ヤタが男性として始めての日本国王となり、「神のお告げ」ではなく、「仁」に基づく理性をもった社会を構築しようとする。
 なお、このO崇神女帝が、個人を特定できる最初の人物である。

○ 皇紀911年(西暦251年)辛未(かのとひつじ)

 クーデターが起こり、ヤタが何者かに暗殺される。
 当時の人々にしてみれば、「仁」などと言われても戸惑うばかりで、食人による蘇生や「神のお告げ」に身を委ねているほうが、肌に合っていたのだろう。
 また、いくら血族的には正統であっても、女尊男卑の中にあっては、男性を王とすることに屈辱を覚える女性も少なくなく、まして前例もない。
 マインドコントロールの悲劇ここにあり、といった感だが、とにかく事態はO崇神女帝の姪に当たるM応神女帝が即位し、昔ながらの神のお告げに応じて国を治める社会に戻すことで落ち着いた。

7−3 応神女帝から推古女帝までの、各女帝の崩年

@ 神武男帝登場までの各女帝の崩年
A サバを読むにも程がある・・・

@ 神武男帝登場までの各女帝の崩年

 暗号が教える歴史によると、6−4の最後に示した図34の系図でも明らかなように、N垂仁男帝が殺された後は、M応神女帝を皮切りに代々女帝たちが皇位を継承している。そこでまず、年代を把握するためにM応神女帝から@推古女帝までの崩年を割り出そう。
 実は暗号が示す歴史では、事件などの具体的なことはG履中女帝以降の時代を、男帝側主体で描かれているだけなのである。
 だからと言ってN垂仁男帝から、いきなりG履中女帝に進むわけにもいかない。
 崩年を割り出す作業は、機械的な暗号解読で退屈なものだが、次のように割り出されるのである。
 なお、表向きの表記に倣い、とりあえず死亡年を崩年と表記しておくが、言うまでもなく、自然死などではい。蘇りのための自殺をした年のことである。今後、女帝の崩年と書く場合は、すべて同様である。

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M応神女帝の崩年

 「応神紀」では、16応神天皇は皇紀970年に崩御したことになっている。しかしこれをそのまま当てはめると、N垂仁男帝暗殺が911年だから在位60年となり、いささか信じ難いことになる。とすると、「応神記」の甲午(きのえうま)年9月9日がクサイ。
 甲午年はN垂仁男帝が暗殺された皇紀911年以降で最も近いのは、皇紀934年である。
 9月9日にちなみ、9が重なる年を探すと、『紀』の表向きの歴史では11垂仁天皇が99年に崩御した後、12景行天皇が即位している。
 暗号が示す歴史ではM応神女帝の次はL景行女帝7代である。
 逆に言うとL景行女帝7代の前帝はM応神女帝である。
 したがって、この皇紀934年甲午が、M応神女帝の崩年となる。
 ただし、神に応じたのだから、これは自然死ではなく、肉体蘇生のための自殺と考えるべきである。

L景行女帝7代

 L景行女帝の位置は7人の女帝をまとめたものだったが、その7人を仮に景行A〜Gとしよう。その景行A〜Gそれぞれの崩年は、12景行天皇のことを書いた「景行紀」の記事の様子から割り出された。

 「景行紀」には、景行天皇は、垂仁天皇の37年(皇紀668年)に21歳で皇太子となった、とある。
 このことから計算すると、景行60年(皇紀790年)の崩御時には、143歳となっているはずである。
 しかし、景行天皇は崩御時には106歳だった、とある。

 これも矛盾である。とすると、これが真実を引き出す手がかりになるはずである。
 まず、143から106を引くと37になる。
 37は、垂仁天皇の37年に皇太子となった、という記事で印象付けられた数字である。
 とすると、そのとき21歳だったということに、暗号としての意味があるはずである。
 考えられるのは、143から21を引くことだけである。
 143−21=122である。
 7代の合計在位年数が122年だとすると、一代当たり17.4年で、妥当な数字である。
 そこで、M応神女帝崩年の皇紀934年に122年を加える。
 すると皇紀1056年になる。
 どうやら、景行7代の最後となる景行Gの崩年が、この皇紀1056年だと示している感触である。
 これが他の景行で括られた6人や、景行の次のK仁徳女帝の在位年と上手く繋がれば、正解ということだろう。
 どうすれば、他の6代の崩年が割り出せるのか。
 とりあえず、「景行紀」の記事のある年を拾ってみた。
 すると、次の図38のように、不連続な箇所が7つあることがわかった。

