B草壁皇子の出生の秘密
41持統天皇のA列44 天風姤は神功皇后のB列でもあるわけだが、『記』『紀』編者は何故このような関係を作ったのだろうか。
これまでの解読の経緯からすれば、神功皇后は持統天皇の真実の姿を教えるための暗号だと考えるのが自然である。そして持統天皇は天武天皇の皇后、神功皇后は仲哀天皇の皇后である。とすると、この四人を探ることで何か出て来そうである。
A列・B列との対応関係確認作業では、『古事記』が一部の天皇に記している崩年干支については全く触れなかった。崩年干支は対応しないからである。しかし暗号文書である以上これも暗号と考えられ、この四人の中では仲哀天皇にだけその記載がある。
「壬戌年六月十一日崩」
神功皇后が持統天皇に関する真実を教えるための暗号ならば、この日付も持統・天武が生きた時代のものに違いない。当てはめてみると、皇紀1322年(西暦662年)すなわち天智元年が壬戌年となる。
この年の持統天皇関連の記事と言えば、「持統紀」冒頭にある草壁皇子を九州の大津宮(現・福岡県博多付近)で生んだことであり、神功皇后が応神天皇を生んだのも同じ筑紫すなわち福岡県である。
一方、6月11日ということから天智元年6月条を見ると、11日の記事はないが、
「六月己未朔丙戌(28日)、百済遣達率萬智等進調献物」(百済の達率萬智等が、贈り物を持って来た=達率は百済の官位の名称、萬智は人名)とある。
これで仲哀天皇の『記』崩年干支月日「壬戌年六月十一日」のうちの「壬戌年六月」までは使ったことになるので、残る「十一日」の意味をこの記事の中に探る。己未朔丙戌は28日となるので、「十一日」が示すのは日付ではなく、別の事柄の筈である。
考えられるのは、「六月」の次から数えて11番目の文字に何か隠されているのではないか、ということである。数えてみると、「六月己未朔丙戌、百済遣達率萬智等進調献物」だから、「達率萬智」の「萬」が11番目であり、続く「智」の字の下の部分には「日」が付いていて、「十一日」の「日」と共通する。
これはドンピシャリだ!
とすると、暗号はこの「萬智」の二文字以外にはあり得ない。この二文字を易の卦に置き換えて考えよう。
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萬は、十と同様に小なるものの集合を表す文字だから 坤(地)となる。
智は矢と口と日に分解すれば、矢はその形状〔→〕から一本の陽 、口は 兌(沢)で少陰だから一本の陰 、日は 離(火)でこれも少陰だから一本の陰 となるので、書き順にしたがって縦に並べると 艮(山)になる。
したがって萬智と合わせれば図21のように15 地山謙の表現となる。
この卦は 艮(山)の山が自らの高さを誇らず 坤(地)の平地の下に謙っている形で、だから「へりくだる」という意味で「謙」と名付けられたのだが、同時に 坤(地)を腹とし、腹の下の方が 艮(山)で山のように盛り上がった状態を表現すると共に、2 坤為地の母の下腹部に一陽 の生気すなわち胎児が芽生えた(下から三番目が陰 から陽 に変化した)形でもあるので、妊娠をも暗示する。
百済からの贈り物、妊娠、草壁皇子の出生。
これらを繋げると、
「草壁皇子は持統天皇と百済からの使者との間に出来た子供であり、父親は天武天皇ではない。」
と示しているのに外ならず、さらに神功皇后の妊娠期間が通常よりやや長いことや(304日以上=通常は約290日)、生まれた16応神天皇を連れて倭に帰るのに大変な苦労があったとする物語(この皇位継承を認めない勢力との武力衝突)、『古事記』序文の裏メッセージにある持統天皇の汚職等を考え合わせれば、
「持統天皇は百済からの使者との間に出来た草壁皇子を天武天皇の子だと言い張り、疑念を抱く人々の反対は賄賂などで封じ込め、ついには無理矢理皇太子としてしまった」
