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士会(しかい) 中国 春秋時代
晋の大夫であり、正卿(宰相)も務めた。

紀元前621年、晋では襄公が死去した。その太子がまだ幼少だったため、
趙盾は秦にいる襄公の弟の公子雍を擁立しようとし、秦に士会らを迎えに行かせた。 康公は晋の文公のときに護衛兵がおらず、反乱がおきたことを踏まえて、翌年、公子雍に多くの護衛兵を与えて送った。 これに対して、太子の母が日夜泣いて趙盾に 「先君に何の罪があって嫡子を棄てるのですか。」と訴えたため、 趙盾はこれを憂え、かつ、太子の母の一族に命を狙われることを恐れたため、太子を擁立することとした。 こうして即位したのが霊公である。趙盾はみずから兵を率いて公子雍を護送してきた秦の軍を打ち破った。士会はそのまま秦に留まった。

紀元前615年、晋は趙盾・趙穿らが出陣し、士会は秦に従軍して河曲で会戦し、秦が勝利した。 趙盾らは士会が秦にいて任用され乱を起こしかねないのを恐れ、いつわって魏寿余を秦に投降させ、士会を晋に連れ戻した。 士会は范(はん)の地を与えられ、六卿のひとつ范氏の祖となった。

この間、楚の荘王が力をつけ、洛陽の郊外に兵をつらねて、鼎の軽重を問う事件が起こった。 紀元前597年楚の荘王は鄭を包囲してこれを下した。晋が救援に来たが間に合わず、士会も上軍を指揮して一戦したものの晋は敗れた。 士会のみが兵を失わず撤退することに成功した。

楚に対する敗戦の衝撃の中、晋では趙盾の子趙朔(ちょうさく)が大夫屠岸賈(とがんか)の独断によって趙氏の当主として霊公弑逆の罪を問われ殺された。 正卿の中行桓子(荀林父)は自死しようとしたが、士会の進言があったため沙汰やみとなった。 独断で戦端を開き敗戦の原因を作った先軫の子孫である先縠は、翌年狄を引き入れて晋を攻撃したため族滅されられた。

紀元前597年、中行桓子に代わり正卿となった。 子に、士燮(ししょう・范文子)がいる。

参考:
秦史3 一進一退の春秋後期

alias,范武子

子之(しし) 中国 戦国時代
燕の噲王に任用され宰相となった。
蘇秦・蘇代らと婚姻関係を結び、協力関係にあった。
蘇秦の死後、斉へのスパイ行為が露見したため、弟の蘇代らは一時斉に怨まれていたが、
燕の斉に来ている人質がとりなしたため、再び斉でも用いられるようになった。
蘇代は、斉の使者として燕の噲王に謁見したときに、斉王は臣下を信じないため覇者にはなれないでしょう、といい、
燕王が子之をより任用するように仕向けた。
燕王噲はもともと子之を厚く信用しており、老年になりつつあったこともあって、子之へ政務をより任せるようになった。
ついに、紀元前314年、燕王噲は子之に禅譲し、自らは引退してその臣下となった。

たが、子之の政治はうまくいかず、反発も少なくなかった。
特に太子平(へい)はこれを認めなかった。
将軍市被(しひ)は太子平と叛乱を企てていた。
斉の湣王は太子平に支持する旨を使者を送って伝え、内戦を促進した。
ついに、太子平は市被と叛乱を起こし、子之を攻めたがこれを破ることができなかった。
将軍市被はかえって太子平を攻撃し、申し開きを試みた。
しかし、太子平は市被を殺し、国内に示威しながらその罪を見せしめにした。
太子平は一定の支持を集め、子之と数ヶ月にわたり内戦を繰り広げ、数万の死者を出していた。
斉の湣王は意図通り激しい内戦が起こったため、
将軍として匡章(きょうしょう)を登用し、燕との国境の北方の5邑の兵を率いて燕を討たせた。
この攻撃には、孟子も周の文王・武王さながらの好機であるとして、強く支持した。
燕の人々は内戦でもはや燕国を支持しておらず、匡章は圧倒的な勝利を収め、
もとの燕王噲は戦死し、子之は逃亡した。

