Tweet |
危険な古代史=古事記と易学〜発見!想像を絶する真実の古代日本
|
B草壁皇子の出生の秘密 41持統天皇のA列44 A列・B列との対応関係確認作業では、『古事記』が一部の天皇に記している崩年干支については全く触れなかった。崩年干支は対応しないからである。しかし暗号文書である以上これも暗号と考えられ、この四人の中では仲哀天皇にだけその記載がある。 考えられるのは、「六月」の次から数えて11番目の文字に何か隠されているのではないか、ということである。数えてみると、「六月 萬は、十と同様に小なるものの集合を表す文字だから坤(地)となる。
この卦は艮(山)の山が自らの高さを誇らず坤(地)の平地の下に 何やら時代劇の題材にもなりそうな話だが、ともあれこれにより天武天皇崩御の時に起きた大津皇子の謀反も、その理由が自ずと判明するではないか。 さて、その草壁皇子だが、表向きの歴史では持統3年4月癸未朔乙未(13日)に薨去と記載されているわけだが、死因については何ひとつ触れられていない。とするとその辺も探ってみたい。 持統天皇暗殺事件は「安康記」に示されていたのだから、草壁皇子薨去に何か秘密があるのなら、やはりその「安康記」付近に暗号は隠されていよう。 ある日のこと水歯別は、兄の履中天皇から、 これが暗号ならば、墨江中王は草壁皇子、水歯別は高市皇子のことであって、「草壁皇子は高市皇子により暗殺された」と示していることになる。そして実行者すなわち曾婆訶理に当たるのは、草壁皇子薨去の9日後の甲辰(22日)に薨ったとある春日王なる人物に他ならないはずである。 「表T 古代天皇と易六十四卦の序次」はコチラ 乱数表はコチラ C暗号のための日付と正しい日付 持統天皇暗殺を教えたのは7月1日の日蝕記事だったが、だからと言ってこの事件が起きたのは7月1日だとは言い切れない。 ○ 持統天皇暗殺事件の日付 まずは持統天皇暗殺事件の日付だが、これについては持統11年5月条と6月条に重複している「 持統11年5月条の冒頭には、5月1日は 11は、漢数字で普通に書けば十一だが、正式には一十一と書く。 皇子の天皇暗殺は例え父の仇だとしても大罪には違いなく、またこの暗殺事件が世間に漏れれば、それが引き金となって国中が大混乱に陥る可能性もある。 だからこそ翌8月庚午朔甲午(25日)に、「元より従ひたてまつれる功と堅く関を守れる事」をもって ○ 草壁皇子暗殺事件の日付 さて、持統天皇暗殺の日付とその後の経過についてはひとまずこのくらいにして、草壁皇子暗殺の日時に話を移そう。 「三月 一方の9月条には、不審な点がある。 表向きには持統4年7月 ○ 高市皇子が太政大臣となった年月日 持統天皇暗殺事件と草壁皇子暗殺事件の日付は、共に干支の矛盾から導き出されたわけだから、今回も干支の矛盾が手掛かりと考えられる。持統紀にはまだ解き明かしていない干支の矛盾する記述がひとつ残っている。8年4月 夏四月 なお丁亥は草壁皇子暗殺事件の正しい年月日を教える記事の朔干支でもあった。ただし、写本によっては丁亥を 表向きの物語にとってのこの文章はあまり重要な出来事の記述ではないが、だからこそ暗号が仕込まれている可能性が高い。あれこれ調べてみると暗号はここに登場する干支だった。 「4月の7番目と4年7月」 数字の上で一致する。 これで日付についてはひとまず解決した。 |
D天武天皇と持統天皇そして稗田阿礼 『古事記』序文の裏メッセージでは、持統天皇は汚職を好み、天武天皇は清廉潔白だったがために毒殺されたとある。 としても誰も止められない程の勢力を持った持統天皇ではあったが、天武天皇の死後は大津皇子の謀反により草壁皇子を即位させることは出来ず、また自らの即位も持統4年正月である。とすると、この間に表向きの歴史には出て来ない、もう一人の天皇が在位していたものとも考えられる。次のような暗号があるからだ。 持統3年12月 稗田の稗は稲科の植物だから震(雷)、田は食料を生産する大地だから坤(地)、したがって稗田で16雷地予となる。
この繋がりは何を意味するのだろうか。稗田阿礼の阿礼という響きには、「 E持統天皇の墓所と太安萬侶 どうやら持統天皇関連の暗号は大分その脈絡がはっきりして来た。しかしこれで全てが解決したわけではない。持統天皇暗殺事件が極秘裏に処理されたのならその遺体はどこに埋葬されたのか、という疑問が残る。 「持統紀」にはそれらしき暗号は見当たらない。 「表T 古代天皇と易六十四卦の序次」はコチラ 乱数表はコチラ この日付から数字だけを取り出し、4・9・1・8として易の卦に置き換えると(十八は正式表記の一十八とする)、4は震(雷)・9と1は乾(天)・8は坤(地)となる。
