漢楚斉戦記2
章邯の猛反攻
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章邯 張楚を撃滅

 陳勝が派遣した周章は咸陽の近くまで迫っていた。この事態に、二世皇帝は驚愕し、群臣に対応策を諮った。兵力の動員はとても間に合わず、王離が率いる30万の主力も来援するまで時間がかかる。もはや咸陽の陥落も必至かと思われた。その時、宮廷財務を司る役人をしていた章邯(しょうかん)は、驪山の陵墓建設に使役されている罪人を解放する代わりに軍に編入することを進言した。秦の過酷な法のものでは、「罪人」が大量生産されており、数十万人もの刑徒が驪山の陵墓建設に従事していた。二世皇帝は章邯の提案を採用して大赦を行った。章邯は急造の開放刑徒の軍を率いて周章と戦い、これを大破した。二世皇帝は本格的に動員を行い、章邯に送った。周章は函谷関を超えて敗走したが体勢を立て直し章邯を迎撃して必死の防戦を行った。章邯は周章を追撃し、さらにこれを2度破った。周章はついに自殺した。

 周章の敗北により、陳勝の張楚は大軍を喪失した。また、陳勝は功績を挙げた諸将を処刑するなどしたため、急速に求心力を失いつつあった。

 張耳と陳余とともに趙に向かっていた武臣は10城を下したが、その他の城は籠城して降伏しなかった。説客の蒯通(かいとう)は各地の県令を安堵してそれを喧伝することを進言した。武臣はこれに従い、30城以上が降伏した。こうして武臣はかつての趙の首都邯鄲に易々入ることができた。ここで、張耳と陳余は、周章が敗北したこと、陳勝が讒言に惑わされて諸将を殺したことを聞き、武臣に自ら趙王となるよう進言した。武臣はこれに従い、自立して王となった。陳勝は武臣の一族を殺し趙を攻撃しようとしたが、秦に押されている戦況の中で趙も敵に回すことはできず、渋々これを認めざるを得なかった。

 趙の群臣は、秦も陳勝も戦いが終われば趙を攻めてくると察し、この期に勢力を拡大しようとした。燕に韓広(かんこう)、常山に李良(りりょう)を派遣した。韓広は燕を平定すると、国人に推挙されて武臣と同様に燕王となった。李良は常山を平定し、復命すると武臣の命で太原の攻略に向かった。

 一方、魏に向かった周市は魏を平定し、斉をも攻略しようとした。狄に迫ると、斉の王族田儋(でんたん)が県令を殺して斉王として自立し、周市を追い返した。魏の国人は周市を王に立てようとしたが、周市は固辞し、魏の後裔を立てるべきであると主張した。そこで、陳勝の下にいた魏咎(ぎきゅう)に白羽の矢が立ち、陳には魏咎を迎えるための使者が5度往復した。ついに陳勝も折れて魏咎を魏王とし、周市は宰相となった。

 劉邦は、沛から起こり、出身地の豊邑や孟嘗君の領地だった薛を押さえていた。このとき、魏の周市は魏の勢力の延長線上にある劉邦が支配する地域に手を伸ばしつつあった。豊邑を預かる雍歯(ようし)に使者を送り魏に帰順することを勧めた。雍歯は劉邦の風下に立つことを好まなかったため、魏に帰順した。怒った劉邦は豊邑を攻めたが落とすことができなかった。

 滎陽では、呉広李由を包囲していたが、章邯の反攻が迫りつつあった。将軍の田臧(でんぞう)は呉広が用兵に疎く、呉広の指揮では秦には勝てないと懸念し、呉広を殺し陳勝のもとにその首を送った。陳勝は田臧を令尹(れいいん・楚における宰相)に任じた。田臧は滎陽に一部の兵を残し、精兵を率いて章邯と戦ったが、敗れて田臧は戦死した。章邯は滎陽の残りの軍も破り、さらに張楚の2将を破って陳に到達した。陳勝も戦場に出て督戦したが、章邯はこれを破った。陳勝は敗走し、途中で御者に殺された。陳勝が王になって半年後のことであった。

項梁の勢力拡大

 東海郡で蜂起した秦嘉は、泗水流域に勢力を伸ばし、彭城などを支配下におさめていた。陳勝が敗れたと聞くと、楚の貴族の血を引く景駒(けいく)を楚王に擁立した。魏と秦嘉に挟まれた劉邦は、秦嘉の配下に入った。このころ、章邯は楚の北部の略定に入っており、これを迎撃するため秦嘉は斉に使者を派遣した。斉王田儋は、秦嘉が斉に相談なく楚王を立てたことを責め、使者を斬った。

 陳勝のもとにあった将軍呂臣は、陳勝の死後兵を集めて陳を取り返した。しかし、章邯の別将がこれを破り陳は秦の支配下に入った。鄱陽(はよう)で挙兵した黥布(げいふ)は、再び兵を集めた呂臣と合流し、秦軍を破り陳を奪回した。

 呉で挙兵した項梁は、会稽郡を制圧し、精兵8000人を得ていた。陳勝の使者召平(しょうへい)は、陳勝の敗北を聞くと呉に赴き、陳勝の命と偽って、項梁を上柱国(じょうちゅうこく・令尹(宰相)に次ぐ位)に任じ、秦を討つよう命じた。これを受けた項梁は精兵8000人を率いて長江を渡り北上した。楚の名門である項氏へ輿望は大きく、淮水を超えて下邳(かひ)に至るころには黥布なども合流し、その兵力は6,7万人にまで拡大していた。