その後、しばらく混乱が続いたが、紀元前311年に太子平が即位した。これが昭王である。

参考:
秦史5 張儀の活躍

alias,

司馬遷(しばせん) 中国 前漢
漢の武帝時代の歴史家であり、史記の著者である。

司馬遷は儒学等を学び、仕官して郎中となった。 父の司馬談(しばたん)は漢の太史令(史官の長)であった。 父の死から3年後、司馬遷も太史令となった。
史料や各地の伝承を収集し、父の遺志を継いで歴史書をまとめることを目指した。

李広の孫李陵は漢の将軍として5千の兵を率いて圧倒的多数の匈奴と戦い、 1万の損害を与えつつも敗戦し捕虜となった。 武帝はこれに激怒した。 司馬遷は李陵を弁護したため、武帝の不興を買い、李陵が寝返ったという情報が伝わると、死刑を宣告された。 司馬遷は、宮刑を受けて宦官になり死刑を免れ、発奮して史記の著述に精魂をかけた。 後に大赦を受け、宦官であることがひとつの理由となり中書令として武帝の近臣となった。

参考:
史記/戦国策

alias,太史公

周章(しゅうしょう)・周文(しゅうぶん) 中国 戦国時代・秦
楚の陳の出身である。
戦国時代、楚の令尹(宰相)の春申君に仕え、項燕(
項梁の父)のもとで軍務経験があった。

陳勝呉広の乱が起き、 陳勝が王となると、将軍に任じられ、秦本国を衝く主力部隊の指揮を任された。
行軍の途上、周章のもとには秦打倒のために集まった多数の兵が集まり、
函谷関に至ったときには、兵力数十万、戦車1000乗もの大軍になっていた。
一方、秦の朝廷では、叛乱を報告した使者を二世皇帝が信じず獄に下したため、初動が遅れていた。
周章は集まった大軍を以て、長年破られることのなかった函谷関をついに突破し、咸陽の50km手前まで迫った。

この事態に、秦の二世皇帝は驚愕し、群臣に対応策を諮った。
兵力の動員はとても間に合わず、王離が率いる30万の主力も来援するまで時間がかかる。
もはや咸陽の陥落も必至かと思われた。
その時、宮廷財務を司る役人をしていた章邯(しょうかん)は、
驪山の陵墓建設に使役されている罪人を解放する代わりに軍に編入することを進言した。
秦の過酷な法のものでは、「罪人」が大量生産されており、数十万人もの刑徒が驪山の陵墓建設に従事していた。
二世皇帝は章邯の提案を採用して大赦を行った。
章邯は急造の開放刑徒の軍を率いて周章と戦った。
周章は窮鼠となった章邯率いる秦軍に敗れた。

いよいよ二世皇帝は本格的に動員を行い、章邯に送った。
周章は函谷関を超えて敗走したが体勢を立て直し章邯を迎撃して必死の防戦を行った。
しかしながら章邯の追撃は厳しく、二度にわたり抵抗したものの相次いで破れ、周章はついに自殺した。

参考:
漢楚斉戦記1 陳勝・呉広の乱
漢楚斉戦記2 章邯の猛反攻

alias,

荀子(じゅんし)・荀況(じゅんきょう) 中国 戦国時代
中国戦国時代末の儒学者であり、 性悪説「藍より青し」の成語でよく知られるが、 その合理的思考は二千年以上昔に書かれたとは思えない要素を含んでいる。
儒学者であるが、法家思想に通じる面があり、 荀子の弟子には韓非李斯が含まれる。
その言行は荀子としてまとめられている。

荀子は趙の出身であるが、学者を招聘していた斉に移った。
斉の襄王の時代には、荀子は最年長の師範となっていた。
荀子は三度、学長である祭酒になった。
あるとき讒言されたため荀子は楚に移った。
楚の宰相の春申君は荀子を蘭陵の長官に任じた。
春申君が死んで、荀子は罷免されたが、荀子はそのまま蘭陵に住んだ。
数万語に及ぶ書を著して天授を全うし、死後、蘭陵に葬られた。

