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6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代

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@持統天皇とその周辺の表向きの歴史
 A安康天皇が教える持統天皇暗殺事件 B草壁皇子の出生の秘密 C暗号のための日付と正しい日付 D天武天皇と持統天皇そして稗田阿礼 E持統天皇の墓所と太安萬侶 F持統天皇とその周辺の暗号が示す歴史

@持統天皇とその周辺の表向きの歴史

 暗号解読を行うに当たっては、無用の混乱を避けるためにも、今一度表向きの記述を確認しておきたい。そこでまずはこれから話すことの前提として、暗号所在箇所を中心に持統天皇とその周辺の表向きの歴史を簡単にまとめておく。なお念のために付け加えておくが、タイトルに掲げた「不倫が不倫でない時代」というのは、我々が常識的に理解している一夫多妻制のようなシステムを指しているわけではない。

○ 皇紀1317年(西暦657年)丁巳(ひのとみ)歳・斉明(さいめい)3年
 持統(じとう)天皇(天智天皇の娘、幼名=鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ))が、天武(てんむ)天皇(天智(てんち)天皇の弟、幼名=大海人皇子(おほしあまのみこ))の妃となる。

○ 皇紀1322年(西暦662年)壬戌(みずのえいぬ)歳・天智元年
 天武天皇と持統天皇の間に草壁(くさかべ)皇子が生まれる。

○ 皇紀1332年(西暦672年)壬申(みずのえさる)歳・天武元年
 天武天皇が大友(おほとも)皇子(天智天皇の子)を征討し(いわゆる「壬申(じんしん)の乱」)、即位する。

○ 皇紀1337年(西暦677年)丁丑(ひのとうし)歳・天武6年11月
 赤烏(あかがらす)が献上される。‥‥‥「赤い鳥」に関する記事は天武紀の特徴の一つで、この他9年7月条に「朱雀(あかすずみ)、南門に有り」、10年7月条にも「朱雀見ゆ」とあり、さらには15年を改めて、朱鳥(あかみとり)元年としているのだが、これはその赤い鳥記事の最初。

○ 皇紀1341年(西暦681年)辛巳(かのとみ)歳・天武10年2月庚子朔甲子(かのえねつきたちきのえね)(二十五日)
 草壁皇子が皇太子となる。また、同年3月には、歴史書編纂に着手する。

○ 皇紀1346年(西暦686年)丙戌(ひのえいぬ)歳・朱鳥元年9月戊戌朔丙午(つちのえいぬのつきたちひのえうま)(九日)
 この年の5月より病床にあった天武天皇が、この日に崩御する(『古事記』序文の暗号によれば、毒を盛られたということだが‥‥)。
 天武天皇が崩御すると、天武天皇と太田(おほた)皇女(持統天皇の姉)との間に生まれた大津(おほつ)皇子が、皇太子草壁皇子に謀反する。しかし翌10月には事が発覚し、クーデターは未遂に終わり、大津皇子は処刑される(ただし、何故謀反したのかについての記載はない)。
 なお、この年の出来事としては、歴史の本筋とはおよそ無関係のような、動物の奇怪な行動を書いた次のような記事がある。
 「是歳(このとし)(おろち)(いぬ)相交(つる)めり。(しばらく)ありて(とも)()ぬ。」

○ 皇紀1349年(西暦689年)己丑(つちのとうし)歳・持統3年4月癸未朔乙未(みずのとひつじのつきたちきのとひつじ)(13日)
 皇太子草壁皇子薨去(こうきょ)。本来であれば天武天皇崩御の後を継いで即位して然るべきところだが、結局は皇太子のまま終わっている(死因と即位がなかった理由についての記載はない)。
 また、同月甲辰(22日)には春日(かすが)王なる人物も薨去したとあるのだが、この人物はこの薨去記事にしか登場しないので、家柄その他一切不明なのが気になるところである。
 なお、この年の正月より11年4月までの間に、持統天皇は計31回も吉野(よしの)宮に行幸したとある。吉野は「壬申の乱」の前に天武天皇が出家修養のために訪れた地ではあるのだが、何故このように頻繁に行幸したのかについては触れていない。

○ 同年12月己酉朔丙辰(つちのととりのつきたちひのえたつ)(8日)
 これも前後の歴史と無関係で、唐突な記事なのだが、「双六(すごろく)を禁止した」とある。

○ 皇紀1350年(西暦690年)庚寅(かのえとら)歳・持統4年正月戊寅朔(つちのえとらのつきたち)(1日)
 持統天皇が正式に即位。天武天皇崩御の翌年から持統天皇の年とされていることや、草壁皇子の即位がなかったことを考えると、天武天皇崩御のときから、実質的には持統天皇の治世だったかのような印象を受けるが、正式な即位が遅れた理由の記載はない。

○ 同年7月丙子朔庚辰(ひのえねのつきたちかのえたつ)(5日)
 高市(たけち)皇子(天武天皇の庶子)が太政大臣(皇太子格)となる。

○ 皇紀1353年(西暦693年)癸巳(みずのとみ)歳・持統7年9月丁亥朔丙申(ひのといのつきたちひのえさる)(10日)
 天武天皇のために法要を営む。ただし命日(9日)ではないのが不審。なお、一周忌の持統元年を除くと、命日にちなむ行事が記載されているのは、後にも先にもこれだけである。

○ 皇紀1354年(西暦694年)甲午(きのえうま)歳・持統8年4月甲寅朔丁亥(きのえとらのつきたちひのとい)(34日?)
 持統天皇は、この月の庚申(かのえさる)(7日)に吉野宮へ行き、この日に帰って来たとあるのだが、甲寅を朔とすると丁亥は34日となるので、矛盾している(旧暦の一カ月は29日または30日だから、34日という日付はあり得ない)。

○ 皇紀1356年(西暦696年)丙申(ひのえさる)歳・持統10年7月辛丑朔(かのとうしのつきたち)(1日)
 この日に日蝕(にっしょく)があったと記す。なお日蝕の記事は、この他に持統5年10月、7年3月と9月、8年3月と9月、天武10年10月、舒明8年正月と9年3月、推古36年3月にもある。

○ 同月庚戌(10日)
 高市皇子薨去。死因の記載はない。

○ 同年8月庚午朔甲午(25日)
 多臣品治(おほのおみほむぢ)が、堅く関を守り元より従った功により、褒美を賜る。
 表向きの歴史から推測すれば、彼の「壬申の乱」の功績を称えたもののようなのだが、だとするとなぜ、今になって24年も前のことを持ち出したのか、いささか釈然としない。