 このように、7つの不連続な箇所と景行7代だから、数の上で一致する。
 とすると、この不連続な箇所が、景行で括られた7人の女帝の即位年に違いない。
 ただし景行天皇の在位は60年しかなく、暗号が示す景行7代の時代は122年間で、約干支2巡分である。
 ここに出てくる順序をそのまま景行A〜Gの即位年とするわけにはいかない。
 本当の即位年は別の順序のはずである。
 そう考えて、その不連続の年の最初の記事の日付を眺めてみると、それらを易の卦に置き換えたとき、別の順序を示していることがわかる。
 景行Aの即位年から順を追って話そう。

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景行A

 応神女帝の崩年は皇紀934年甲午だったが、甲午の翌年の干支は乙未(きのとひつじ)である。
 乙未歳を不連続な年から探すと、景行25年になる。
 景行Aは景行7代の始まりのことである。
 したがって、景行25年と同じ乙未となる皇紀935乙未歳が、景行Aの即位年になる。

景行B

 景行Aの即位年になる景行25年の最初の記事の日付は壬午(みずのえうま)である。
 壬午を易の卦に置き換えると、壬は(水)・午は(火)だから、合わせて63水火既済になる。
 序次でこの卦に続くのは、64火水未済(かすいびせい)である。
 景行40年の最初の記事の日付の夏6月は、夏は(火)・六は(水)だから、その64火水未済を示す。
 したがって景行Bの即位年は、この景行40年と干支が共通する皇紀950庚戌(かのえいぬ)歳となる。

景行D

 景行Cは、説明の都合により後回しにし、次は景行Dの即位年を割り出す。
 景行Dは4代目だから、アルファベットの4番目のDと呼んでいる。
 一方、景行17年の最初の記事の干支は己酉(つちのととり)である。
 己酉は、己(土弟)は(地)・酉は(沢)だから、合わせて19地沢臨(ちたくりん)となる。
 この卦は二本で一本と見なせば(雷)になる。
 (雷)が示す数は4である。
 したがって、この景行17年丁亥(ひのとい)と同じ干支の年すなわち皇紀987丁亥歳が、4番目である景行Dの即位年となる。

景行F

 景行Eは、Cと同様これまた後回しにして、次は景行Fを割り出す。
 景行Fは景行6代目である。
 景行51年の最初の記事の日付の戊子は、易の卦に置き換えると、戊は(山)・子は(水)だから、合わせて4山水蒙(さんすいもう)になる。
 4GF山水蒙は序次4番目だから、63水火既済から数えると6番目になる。
 1既済、2未済、3乾、4坤、5屯、6蒙・・・である。
 63水火既済を示す日付は景行Aすなわち景行初代のものだった。
 したがって、6代目の景行Fの即位年は、この景行51年辛酉(かのととり)と同じ干支の年なのであって、それは皇紀997辛酉歳となる。

景行E、G

 これで景行A、B、D、Fの即位年が確定したわけだが、これにより、残っているEとGも判然とする。
 景行27年の最初の記事の日付の壬子(みずのえね)を易の卦に置き換えると、壬も子もともに(水)だから、合わせて29坎為水になる。
 また、景行12年の最初の記事の日付の秋7月を易の卦に置き換えると、秋は(沢)・7は(山)だから、こちらは31沢山咸(たくざんかん)になる。
 序次では、29坎為水の次の次が31沢山咸である。
 次の次という関係は、景行CとE、景行EとGだが、年代を考えれば、景行27年丁酉(ひのととり)と同じ干支の皇紀997丁酉歳が景行Eの即位年、景行12年壬午(みずのえうま)と同じ干支の皇紀1042壬午歳が景行Gの即位年となる。

景行C

 最後に残った景行60年の最初の記事の日付の辛卯を易の卦に置き換えると、辛は(沢)・卯は(雷)だから、合わせて17沢雷随(たくらいずい)となる。
 随は「したがう」という意味だから、随って、この残った景行60年庚午(かのえうま)と同じ干支になる皇紀1042庚午歳が、景行Cの即位年となる。