 このころ章邯の別将が彭城に迫ってきたため、秦嘉は劉邦らに攻撃を命じたが敗れた。劉邦は兵を再び集めて碭(とう)を攻め、3日でこれを落とし、5,6千の兵を手に入れ、豊邑を再び攻撃した。この間に、項梁は彭城に向かい、秦嘉と対峙した。項梁は陳勝の上柱国としての立場から、秦嘉が勝手に楚王を擁立したことを否定し、秦嘉と戦ってこれを打ち破り、その軍を配下に収めた。次第に、陳勝が死んだことは間違いないと判明してきたので、項梁は薛に諸将を集めて会議を行った。会議に馳せ参じた范増の進言により、項梁は楚王の後裔を立てることとし、懐王を擁立した。項梁自体は、この会議を主催することにより、楚国内での主導権を確立し、自ら武信君と号した。劉邦はこの会議に参加し、項梁と会見した。劉邦は項梁の配下に入り、5千の兵と10人の将校を与えられた。すぐに劉邦は豊邑を攻めてこれを抜いた。また、このころ張良と劉邦は会い、意気投合した。張良は韓の宰相の家柄であり、始皇帝暗殺を試みたこともある反秦活動の大物であったが、張良は劉邦をリーダーとして高く評価したのである。薛の会議において、張良は韓の公子成を韓王に推挙し、項梁がこれを認めたため、張良は韓の大臣となったが、その後も韓王の配下という形を取りながら、張良は劉邦のために行動していくことになる。

章邯と項梁の激突

 陳勝を破った章邯の本隊は、魏の攻撃に移った。魏王は周市を楚と斉に派遣し、救援を求めた。楚は項它(こうた)を援軍に送り、斉は斉王田儋自ら救援に赴いた。章邯は周市を破り、臨済の魏王を包囲した。章邯は夜襲をかけて、魏と斉の軍を大破し、斉王田儋を戦死させた。魏王咎は住民のために降伏し、自らは火に飛び込んで自殺した。

 斉では、田儋の死を受けて、秦に滅ぼされる前の斉王の弟田仮を王に立てた。田儋の弟田栄(でんえい)は、敗残兵をまとめて鉅野沢(きょやたく)の北の東阿に撤退した。章邯はこれを追撃し田栄を包囲した。項梁は東阿に向かい、章邯と戦いこれを破った。田栄は田仮を放逐し、田儋の子田市(でんし)を斉王に擁立し、自らは宰相となり、弟の田横(でんおう)を将軍として斉の地を平定させた。

 項梁は章邯を追撃し、濮陽(ぼくよう)で章邯を破った。章邯は兵をまとめて濮陽を堅く守らせ、本国からの増援を待った。項梁は秦の増援を見て田栄にも出兵を促したが、田栄は楚に亡命した田仮を殺すよう要求し、懐王がこれを拒んだため、田栄は兵を出さなかった。項羽は劉邦ら別働隊を率いて1城を下し、さらに定陶(ていとう)を攻撃した。定陶は守りが堅いため、項羽は西に向かい、三川郡守の李由と戦って大破し、李由を斬った。項梁は自ら定陶を攻めてこれを抜いた。連戦連勝の項梁は油断の気配があった。楚人宋義(そうぎ)はこれを諫めたが、受け入れられず、項梁は宋義を斉への使者にして遠ざけた。

 秦は兵力を総動員して章邯に増援した。匈奴に備えていた王離の30万の軍も、ある程度章邯に元へ送られたと考えられる。章邯は強化された軍を率い、定陶を夜襲して楚軍を大破し、項梁を戦死させた。こうして楚は軍の主力を喪失した。

章邯・項梁進路略図

 別働隊を率いていた項羽は彭城に撤退した。項梁の死という事態を受けて、懐王は事態を収拾すべく彭城に進出し、楚軍を直接の自らの指揮下に置いた。もと陳勝の将軍である呂臣を司徒(軍事の長官)、呂臣の父呂青を令尹(宰相)とし、項氏の力を抑え、懐王自らが政戦両略を取り仕切ろうとした。劉邦は武安候に任じられ、碭郡の兵を任されることとなった。

章邯 趙を攻撃

 趙では、将軍李良が趙王武臣の姉に軽んじられたことに激怒し、そのまま邯鄲を襲って武臣らを殺害する事件が発生していた。張耳と陳余は急報を受けて脱出に成功し、もとの趙家の子孫趙歇(ちょうあつ)を擁立した。陳余は手勢をまとめて李良と戦ってこれを破った。李良は秦に奔り章邯の軍に身を投じた。

 章邯は趙の混乱を見逃さず、項梁を撃破した後、黄河を渡り、趙の攻撃に向かった。趙は、各国に援軍を要請し、楚にも援軍を要請した。懐王は、項梁の敗北を予見して名を上げた宋義を上将軍とし、項羽を次将、范増を末将とした救援軍を編成し、趙へ送った。一方、劉邦らを西方の攻略に送った。そして、正念場を乗り切るため、諸将に対して、最初に関中を平定したものを関中王とする、と約し、士気の向上を図った。

 救援軍を率いる宋義は途中の安陽で進軍を停止し、46日間に軍を留め、斉との合従を試みた。この間に、章邯は電撃的に趙の都邯鄲を攻め落とした。邯鄲は極めて守りの堅い大都市であり、その堅固さは、かつて白起も「実に未だ攻め易からず」と評して王命に反してでも攻撃を肯んじなかった程である。章邯は邯鄲を破壊し、住民を強制移住させた。趙王と張耳は鉅鹿(きょろく)城に籠城した。陳余は常山に赴いて数万の兵を得て、鉅鹿の北に布陣した。章邯は王離らに鉅鹿を包囲させ、自らは鉅鹿の南に布陣し、甬道(ようどう・両側に壁を設けた輸送用の道路)を黄河まで築いて、黄河から王離に食料を補給した。



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