○ 皇紀1357年(西暦697年)丁酉(ひのととり)歳・持統11年5月丙申朔癸卯(ひのえさるのつきたちみずのとう)(8日)
 この日に雨乞いをしたとある。しかし同じことが翌6月丙寅朔癸卯(ひのえとらのつきたちみずのとう)にも行われたかのように記されているのである。
 これはおかしい。5月8日が癸卯なら6月に癸卯は存在しない。干支は六十日で一巡だから、次の癸卯は六十日後である上に、6月丙寅朔とあることから計算すれば6月38日となってしまう。矛盾である。

○ 同年8月乙丑朔(1日)
 天皇は、策を禁中に定めて、皇太子に譲位する。
 この皇太子というのが誰なのか、本文には書かれていない。本来の皇太子であった草壁皇子はすでに薨去している。
 『続日本紀』によれば、この皇太子は草壁皇子の子、文武天皇のことである。

 以上が持統天皇とその周辺の表向きの歴史だが、このうち持統8年4月条や11年6月条のような干支の矛盾は、「持統紀」以外にも散見するが、やはりこれらも暗号だったのである。
 が、それはともかく、そろそろ暗号解読に移ることにしよう。

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A安康天皇が教える持統天皇暗殺事件

 まずは表向きの記述のどこに暗号が仕込まれているのか。それを見つけることから始めよう。
 『記』年齢がA列・B列と対応しなかった五人のうち、1神武、12景行、14仲哀の三人のものについては、皇紀元年が辛酉革命に基づき机上で算出された架空の年代であることを示す暗号だった。
 残るは17仁徳(にんとく)天皇の83歳と21安康(あんこう)天皇の56歳である。
 これまでの経過からすれば、この二人の年齢こそ、暗号解読の糸口と言えよう。
 そこで、いろいろな角度から探って行ったのだが、するとまず、21安康天皇の56歳の意味が判読出来た。
 21安康天皇についての『古事記』の記述は、抄訳すれば概ね次のようなところである。

 安康天皇は謀略に乗せられ、叔父に当たる大日下(おほくさか)王を殺害し、その妻を娶って皇后とする。皇后にはすでに、大日下王との間に目弱(まよわ)王という王子がいたのだが、この目弱王には、自分が父を殺害したことは伏せていた。
 ところがある日、全くの偶然から当時7歳の目弱王はそのことを知ってしまい、居ても立ってもいられなくなる。
 目弱王は安康天皇が寝込んだ隙を窺い、その首を打ち斬って殺害する。
 殺害するとその足で逃げ、都夫良意富美(つぶらおほみ)という人物の家に隠れる。
 しかしすぐ追手に見つかり、目弱王は観念して、その都夫良意富美と共に自害する。

 このように21安康天皇は父の仇として殺害されたとあるのだが、注目したいのは『古事記』が殺害されたことを明記しているのは、この21安康天皇だけだ、ということである。
 歴史の教科書にも載っている33崇峻(すしゅん)天皇暗殺事件(首謀者は蘇我馬子)は、『日本書紀』だけに記述されているのであって、『古事記』では崇峻天皇に関して、単に在位4年で崩御と記すのみで、暗殺については全く触れていない。

 ん〜クサイ、まさしくこれが暗号だと言いたげではないか。
 とすれば、21安康天皇の崩年齢の56歳を考えることで、何かわかりそうである。

 14仲哀天皇の52歳は、34推古天皇即位年下二桁(皇紀1252年)を示すものだったのだから、この21安康天皇の56歳も、皇紀の下二桁の可能性が高い。
 としても、下二桁が56となる年に即位した天皇はいない。とすると、『記』『紀』編者にとってはより身近な下二桁が56となる年に、何らかの事情で隠蔽された天皇暗殺事件があり、それを教えようとしているのではないだろうか。
 21安康天皇以降で下二桁が56となる年は、『日本書紀』の終わりまでに計三回ある。
 1156年、1256年、1356年である。
 このうち1156年と1256年の記事からは、いくら探してもそれらしい暗号は見当たらなかった。
 しかし、1356年には天皇暗殺を連想させる記事があった。
 1356年(西暦696年は持統10年に当たり、その記事は、
 「秋七月辛丑朔(かのとうしのつきたち)(1日)。日蝕(ひは)えたること有り。」
 というものである。
 普通に物語りとして読むときは見逃してしまいそうな、日蝕があったことを示すだけの簡単な記事である。
 最初はこれも空振りかなとも思ったのだが、しばらくこの記事を眺めていて、ハタと気付いたことがあった。

 皇祖(こうそ)天照大御神(あまてらすおほみかみ)が「日の神」とされ、あるいは皇位継承を日嗣や日継と言うように、太陽は天皇を象徴するものと考えられる。とすると、日蝕は天皇が蝕される(欠ける)ことすなわち崩御と結び付く。そして、この時代は持統天皇だから、ここで言うのは「持統天皇暗殺」ということになるではないか。

 驚いた!衝撃が走った!
 この考え方でよいのだろうか?たまたま偶然、ここに日蝕記事があるだけではないだろうか?
 冷静になって考えてみよう。
 仮にこれが本当に暗号ならば、さらに関連事項を示す暗号もあるはずだ。これ以上に解読を進展させられなければ、これは単なる偶然の一致だろう。とすると、関連事項の暗号を探してみるのが先決である。その関連事項で一番重要なのは、実行者が誰か、ということであるが、その答えはすぐに見つかった。
 この日蝕記事と同じ月の少し先に、
 「庚戌(かのえいぬ)(9日)に、後皇子尊薨せましぬ。」
 という記事がある。
 これは目弱王が安康天皇殺害後、一旦は逃げるがすぐに追い詰められて自害したことを連想させる。
 この後皇子尊とは高市皇子のことであるとともに、高市皇子と目弱王には次のような共通点がある。

 高市皇子が太政大臣(皇太子格)となったのは持統4年7月だから、その年から数えれば、この日食記事の持統10年7月は丁度7年目となり、目弱王が当時7歳(数え年)だったことと、7という数で一致する。

 二人の名前を易の卦に置き換えると、目弱の目は()(火)、弱は陰(強が陽)だからその極みの(こん)(地)となるので、目弱と合わせて35火地晋(かちしん)となる。
 一方の高市は、高は(そん)(風)、市は人々が萃まるところだから45沢地萃(たくちすい)となるので、この高市の(風)と45沢地萃を順に並べる。
 すると図20のように、上の(風)(沢)の部分は二本で一本と見なすことができ、必然的に離(火)に集約されるので、なんと、こちらも同じ35火地晋を示していることになるではないか。