参考:
荀子/孟子
荀子 史記 孟子荀卿列伝第十四

alias,荀卿

商鞅(しょうおう) 中国 戦国時代
商鞅はもともと衛の公子であり、刑名の学を学び、魏の宰相公叔座(こうしゅくざ)に仕え中庶子となった。 公叔座が病に倒れると、恵王は直接見舞いに行き、後任人事について相談した。公叔座は奇才の持ち主として家臣の商鞅(公孫鞅)を推薦した。恵王はこれに納得しなかった。公叔座は人払いして王に言った、「王がもし公孫鞅を用いられないのであれば、必ず殺し、国外に亡命するのをお防ぎください。」恵王は、これを許して去ったが、裏ではこのように言っていた。「公叔の病状は深刻だ、悲しいことよ。私に国を公孫鞅に任せろなどという、なんと愚かなことか。」 その後、公叔座は商鞅に謝り、用いないのであれば殺すよう王に進言したので、君は早く逃げたほうがよいと言った。 商鞅は、その言葉も用いまいとして逃げなかった。

公叔座の死後、商鞅は、秦の孝公が賢者を求めていると知り、魏を離れて秦に入った。孝公の寵臣景監(けいかん)に取次ぎを頼んで、孝公に謁見することを求めた。三度の謁見の後、変法による富国強兵策を説き、孝公の信任を得た。 (このあたりの詳細については、
商鞅秦へ入る 商君列伝第八を参照。)

孝公は商鞅の策を導入しようとしたが、大改革であるため、慎重にならざるを得なかった。商鞅は、古来の法を守ることを主張する者と議論を戦わせ、夏・殷・周が異なる礼を採用したのに王者となり、春秋五覇も異なる法を採用したのに覇者となった例、夏の桀王と殷の紂王が古来の礼を変えずに滅んだ例をひき、「疑行は名なく疑事は功なし」と述べて孝公を励ました。紀元前359年、孝公は決断し、商鞅を左庶長(さしょちょう)に任じて、ついに第一次の変法を断行させた。 第一次変法の要点としては、厳密な法による統治の実施、個人ごとの爵位に基づく実績主義、軍功の重視、農業と手工業による生産を重視した経済政策があった。 (詳細は秦史4 商君の変法を参照。)

変法施行から1年は、皆慣れず、変法の不便を申し立てるものが数千人に及んだ。しかし3年経つと、治安が大きく改善し、生産力が上がって生活が安定したため、民衆も変法を便利とするようになった。当初、変法の不便を述べたものの中からも変法を賞賛するものが現れた。商鞅はそのものたちを世を乱す輩であるとし、辺境に流した。その後、法に口を挟むものはいなくなった。

変法より5年後の紀元前354年、魏と戦って勝利し少梁の地を取った。翌年、魏の恵王は趙の邯鄲を包囲した。趙は斉に救援を求めた。斉は田忌を将とし孫臏を参謀として囲魏救趙の計で魏に攻め込み、桂陵の戦いでこれを破った。翌紀元前352年、魏の敗戦を受けて、諸侯は魏の襄陵を包囲した。秦も商鞅を将として魏の安邑を包囲し、これを下した。商鞅は大良造(16級)に昇進した。

紀元前350年、第一次変法の成功と安邑を下した軍功を得た商鞅は、孝公の支持のもと第二次変法を行い、また、咸陽城を築いて遷都した。第二次変法では、中華圏で野蛮と考えられた父子兄弟が妻を共有する風習を禁じたほかに、法による統治を実務面で支援するものとして、 県の設置、度量衡の統一、徴税の公平化・効率化、農地の区画整理を行った。 (詳細は秦史4 商君の変法を参照。)