ということになる。
何やら時代劇の題材にもなりそうな話だが、ともあれこれにより天武天皇崩御の時に起きた大津皇子の謀反も、その理由が自ずと判明するではないか。
暗号解読には名前が重要であり、大津という名は草壁皇子出生地の大津宮と共通するのだから、これは大津皇子の謀反理由が草壁皇子の出生の秘密にあったことを告げる暗号であるに違いない。すなわち、
「大津皇子は草壁皇子が天武天皇の子ではない確証を握っていたので、草壁即位を実力阻止しょうとしたのだが、多勢に無勢、逆に謀反者の汚名を着せられ処刑された。しかしこれにより、草壁出生疑惑が流布され、即位は断念せざるを得なくなった」
ということである。
さて、その草壁皇子だが、表向きの歴史では持統3年4月癸未朔乙未(13日)に薨去と記載されているわけだが、死因については何ひとつ触れられていない。とするとその辺も探ってみたい。
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持統天皇暗殺事件は「安康記」に示されていたのだから、草壁皇子薨去に何か秘密があるのなら、やはりその「安康記」付近に暗号は隠されていよう。
調べてみると、そこには市辺之忍歯王という名前があった。これまでの暗号解読を踏まえてこの名前を眺めると、「高市皇子周辺の話を水歯別(19反正天皇)の話の中に忍ばせた」という意味に受け取れるではないか。
一方、草壁皇子薨去が持統3年4月ということから、その3と4という数字を易の卦に置き換えると、3は 離(火)・4は 震(雷)だから、18履中天皇のA列21 火雷噬嗑となり、その「履中記」には、水歯別=即位前の19反正天皇に関しての、次のような話があった。
ある日のこと水歯別は、兄の履中天皇から、墨江中王を殺すことを命じられた。
水歯別は墨江中王の側近の曾婆訶理という人物に「御前の主人の墨江中王を殺してくれたら、自分が天皇となった暁には、御前を大臣にしよう」と言って唆した。
曾婆訶理は喜んでその話に乗った。
しかし墨江中王を殺して意気揚々と曾婆訶理が帰って来ると、簡単に自分の主人を裏切るような奴は信用出来ないとして、その曾婆訶理を殺してしまう。
これが暗号ならば、墨江中王は草壁皇子、水歯別は高市皇子のことであって、「草壁皇子は高市皇子により暗殺された」と示していることになる。そして実行者すなわち曾婆訶理に当たるのは、草壁皇子薨去の9日後の甲辰(22日)に薨ったとある春日王なる人物に他ならないはずである。
春日王はこの記事にしか登場しない人物である上に、曾婆訶理が主人を裏切り寝返ったことにちなみ春日の上下を逆に寝返らせた上で易の卦に置き換えると、春は 震(雷)、日は 離(火)だから、持統3年4月と同様に21 火雷噬嗑すなわち18履中天皇のA列を示していることになり、曾婆訶理が登場する「履中記」と繋がっているのである。
「表T 古代天皇と易六十四卦の序次」はコチラ 乱数表はコチラ
C暗号のための日付と正しい日付
持統天皇暗殺を教えたのは7月1日の日蝕記事だったが、だからと言ってこの事件が起きたのは7月1日だとは言い切れない。
太陰暦は月が約29日半で地球を一周するところから一ヶ月を29日または30日とし、太陽と地球の間に月が位置する日を朔(1日)とするもので、日蝕はこの朔(1日)前後にしか起こり得ない現象だからである。
したがって、日蝕を暗号に用いるのであれば、それは月を示すのが限界であって、この場合は持統10年7月というところまでであり、具体的な日付については、それが示されているのなら、何かしら日蝕と共通する要素をもった別の暗号がある筈である。
