王翦
I think; therefore I am!



趙との戦い

王翦(おうせん)は、秦の始皇帝(秦王政)時代の将軍である。
その名が歴史に現れるのは、趙との戦いからである。
趙と秦は、長く戦争状態にあり、紀元前260年(秦昭襄王47年)年には、
秦将白起が長平の戦いで 45万を超える趙軍を撃破し、
降伏した趙の40万もの兵を、少年兵140人を除いて これをことごとく生き埋めにした。
趙は徴兵可能な男子の大部分を失って弱体化したが、
名将廉頗・李牧の活躍で、26年を経ても未だその社稷を保っていた。

紀元前236年(始皇11年)、一軍の大将となった王翦は、
副将桓齮(かんぎ)・末将楊端和(ようたんわ)らとともに、 趙都邯鄲の南にある、鄴(ぎょう)を攻撃した。
鄴はかつて魏の文侯の時代、西門豹(せいもんひょう)が発展させた名都であり、その攻略は困難を極めた。
そこで王翦はまず周辺の9城を占拠した。

二将に鄴の攻囲を続けさせるとともに、自らはさらに、 東方の閼与(あつよ)と橑楊(ろうよう)を占拠して再び合流した。
王翦は、全軍のうち精鋭2割を選りすぐって、鄴を攻めこれを陥落させた。

引き続き、桓齮が趙を攻め、首級10万をとり平陽を陥落させた。
そこで、趙は李牧を大将として対抗し、桓齮を破った。
紀元前230年(始皇17年)、秦は内史(首都長官)の謄(とう)に韓を攻めさせて滅ぼした。こうして戦国七雄の一角が初めて滅んだ。

紀元前229年(始皇18年)、王翦は、楊端和・羌瘣(きょうかい)李信らとともに、 大軍を以て再び趙を攻めた。
羌瘣は北方の代を討ち、楊端和は邯鄲を包囲した。
李信は趙の西北部方面(太原・雲中)に出撃した。

王翦は井陘を抜き、邯鄲の包囲に参加した。
趙にはいまだ名将李牧がおり、 趙都邯鄲は簡単には落ちなかった。
王翦は趙臣を買収して李牧を讒言させ、これを前線から取り除いた。
翌年ついに邯鄲を抜き、 平陽で趙王を捕らえ、計一年余りを要して、
ついにその国土をことごとく平定し、秦の一郡とした。
そのまま中山に駐屯し、燕を圧迫した。

政(始皇帝)は、この子供時代に人質として過ごした邯鄲に、
自ら赴いて敵対関係にあったものを生き埋めにすることで復讐した。
趙の公子の嘉が一族を率いて代で自立して王となり、 燕と共闘体制をとった。

 

 

燕による秦王暗殺計画

紀元前227年(始皇20年)、情勢の緊迫化を受けて、燕の公子丹が送り込んだ刺客・荊軻が秦王政の暗殺を謀った。
燕の太子丹は秦に人質になっていたが、脱走して燕に戻っていた。
秦の勢力が迫ってきていることを憂え、 対策に頭を悩ませていた。

そこで荊軻に、秦王に会ってこれを脅し、 諸侯の土地を返還しないのであれば殺すように依頼したのである。
荊軻は秦王政に迫ったが、秦王政は間一髪で避け、結局、暗殺計画は失敗した。
怒った政は王翦と辛勝(将軍の名)に燕に対する攻撃を命じた。
王翦は、燕・代連合軍を易水の西で撃破した。

始皇21年、王翦は燕都薊城を陥落させた。
燕王喜と太子丹は精鋭を率いて遼東に逃れて篭城したが、 李信がこれを猛追撃した。
追い詰められた燕王は、もと趙の王族である代王嘉の進言を容れて、
太子丹の首を秦に献じたが、無意味であった。

 

 

王翦の一時引退と王賁の登場

燕王がいまだ遼東に篭っているとはいえ、
燕都を手に入れ事実上これを追い込んだ秦王は、
今度は、楚を討ちたいと思った。
燕との戦いで功績を上げた若手の将軍李信を、 秦王は勇武にして賢明とし、
楚を討つために必要な兵力を問うた。
李信は答えた、「20万あれば十分でしょう。」
王は、王翦にも諮問した。
王翦は答えた、「60万の兵力がなければ無理でしょう。」
始皇帝はこう言った。
「王将軍も老いてしまった。なんと臆病なことよ。
李将軍は勇壮で、その言はやはり正しい。」
そして、李信と蒙恬に命じて、20万の兵を与え、楚を攻撃させた。
王翦は、意見が用いられなかったので、
老病を理由にして、引退して故郷へ帰った。

王翦は引退したが、王翦には王賁(おうほん)という子がおり、極めて有能な将軍であった。
燕を攻めた際にも王翦の軍に従軍しており、 燕都薊城に対して王翦に先立ちこれを攻撃している。