 これで景行A〜Gまでの即位年が出揃ったわけだが、即位は前帝崩の翌年を例としているので、それぞれの即位前年が前帝の崩年となる。
 したがって、
 景行A女帝の崩年は皇紀949己酉(つちのととり)歳、
 景行B女帝の崩年は皇紀969己巳(つちのとみ)歳、
 景行C女帝の崩年は皇紀986丙戌(ひのえいぬ)歳、
 景行D女帝の崩年は皇紀996丙申(ひのえさる)歳、
 景行E女帝の崩年は皇紀1020庚申(かのえさる)歳、
 景行F女帝の崩年は皇紀1041辛巳(かのとみ)歳、
 景行G女帝の崩年は皇紀1056丙申(ひのえさる)歳、
 ということになる。

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K仁徳女帝崩年

 6−4の最後に示した図34の系図のように、景行Gから皇位を継承するのは仁徳女帝となっている。
 景行Gの崩年は皇紀1056丙申(ひのえさる)歳だから、K仁徳女帝の即位は翌年の皇紀1057丁酉(ひのととり)歳ということになる。
 『古事記』では、17仁徳天皇は丁卯(ひのとう)年8月15日崩とある。
 このうちの8月は、24地雷復(ちらいふく)を11月とする十二消長卦では、20風地観(ふうちかん)となる。
 この卦は17仁徳天皇のA列である。
 15日は、正式表記では一十五日となるので、1と5で易の卦に置き換えると、1は(天)・5は(風)だから、合わせて44天風姤(てんぷうこう)となる。
 したがって「仁徳天皇は44天風姤すなわち女帝である」という意味になる。
 とすると8月15日で、17仁徳天皇のA列と女帝であることを示し、この年の干支の丁卯が真実であることを示していることになる。
 そこで丁卯年だが、暗号が示すK仁徳女帝即位の皇紀1057丁酉歳以降だと、皇紀1087年に当たる。
 おやおや、『日本書紀』には17仁徳天皇は即位から87年目に崩御したとあるが、このK仁徳女帝崩年の皇紀1087年の下二桁と同じではないか。
 なるほど、この87年目に崩御したという記述は、暗号解読者に対して、「それが正しい」と示す道しるべの役割も考えて作られていたのか。
 なんと緻密な暗号作戦ではないか!
 とにかくこれでK仁徳女帝崩年は皇紀1087丁卯歳だとわかった。

J仁賢女帝崩年

 J仁賢女帝については、『古事記』には崩年干支など、その時代を特定させる暗号はない。
 一方、『日本書紀』を見ると、25仁賢天皇は皇紀1148年戊辰(つちのえたつ)を即位元年とし、11年目(皇紀1158年戊寅(つちのえとら))に崩御としている。
 戊辰はK仁徳女帝崩年丁卯の翌年になるが、仁賢女帝はそんなに早く崩御したと示す暗号はない。
 とすると、この『日本書紀』の25仁賢天皇の崩年干支の戊寅が、そのまま暗号が示す歴史のJ仁賢女帝の崩年干支に違いない。
 ただし、皇紀1158年では在位期間が非常識に長くなってしまう。
 したがって、干支一巡の60年ずらした皇紀1098戊寅歳が、仁賢女帝の崩年となる。

I顕宗女帝崩年

 24顕宗天皇については、『古事記』には崩年干支の記載はなく、『日本書紀』の崩年干支(1147乙丑(きのとうし)歳)をそのまま当てはめると、前帝のJ仁賢女帝崩年が1098年だから、在位49年となり、これまでの最長在位のK仁徳女帝の31年(皇紀1057年〜1087年)を20年近く更新することになり、いささか信じがたい。
 とすると、I顕宗女帝の崩年を示すのは、次のH成務女帝の暗号にあるはずである。
 そこで13成務天皇だが、「成務紀」には、
 「12景行天皇の46年=皇紀776年に、24歳で皇太子となった」とあるとともに、
 「即位から60年目=皇紀850年に107歳で崩御した」とある。
 これはおかしい。崩御の皇紀850年に107歳ならば、立太子の皇紀776年には33歳のはず。計算が合わない。またまた数字の矛盾である。
 さらに「景行紀」では、皇太子となったのは12景行天皇の51年=皇紀781年のことだとしていて、これまた合わない。
 どうやら、これが暗号に違いない。