また、草壁皇子暗殺の持統3年4月にしても、18履中天皇のA列21 火雷噬嗑を示すことで、「履中記」に真実が隠されていると教えていたわけだが、とするとこの日付も暗号であって、実際に事件が起きたのはこれと異なる日時の可能性がある。
そこで暫くは、これらの問題の解決に的を絞ろう。
○ 持統天皇暗殺事件の日付
まずは持統天皇暗殺事件の日付だが、これについては持統11年5月条と6月条に重複している「癸卯に、大夫・謁者を遣して諸社に詣でて請雨す」という記事が教えていた。
普通に考えれば、雨乞いが行われたという一見何の変哲もない記事だが、問題は日付の干支である。
持統11年5月条の冒頭には、5月1日は丙申、6月条の冒頭には6月1日は丙寅だと書いてある。
5月1日が丙申ならば癸卯は8日に当たるので実在する日付となる。
干支は60日で一巡するのだから、5月1日の30日後に当たる6月1日は丙寅となるり、癸卯は6月38日となってしまうのである。
これはクサイ。
いかにも解読してください!と言っているようではないか。
ましてこれは、「請雨」の記事である。
「請雨(雨乞い)」とは、雨よ降れと祈願することだが、雨が降るためには空が厚い雲に覆われ、太陽が隠れなければならず、太陽が隠れることは日が欠ける日蝕にも通じる。
早速、これが11年6月条であることから、11と6という数字をもって易で解釈してみよう。
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11は、漢数字で普通に書けば十一だが、正式には一十一と書く。
したがって、1を示す 乾(天)を重ねた1 乾為天となる。
6は、その最下より数えて6番目となる最上爻を指すことになり、1 乾為天は純陽だから最高位である天皇を意味し、最上はその終わりだから(最下が始まり)、合わせて天皇の終わりである崩御の暗示と受け取れる。
すなわちこの矛盾した干支の癸卯が暗殺の日付なのであって、持統10年7月朔(1日)が辛丑であることから計算すれば、3日に当たる。
したがって、
「持統天皇は表向きの持統10年7月辛丑朔癸卯(3日)に暗殺された」
と暗号は示しているのである。
ところで10年7月条の少し先には、
「庚戌(10日)に、後皇子尊(高市皇子)薨せましぬ」
とある。
高市皇子を意味する目弱王は、安康天皇暗殺後、一旦は逃げるがすぐ追い詰められ、都夫良意富美と共に自害している。
とすると、この高市皇子の薨去も自害であって、その経緯は次のようなことだと言えよう。
皇子の天皇暗殺は例え父の仇だとしても大罪には違いなく、またこの暗殺事件が世間に漏れれば、それが引き金となって国中が大混乱に陥る可能性もある。
そこで事件は内密に処理され、表面上は何もなかったかのように装い、持統天皇には、言うなれば影武者を仕立て、約一年後には穏便に譲位したかのように見せかけた。
だからこそ翌8月庚午朔甲午(25日)に、「元より従ひたてまつれる功と堅く関を守れる事」をもって多臣品治の官位を上げ、褒美を与えたのである。
多臣品治という名前は、臣と品を横に並べてチョイと付け加えれば多臨治となる。
これはちょっと乱暴ではあるが「多が臨機応変に治めた」という暗号とも受け取れる。
『紀』では都夫良意富美を圓大臣と表記していて、圓は新字体の円であるとともに、丸く治めるという言葉があるように、治めるという意味合いがあり、大は多と訓読みが同じ「おほ」という発音の文字だからである。
したがってこの記事は、表向きには24年前の「壬申の乱」の功績を称えたふうに装い、裏では多臣品治によって事件は内密に処理されたことを示していたのである。
無論このように読めるからには、この多臣品治も本名ではなく、太安萬侶の父親に当たる多氏の家長であることを含めて暗号化するために、創作されたものだと考えるのが順当だろう。
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○ 草壁皇子暗殺事件の日付
