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王翦(おうせん)
史 人物 王翦


王賁(おうほん) 中国 戦国時代
秦の将軍。王翦の子。項羽と戦って敗れた王離は王賁の子であるとされる。
紀元前225年、魏の首都である大梁を水攻めし、滅亡させた。
王賁による水攻めは、豊臣秀吉・黒田官兵衛らによる備中高松城水攻めよりも1800年以上前に行われた、大国の首都を水没させるという史上空前の水攻めであった。
紀元前222年、王翦の攻撃で遼東に逃れていた燕王を捕え、代王を討った。
紀元前221年、戦国七雄で最後に残っていた斉を滅ぼした。これによって秦は天下を統一した。

参考:
史 人物 王翦


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王莽(おうもう) 中国 前漢・新
元帝の皇后(王太后)の甥。
一時は不遇な日々を送っていたが、
その外戚としての地位を以て栄達を果たした。
平帝の死に際し、禅譲の約束をとりつけ、
A.D.8年遂に皇帝となり、新を建国した
王莽は儒者の一種であり、
「周礼(しゅうらい)」などの儒教の経典をもとに、
周代の政治を復古しようとし、
官制改革・豪族の解体(土地の国有と奴隷の禁止)
専売制の強化・物価統制・農民への低利融資などを行おうとしたが、
王莽にはそのような強大な命令権は無かった。
赤眉の乱の発生、群雄の相次ぐ挙兵を経て、劉玄の長安入城による混乱の中で、
武力という実力の不足していた王莽は、杜呉という商人に殺された。

参考:
史 総合 漢からローマへ、流血経由

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王離(おうり) 中国 秦
秦の将軍。王賁の子。
蒙恬の死後、オルドスに駐留する30万の軍を引き継いだ。
章邯の趙攻めに参戦し、鉅鹿で趙王と張耳を包囲した。
章邯は大軍に補給するため、鉅鹿から黄河まで甬道(ようどう・両側に壁を設けた輸送用の道路)を築いていた。
楚の趙救援軍を率いる項羽は、先鋒として黥布と蒲将軍に2万の兵で黄河を渡らせ、甬道を攻撃させた。
黥布と蒲将軍は章邯と渡り合い、補給を脅かした。
そのため、鉅鹿を包囲する王離の軍は、食糧が欠乏するようになった。
項羽は、この機に全軍を渡河させ、決死の覚悟で、甬道を守る章邯の部隊と戦ってこれを破った。
章邯は補給線を維持するため兵を黄河方面へ移動させた。
項羽は秦の兵力が分裂したこの期を見逃さず、王離は項羽に攻められ、捕虜にされた。
参考:
漢楚斉戦記1 陳勝・呉広の乱
漢楚斉戦記2 章邯の猛反攻
漢楚斉戦記3 項羽の登場


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織田信秀(おだのぶひで) 日本 戦国時代
尾張の守護代一族織田氏のうち、清洲三奉行と呼ばれた重臣の一人であり、織田信長の父である。
津島という有力な貿易港を有していたことが経済力の基礎となり、勢力を拡大していった。
1532年に那古野城(現在の名古屋城址内に当たるとされる)を今川氏豊より奇計を以て奪取した。
翌1533年に、津島近くの勝幡城から那古野城の南にある古渡城へ拠点を移動した。
さらに翌年の1534年に正室の長男として信長が生まれ、
家臣を後見人として信長を那古野城に住まわせた。
1540年には、松平氏が有していた三河の安祥城を攻略した。
このころには、信秀は清洲城の織田達勝に臣従する形をとりながら、尾張最大の勢力となっていた。

尾張北方の美濃では、斎藤道三が力をつけてきており、
1542年には守護の土岐頼芸を追放して、事実上美濃を治めるようになった。
信秀は土岐頼芸を保護して、1544年に朝倉氏と美濃に侵攻して、斎藤道三との戦いを始めた。
1545年、松平広忠が安祥城の奪還を試みて攻撃してきたが、信秀は大勝した。

1547年に信秀は松平広忠を攻め、耐えかねた松平広忠は駿河の今川義元に救援を求めた。
その際、人質として送られることになった松平広忠の子が後の徳川家康である。
家康は今川家へ行く途中で裏切りに会い、織田家の人質となった。
松平氏は今川家の傘下に入ることとなり、信秀は今川義元との戦いにも突入していった。
この年には美濃に攻め込んで、加納口の戦いにおいて斎藤道三に大敗を喫し、
信秀は2正面で戦わなければならない危険な状況に追い込まれた。
翌1548年、斎藤道三の方でも美濃三人衆の裏切りなどがあり、利害が一致したため、
信長の後見役でもある平手政秀の働きにより、織田信秀と斉藤道三は和議を結び、
道三の娘である濃姫が信長に嫁いで婚姻同盟が結ばれることとなった。

信秀は三河により近い末森城に拠点を移し、今川義元の勢力伸張に対抗するため、
三河に侵攻したが、小豆坂において敗北した。
清洲城では織田信友が家督を継ぎ、信秀を攻めたが翌1549年には和解した。
その1549には今川氏が2万の大軍を以て安祥城に2回にわたって攻め込み、
2度目においてついに陥落した。
こうして信秀は三河における拠点を失い、今川氏が三河を掌握した。
このとき、信長の兄信広が捕らえられたため、家康と人質交換が行われた。
以後、織田家は有数の大名となった今川義元の圧力に悩まされることとなる。
1552年、織田信秀は死亡した。信長が家督を継いだ。

参考:
織田戦記1 織田氏の尾張統一


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