第二次変法後、商鞅は宰相となった。また、秦は強勢を増し、紀元前343年には周王から孝公に伯の称号が送られ、翌年孝公は周王を奉じて諸侯と会合し、周王に参朝させた。 一方、このころ魏の恵王は、中原の中小諸侯を従えて周王に参朝するなど力を再び蓄えつつあった。商鞅は魏の恵王に、魏は強大であり、天子(天意を受けた王の意で、夏・殷・周の王これまでが天子とされていた。)の儀容を示し、斉と楚を討てば天下を従えられるだろうとけしかけた。これに喜んだ魏の恵王は、紀元前342年に逢沢で諸侯と会同し、夏王を称して、自ら天子となろうとした。斉は特にこれに反発した。

紀元前341年、ついに斉は魏に馬陵の戦いで大勝し、将軍龐涓を自殺させ太子申を虜にした。 この敗戦が魏の恵王にとって国力低下への決定的ターニングポイントとなった。

紀元前340年、自らけしかけて生じた機会を捉えるべく、商鞅は孝公に、魏は秦とは黄河(の支流)で隔てられ、東はその領地の大半が太行山脈によって隔てられており、魏のこの部分を奪えば東の諸侯を制圧できると説き、馬陵の戦いで敗れた今がその好機であると進言した。孝公はこれを認め、商鞅を将軍として魏を討たせた。迎撃する魏の将軍は公子卭(こう)であり、商鞅はかつて知り合いであった。商鞅は公子卭に書簡を送り、休戦の上酒を酌み交わし和睦しようと持ちかけた。公子卭はこれに応じ、会盟の上酒を飲んだ。商鞅は伏兵を使い騙まし討ちで公子卭を捕虜にし、指揮官を失った魏軍を打ち破って大勝した。商鞅はこの功により徹候(20級)となり、商・於の地15邑に封じられ、商君と呼ばれるようになった。同年、商鞅は商・於の地から隣接する楚を攻撃した。魏は黄河以西の地を秦に割譲し、秦との国境に近くなりすぎた都の安邑を放棄して大梁に遷都した。魏の恵王は「寡人恨むらくは公叔座の言を用いざりしことを。」と後悔した。

商鞅は、貴族の特権を奪い、また法を運用するに当たり温情を挟まなかったため、特に公室関係者から怨まれていた。商鞅は警戒して、外出する際は十数両の戦車で護衛し、護衛兵を引き連れていた。紀元前338年、孝公が死去した。太子の恵文君が即位した。公室の人間は商鞅を多く讒言し、商鞅は恐れて逃げた。魏に入ろうとしたが、魏は公子卭のことで商鞅を怨んでおり、秦に送り返した。商鞅は商・於の地で兵を徴発し、鄭を討ったが、秦は出兵して商鞅を殺し、死体を車裂きして見せしめにした。 しかしながら、恵文君は商鞅の法を戻すことはせず、その変法は維持された。

後に、李斯は始皇帝に外国からの客臣の功を説明する中で(諫逐客書)、このように述べている。
孝公商鞅の法を用ひ、風を移し俗を易(か)へ民以て殷盛(いんせい)、
国以て富強、百姓用を楽しみ、
諸侯親服し、楚魏の師を獲(え)、地を挙ぐること千里、
今に至るまで治強なり。

参考:
秦史4 商君の変法
商鞅秦へ入る 史記 商君列伝第八

alias,商君,公孫鞅,衛鞅

章邯(しょうかん) 中国 秦代
古代中国秦代の政治家・将軍である。 陳勝呉広の乱の頃、章邯は大臣の末席の少府(宮廷財務を司る)の地位にいた。 陳勝は、一軍を新たに編成し、かつて項燕や春申君に仕えたことのある周章を起用して、秦を討たせることにした。 行軍の途上、周章のもとには秦打倒のために集まった多数の兵が集まり、函谷関に至ったときには、兵力数十万、戦車1000乗もの大軍になっていた。 一方、秦の朝廷では、叛乱を報告した使者を二世皇帝が信じず獄に下したため、初動が遅れていた。 周章は集まった大軍を以て、長年破られることのなかった函谷関をついに突破し、咸陽の50km手前まで迫った。