 まず、46年に皇太子となった、とあることから、この46を易の卦に置き換えると、4は(雷)・6は(水)だから、合わせて40雷水解(らいすいかい)となる。解は解消の解である。とすると、皇太子となったということは解消する、ということになる。
 また、崩御時107歳ということから計算すると、景行46年は24歳ではなく33歳のはずだから、これは、24歳は33である、という暗号に違いない。
 3を易に置き換えると(火)だから、33で(火)が二つ重なった30離為火となる。 この卦は皇位継承を意味する。
 とすると、24歳のときに皇太子になったのではなく、皇位を継承した、と示しているのである。
 すなわち、H成務女帝はI顕宗女帝崩年には24歳だった、ということである。
 したがって、I顕宗女帝崩年は、H成務女帝が生まれた年がわかれば、自ずと確定する。
 その成務女帝の生年は、13成務天皇の出生についての記述から割り出せる。

 「成務紀」には、即位から3年目のこととして、「春正月癸酉朔己卯(みずのととりのつきたちつちのとう)に、武内宿禰(たけしうちのすくね)を大臣とした」、とあるとともに、「この武内宿禰と13成務天皇は同じ日に生まれた」、とある。
 また「景行紀」には、12景行天皇即位から3年目のこととして、武内宿禰の出生について次のように書いている。
 天皇は紀伊国の神々の祭祀を行おうとしたが、占いが吉ではなかったので取りやめ、配下の一人に行かせた。彼はその地で神々の祭祀を行うとともに9年間その地に住み、妻を娶って武内宿禰を生んだ。
 これでは武内宿禰が景行3年から9年間すなわち景行12年までのうちのいつ生まれたのか判然としないが、9年と言えば先ほど話した13成務天皇が皇太子となったときの年齢の矛盾と同じ数である。
 とすると9年という範囲を示すことで、皇太子となったときの年齢の矛盾とリンクさせ、この記事の年すなわち景行3年と同じ干支の年がI成務女帝の生年だと示しているのに他ならない。
 なお、景行46年に24歳ならば、生年は景行23年、33歳ならば、生年は景行14年となり、ともに武内宿禰が生まれた年より後になってしまい、13成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれたことにはならなくなる。
 要するに、「景行紀」が、13成務天皇が皇太子になったのを景行51年とし、「成務紀」が景行46年だとするのと矛盾しているのは、ここに暗号があることを強調するためだったのである。

 そこで、景行3年の干支だが、干支は60年で一巡し、12景行天皇の在位は60年なので、成務3年と同じになり、12成務天皇の元年は辛未(かのとひつじ)だから、3年は癸酉(みずのととり)である。
 成務3年の記事は、先ほど示したが、「春正月癸酉朔乙卯に、武内宿禰を大臣にした」である。おやおや、この記事の中にも癸酉という干支があるではないか。
 春正月癸酉朔己卯というのは、春正月すなわち1月のこと。
 癸酉はその月の1日の干支で、1日が癸酉となる月の己卯の日、という意味になり、癸酉から数えると己卯は7番目なので、1月7日、という日付を表している。
 しかしこの日付も、架空のものなのだから、何らかの暗号である可能性が高い。
 己卯を易の卦に置き換えると、己は(地)・卯は(雷)だから、合わせて24地雷復になる。
 この卦は復活あるいは物事が始まることを意味する。
 とすると、癸酉が物事の始まりすなわち生まれた、と示し、成務女帝が癸酉歳生まれだということをここでも念を押していたのである。
 したがって、「I成務女帝は癸酉歳に生まれ、24歳で皇位を継承した」のであって、このことから計算すると、丙申(ひのえさる)歳が皇位継承の年になる。
 J仁賢女帝崩年が皇紀1098戊寅歳だから、ここで言う丙申は、皇紀1116丙申歳となり、これがI顕宗女帝の崩年である。

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H成務女帝崩年

 13成務天皇の崩年は、『古事記』に乙卯(きのとう)年3月15日崩とある。
 まず3月ということを、次のように考える。
 『古事記』に崩年干支の記載があるのは、K仁徳女帝の次はこのH成務女帝である。
 途中のJ顕宗女帝とI仁賢女帝には、崩年干支の記載はなかったので、この二人は『日本書紀』の記述から崩年を割り出した。
 このように、K仁徳女帝の次から数えて3人目に、崩年干支が記載されているのであって、その3人目ということと3月は、3という数で一致する。
 一方、15日というのは、17仁徳天皇の『記』崩年干支の丁卯年8月15日と同様に、44天風姤すなわち女帝という意味になる。
 したがって、K仁徳女帝の次から数えて3人目の女帝の崩年干支だと示していたのであって、I顕宗女帝崩年が皇紀1116丙申歳だから、計算するとH成務女帝崩年は皇紀1135乙卯歳ということになる。

