I think; therefore I am!


サイト内検索


魏の恵王(けいおう) 中国 戦国時代
魏の武候の子、名は罃(おう)。
公子の中緩と太子の位を争った。
斉と趙がこれに乗じて魏を攻めて打ち破ったが、 斉と趙の意見が一致しなかったため、辛くも包囲を逃れた。

紀元前371年に即位し、文候・武候と強勢を誇った魏を引き継いだ魏罃は、周辺諸国と盛んに交戦した。
魏の地理も、中原の中心地にあって、周辺を強国に囲まれており、戦争に巻き込まれやすい特性を有していた。
西方の秦では献公が即位し、国内の混乱を収めて魏に奪われた河西(かせい)の地の奪回を目指したため、秦との争いが激しくなった。
東方の斉では、威王が佞臣を誅殺し良臣を登用して国内をまとめ、力を増しつつあった。

紀元前364年、秦の献公は魏に対し攻勢に出た。
魏は趙の援軍を得て戦ったが、首級6万を挙げられて敗北した。
翌年、秦が再び魏に軍を向け少梁(河西の都市)を攻撃した。
魏は趙の援軍を受けて対抗し、これを押し返した。
翌紀元前362年、秦の献公は庶長(しょちょう・爵名)の国(こく)に命じて再び魏の少梁を攻撃した。
魏は破れ、太子の公孫座を捕虜にされる敗北を喫した。
このころ、宰相の公叔座(こうしゅくざ)が病に倒れた。
魏罃は直接見舞いに行き、後任人事について相談した。
公叔座は奇才の持ち主として家臣の
商鞅(公孫鞅)を推薦した。
魏罃はこれに納得しなかった。公叔座は人払いして王に言った、
「王がもし公孫鞅を用いられないのであれば、必ず殺し、国外に亡命するのをお防ぎください。」
魏罃は、これを許して去ったが、裏ではこのように言っていた。
「公叔の病状は深刻だ、悲しいことよ。私に国を公孫鞅に任せろなどという、なんと愚かなことか。」

公叔座の死後、商鞅は、秦の孝公が人材を求める布告を出したことを知り、魏を離れて秦に入った。
秦の孝公は商鞅を信認し、紀元前359年、孝公は決断し、商鞅を左庶長(さしょちょう)に任じて、ついに第一次の変法を断行させた。
変法は3年のうちに成果を上げ、民生は安定し軍は精強となった。
変法より5年後の紀元前354年、秦はついに魏に対して攻撃し、魏は敗れて少梁の地を奪われるに至った。
だが、このころの魏は中原に目が向いており、趙に対して攻勢を強め、中原の中小国に威を示していた。
紀元前353年、魏罃は趙の邯鄲を包囲した。趙は斉に救援を求めた。
斉は田忌を将とし孫臏を参謀として援軍を出した。
魏は邯鄲を占領した。孫臏は魏の本国を攻撃することで趙を救おうとした(囲魏救趙の計)。
魏は軍を戻さざるを得なくなり、斉軍と桂陵の地で激突して敗れた(桂陵の戦い)。
翌紀元前352年、魏の敗戦を受けて、諸侯は魏の襄陵を包囲した。
秦も商鞅を将として魏の安邑を包囲し、これを下した。
翌年魏は結局邯鄲を返還し、趙と和議を結んだ。

紀元前350年、秦では第一次変法の成功と安邑を下した軍功を得た商鞅は、
孝公の支持のもと第二次変法を行い、また、咸陽城を築いて遷都した。
第二次変法後、商鞅は秦の宰相となった。
また、秦は強勢を増し、紀元前343年には周王から孝公に伯の称号が送られ、翌年孝公は周王を奉じて諸侯と会合し、周王に参朝させた。