 このような一致は、高市という名前が35火地晋に置き換わることに着目して、目弱という名前を創作したのでなければ難しく、だからこそ同じ卦を示すのだと言える。

 すなわち持統天皇暗殺の実行者は高市皇子であって、目弱王は父の仇として安康天皇を殺害したのだから持統天皇暗殺の動機も父の仇ということになる。
 『古事記』序文の裏メッセージの中の「天武天皇は毒殺された」と合わせれば、
 「天武天皇は持統天皇によって毒殺され、その仇として持統天皇は天武天皇の子のひとりの高市皇子に殺された」
 と、暗号は示していることになる。

 どうやら暗号が示す歴史は、表向きとは大分異なるようである。そこでさらに詳しく探って行ったのだが、すると今度は、表向き天武天皇と持統天皇の間に生まれたことになっている草壁皇子の出生の秘密が浮上したのである。

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B草壁皇子の出生の秘密

 41持統天皇のA列44天風姤(てんぷうこう)は神功皇后のB列でもあるわけだが、『記』『紀』編者は何故このような関係を作ったのだろうか。
 これまでの解読の経緯からすれば、神功皇后は持統天皇の真実の姿を教えるための暗号だと考えるのが自然である。そして持統天皇は天武天皇の皇后、神功皇后は仲哀天皇の皇后である。とすると、この四人を探ることで何か出て来そうである。

 A列・B列との対応関係確認作業では、『古事記』が一部の天皇に記している崩年干支については全く触れなかった。崩年干支は対応しないからである。しかし暗号文書である以上これも暗号と考えられ、この四人の中では仲哀天皇にだけその記載がある。
 「壬戌(みずのえいぬ)年六月十一日崩」
 神功皇后が持統天皇に関する真実を教えるための暗号ならば、この日付も持統・天武が生きた時代のものに違いない。当てはめてみると、皇紀1322年(西暦662年)すなわち天智元年となる。
 この年の持統天皇関連の記事と言えば、「持統紀」冒頭にある草壁皇子を九州の大津宮(現・福岡県博多付近)で生んだことであり、神功皇后が応神天皇を生んだのも同じ筑紫すなわち福岡県である。
 一方、6月11日ということから天智元年6月条を見ると、11日の記事はないが、
 「六月己未朔丙戌(つちのとひつじのつきたちひのえいぬ)(28日)、百済遣達率萬智等進調献物」(百済(くだら)達率(だちそち)萬智(まち)等が、贈り物を持って来た=達率は百済の官位の名称、萬智は人名)とある。
 これで仲哀天皇の『記』崩年干支月日「壬戌年六月十一日」のうちの「壬戌年六月」までは使ったことになるので、残る「十一日」の意味をこの記事の中に探る。己未朔丙戌は28日となるので、「十一日」が示すのは日付ではなく、別の事柄の筈である。

 考えられるのは、「六月」の次から数えて11番目の文字に何か隠されているのではないか、ということである。数えてみると、「六月己未朔丙戌(@ABCD)百済遣達率萬(EFGHIJ)智等進調献物」だから、「達率萬智」の「萬」が11番目であり、続く「智」の字の下の部分には「日」が付いていて、「十一日」の「日」と共通する。
 これはドンピシャリだ!
 とすると、暗号はこの「萬智」の二文字以外にはあり得ない。この二文字を易の卦に置き換えて考えよう。

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 萬は、十と同様に小なるものの集合を表す文字だから(地)となる。
 智は矢と口と日に分解すれば、矢はその形状〔→〕から一本の陽、口は()(沢)で少陰だから一本の陰、日は(火)でこれも少陰だから一本の陰となるので、書き順にしたがって縦に並べると(ごん)(山)になる。
 したがって萬智と合わせれば図21のように15地山謙(ちざんけん)の表現となる。

 この卦は(山)の山が自らの高さを誇らず(地)の平地の下に(へりくだ)っている形で、だから「へりくだる」という意味で「謙」と名付けられたのだが、同時に(地)を腹とし、腹の下の方が(山)で山のように盛り上がった状態を表現すると共に、2坤為地(こんいち)の母の下腹部に一陽の生気すなわち胎児が芽生えた(下から三番目が陰から陽に変化した)形でもあるので、妊娠をも暗示する。
 百済からの贈り物、妊娠、草壁皇子の出生。
 これらを繋げると、
「草壁皇子は持統天皇と百済からの使者との間に出来た子供であり、父親は天武天皇ではない。」
 と示しているのに外ならず、さらに神功皇后の妊娠期間が通常よりやや長いことや(304日以上=通常は約290日)、生まれた16応神(おうじん)天皇を連れて(やまと)に帰るのに大変な苦労があったとする物語(この皇位継承を認めない勢力との武力衝突)、『古事記』序文の裏メッセージにある持統天皇の汚職等を考え合わせれば、
 「持統天皇は百済からの使者との間に出来た草壁皇子を天武天皇の子だと言い張り、疑念を抱く人々の反対は賄賂などで封じ込め、ついには無理矢理皇太子としてしまった」
 ということになる。

 何やら時代劇の題材にもなりそうな話だが、ともあれこれにより天武天皇崩御の時に起きた大津皇子の謀反も、その理由が自ずと判明するではないか。
 暗号解読には名前が重要であり、大津という名は草壁皇子出生地の大津宮と共通するのだから、これは大津皇子の謀反理由が草壁皇子の出生の秘密にあったことを告げる暗号であるに違いない。すなわち、
 「大津皇子は草壁皇子が天武天皇の子ではない確証を握っていたので、草壁即位を実力阻止しょうとしたのだが、多勢に無勢、逆に謀反者の汚名を着せられ処刑された。しかしこれにより、草壁出生疑惑が流布され、即位は断念せざるを得なくなった」
 ということである。

 さて、その草壁皇子だが、表向きの歴史では持統3年4月癸未朔乙未(13日)に薨去と記載されているわけだが、死因については何ひとつ触れられていない。とするとその辺も探ってみたい。

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 持統天皇暗殺事件は「安康記」に示されていたのだから、草壁皇子薨去に何か秘密があるのなら、やはりその「安康記」付近に暗号は隠されていよう。
 調べてみると、そこには市辺之忍歯(いちべのおしは)王という名前があった。これまでの暗号解読を踏まえてこの名前を眺めると、「高皇子周の話を水別(19反正(はんぜい)天皇)の話の中にばせた」という意味に受け取れるではないか。
 一方、草壁皇子薨去が持統3年4月ということから、その3と4という数字を易の卦に置き換えると、3は(火)・4は(しん)(雷)だから、18履中(りちゅう)天皇のA列21火雷噬嗑(からいぜいこう)となり、その「履中記」には、水歯別=即位前の19反正天皇に関しての、次のような話があった。