G履中女帝崩年

 18履中天皇の崩年は『古事記』に壬申(みずのえさる)年正月3日崩とある。
 なぜ、正月3日としてあるのか。
 これが暗号なら、3日を壬申としたときの正月1日の干支こそが、正しい崩年干支だ、と考えるのが普通である。
 壬申が3日なら辛未が2日で、庚午(かのえうま)が1日である。
 前帝のH成務女帝崩年の皇紀1135乙卯歳以降から探すと、皇紀1150年が庚午になる。したがって、履中女帝の崩年は、この皇紀1150庚午歳となる。

 F反正女帝崩年

 19反正天皇の崩年は、『古事記』に丁丑(ひのとうし)年7月崩とある。これは10崇神天皇の戊寅年12月崩と同様に、月までしか書いていない。
 O崇神女帝の崩年は、戊寅を12月(12番目)としたときの正月(1番目)の干支である辛卯だった。
 とすると、O崇神女帝のときのように、丁丑を7月(7番目)としたときの正月(1番目)の干支がF反正女帝の崩年のはずである。
 丁卯が7番目なら、辛未(かのとひつじ)が1番目となる。
 辛未はG履中女帝崩年の庚午の次である。
 したがってF反正女帝の崩年は、G履中女帝崩の翌年の皇紀1151辛未歳となる。
 皇位継承してたった一年で崩御とは、何やらきな臭いではないか。
 これまでの暗号解読の結果では、G履中女帝から神武男帝が逃げ、そこから男帝系の皇統が、始まっている。
 それと何か関係がありそうな気がするが・・・。

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A サバを読むにも程がある・・・

 しかし、表向きの1神武天皇が即位したのは皇紀元年(西暦紀元前660年)であり、この暗号が示す神武男帝が生きた時代は、皇紀1150年(西暦490年)前後である。
その差1150年、ずいぶんとサバを読んだものである。
 皇紀1150年は、『古事記』序文にある撰進の日付の和銅5年=皇紀1372年から、たった220年程前に過ぎない。
 現代を基準にすると、約150年前の明治維新よりは古いが、江戸後期の本居宣長が『古事記伝』や『古訓古事記』を書いた天明の頃よりは新しい時代の話である。それを、はるか平安時代の話にしてしまった、ということになる。
 が、それはさておき、とにかく当面の課題、@推古女帝までの崩年を割り出すことに専念しよう。

E懿徳女帝崩年

 4懿徳天皇には『古事記』の崩年干支はない。そこで『日本書紀』の記述から崩年を探り出す。
 「懿徳紀」を見ると、元年条に、「9月丙子朔乙丑(ひのえねのつきたちきのとうし)に、前帝の皇后を尊び、皇太后とした」とある。この記事の内容はどうでもよいのだが、干支がおかしい。
 9月丙子朔乙丑というのは、9月1日が丙子となる乙丑の日、という意味なのだが、9月1日が丙子ならば、乙丑は9月50日になってしまうのである。
 しかし、当時の暦(いわゆる旧暦)では、ひと月は29日または30日であって、9月50日などという日付は有り得ない。
 矛盾である。矛盾で乙丑という干支を強調しているのである。
 そこで、乙丑という干支にこだわって付近を探ると、前帝の「3安寧紀」に、「綏靖天皇の33年、綏靖天皇が崩御し、その年の7月癸亥朔乙丑(みずのといのつきたちきのとうし)に、安寧天皇が即位した」とあった。
 表向きには、3安寧天皇の次が4懿徳天皇だが、暗号では、E懿徳女帝の次がD安寧女帝である。
 したがって、この記事は、この年にE懿徳女帝が崩御し、D安寧女帝が即位した、と告げているのであって、綏靖33年の干支は、計算すると壬子(みずのえね)だから、反正女帝崩の皇紀1151年以降の壬子の年すなわち皇紀1192壬子歳が懿徳女帝の崩年となる。