一方、このころ魏罃も、中原の中小諸侯を従えて周王に参朝するなど力を再び蓄えつつあった。
商鞅は魏罃に、魏は強大であり、天子(天意を受けた王の意で、夏・殷・周の王これまでが天子とされていた。)の儀容を示し、
斉と楚を討てば天下を従えられるだろうとけしかけた。
これに喜んだ魏罃は、紀元前342年に逢沢で諸侯と会同し、夏王を称して、自ら天子となろうとした。
斉は特にこれに反発した。紀元前341年、魏は韓を攻め、韓は斉に援軍を求めた。
斉は出撃を遅らせつつも、魏の疲弊を待って田忌を将とし孫臏を参謀として援軍を発した(詳細は馬陵の戦い前夜 戦国策を参照)
これに対し、魏は太子申(しん)を上将軍、龐涓(ほうけん)を将軍として大軍を発し、斉と決戦しようとした。
孫臏は魏人が斉軍を軽視していることに目をつけ、後退しながら一日ごとにかまどの数を減らして逃亡兵が続出しているようにみせかけた。
魏将龐涓はこれをみて斉軍の過半数が逃亡したと思い、強行軍で斉軍を追跡した。
孫臏は追撃速度を計り、道幅の狭い馬陵の地に伏兵を置いた。
夕方、魏軍が馬陵に至ると伏兵に両側から矢を猛烈に射撃させ、大混乱に陥れた。
斉は魏軍に大勝し、龐涓を自殺させ太子申を虜にした(馬陵の戦い)。
この敗戦が魏にとって国力低下への決定的ターニングポイントとなった。

紀元前340年、秦の宰相商鞅は自らけしかけて生じた機会を捉えるべく、
魏の攻撃を孝公に進言し、商鞅が将軍となって魏を攻撃した。
迎撃する魏の将軍は公子卭(こう)であり、商鞅はかつて知り合いであった。
商鞅は公子卭に書簡を送り、休戦の上酒を酌み交わし和睦しようと持ちかけた。
公子卭はこれに応じ、会盟の上酒を飲んだ。
商鞅は伏兵を使い騙まし討ちで公子卭を捕虜にし、指揮官を失った魏軍を打ち破って大勝した。
秦の領地は黄河に及ぶに至り、魏は秦との国境に近くなりすぎた都の安邑を放棄して大梁に遷都した。
魏罃は「寡人恨むらくは公叔座の言を用いざりしことを。」と後悔した。
紀元前338年には、秦と岸門で戦い、将軍魏錯を虜にされた。
その後、商鞅は誅殺されたが、孝公のあとを継いだ秦の恵文君は変法は戻さず、
魏にとって秦の攻勢が最大の課題であり続けた。

魏罃は斉との和睦につとめ、互いに王号を使用することを承認し、
紀元前334年、改元してついに王号を称すに至った。以後、恵王と称す。
恵王は敗戦の憂き目に会い、国力を復活させるため、礼を尽くして賢者を招いた。
当時の大物学者である、騶衍・淳于髠や孟子が大梁に来た。
いわゆる五十歩百歩のやりとりは、 孟子と恵王の間で交わされたものである。

秦の攻勢はいよいよ激しくなった。
紀元前332年、恵王は陰晋の地を秦に割譲した。
翌年、秦は魏と戦い、魏将竜虎を虜にし首級8万を斬った。
さらに翌年、公孫衍(こうそんえん 通称は犀首(さいしゅ))が魏の竜賈(りゅうか)の軍4万5千を破り、焦・曲沃を包囲した。
恵王は河西の地を秦に割譲して和睦した。
翌紀元前329年、秦は樗里疾(ちょりしつ)らを登用し、ついに黄河をわたって攻勢に出た。
樗里疾が曲沃を制圧し、ほかに焦など合計4邑をとった。