陳勝が派遣した周章は咸陽の近くまで迫っていた。 この事態に、二世皇帝は驚愕し、群臣に対応策を諮った。 兵力の動員はとても間に合わず、王離が率いる30万の主力も来援するまで時間がかかる。 もはや咸陽の陥落も必至かと思われた。 その時、章邯は、驪山の陵墓建設に使役されている罪人を解放する代わりに軍に編入することを進言した。 秦の過酷な法のものでは、「罪人」が大量生産されており、数十万人もの刑徒が驪山の陵墓建設に従事していた。 二世皇帝は章邯の提案を採用して大赦を行った。 章邯は急造の開放刑徒の軍を率いて周章と戦い、これを大破した。 二世皇帝は本格的に動員を行い、章邯に送った。 周章は函谷関を超えて敗走したが体勢を立て直し章邯を迎撃して必死の防戦を行った。 章邯は周章を追撃し、さらにこれを2度破った。周章はついに自殺した。

滎陽では、呉広李由を包囲していたが、章邯の反攻が迫りつつあった。 将軍の田臧(でんぞう)は呉広が用兵に疎く、呉広の指揮では秦には勝てないと懸念し、呉広を殺し陳勝のもとにその首を送った。 陳勝は田臧を令尹(れいいん・楚における宰相)に任じた。 田臧は滎陽に一部の兵を残し、精兵を率いて章邯と戦ったが、敗れて田臧は戦死した。 章邯は滎陽の残りの軍も破り、さらに張楚の2将を破って陳に到達した。 陳勝も戦場に出て督戦したが、章邯はこれを破った。 陳勝は敗走し、途中で御者に殺された。陳勝が王になって半年後のことであった。

陳勝を破った章邯の本隊は、魏の攻撃に移った。 魏王は周市を楚と斉に派遣し、救援を求めた。楚は項它(こうた)を援軍に送り、斉は斉王田儋自ら救援に赴いた。 章邯は周市を破り、臨済の魏王を包囲した。 章邯は夜襲をかけて、魏と斉の軍を大破し、斉王田儋を戦死させた。 魏王咎は住民のために降伏し、自らは火に飛び込んで自殺した。

斉では、田儋の死を受けて、秦に滅ぼされる前の斉王の弟田仮を王に立てた。 田儋の弟田栄(でんえい)は、敗残兵をまとめて鉅野沢(きょやたく)の北の東阿に撤退した。 章邯はこれを追撃し田栄を包囲した。 これに対して項梁が東阿に救援に向かった。 章邯は項梁の襲撃を受けて敗北した。 章邯は項梁の追撃を受け、濮陽(ぼくよう)で再び敗れた。 章邯は兵をまとめて濮陽を堅く守らせ、本国からの増援を待った。 項梁は秦の増援を見て田栄にも出兵を促したが、田栄は楚に亡命した田仮を殺すよう要求し、 懐王がこれを拒んだため、田栄は兵を出さなかった。 項羽は劉邦ら別働隊を率いて1城を下し、さらに定陶(ていとう)を攻撃した。 定陶は守りが堅いため、項羽は西に向かい、三川郡守の李由と戦って大破し、李由を斬った。 項梁は自ら定陶を攻めてこれを抜いた。 連戦連勝の項梁は油断の気配があった。

秦は兵力を総動員して章邯に増援した。 匈奴に備えていた王離の30万の軍も、ある程度章邯に元へ送られたと考えられる。 章邯は強化された軍を率い、定陶を夜襲して楚軍を大破し、項梁を戦死させた。

趙では、将軍李良が趙王武臣の姉に軽んじられたことに激怒し、そのまま邯鄲を襲って武臣らを殺害する事件が発生していた。 章邯は趙の混乱を見逃さず、項梁を撃破した後、 黄河を渡り、趙の攻撃に向かった。 趙は、各国に援軍を要請し、楚にも援軍を要請した。 懐王は、項梁の敗北を予見して名を上げた宋義を上将軍とし、 項羽を次将、范増を末将とした救援軍を編成し、趙へ送った。 一方、劉邦らを西方の攻略に送った。 そして、正念場を乗り切るため、諸将に対して、最初に関中を平定したものを関中王とする、と約し、士気の向上を図った。