D安寧女帝崩年

 4懿徳天皇と同様に、3安寧天皇にも、『古事記』は崩年干支の記載がないので、『日本書紀』から探し出す。
 「安寧紀」では、2綏靖天皇の25年(皇紀104年)に21歳で皇太子となった、とあるとともに、3安寧天皇の38年(皇紀150年)に崩御し、崩御時の年齢は57歳だった、とある。
 しかし、皇紀104年に21歳ならば、皇紀150年には57歳ではなく、67歳になっていなければおかしい。
 またまた矛盾である。
 そこで、示されている57歳という数字の意味を考える。
 57を易の卦に置き換えると、5は(風)・7は(山)だから、合わせて53風山漸(ふうざんぜん)になる。
 漸とは「一歩ずつ進む」という意味である。
 とすると、D安寧女帝はこの年に崩御したのではなく、表向きの次の時代まで進んで生きたと示していることになる。
 要するに、次の4懿徳天皇の崩年と、干支が共通する年が、D安寧女帝崩年なのである。
 4懿徳天皇の崩年は懿徳34年で、計算するとこの年の干支は甲子(きのえね)になる。
 E懿徳女帝崩年の皇紀1192年以降から甲子を探すと皇紀1204年である。
 したがって、この皇紀1204甲子歳が、D安寧女帝の崩年となる。

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C安閑女帝崩年

 28安閑天皇は、『古事記』に乙卯(きのとう)年3月13日崩とあるので、これがC安閑女帝の崩年を教える暗号に違いない。
 しかし、前帝のD安寧女帝崩年が甲子とすると、乙卯はその51年後ということになり、在位期間が長すぎる。
 とすると、3月13日という日付が正しい干支を教える計算式なのであって、正月1日に相当する干支が正しい崩年に違いない。
 そこで、まず日付の13日だが、十二支は1日が卯なら、卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯と繰るので、13日目は1日と同じ卯となる。したがって、この13日というのは、十二支一巡を示していると考えるのが一番素直である。
 3月13日が乙卯なら3月1日は癸卯(みずのとう)になる。
 3月1日が癸卯だとして、それではなぜ3月なのか。
 3月なのだから、正月から三段階進んでいることになるが、何を持って一段階とするのか。
 これまでの暗号の様子から判断すれば、今回は十二支一巡を一段階だとしているのに違いない。それ以外には有り得ない。
 この方法だと、3月1日が癸卯なら、2月1日は辛卯(かのとう)、正月1日は己卯(つちのとう)になる。
 したがって、C安閑女帝の崩年は、D安寧女帝崩年の1204年甲子以降の己卯すなわち皇紀1219己卯歳となる。

B継体女帝崩年と用明皇女薨年

 27継体天皇は『古事記』に丁未(ひのとひつじ)年4月9日崩とある。
 用明皇女の表向きの姿の32用明天皇は、『古事記』に丁未年4月15日崩とあり、『日本書紀』には、用明2年丁未の夏4月乙巳朔癸丑(きのとみのつきたちみずのとうし)(9日)崩と記されている。
 「継体記」と「用明紀」に従えば、27継体天皇と32用明天皇は同じ日に死んだことになる。
 しかし、4月9日ということを易の卦に置き換えると、4は(雷)・9は(天)だから、合わせて34雷天大壮(らいてんたいそう)となる。
 この卦は勢いがとても盛んで、とても死亡日に相応しいとは言えない。
 無論、事実ならば、相応しくないか否かは関係ないわけだが、これは事実を書いたものではなく、暗号である。
 とすると、この日付は、この二人すなわちB継体女帝と用明皇女が、丁未の年にはまだ元気で、それ以降の何れかの年の同じ日に死んだ、と示していることになる。