 ある日のこと水歯別は、兄の履中天皇から、墨江中王(すみのえのなかつおう)を殺すことを命じられた。
 水歯別は墨江中王の側近の曾婆訶理(そばかり)という人物に「御前の主人の墨江中王を殺してくれたら、自分が天皇となった暁には、御前を大臣にしよう」と言って唆した。
 曾婆訶理は喜んでその話に乗った。
 しかし墨江中王を殺して意気揚々と曾婆訶理が帰って来ると、簡単に自分の主人を裏切るような奴は信用出来ないとして、その曾婆訶理を殺してしまう。

 これが暗号ならば、墨江中王は草壁皇子、水歯別は高市皇子のことであって、「草壁皇子は高市皇子により暗殺された」と示していることになる。そして実行者すなわち曾婆訶理に当たるのは、草壁皇子薨去の9日後の甲辰(22日)に薨ったとある春日王なる人物に他ならないはずである。
 春日王はこの記事にしか登場しない人物である上に、曾婆訶理が主人を裏切り寝返ったことにちなみ春日の上下を逆に寝返らせた上で易の卦に置き換えると、春は(雷)、日は(火)だから、持統3年4月と同様に21火雷噬嗑すなわち18履中天皇のA列を示していることになり、曾婆訶理が登場する「履中記」と繋がっているのである。

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C暗号のための日付と正しい日付

 持統天皇暗殺を教えたのは7月1日の日蝕記事だったが、だからと言ってこの事件が起きたのは7月1日だとは言い切れない。
 太陰暦は月が約29日半で地球を一周するところから一ヶ月を29日または30日とし、太陽と地球の間に月が位置する日を朔(1日)とするもので、日蝕はこの朔(1日)前後にしか起こり得ない現象だからである。
 したがって、日蝕を暗号に用いるのであれば、それは月を示すのが限界であって、この場合は持統10年7月というところまでであり、具体的な日付については、それが示されているのなら、何かしら日蝕と共通する要素をもった別の暗号がある筈である。
 また、草壁皇子暗殺の持統3年4月にしても、18履中天皇のA列21火雷噬嗑を示すことで、「履中記」に真実が隠されていると教えていたわけだが、とするとこの日付も暗号であって、実際に事件が起きたのはこれと異なる日時の可能性がある。
 そこで暫くは、これらの問題の解決に的を絞ろう。

○ 持統天皇暗殺事件の日付

 まずは持統天皇暗殺事件の日付だが、これについては持統11年5月条と6月条に重複している「癸卯(みずのとう)に、大夫(まへつきみ)謁者(ものまうしひと)(まだ)して諸社(もろもろのやしろ)(まう)でて請雨(あまごひ)す」という記事が教えていた。
 普通に考えれば、雨乞いが行われたという一見何の変哲もない記事だが、問題は日付の干支である。

 持統11年5月条の冒頭には、5月1日は丙申(ひのえさる)、6月条の冒頭には6月1日は丙寅(ひのえとら)だと書いてある。
 5月1日が丙申ならば癸卯は8日に当たるので実在する日付となる。
 干支は60日で一巡するのだから、5月1日の30日後に当たる6月1日は丙寅となるり、癸卯は6月38日となってしまうのである。
 これはクサイ。
 いかにも解読してください!と言っているようではないか。
 ましてこれは、「請雨」の記事である。
 「請雨(雨乞い)」とは、雨よ降れと祈願することだが、雨が降るためには空が厚い雲に覆われ、太陽が隠れなければならず、太陽が隠れることは日が欠ける日蝕にも通じる。
 早速、これが11年6月条であることから、11と6という数字をもって易で解釈してみよう。

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 11は、漢数字で普通に書けば十一だが、正式には一十一と書く。
 したがって、1を示す(けん)(天)を重ねた1乾為天(けんいてん)となる。
 6は、その最下より数えて6番目となる最上爻を指すことになり、1乾為天は純陽だから最高位である天皇を意味し、最上はその終わりだから(最下が始まり)、合わせて天皇の終わりである崩御の暗示と受け取れる。
 すなわちこの矛盾した干支の癸卯が暗殺の日付なのであって、持統10年7月朔(1日)が辛丑であることから計算すれば、3日に当たる。
 したがって、
 「持統天皇は表向きの持統10年7月辛丑朔癸卯(3日)に暗殺された」
 と暗号は示しているのである。

 ところで10年7月条の少し先には、
 「庚戌(かのえいぬ)(10日)に、後皇子尊(高市皇子)薨せましぬ」
 とある。
 高市皇子を意味する目弱王は、安康天皇暗殺後、一旦は逃げるがすぐ追い詰められ、都夫良意富美と共に自害している。
 とすると、この高市皇子の薨去も自害であって、その経緯は次のようなことだと言えよう。

 皇子の天皇暗殺は例え父の仇だとしても大罪には違いなく、またこの暗殺事件が世間に漏れれば、それが引き金となって国中が大混乱に陥る可能性もある。
 そこで事件は内密に処理され、表面上は何もなかったかのように装い、持統天皇には、言うなれば影武者を仕立て、約一年後には穏便に譲位したかのように見せかけた。

 だからこそ翌8月庚午朔甲午(25日)に、「元より従ひたてまつれる功と堅く関を守れる事」をもって多臣品治(おほのおみほむぢ)の官位を上げ、褒美を与えたのである。
 多臣品治という名前は、臣と品を横に並べてチョイと付け加えれば多臨治となる。
 これはちょっと乱暴ではあるが「多が臨機応変に治めた」という暗号とも受け取れる。
 『紀』では都夫良意富美を圓大臣と表記していて、圓は新字体の円であるとともに、丸く治めるという言葉があるように、治めるという意味合いがあり、大は多と訓読みが同じ「おほ」という発音の文字だからである。
 したがってこの記事は、表向きには24年前の「壬申の乱」の功績を称えたふうに装い、裏では多臣品治によって事件は内密に処理されたことを示していたのである。
 無論このように読めるからには、この多臣品治も本名ではなく、太安萬侶の父親に当たる(おほの)氏の家長であることを含めて暗号化するために、創作されたものだと考えるのが順当だろう。

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○ 草壁皇子暗殺事件の日付

 さて、持統天皇暗殺の日付とその後の経過についてはひとまずこのくらいにして、草壁皇子暗殺の日時に話を移そう。
 持統3年4月の草壁皇子薨去記事は、履中記に秘密があると告げる暗号だったのだから(3年4月で履中天皇のA列21火雷噬嗑を示す)、この年月は事実とは言い難い。しかし日付の乙未(きのとひつじ)はこの暗号とは何ら関わりを持たないのだからこの干支だけは正しく、したがって別の年月の乙未の日に事件は起きたのだと言えよう。
 その別の年月は次のように考えることで浮上する仕組みになっていた。