紀元前328年、秦の恵文君は公子華と張儀に魏の蒲陽(ほよう)を包囲させてこれを下した。
張儀は恵文君に進言して蒲陽を魏に返還し公子を人質に送ったうえで、
魏の恵王に説いて上郡(咸陽の北方のオルドス方面の手前の地域)の15県を秦に割譲させた。
東方に遷った魏にはもとより維持が難しく、領地の交換を行ったのである。
張儀はこの功績により宰相に任命された。公孫衍は張儀と不和であり秦を離れ魏に入った。
張儀は魏を秦の保護国とする構想を抱いていた。
翌紀元前327年、張儀は魏に焦・曲沃を返還した。
紀元前325年、張儀の進言により秦は王号を称すこととなった。以後、恵文君を恵王(恵文王)と称す。
張儀が陝(せん)を攻略し、この地を魏に与えた。

秦が張儀の進言により王号を称するに至ると、魏の恵王は韓が王号を称することを認め、
さらに公孫衍が趙・燕・中山を誘って5カ国を束ね、互いに王号を使用することを認め合った(五国相王)。
ここに、公孫衍が緩やかに束ねる三晋(魏・趙・韓)・燕・中山が秦・楚連合と斉に対抗する構図が出来上がった。

公孫衍は魏軍を率いて斉と承匡(しょうきょう)の地で戦ったが敗れた。
公孫衍は一時に失脚し、魏の恵王は敗戦を受けて張儀を通じて秦と和睦する方針に傾いた。
張儀はこのなかで紀元前323年、楚・斉・魏と齧桑(けっそう)の地での会盟を主催し、
公孫衍が一時構築した5国の連合を打破した。
張儀は秦に戻ると宰相の任を外れ、翌年魏の恵王は張儀を宰相とした。
張儀は、魏を秦に臣従させ、諸国がこれにならうように仕向けようとしていた。

だが、張儀の思惑通りにはなかなかいかなかった。
魏の国内では、公孫衍が張儀を失脚させる工作を盛んに行っていた。
また、この頃、蘇秦(そしん)が燕と趙で用いられ、各国を回り合従同盟を説いていた。
この情勢下で、恵王は張儀の言葉を聞かず、秦の恵王はこれに怒り、魏の曲沃と平周の地を奪った。
しかし、合従の機運はますます高まり、魏では恵王は張儀に代わって公孫衍を宰相とし、蘇秦は魏・韓・趙・楚・燕・斉の六国に合従同盟を成立させるに至った。
紀元前319年に恵王は死去した。

この後、張儀は魏を去り、合従軍は函谷関に迫ったが、秦は樗里疾を起用してこれを打ち破った。

参考:
秦史4 商君の変法
秦史5 張儀の活躍
孟子 梁惠王章句上 五十歩百歩 -王道の始め-


alias,魏罃,梁惠王

荊軻(けいか) 中国 戦国時代
読書と撃剣を好んだ処士。
もと衛人で、衛に仕官を求めたが用いられず、各地で名士と交際して燕に落ち着いた。

燕の太子丹は秦に人質になっていたが、脱走して燕に戻っていた。
秦の勢力が迫ってきていることを憂え、 対策に頭を悩ませていた。
そんな折、秦から樊於期(はんおき)将軍が亡命してきた。
秦は樊於期の一族を皆殺しにし、 樊於期本人にも多額の懸賞と所領をかけていた。
秦に攻撃の口実を与えるべきではないと反対する臣下もいたが、
丹は見捨てることが出来ず、亡命を許可した。
そんな折、 紹介されたのが文武両道の誉れ高き荊軻だった。
丹は、秦王に会ってこれを脅し、 諸侯の土地を返還しないのであれば殺すように依頼した。
難色を示す荊軻に丹は取りすがり、ついに荊軻はこれを受け入れた。
丹は荊軻に最上級の待遇を与えた。

紀元前227年、既に秦の
王翦は趙を破り、燕に迫っていた。
公子丹の催促でついに荊軻は出発を決めた。
秦王に確実に謁見するために荊軻は二つのものを要求した。
ひとつは肥沃な地・督亢の地図。
地図を渡すことは、その地そのものを献上するということである。
もうひとつは、樊将軍の首だった。
丹が二つ目の首の方に難色を示したため、
荊軻は自ら樊於期に会いに行き、 秦王に復讐するため首を預けてくれぬかと頼んだ。
樊於期は、「此れ臣の日夜切歯拊心せしもの也。 乃ち今教えを聞くを得たり。」
といって、自ら首を刎ねた。
また、丹が鋭い匕首(あいくち)を探し求めさせたところ、
趙の名工の作によるものを見つけた。
毒薬を塗って死刑囚に用いると、かすり傷でも即死するほどだった。