さて、持統天皇暗殺の日付とその後の経過についてはひとまずこのくらいにして、草壁皇子暗殺の日時に話を移そう。
持統3年4月の草壁皇子薨去記事は、履中記に秘密があると告げる暗号だったのだから(3年4月で履中天皇のA列21 火雷噬嗑を示す)、この年月は事実とは言い難い。しかし日付の乙未はこの暗号とは何ら関わりを持たないのだからこの干支だけは正しく、したがって別の年月の乙未の日に事件は起きたのだと言えよう。
その別の年月は次のように考えることで浮上する仕組みになっていた。
草壁皇子は皇太子(日継宮)なのだから、持統天皇暗殺事件と同様に日蝕が一つの鍵である。日蝕記事を洗い出してみると、
5年10月、7年3月、7年9月、8年3月、8年9月、そして持統天皇暗殺事件の10年7月とある。
この記事に接して思うのは、日蝕はこんなに頻繁に観測されるものなのだろうか、ということである。
私が生まれてから現在までの間でも、確かに日蝕はたまにあるが、東京で見られたのは、部分日蝕が数年に1回程度だった。
現代ならば天文学の計算でこれらの日蝕記事が本当なのか否か容易にわかるが、当時ならばこれらが本当か否かを知る手がかりはない。
とすると、こんなに多くの日食記事は何やら怪しい。暗号に違いない。
暗号ならば必ずこのうちの何れかが、草壁皇子が殺された日を教えているのであって、それは別の角度から探ることで特定されるはずである。
探してみると案の定、大津皇子謀反を記す持統称制前紀の最後に、正に暗号と呼ぶべきこんな文章があった。
「是歳、蛇と犬と相交めり。俄ありて倶に死ぬ。」
この年には大津皇子が草壁皇子に謀反して処刑されたわけだが、干支は丙戌(犬)である。
とすると「倶に」というのはこの二人を指しているのであって、残る蛇(巳)の歳に草壁皇子は暗殺されたと示していることになる。
次の蛇(巳)歳は持統7年癸巳である。
これで草壁皇子暗殺は持統7年3月または9月の何れかに絞られたことになる。
その持統7年3月と9月のうち、どちらの記事が暗殺の日時を教えているのだろうか。
「三月庚寅朔(1日)、日蝕えたること有り。乙未(6日)に、吉野宮に幸す。」
「九月丁亥朔(1日)、日蝕えたること有り。(中略)。丙申(10日)に、清御原天皇(天武天皇)の為に、無遮大会を内裏に設く。」
3月条の方には、乙未の日(6日)の出来事として吉野宮への行幸を記しているが、3月6日という数字を易の卦に置き換えると64 火水未済となる。しかし未済は「未だ済らず」だから、「まだ事件は起きていない」と示していることになる。したがって、これは9月が正しいと教えていることになる。
仮に3月が正しいのなら、それなりの暗号がなければおかしい。
一方の9月条には、不審な点がある。
天武天皇の命日は9月9日なのだが、無遮大会(命日の法要)が10日に行われたとされている上に、一周忌とこの記事以外には命日に関する儀式についての記載がないのである。ちなみに一般人なら諸般の事情で命日の法要の日付をずらすことはあるだろう。しかし天皇の場合は日付けをずらすなどということはあり得ない。そのためこれまでの研究でも、命日の翌日に無遮大会が行われたというのは不審だとして、9月1日の干支が丁亥というりは誤りであって正しくは翌日の戊子が1日なのではないか、とも考えられている。
戊子朔丙申ならば命日の9日ということになる。そして乙未は丙申の前日なので、この場合は8日となる。しかし朔干支が誤りか否かは読者には判断できないので、暗号としては不正確になる。したがって、これは有り得ない。とするとこの矛盾は、天武天皇の命日を印象付けるためのもので、朔干支はそのまま丁亥が正しく、丁亥朔丙申(10日)ではなく、前日の乙未(9日)すなわち天武天皇の命日に事件は起きたと告げているのに他ならない。