だから、図23のように62
「春日・62雷山小過」、これを解釈すれば、小過は「小さく過ぎる」だから、「春日から少し行った場所」あるいは「春日に程近い場所」と読める。 文字の順序を入れ替えるとは、乱暴だと思われるかもしれないが、古典的な暗号の定石であり、「神武紀」元年条にも、東征に際し、仲間うちで が、それはともかく解読を進めよう。
表裏の関係は、同一人物の表と裏、あるいは親子関係と考えるのが自然であり、この場合、同一人物の表と裏は有り得ないから親子となる。 F持統天皇とその周辺の暗号が示す歴史安康天皇の『記』56歳に始まった持統天皇暗殺事件とその周辺の暗号解読は、これで一応完了したことになる。そこで、この暗号が示す歴史を、年代順に整理しておくことにする。なお、天皇年は利便性を考え、表向きに従うことにする。 ○ 皇紀1322年(西暦662年)壬戌歳・天智元年持統天皇(当時天武妃)は、百済から朝貢に来た使者と深い仲になり、その結果として草壁皇子を生む。 ○ 皇紀1337年(西暦677年)丁丑歳・天武6年壬申の乱が平定されて6年になるが、朝廷内ではこの頃から、平然と汚職をする持統皇后の発言力が強くなって来る。 ○ 皇紀1341年(西暦681年)辛巳歳・天武10年2月庚子朔甲子(25日)汚職で得た勢力を後ろ盾にした持統皇后は、予てより天武天皇の子だと偽り続けて来た草壁皇子を、この日、皇太子とすることに成功する。 ○ 同年3月持統皇后と賄賂で結ばれた朝廷内の大多数勢力が、綺麗事ばかりで飾り、それに都合の悪い真実は全て切り捨てた虚構の歴史物語編纂事業に着手する。これに対して天武天皇は、真実の歴史を後世に伝え残そうと独自に調査し、知り得た全てを愛娘で数少ない味方の一人、稗田阿礼(母は持統皇后)に誦習させる。誦習という手段を用いたのは、文書で残せば焼き捨てられる危険があったからだろう。 ○ 皇紀1346年(西暦686年)丙戌歳・朱鳥元年5月持統皇后が天武天皇に毒を盛り始める。用いられたのは長期間与え続けることで死に至る毒物で、これにより天武天皇は病床に着く。草壁皇子を皇太子としたことで、最早用済みとなったばかりか、汚職や虚構の歴史書編纂に批判的な天武天皇である。生きていては何かと都合が悪かったのだろう。 ○ 同年9月戊戌朔丙午(9日) 天武天皇崩御。よって毒殺計画は成功。しかし、必ずしも持統皇后の思い通りには行かなかった。草壁皇子が天武天皇の後継として即位しようとすると、その出生疑惑を理由に大津皇子(父は天武天皇、母は大田皇女=持統皇后の姉)が実力阻止に出たからである。 ○ 皇紀1349年(西暦689年)戊子歳・持統3年持統皇后を中心とする勢力が稗田阿礼の暗殺を仄めかし譲位を迫ったので、稗田阿礼側は止むを得ずこれに従う。天武天皇の信頼厚かった人物が皇位にあることを不愉快に思ったのだろう。 ○ 皇紀1350年(西暦690年)己丑歳・持統4年正月戊寅朔(1日)持統天皇即位。 ○ 皇紀1353年(西暦693年)癸巳歳・持統7年9月丁亥朔乙未(9日)高市皇子(天武天皇の庶子)が草壁皇子の側近の一人に、「草壁皇子を殺してくれたら、私が皇太子となった暁には御前を大臣にしよう」と言って唆し、天武天皇の命日であるこの日に草壁皇子を暗殺させる。そして意気揚々と事の次第を報告に来ると、「自分の主人を裏切るような奴は信用出来ない」として、今度はこの人物を殺す。大津皇子の無念を晴らしたかったのだろう。 ○ 皇紀1354年(西暦694年)甲午歳・持統8年4月甲寅朔庚辰(27日)高市皇子が太政大臣(皇太子格)になる。 ○ 皇紀1356年(西暦696年)丙申歳・持統10年7月辛丑朔癸卯(3日) 天武天皇の死因が持統天皇による毒殺だったことを、とある偶然から知った高市皇子が、この日に「父の仇」として持統天皇を暗殺する。しかし、いくら「父の仇」であったとしても天皇暗殺は大罪であり、またこれを放置すれば国中が大混乱となる恐れもある。そこで同月10日、高市皇子には死が命じられ、この事は多臣品治によって内密に処理されると共に、持統天皇の遺体も人里離れた山中(現・奈良市東部の奥山地区)に埋葬された。 以上が持統天皇暗殺とその周辺の隠された歴史だが、暗号はまた『古事記』編者の太安萬侶を多臣品治と持統天皇の間に生まれた人物であるとも告げていて、都合、持統天皇は天武妃という立場にありながら、父親がそれぞれ異なる三人の子を儲けたことになる。 |
最終更新日:令和05年01月24日 学易有丘会
Copyright Heisei12th〜Reiwa5th(2660〜2683) (C)2000〜2023 GakuEki-UQkai
当サイトの内容はすべて無断転載を禁止します