 草壁皇子は皇太子(日継宮)なのだから、持統天皇暗殺事件と同様に日蝕が一つの鍵である。日蝕記事を洗い出してみると、
 5年10月、7年3月、7年9月、8年3月、8年9月、そして持統天皇暗殺事件の10年7月とある。
 この記事に接して思うのは、日蝕はこんなに頻繁に観測されるものなのだろうか、ということである。
 私が生まれてから現在までの間でも、確かに日蝕はたまにあるが、東京で見られたのは、部分日蝕が数年に1回程度だった。
 現代ならば天文学の計算でこれらの日蝕記事が本当なのか否か容易にわかるが、当時ならばこれらが本当か否かを知る手がかりはない。
 とすると、こんなに多くの日食記事は何やら怪しい。暗号に違いない。
 暗号ならば必ずこのうちの何れかが、草壁皇子が殺された日を教えているのであって、それは別の角度から探ることで特定されるはずである。
 探してみると案の定、大津皇子謀反を記す持統称制前紀の最後に、正に暗号と呼ぶべきこんな文章があった。
 「是歳、蛇と犬と相交めり。俄ありて倶に死ぬ。」
 この年には大津皇子が草壁皇子に謀反して処刑されたわけだが、干支は丙戌(ひのえいぬ)(犬)である。
 とすると「倶に」というのはこの二人を指しているのであって、残る蛇(巳)の歳に草壁皇子は暗殺されたと示していることになる。
 次の蛇(巳)歳は持統7年癸巳(みずのとみ)である。
 これで草壁皇子暗殺は持統7年3月または9月の何れかに絞られたことになる。
 その持統7年3月と9月のうち、どちらの記事が暗殺の日時を教えているのだろうか。

 「三月庚寅(かのえとら)朔(1日)、日蝕えたること有り。乙未(きのとひつじ)(6日)に、吉野宮に(いでま)す。」
 「九月丁亥(ひのとい)朔(1日)、日蝕えたること有り。(中略)。丙申(ひのえさる)(10日)に、清御原天皇(天武天皇)の為に、無遮大会(かぎりなきをがみ)内裏(おほうち)(まう)く。」
 3月条の方には、乙未の日(6日)の出来事として吉野宮への行幸を記しているが、3月6日という数字を易の卦に置き換えると64火水未済(かすいびせい)となる。しかし未済は「(いま)()らず」だから、「まだ事件は起きていない」と示していることになる。したがって、これは9月が正しいと教えていることになる。
 仮に3月が正しいのなら、それなりの暗号がなければおかしい。

 一方の9月条には、不審な点がある。
 天武天皇の命日は9月9日なのだが、無遮大会(命日の法要)が10日に行われたとされている上に、一周忌とこの記事以外には命日に関する儀式についての記載がないのである。ちなみに一般人なら諸般の事情で命日の法要の日付をずらすことはあるだろう。しかし天皇の場合は日付けをずらすなどということはあり得ない。そのためこれまでの研究でも、命日の翌日に無遮大会が行われたというのは不審だとして、9月1日の干支が丁亥というりは誤りであって正しくは翌日の戊子(つちのえね)が1日なのではないか、とも考えられている。
 とするとこれが暗号なのであって、丙申が命日の9日になるように、朔干支をひとつ進ませて戊子とした時の乙未の日に、事件は起きたと告げているのに他ならない。
 いささかややっこしいが、要するに乙未は丙申の前日に当たるのだから、草壁皇子暗殺事件は持統7年9月戊子朔乙未(8日)に起きたということである。
 これで草壁皇子暗殺事件の日時の方も確定したことになる。しかし、だからと言って日付の全てが解決したわけではない。このことにより新たなる問題が浮上するからである。
 高市皇子が太政大臣(皇太子格)となった年月日である。

 表向きには持統4年7月丙子朔庚辰(ひのえねのつきたちかのえたつ)となっているが、これは草壁皇子がその前年の持統3年4月に薨去したという表向きの物語に従ったものであって、実際は草壁皇子暗殺事件の持統7年9月8日以降でなければ、辻褄が合わない。
 皇太子がいるのなら、別の人物が皇太子格となることはないはずである。
 次にその高市皇子が太政大臣となった正しい年月日を探る。

乱数表はコチラ

○ 高市皇子が太政大臣となった年月日

 持統天皇暗殺事件と草壁皇子暗殺事件の日付は、共に干支の矛盾から導き出されたわけだから、今回も干支の矛盾が手掛かりと考えられる。持統紀にはまだ解き明かしていない干支の矛盾する記述がひとつ残っている。8年4月甲寅朔丁亥(きのえとらのつきたちひのとい)(34日となる)であり、そこには次のようなことが書かれている。

 夏四月甲寅朔戊午(きのえとらのつきたちつちのえうま)(5日)に、浄大肆(じゃうだいし)を以て、筑紫太宰率河内王(つくしのおほみこともちのかみかふちのおほきみ)(おひてたま)ふ。(あはせ)賻物(はふりもの)賜ふ。
 庚申(かのえさる)(7日)に、吉野宮に(いでま)す。
 丙寅(ひのえとら)(13日)に、使者(つかひ)(まだ)して、広瀬大忌神(ひろせのおほいみのかみ)竜田風神(たつたのかぜのかみ)とを(まつ)らしむ。
 丁亥(ひのとい)(34日)に、天皇、吉野宮より(かへりおは)します。(34日はあり得ない日付けなので矛盾する)
 庚午(かのえうま)(17日に)、律師(りつし)道光(だうくわう)に賻物贈ふ。

 なお丁亥は草壁皇子暗殺事件の正しい年月日を教える記事の朔干支でもあった。ただし、写本によっては丁亥を丁未(ひのとひつじ)とするものがある。しかしこの場合も54日となるので、やはりあり得ない日付けなので矛盾する。

 表向きの物語にとってのこの文章はあまり重要な出来事の記述ではないが、だからこそ暗号が仕込まれている可能性が高い。あれこれ調べてみると暗号はここに登場する干支だった。
 この文章から干支だけを抜き出すと、甲寅、戊午、庚申、丙寅、丁亥、庚午の合計6つであり、高市皇子が太政大臣となった表向きの日付は、持統4年7月丙子朔庚辰(5日)である。
 乱数表の下の方にある六十干支一覧表を見ると明らかだが、庚の日は十日毎にあり、庚午、庚辰、庚寅、庚子、庚戌、庚申の順に巡る。
 このうちの庚申と庚午が、この記事に登場する。
 庚申、庚午と来れば、次の庚は庚辰(表向きの太政大臣となった日の干支)である。
 4月甲寅朔ならば、庚辰は27日に当たる。
 27日は、この4月条に出てくる6つの日付(1日=朔、5日、7日、13日、34日?、17日)の次、すなわち7番目の日付となる。
 表向きは4年7月である。