いささかややっこしいが、要するに草壁皇子暗殺事件は持統7年9月丁亥朔乙未(9日)に起きた、ということである。
これで草壁皇子暗殺事件の日時の方も確定したことになる。しかし、だからと言って日付の全てが解決したわけではない。このことにより新たなる問題が浮上するからである。
高市皇子が太政大臣(皇太子格)となった年月日である。
表向きには持統4年7月丙子朔庚辰となっているが、これは草壁皇子がその前年の持統3年4月に薨去したという表向きの物語に従ったものであって、実際は草壁皇子暗殺事件の持統7年9月8日以降でなければ、辻褄が合わない。
皇太子がいるのなら、別の人物が皇太子格となることはないはずである。
次にその高市皇子が太政大臣となった正しい年月日を探る。
乱数表はコチラ
○ 高市皇子が太政大臣となった年月日
持統天皇暗殺事件と草壁皇子暗殺事件の日付は、共に干支の矛盾から導き出されたわけだから、今回も干支の矛盾が手掛かりと考えられる。持統紀にはまだ解き明かしていない干支の矛盾する記述がひとつ残っている。8年4月甲寅朔丁亥(34日となる)であり、そこには次のようなことが書かれている。
夏四月甲寅朔戊午(5日)に、浄大肆を以て、筑紫太宰率河内王に贈ふ。併て賻物賜ふ。
庚申(7日)に、吉野宮に幸す。
丙寅(13日)に、使者を遣して、広瀬大忌神と竜田風神とを祀らしむ。
丁亥(34日)に、天皇、吉野宮より至します。(34日はあり得ない日付けなので矛盾する)
庚午(17日に)、律師道光に賻物贈ふ。
なお丁亥は草壁皇子暗殺事件の正しい年月日を教える記事の朔干支でもあった。ただし、写本によっては丁亥を丁未とするものがある。しかしこの場合も54日となるので、やはりあり得ない日付けなので矛盾する。
表向きの物語にとってのこの文章はあまり重要な出来事の記述ではないが、だからこそ暗号が仕込まれている可能性が高い。あれこれ調べてみると暗号はここに登場する干支だった。
この文章から干支だけを抜き出すと、甲寅、戊午、庚申、丙寅、丁亥、庚午の合計6つであり、高市皇子が太政大臣となった表向きの日付は、持統4年7月丙子朔庚辰(5日)である。
乱数表の下の方にある六十干支一覧表を見ると明らかだが、庚の日は十日毎にあり、庚午、庚辰、庚寅、庚子、庚戌、庚申の順に巡る。
このうちの庚申と庚午が、この記事に登場する。
庚申、庚午と来れば、次の庚は庚辰(表向きの太政大臣となった日の干支)である。
4月甲寅朔ならば、庚辰は27日に当たる。
27日は、この4月条に出てくる6つの日付(1日=朔、5日、7日、13日、34日?、17日)の次、すなわち7番目の日付となる。
表向きは4年7月である。
「4月の7番目と4年7月」
数字の上で一致する。
またこの8年4月条は朔(1日)に記事がないことから、朔干支の甲寅を無視するとともに、矛盾する丁亥も除外すれば、庚辰は5番目となり(戊午、庚申、丙寅、庚午、庚辰の順となる)、表向き持統4年7月の5日(丙子朔庚辰)とされていることと、これも5という数字で一致する。
すなわち高市皇子が太政大臣となったのは、持統8年4月甲寅朔庚辰(27日)だったのであって、それを教えるためにこのような数字の一致と丁亥の矛盾が作られたのである。
これで日付についてはひとまず解決した。
何れも干支の利用法が巧みで、しかも無駄がなく、しびれる。たまらない。
さらに深く暗号解読を進めて行きたくなる。
どんな仕掛けなのか、興味津々だ。
が、調子に乗らず、地に足をつけて、天武天皇と持統天皇の関係を中心に、さらに解読を進めて行こう。
「表T 古代天皇と易六十四卦の序次」はコチラ 乱数表はコチラ
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