出発の日、燕の要人たちは、国境の易水まで荊軻を見送った。
荊軻はこう歌った、
「風は蕭々として易水寒し 壮士ひとたび去って復た還らず」
車に乗った荊軻は二度と振り返らなかった。

燕が樊将軍の首と肥沃な土地を献じて臣従すると聞いて、
秦王政は非常に喜び、礼を尽くして使者を迎えた。
謁見の際、荊軻は秦王の言に従って地図を秦王に見せた。
それを開き終わったとき、匕首が現れ、荊軻はその瞬間に秦王に飛びかかった。
秦王はとっさに避けた。荊軻が王を追いかける間、群臣たちは狼狽するのみだった。
勅命無しに、武器を携帯する者は、殿上に上がることを許されていないのだった。
ただ侍医の夏無且が薬の箱を投げつけ、この隙に王が剣を抜き、荊軻を斬った。
生かしておいて太子に詫びさせようとしたのが失敗だった、と
言い残し、荊軻は秦王の側近に絶命せしめられた。

参考:
王翦


alias,

黥布(げいふ) 中国 前漢
本名は、英布。
連座して、黥刑(入れ墨の刑)に処されたので、黥布と呼ばれる。
刑罰として驪山の始皇帝陵の工事に駆り出されたが、逃亡し、
盗賊の頭としてしばらくは活動していた。
陳勝・呉広の乱が起きるに至り、(参考:
十八史略 燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや 漢楚斉戦記2 章邯の猛反攻)
一味を率いて、秦に背いた鄱陽の県令、呉芮のもとへ馳せ参じた。
その後、項羽の叔父の項梁に従い、項梁が秦将章邯に敗れた後は、項羽に従った。
黥布は、そのもとで、常に先鋒として戦い、その勝利に大きく貢献してきた。
鴻門の会直前、劉邦は武将を派遣して函谷関を守らせていたが、
このとき当陽君となっていた黥布は奇襲してこれを破った。
(参考:史記 鴻門の会前夜)
やがて項羽は勢力を確立して西楚の覇王を号し、論功行賞を行った。
このとき、黥布は九江王に封じられた。
しかし、その後は、項羽の要請に対して消極的になっていた。
劉邦の派遣した随何は、この点を突き、
楚の使者に黥布は漢についたなどと勝手に言って、
既成事実を作り、説得。
これにより黥布は漢につくことになった
黥布は楚の大司馬周殷を誘って漢につけ、垓下の戦いにも参加、
淮南王となって九江郡・廬江郡・衡山郡・予章郡を統治した。
しかし、韓信・彭越が次々と殺されていくのを見、
B.C.196年、黥布は漢に反旗を翻した
劉邦の親征にあって敗北、敗走しているところ、呉芮に欺かれ殺された。

参考:
史記 鴻門の会前夜

漢楚斉戦記2 章邯の猛反攻

alias,英布 当陽君

蹇叔(けんしゅく) 中国 春秋時代
蹇叔は秦の繆公に使えた名臣として知られる。子に西乞術(せいきつじゅつ)・白乙兵(はくおつへい)がいる。

蹇叔は斉にいるとき、困窮している百里奚と会い、これを助けた。 百里奚は蹇叔のつてで斉に仕官することを望んだが、蹇叔は斉の状況からこれをとどめた。 その後、斉では襄公・公孫無知と連続して叛乱が起きた。 (さらにその後に覇者となった桓公が即位した。参考:斉桓公 -最初の覇者- 史記) 百里奚は蹇叔のおかげで乱を逃れたことを感謝した。