紀元前225年(始皇22年)、王賁を大将として、出兵が行われた。
まずは、楚と戦って、これに勝利した。
そのまま、引き返して、今度は魏を撃った。
魏都大梁を抜くのに、王賁は奇策を用いた。
黄河から水路を導いて水を引き、 大梁に注いで水攻めしたのである。
これにより大梁城は崩壊し、魏王は降伏した。
秦は魏の領地をことごとく収めた。

一方、20万の兵力で楚を攻める李信と蒙恬の軍は、
緒戦、それぞれ平輿・寝(地名)を攻めて大勝した。
その後、西進して城父で合流したが、 楚軍は強行軍でこれを追跡していた。
三日三晩に及ぶ戦いで、楚は秦軍を大破し、
7人の都尉(中級指揮官)を殺して、李信を敗走させた。

秦王はこれを聞いて激怒した。
そして、王翦の考えが正しかったことを悟り、自ら王翦の隠居していたところへ赴いた。
王はこう陳謝した、
「寡人が将軍の計を用いなかったばかりに、
果たして李信が秦軍の名を辱めてしまった。
今、楚の軍勢は日ごとに西進しているという。
将軍は病気と言えども、寡人を見捨てはしないだろう?」
王翦は辞退して言った、
「老臣は病み疲れ、頭も混乱しています。
大王は、より賢い将軍をお選びください。」
政は「やめてくれ。そんなことは言わないでくれ。」と謝した。
王翦は答えた、
「大王がやむを得ず臣を用いられますなら、 60万の兵力がなければ出来ません。」
王は「将軍の計の通りにしよう。」と言った。
こうして、秦王は若手の李信・蒙恬に代えて、王翦を大将、蒙恬の父蒙武を副将とした重厚な体制で、
動員可能兵力のほとんどを投入した史上最大の出兵を行うことにしたのである。


 

南の大国の征服


紀元前224年(始皇23年)、王翦は60万の兵を率いて楚に向かった。
楚は、王翦が大兵力で攻めてくると聞き、 こちらもまた国中の兵を動員して迎撃態勢をとった。
秦王は自ら、王翦を灞水まで見送った。
途中、王翦は上等の所領・邸宅・庭園をしきりに懇願し、
古くから秦を守る要塞地点であった函谷関に着いてからも、
5度も使者を派遣して、実り多き所領を請願した。
秦王は、貧乏を憂える必要などあろうか、と言って笑った。
ある人が王翦に、ねだり過ぎでしょう、といった。
王翦は答えた、
「そうではないのだ。
もとより秦王は粗雑で猜疑心が強いのに、 私に今秦の全兵力を委ねている。
子孫のために所領や邸宅を請って地位を固めようとしなければ、
かえって王に私を疑わせることになるのではないか。」

王翦は、陣を固めて守りに徹し、士卒を休養させ、好待遇を与えた。
楚軍は何度も戦いを仕掛けたが、王翦は動かなかった。
王翦が士卒の様子を部下に見に行かせると、 石を投げたり飛び跳ねたりして遊んでいた。
王翦はこれを聞いて「使える」と言った。

楚軍は、何度も挑戦したが王翦が動かないので、東へ撤退を始めた。

王翦は敵が油断したその機に討って出て、これを大破し、
敗走する楚軍を全軍を以て追撃した。
王翦は楚王を捕らえ、平輿に至るまでの地を占領した。
楚将項燕(項羽の祖父)が秦の昌平君を立てて王とし、 秦に叛旗を翻した。

翌年、王翦と蒙武が昌平君を討って戦死させ、 項燕も自殺に追い込み、楚軍は壊滅した。
楚の領域はことごとく秦の郡県となった。

 

統一への道


紀元前222年(始皇25年)、秦は、王賁を大将とし、李信も帯同する大軍を発した。
遼東に逃れていた燕王を討ち、これを虜にした。
返す刀で代王も捕らえ、北方を平定した。
一方、王翦は、併合した楚の領土を基地として南方の百越を討ち、
これを滅ぼして会稽郡を置いた。
斯くして、六国のうち、斉を除く五国が滅んで秦の郡県となった。

翌紀元前221年(始皇26年)、斉がついに秦と断交し、戦争準備を始めた。
秦は、王賁を燕から南下させ、斉を攻撃させた。
斉王は捕らえられ、斉も滅んだ。
ここに於いてついに秦は天下を統一した。
秦王政は、始皇帝と称するようになった。


王翦は六国のうちの半分である趙・燕・楚を征服し、その子王賁も魏・斉の二国を征服した。

最も早く滅んだ韓を除いた戦国七雄のうちの5国は、王翦・王賁親子の指揮の下に滅亡したのである。


特に参考となる文献

王翦は、史記において列伝(「白起王翦列伝第十三」)を立てられている。 また、始皇本紀にも記述がある。本記述も多くは下の参考文献に拠った。



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