救援軍を率いる宋義は途中の安陽で進軍を停止し、46日間に軍を留め、斉との合従を試みた。 この間に、章邯は電撃的に趙の都邯鄲を攻め落とした。 邯鄲は極めて守りの堅い大都市であり、その堅固さは、 かつて白起も「実に未だ攻め易からず」と評して王命に反してでも攻撃を肯んじなかった程である。 章邯は邯鄲を破壊し、住民を強制移住させた。趙王と張耳は鉅鹿(きょろく)城に籠城した。 陳余は常山に赴いて数万の兵を得て、鉅鹿の北に布陣した。 章邯は王離らに鉅鹿を包囲させ、 自らは鉅鹿の南に布陣し、甬道(ようどう・両側に壁を設けた輸送用の道路)を黄河まで築いて、黄河から王離に食料を補給した。

章邯・項梁進路略図


項羽は、宋義と対立し、ついにこれを斬って指揮権を奪取した。 項羽は、秦の大軍の弱点を補給線に見出した。 章邯は大軍に補給するため、鉅鹿から黄河まで甬道を築いていた。 項羽は、先鋒として黥布と蒲(ほ)将軍に2万の兵で黄河を渡らせ、甬道を攻撃させた。 黥布と蒲将軍は章邯と渡り合い、補給を脅かした。 そのため、鉅鹿を包囲する王離の軍は、食糧が欠乏するようになった。 項羽は、この状況に決戦機を見出した。 全軍を渡河させ、船を沈め、調理道具を壊し、兵舎を焼き捨てて、決死の覚悟を示した。 3日分のみの食糧を携行し、甬道を守る章邯の部隊と戦ってこれを破った。 章邯は補給線を維持するため兵を黄河方面へ移動させた。 項羽は秦の兵力が分裂したこの期を見逃さず、鉅鹿で王離と戦い、これを大破して、王離を虜にした。 当時、鉅鹿には諸侯の援軍が来ていたが、項羽が王離らの率いる秦軍を大破するにいたり、あまりの強さに諸侯の将兵は震撼した。 項羽は諸侯の上将軍となり、諸侯の全軍を指揮することとなった。 項羽は諸侯の兵を率いて優勢な兵力を持って章邯と対峙し、章邯は押されてじりじりと後退した。

戦局の悪化を受けて章邯は援軍の派遣を要請したが、秦本国の余力もなくなりつつあり、 二世皇帝は問責の使者を送った。 章邯は、司馬欣(しばきん)を派遣して本国の指示を仰ごうとした。 このとき秦ではすでに趙高が丞相となって実権を握っており、李斯は趙高により死罪となっていた。 司馬欣は3日間待ったが、趙高は宮中に入ることを許さず、司馬欣は恐れて逃げ帰った。 趙高は刺客を司馬欣に差し向けたが、追いつかなかった。 司馬欣は章邯に復命し、趙高が実権を掌握する今、勝っても負けても秦国内で立場がないことを報告した。 このとき、章邯の兵力は20万強、項羽の兵力は40万程度であった。 章邯は項羽と連絡を取り、降伏の交渉を始めたが、条件がまとまらなかった。 項羽は章邯を攻撃して勝利した。 章邯は項羽に再度使者を送り、降伏を約しようとした。 項羽のほうでも、もとより不作の年に、兵力が大幅に拡大したので食糧が少なくなってきており、 降伏を受け入れることとした。 項羽は、章邯を雍王(関中の王)に任じ、司馬欣をその上将軍として秦の兵20万を率いさせた。 こうして秦は機動兵力を完全に喪失した。

項羽が率いている60万のうち、20万は章邯とともに降伏した秦の兵であった。 将軍に巻き込まれて降伏した兵士は、項羽に心服していなかった。 関中に入って20万が離反すれば、項羽は危険な状況に陥る。 項羽は黥布・蒲将軍と相談し、 章邯・司馬欣と都尉の董翳(とうえい)の3名以外はすべて殺害することとし、夜襲して秦兵20万人をことごとく突き落として殺した。