 「4月の7番目と4年7月」

 数字の上で一致する。
 またこの8年4月条は朔(1日)に記事がないことから、朔干支の甲寅を無視するとともに、矛盾する丁亥も除外すれば、庚辰は5番目となり(戊午、庚申、丙寅、庚午、庚辰の順となる)、表向き持統4年7月の5日(丙子朔庚辰)とされていることと、これも5という数字で一致する。
 すなわち、高市皇子が太政大臣となったのは、持統8年4月甲寅朔庚辰(27日)だったのであって、それを教えるためにこのような数字の一致と丁亥の矛盾が作られたのである。

 これで日付についてはひとまず解決した。
 何れも干支の利用法が巧みで、しかも無駄がなく、しびれる。たまらない。
 さらに深く暗号解読を進めて行きたくなる。
 どんな仕掛けなのか、興味津々だ。
 が、調子に乗らず、地に足をつけて、天武天皇と持統天皇の関係を中心に、さらに解読を進めて行こう。

「表T 古代天皇と易六十四卦の序次」はコチラ 乱数表はコチラ

D天武天皇と持統天皇そして稗田阿礼

 『古事記』序文の裏メッセージでは、持統天皇は汚職を好み、天武天皇は清廉潔白だったがために毒殺されたとある。
 「安康記」は、持統天皇が高市皇子に父の仇として暗殺されたことを教えるものだった。
 とすると高市皇子の父親は天武天皇だから、天武天皇の毒殺は持統天皇によって行われたことになる。
 夫を妻が毒殺するとはいやはや物騒な話だが、これを補足する暗号がもちゃんとあった。
 「天武記」6年11月条の「筑紫太宰(つくしのおほみこともち)赤烏(あかがらす)(たてまつ)れり」、
 9年7月条の「赤雀(あかすずみ)南門(みなみのみかど)()り」、
 10年7月条の「赤雀()ゆ」と、
 天武15年を改めて朱鳥(あけみとり)元年とした、
 という記述である。
 赤烏、赤雀、朱鳥は、何れも要するに「赤い鳥」なのだから、その「赤い鳥」で易の卦に置き換える。すると持統天皇のA列であると共に、力の強い女性すなわち女帝を意味する44天風姤(てんぷうこう)となるのである(赤は純陽の色だから陽の極みの(天)、鳥は風に乗って空を行くところから(風)となる)。
 すなわちこの「赤い鳥」の瑞祥記事は、持統天皇を中心とした勢力が、天武6年頃から台頭して来たことを暗示し、天武15年を朱鳥元年としたのは、そうすることで44天風姤の最下の位置を指し示したかったのだろう。元年は始まりだから、この卦の最下の位置の意義を持ち、この44天風姤の最下は陰すなわち女性の勢いの凄まじさを暗示するのである。したがって、持統天皇の勢いは最早誰も止められなくなった、と告げているのである。無論このように読めるからには朱鳥という年号は実在ではなく、『記』・『紀』編者による創作となる。
 なお天武天皇は朱鳥元年5月24日に発病したとあることから、毒殺に用いられたのは、いわゆる遅効性の毒物であって、だからこそ病死を装うことが可能だったのだろう。

 としても誰も止められない程の勢力を持った持統天皇ではあったが、天武天皇の死後は大津皇子の謀反により草壁皇子を即位させることは出来ず、また自らの即位も持統4年正月である。とすると、この間に表向きの歴史には出て来ない、もう一人の天皇が在位していたものとも考えられる。次のような暗号があるからだ。

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 持統3年12月己酉朔丙辰(つちのととりのつきたちひのえたつ)(8日)条「双六(すごろく)(いさ)()む」
 という記事である。
 双六はサイコロを二つ振って出た目の数だけ進む遊びのことだが、サイコロの最大の目は6が二つ並んだ時だから、このように双六と書くのである。
 その6が二つ並ぶことを易の卦に置き換えれば、6を示す(水)を二つ並べた29坎為水(かんいすい)となる。
 この卦には「険難の事態」という象意があり、この時代の険難と言えば暗殺に外ならないので、「双六を禁め断む」で「誰かが暗殺されそうになったが、どうにか事態を回避した」と読めるのである。
 一方、日付の数字の3年12月8日は、易の卦に置き換えると、3は(火)・1は(天)・2は(沢)・8は(地)だから、14火天大有(かてんたいゆう)・45沢地萃(たくちすい)となる。
 ※ 略式の漢数字では、三年十二月八日と表記されるが、正式な漢数字表記ならば、十二は一十二となる。
 14火天大有は君位の五番目の一陰の女性が他の五陽の男性を従え所有している形、また(天)の男性の上に(火)の女性が君臨している形でもあるので、女帝を意味するものとも考えられる。
 とするとこの二卦は、「易に置き換えると45沢地萃となる女帝」という暗号と受け取れる。
 しかしこの条文の周辺には45沢地萃を示すものはない。
 ん〜、困った。
 これは暗号ではなかったのか?
 しばし解読は暗礁に乗り上げた。
 こういう時はともかく初心に帰ることだ。
 もう一度『古事記』序文を読み返してみた。
 するとそこにちゃんと、45沢地萃を示す数字があった。
 稗田阿礼(ひえだのあれ)が天武天皇から古代史誦習を命じられた時の年齢の28歳である。しかも稗田という名を易の卦に置き換えると、次のように天武天皇と持統天皇に縁が深い吉野という地名を置き換えた時の形でもある16雷地予(らいちよ)となるのである。
 吉野は天武天皇が壬申の乱の前に出家修養と称して籠もった場所であると共に、持統天皇が持統3年正月以降頻繁に行幸した地である。

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 稗田の稗は稲科の植物だから(雷)、田は食料を生産する大地だから(地)、したがって稗田で16雷地予となる。
 一方の吉野の吉は、士と口に分ければ、士は上に対する飽くなき順従を要求される下級役人を指す文字だから(地)、口は(沢)となるので、合わせて(地)・兌(沢)という組み合わせを示すわけだが、この形は二本で一本と見なせば(雷)となる。
 残る吉野の野は大地で(地)となるから、図22のようにこちらも最終的に16雷地予となるのである。