 そこで、『日本書紀』の継体天皇のところを開くと、継体25年春2月丁未に崩御とし、その理由として、「『百済本記』によれば、辛亥(かのとい)年に日本の天皇および太子皇子が(とも)崩薨(かむさ)り、辛亥は継体25年に当たる」と記している。
 ただし、この記事の中にある天皇および太子皇子が倶に崩薨ったとすることは、『日本書紀』には対応する事件がなく、誰を指すのか研究者を悩ませている。
 また、『百済本記』という書物が、実際に存在したのか否かも不明である。
 一方、『記』にある丁未年は継体21年に当たり、21を易の卦に置き換えると、2は(沢)・1は(天)だから、合わせて43沢天夬(たくてんかい)となる。
 この卦は決去決壊ということから、暴動騒乱などの意味を持つ。
 とすると、この『百済本記』からの引用としている部分こそ暗号なのであって、これは辛亥年に暴動騒乱があって、継体女帝(天皇)と用明皇女(皇子)は、巻き込まれて死んだと示していることになる。なお、もうひとり太子も死んだとあるが、これは(5)崇峻男帝のことであって、その説明はもう少し後にする。
 とにかく、前帝崩の皇紀1219年以降から辛亥年を探すと、皇紀1251年になる。
 したがって、継体女帝と用明皇女の崩年は皇紀1251辛亥歳となる。

 なお、『用明記』丁未年4月15日崩の15日という日付の数字は、『古事記』の17仁徳天皇崩年干支の丁卯年8月15日や13成務天皇の乙卯年3月15日と同様に、44天風姤(てんぷうこう)すなわち女帝という意味である。
 4月の部分は、十二消長の4月の卦すなわち1乾為天(けんいてん)を暗示している。
 1乾為天の最下が、陽から陰に変化したのが、44天風姤である。
 このように、1乾為天と44天風姤を示すからには、1乾為天の最下の位置の意義を示す易経の文章を暗示しているとしか考えられない。
 その文章とは、「潜竜(せんりょう)なり、(もち)うる(なか)れ」というものであって、潜竜とは、即位前の王様のことである。
 要するに、このように示すことで、用明皇女が即位前に薨去したと告げていたのである。

乱数表はコチラ

A欽明女帝崩年

 30欽明天皇の崩年干支は『古事記』にはない。
 一方、『日本書紀』には不思議な記述がある。
 30欽明天皇は即位のとき、「年は若干だった」とあり、欽明32年の崩御のときにも、「年は若干だった」とある。
 若干とは、それほど多くない数を意味する言葉である。
 即位の時は若干だったとしても、その32年後の崩御時にも、年は若干だった、というのは不自然である。
 したがってこれが暗号であり、崩御の欽明32年を即位の時と想定し、その32年後がA欽明女帝の崩年だと示しているに違いない。
 欽明天皇元年(即位の翌年)は庚申(かのえさる)だから崩御の欽明32年は辛卯(かのとう)になり、その32年後は癸亥(みずのとい)になる。
 前帝崩の皇紀1251年以降の癸亥は皇紀1263年である。
 すなわち皇紀1263癸亥歳がA欽明女帝の崩年となる。

@推古女帝の崩年

 34推古天皇は、『古事記』に戊子(つちのえね)年3月15日癸丑(みずのとうし)崩とある。
 一方、『日本書紀』では、推古36年3月丁未朔癸丑(ひのとひつじのつきたちみずのとうし)(7日)とある。
 推古36年は戊子だから、干支と月までは、両者は一致している。
 異なるのは日付が、干支は同じだが、『日本書紀』は7日、『古事記』は15日としていることである。
 とすると、この誤差が暗号である。
 15から7を引くと8である。
 これが暗号ならば、無論8日ということではなく、8年後が推古女帝の崩年に違いない。
 しかし、これだけではいささか心もとない。補足する暗号はないものだろうか。
 『日本書紀』の推古36年、推古天皇崩御周辺の記事を見ると、3月丁未朔戊申(ひのとひつじのつきたちつちのえさる)に日蝕があった、とあり、壬子(みずのえね)に崩御したとある。
 持統天皇暗殺関連の暗号では、日蝕は天皇の崩御とリンクしていた。
 暗号が示す歴史では、34推古天皇と35舒明天皇は同一人物となっている。
 とすると、この推古36年の日蝕も暗号で、本当の崩年に、さりげなく日蝕記事を入れてある可能性が高い。
 そこで日蝕記事を調べてみると、舒明8年春正月壬辰朔(みずのえたつのつきたち)と、翌舒明9年3月乙酉朔丙戌(きのととりのつきたちひのえいぬ)に、日蝕があったと記されていた。
 前者の舒明8年の日蝕は、推古崩から丁度8年後である。
 とすると、この日蝕記事も、推古女帝の崩年を示す暗号だったのである。
 おそらく翌舒明9年の日蝕記事はダミーなのだろう。
 なお日蝕記事は、『日本書紀』の中でも、持統天皇関連のところと、ここにしか出て来ず、ともに暗号だったことを付け加えておく。
 ともあれ、以上のことから、@推古女帝の崩年は表向きの舒明8年すなわち皇紀1296丙申(ひのえさる)歳となる。
 @推古女帝の次には皇極女帝が残るが、それはここまでの男帝の歴史を辿った後に話す。
 ここで、O崇神女帝から@推古女帝までの各崩年をまとめておく。