このころ、南方から劉邦が関中に迫り、その状況下で、趙高が二世皇帝を強いて自殺させ、 子嬰(しえい)を擁立したが、子嬰は趙高を殺し族滅していた。 劉邦が嶢関(ぎょうかん)を突破し関中に入ると、覇上(はじょう)で秦王子嬰は劉邦に降伏した。 項羽は章邯を関中の王に任じているため、劉邦の立場は微妙なものとなっていた。 そこで、劉邦は函谷関に兵を派遣して項羽ら諸侯の侵入を防がせた。 項羽が函谷関に至ると、劉邦が函谷関に守備軍を派遣して、項羽を通さないようにしていた。 項羽は怒り、黥布らに函谷関を攻撃させた。 黥布は間道を進んで劉邦の守備軍を破り、劉邦が頼みにしていた函谷関はあっさりと破られた。 その結果、劉邦は鴻門の会で項羽に降伏した。

項羽は、本国の懐王に使者を送って報告した。 懐王は項羽による章邯の雍王(関中の王)任命を認めず、「約の如くせよ」、すなわち、劉邦を関中の王とせよ、と返答した。 項羽はこれを拒絶し、懐王を義帝として形式上各地の王の上位者ということにし、自らはそのもとで実質的に天下を主催するいわゆる「西楚の覇王」として君臨することにした。 項羽と范増は、秦の辺境である巴蜀の地も関中であるとして、劉邦は漢中と巴蜀の王すなわち漢王に任じられた。 秦の再来を防ぐため、関中の地は3分割され、秦の故地である咸陽以西には意味を縮小した雍王として章邯が任じられた。

劉邦は項羽による封建を受けて、巴蜀の地に向かったが、脱走者が相次いだ。 劉邦は蕭何が「国士無双」と推薦する韓信を大将軍につけ、 その計略を採用してもとの道を引き返し、章邯を攻撃しようとした。 章邯は陳倉(ちんそう)で漢を迎え撃ったが敗れた。 さらに体勢を立て直して反撃を試みたが失敗し、廃丘に入って籠城した。 劉邦は一隊をもって廃丘を包囲し、別の隊を以て関中を制圧した。 章邯は一年ほど抵抗したが、最終的に自殺して果てた。

参考:
漢楚斉戦記1 陳勝・呉広の乱
漢楚斉戦記2 章邯の猛反攻
漢楚斉戦記3 項羽の登場
漢楚斉戦記4 秦の滅亡

alias,なし

秦嘉(しんか) 中国 秦代
秦代の人物。 陳勝呉広の乱が起こると、 東海郡(海側・斉の南)で蜂起し、泗水流域に勢力を伸ばし、彭城などを支配下におさめていた。
陳勝が敗れたと聞くと、寗君(ねいくん)とともに楚の貴族の血を引く景駒(けいく)を楚王にたてた。
このころ、章邯は楚の北部の略定に入っており、これを迎撃するため秦嘉は斉に使者を派遣した。
斉王田儋は、秦嘉が斉に相談なく楚王を立てたことを責め、使者を斬った。
有力者となった秦嘉に劉邦も一時従属した。
章邯が別働隊を彭城方面に差し向けてきたため、劉邦と寗君に迎撃させたが、勝たなかった。

このころ呉で挙兵した項梁に対し、陳勝の使者召平(しょうへい)は、陳勝の敗北を聞くと呉に赴き、陳勝の命と偽って、項梁を上柱国(じょうちゅうこく・令尹(宰相)に次ぐ位)に任じ、秦を討つよう命じていた。
これを受けた項梁は精兵8000人を率いて長江を渡り北上した。楚の名門である項氏へ輿望は大きく、淮水を超えて下邳(かひ)に至るころには黥布なども合流し、その兵力は6,7万人にまで拡大していた。

秦嘉は北上してきた項梁と対峙した。
項梁は陳勝の上柱国としての立場から、秦嘉が勝手に楚王を擁立したことを否定した。
秦嘉は項梁と戦って破れ、秦嘉の勢力は短期間で潰えた。
秦嘉の軍は項梁が配下に収めた。

参考:
漢楚斉戦記1 陳勝・呉広の乱
漢楚斉戦記2 章邯の猛反攻

alias,なし


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