 この繋がりは何を意味するのだろうか。稗田阿礼の阿礼という響きには、「()れ」という意味合いを連想させもする。
 これまでの暗号解読を踏まえれば、稗田阿礼の出生については吉野が示している、という暗号と考えるのが順当である。
 要するに、
 稗田阿礼は天武天皇と持統天皇との繋がりを持って生まれた人物、すなわち天武天皇と持統天皇との間に生まれた皇女であり、天武天皇崩御から持統天皇即位の持統四年正月まで皇位に就いていた、
 と、告げているのに他ならないだろう。
 と同時に、45沢地萃は、A列では持統天皇の44天風姤の次に位置するのだから(「易六十四卦の序次」は、43夬、44姤、45萃、46升、47困‥‥と続く)、持統天皇が暗殺された後、文武天皇に譲位するまでの約一年間、いわゆる影武者として皇位に就いていたのも、この稗田阿礼だと示していることになる。
 なお表向きの皇統譜から稗田阿礼を除外したのは、国之常立神から持統天皇に至る円周を成立させるためというのが最大の理由だろうが、それにも増して当時の皇室内のゴタゴタをあからさまに書くわけにはいかなかったのだろう。

E持統天皇の墓所と太安萬侶

 どうやら持統天皇関連の暗号は大分その脈絡がはっきりして来た。しかしこれで全てが解決したわけではない。持統天皇暗殺事件が極秘裏に処理されたのならその遺体はどこに埋葬されたのか、という疑問が残る。
 暗号でここまで言っているのだから、当然解読者の期待に応えるためにも、埋葬についての暗号があるはずである。
 これは探るしかない。

 「持統紀」にはそれらしき暗号は見当たらない。
 『古事記』序文の元明天皇に関する記述は持統天皇について教える暗号だった。
 とすると、『古事記』序文、元明天皇が太安萬侶に『古事記』編纂を命じた日付の和銅4年9月18日が怪しい。

「表T 古代天皇と易六十四卦の序次」はコチラ 乱数表はコチラ

 この日付から数字だけを取り出し、4・9・1・8として易の卦に置き換えると(十八は正式表記の一十八とする)、4は(雷)・9と1は(天)・8は(地)となる。
 したがって、4と9の34雷天大壮(らいてんたいそう)と、1と8の12天地否(てんちひ)の組み合わせとなり、「(さか)んなもの(大壮)が(ふさ)がる(否)」で「死」のイメージを読み取れる。
 と同時に和銅4年は皇紀1371年だから、下三桁は7孝霊(こうれい)天皇元年の371年と一致し、孝霊の霊の字は死者を意味する文字でもある。
 何やら孝霊天皇に秘密かあると告げている気配だが、調べて行くと次のようにして持統天皇の埋葬場所が浮上した。

 「孝霊記」を見ると、孝霊天皇の二人目の妃として春日之千千速真若比売(かすがのちぢはやまわかひめ)という名がある。
 この名前の冒頭の春日は、春日大社のある現在の奈良市付近を指すものと考えられる。
 続く千千速真若は、易の卦に置き換えれば、
 千は(地)(十、百、万と同様に小なるものの集合を意味する)で老陰だから千千で計二本の陰
 速と真は陰陽を考えれば共に陽だから計二本の陽
 若は艸(草冠)と右に分ければ、艸は(風)(草冠は草を意味し、草は風に靡き地に伏す)で少陰だから一本の陰、右は陰陽を考えれば陰だからこれも一本の陰となるので、合わせて、




だから、図23のように62雷山小過(らいざんしょうか)となる。

 「春日・62雷山小過」、これを解釈すれば、小過は「小さく過ぎる」だから、「春日から少し行った場所」あるいは「春日に程近い場所」と読める。
 そしてこの解釈を踏まえてさらに「孝霊記」を見て行くと、もう少し地域を限定する暗号と受け取れる名前があった。
 孝霊天皇の3人目の妃、意富夜麻登玖邇阿礼比売(おほやまとくにあれひめ)である。この名前に使用されている文字の順序を入れ替えれば、意玖夜麻富登邇比売阿礼(おくやまほとにひめあれ)で「奥山ホト邇姫在れ」と読めるではないか。
 奥山は現・奈良市東部の山岳地帯の名称、ホトは窪地や谷を指す古語、邇には「近い」という意味があるから、「奥山と呼ばれる山岳地帯の中にある窪地(あるいは谷)に程近い場所に、姫すなわち持統天皇は埋葬された」と告げていることになる。

 文字の順序を入れ替えるとは、乱暴だと思われるかもしれないが、古典的な暗号の定石であり、「神武紀」元年条にも、東征に際し、仲間うちで倒語(さかしまごと)を使って作戦が相手にバレないようにした、といったことが書いてある。
 言葉の順を逆にすることは、近年でも一部の業界で使われている。例えば音楽関係者がよく使うシータク、スーベ、ターギー、といった簡単なものは、芸能界と無関係でも知ってる人は多いだろう。
 孝霊記にはこの他にも夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)蝿伊呂杼(はえいろど)といった名前があり、これらをもって埋葬場所の風景や道順を教えているような雰囲気もありそうなのだが、如何せん千年以上も前のことである。現代の地図をもって解読しようとしても当時とは大分様子が異なるらしく上手く行かない。そこで、中途半端ではあるが、これ以上のことは今後の課題として、先に進むことにする。
 なおこの奥山地区の此瀬というところから昭和54年に奈良時代の墓が発見され、柩の中には火葬された遺骨と太安萬侶(おほのやすまろ)と書かれた墓誌が裏返しという不自然な形で置かれていた、ということがあった。調べた結果、遺骨は奈良時代の女性の平均身長程度の人物だったとのことだが、劣化していて性別はわからない、とのことだったように記憶している。その後、研究機関は、太安萬侶本人ものものだという見解を発表して落ち着いた。
 あるいはこの墓と持統天皇の埋葬場所は、何か関係があるのかも知れない……。

 さて、太安萬侶という名前が出て来たので、この人物にも触れておこう。
 『古事記』序文の最後には正五位上勲五等太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)という署名があるが、これが暗号で、この人物の母親もまた持統天皇だったようである(父親は多臣品治)。
 この時点では、安易なコジツケだと思って当然だろう。
 私も自分で解読していて、もしかしてこの暗号は何かデタラメな遊びを仕掛けただけなのかな?とも思ったものだ。
 しかしそんな思いは、最後まで解読してみて、吹き飛んだ。
 現代とは全く異なる男女関係が存在した時代だったのである。

乱数表はコチラ

 が、それはともかく解読を進めよう。
 上の方の正五位上と勲五等は、共に五という数字を強調するものとして五五だけを取り出す。
 下の太朝臣安萬侶のうちの臣安萬侶の四文字は、すでに序文冒頭に「臣安萬侶(まを)す……」という形で登場していることから、これを除外する。
 すると、五五太朝だけが浮き上がるので、この五五太朝を易の卦に置き換える。
 五は(風)、朝は十日十月に分解すれば、十は(地)、日は(火)、月は(水)となり、残る太の字は「太くせよ」すなわち「それぞれを一本ずつにせよ」との指示と受け取れるので、合わせて図24のように24地雷復(ちらいふく)となる。
 この卦は持統天皇のA列44天風姤の裏卦である。