O崇神女帝・・・・・皇紀 907年丁卯 西暦247年
N垂仁男帝・・・・・皇紀 911年辛未 西暦251年
M応神女帝・・・・・皇紀 934年甲午 西暦274年
L景行A女帝・・・・皇紀 949年己酉 西暦289年
 景行B女帝・・・・皇紀 969年己巳 西暦309年
 景行C女帝・・・・皇紀 986年丙戌 西暦326年
 景行D女帝・・・・皇紀 996年丙申 西暦336年
 景行E女帝・・・・皇紀1020年庚申 西暦360年
 景行F女帝・・・・皇紀1041年辛巳 西暦381年
 景行G女帝・・・・皇紀1056年丙申 西暦396年
K仁徳女帝・・・・・皇紀1087年丁卯 西暦427年
J仁賢女帝・・・・・皇紀1098年戊寅 西暦438年
I顕宗女帝・・・・・皇紀1116年丙申 西暦456年
H成務女帝・・・・・皇紀1135年乙卯 西暦475年
G履中女帝・・・・・皇紀1150年庚午 西暦490年
F反正女帝・・・・・皇紀1151年辛未 西暦491年
E懿徳女帝・・・・・皇紀1192年壬子 西暦532年
D安寧女帝・・・・・皇紀1204年甲子 西暦544年
C安閑女帝・・・・・皇紀1219年己卯 西暦559年
B継体女帝・・・・・皇紀1251年辛亥 西暦591年
 用明皇女・・・・・皇紀1251年辛亥 西暦591年
A欽明女帝・・・・・皇紀1263年癸亥 西暦603年
@推古(舒明)女帝・皇紀1296年丙申 西暦636年

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8−2 雄略男帝〜聖徳太子までの歴史
8−3 大化の改新=父権制社会としての出発

古事記と易学

発見!想像を絶する真実の古代日本

もくじ

☆ プロローグ

☆ 謎めく数字137と皇統譜の円周
1−1 暗号発見までの経緯

1−2 古代天皇と易六十四卦の序次 @

2−1 古代天皇と易六十四卦の序次 A

2−2 謎めく数字137

3−1 神世と易六十四卦の序次

3−2 円を描く皇統譜とその不合

☆ 『古事記』序文に隠されたメッセージ
4    歴史を腐敗させた女帝とは?

☆ 暗号解読[1]
持統天皇暗殺!
5−1 神武天皇と辛酉革命

5−2 持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代

☆ 暗号解読[2]
41ピースのジグソーパズル

6−1 架空の天皇

6−2 隠された女帝達と『古事記』序文の態度

6−3 男帝と女帝の二王朝が並立する皇統譜

6−4 暗号が示す皇統譜の親子関係

☆ 暗号解読[3]
母権制社会の忌わしい歴史
7−1 女帝たちの忌わしい宗教

7−2 母権制社会脱却の失敗

7−3 応神女帝〜推古女帝までの、各女帝の年代

☆ 暗号解読[4]
母権制社会から父権制社会へ
8−1 神武男帝のクーデター・イザ!オウ!

8−2 雄略男帝〜聖徳太子までの歴史

8−3 大化の改新=父権制社会としての出発

☆ 隠された古代史の全容
9−1 暗号が示す歴史の全容

9−2 卑弥呼は崇神女帝のことだった!

9−3 解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」

 

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1−2 古代天皇と易六十四卦の序次 @

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3−1 神世と易六十四卦の序次

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4    歴史を腐敗させた女帝とは?

☆ 暗号解読[1]
持統天皇暗殺!
5−1 神武天皇と辛酉革命

5−2 持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代

☆ 暗号解読[2]
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6−4 暗号が示す皇統譜の親子関係

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母権制社会の忌わしい歴史
7−1 女帝たちの忌わしい宗教

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最終更新日:平成29年09月09日 学易有丘会
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