その後は、百里奚周で王子頽(たい)に仕えようとしていた。 蹇叔はやめるようにいい、それに従った百里奚は周を去った。 その後、王子頽は恵王が追放されたあとに一時的に即位するが、 鄭と虢が恵王を奉じて周を攻め、頽は殺された。

その後、百里奚は虞に仕官した。 蹇叔はこれに反対したが、百里奚は聞かなかった。 百里奚は当面の俸禄を必要としていた。

紀元前655年、晋は虞を通過して虢を討ち、帰りに虞を攻撃した。 虞公と百里奚は虜にされた。 このころ秦の繆公は、晋の太子申生や公子夷吾の姉を妻に迎えることになり、 晋の献公は百里奚をその付き人として一緒に秦に送った。 百里奚は一度楚に逃亡してとらえられたが、その賢明さを聞いた繆公は人を遣り、羊の皮5枚で百里奚を贖わせた。 繆公は百里奚の枷を外して国政を相談しようとした。 百里奚は、亡国の臣であり相談にあずかる価値はない、と辞退したが、繆公は強いて語ること3日におよび、国政を任せることにした。 百里奚はかつて蹇叔の意見を聴いて乱を逃れ、蹇叔の意見を聴かなかったため虜になった話をし、 繆公に蹇叔を推挙した。 蹇叔は繆公からの招きを受けて秦の上大夫となった。

紀元前628年、晋の文公が死去し、襄公が立った。同年、鄭で秦に内応しようとする者があらわれ、繆公は出兵するべきかどうか百里奚と蹇叔に諮った。 蹇叔と百里奚は、鄭は数か国を超えた遠方にあり、メリットはなくやめるべきだと進言したが、繆公は聞かず、 翌紀元前627年、百里奚の子孟明視(もうめいし)と蹇叔の子西乞術(せいきつじゅつ)および白乙兵(はくおつへい)を将軍として、軍を派遣した。 途中、晋と周を通過し、周の東方約40kmの滑に至って、偶然鄭の商人と遭遇し、鄭に出兵が露見しているのではと考えた3将は滑を攻撃して引き返した。 晋の文公の謀臣先軫は、即位したばかりの晋の襄公に、秦君は蹇叔や他多くの意見に背き、 孤児となった襄公を侮って喪中に乗じて同姓の滑を滅ぼしたのであり、討つべきである、と進言した。 晋の襄公はこれを聴き、喪服を墨で染めて秦軍を攻撃して殲滅し、3将を虜にした。 晋の文公夫人は繆公の娘であり、3将のために命乞いをしたため、3将は秦に返された。 繆公は喪服で郊外まで迎えに行き、3将の地位を安堵して、雪辱を誓った

翌紀元前625年、孟明視らを将として晋を攻撃し、1城を奪回して撤退した。 紀元前624年、孟明視らを将として再度晋を攻撃した。孟明視らは黄河を渡ると船を焼き、決死の覚悟で晋と会戦し、大勝した。 繆公は黄河を渡ってかつて孟明視らが晋に敗れた地に赴き、死者を弔い、喪を発して3日間の哭礼を行った。そして次のように誓った。
「士卒らよ、聞け、汝らに誓って告げよう。
いにしえの人は古老の意見を聴き、過ちを犯さなかったが、
余は蹇叔と百里奚の言葉を聴かなかった。
そのことを思い、余の過ちを後世に残すため、この誓いを立てるのである。」

李斯は始皇帝に外国からの客臣の功を説明する中で(諫逐客書)、このように述べている。
繆公士を求め、西のかた由余を戎(じゆう)に取り、
東のかた百里奚を宛に得、
蹇叔を宋より迎へ、丕豹(ひひょう)・公孫支(こうそんし)晋より来たる。
此の五子は秦に産せざるも、而して繆公之を用い、
国を并(あは)すこと二十、遂に西戎に覇たり。


参考:
秦史2 繆公の時代
諫逐客書

alias,


戻る
Top