 表裏の関係は、同一人物の表と裏、あるいは親子関係と考えるのが自然であり、この場合、同一人物の表と裏は有り得ないから親子となる。
 そして多ではなく太という文字を用いたのは、実にこの暗号を成立させるためだったのである。
 暗号で真実を後世に伝えようとした責任者として、自らの名前や地位や身分も、暗号化のために変更した、ということなのだろう。

F持統天皇とその周辺の暗号が示す歴史

 安康天皇の『記』56歳に始まった持統天皇暗殺事件とその周辺の暗号解読は、これで一応完了したことになる。そこで、この暗号が示す歴史を、年代順に整理しておくことにする。なお、天皇年は利便性を考え、表向きに従うことにする。

○ 皇紀1322年(西暦662年)壬戌歳・天智元年

 持統天皇(当時天武妃)は、百済から朝貢に来た使者と深い仲になり、その結果として草壁皇子を生む。

○ 皇紀1337年(西暦677年)丁丑歳・天武6年

 壬申の乱が平定されて6年になるが、朝廷内ではこの頃から、平然と汚職をする持統皇后の発言力が強くなって来る。

○ 皇紀1341年(西暦681年)辛巳歳・天武10年2月庚子朔甲子(25日)

 汚職で得た勢力を後ろ盾にした持統皇后は、予てより天武天皇の子だと偽り続けて来た草壁皇子を、この日、皇太子とすることに成功する。

○ 同年3月

 持統皇后と賄賂で結ばれた朝廷内の大多数勢力が、綺麗事ばかりで飾り、それに都合の悪い真実は全て切り捨てた虚構の歴史物語編纂事業に着手する。これに対して天武天皇は、真実の歴史を後世に伝え残そうと独自に調査し、知り得た全てを愛娘で数少ない味方の一人、稗田阿礼(母は持統皇后)に誦習させる。誦習という手段を用いたのは、文書で残せば焼き捨てられる危険があったからだろう。

○ 皇紀1346年(西暦686年)丙戌歳・朱鳥元年5月

 持統皇后が天武天皇に毒を盛り始める。用いられたのは長期間与え続けることで死に至る毒物で、これにより天武天皇は病床に着く。草壁皇子を皇太子としたことで、最早用済みとなったばかりか、汚職や虚構の歴史書編纂に批判的な天武天皇である。生きていては何かと都合が悪かったのだろう。

○ 同年9月戊戌朔丙午(9日)

 天武天皇崩御。よって毒殺計画は成功。しかし、必ずしも持統皇后の思い通りには行かなかった。草壁皇子が天武天皇の後継として即位しようとすると、その出生疑惑を理由に大津皇子(父は天武天皇、母は大田皇女=持統皇后の姉)が実力阻止に出たからである。
 この事件は大津皇子にあまり力がなかったことから、翌十月に大津皇子を謀反者として処刑することで収まったが、これにより世間の目は厳しくなる。そこで草壁皇子の即位は見合わされ、代わりに天武天皇と持統皇后の間に生まれた稗田阿礼が皇位に就く。なお、朱鳥という年号は暗号のためのものであって、実在はしない。

○ 皇紀1349年(西暦689年)戊子歳・持統3年

 持統皇后を中心とする勢力が稗田阿礼の暗殺を仄めかし譲位を迫ったので、稗田阿礼側は止むを得ずこれに従う。天武天皇の信頼厚かった人物が皇位にあることを不愉快に思ったのだろう。

○ 皇紀1350年(西暦690年)己丑歳・持統4年正月戊寅朔(1日)

 持統天皇即位。

○ 皇紀1353年(西暦693年)癸巳歳・持統7年9月戊子朔乙未(8日)

 高市皇子(天武天皇の庶子)が草壁皇子の側近の一人に、「草壁皇子を殺してくれたら、私が皇太子となった暁には御前を大臣にしよう」と言って唆し、天武天皇の命日であるこの日に草壁皇子を暗殺させる。そして意気揚々と事の次第を報告に来ると、「自分の主人を裏切るような奴は信用出来ない」として、今度はこの人物を殺す。大津皇子の無念を晴らしたかったのだろう。

○ 皇紀1354年(西暦694年)甲午歳・持統8年4月甲寅朔庚辰(27日)

 高市皇子が太政大臣(皇太子格)になる。

○ 皇紀1356年(西暦696年)丙申歳・持統10年7月辛丑朔癸卯(3日)

 天武天皇の死因が持統天皇による毒殺だったことを、とある偶然から知った高市皇子が、この日に「父の仇」として持統天皇を暗殺する。しかし、いくら「父の仇」であったとしても天皇暗殺は大罪であり、またこれを放置すれば国中が大混乱となる恐れもある。そこで同月10日、高市皇子には死が命じられ、この事は多臣品治によって内密に処理されると共に、持統天皇の遺体も人里離れた山中(現・奈良市東部の奥山地区)に埋葬された。
 この事件により、急遽、稗田阿礼が、持統天皇のいわゆる影武者として皇位に就き、何事もなかったかのように装い、翌年8月には譲位という形式で草壁皇子の息子の文武天皇(当時15歳・母は天智天皇の娘で後の元明天皇)に皇位を継承させる。文武擁立は、持統天皇を支持していた朝廷内主流派の意志だろう。

 以上が持統天皇暗殺とその周辺の隠された歴史だが、暗号はまた『古事記』編者の太安萬侶を多臣品治と持統天皇の間に生まれた人物であるとも告げていて、都合、持統天皇は天武妃という立場にありながら、父親がそれぞれ異なる三人の子を儲けたことになる。
 そう言えば万葉の女流歌人額田王にしても、天武天皇の寵愛を受けながら天智天皇とも関係を持っていたわけだが、これを不倫だと非難されてはいない。とするとこの時代には、現代人が考える結婚や夫婦とは異なる男女関係が常識的に認められていたのだと言えよう。
 多夫多妻あるいは「不倫が不倫でない時代」とでも呼んでおこう。そして汚職や暗殺事件もさることながら、その男女関係を恥として隠そうとしたのが、『記・紀』表面上の物語だったようである。解読をさらに進めると、恥として隠したいと考えた心情もわからないではない忌わしい古代日本の姿が浮上したのである。ともあれ、ここまでのところを整理しておくために、持統天皇の周辺を図25にまとめておく。

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もくじ

☆ プロローグ  1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密


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