漢楚斉戦記3
項羽の登場
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項羽 指揮権を奪取

 項羽は、宋義に対して早く趙を救援すべきであると進言したが、秦と趙を戦わせ、疲弊に乗じて秦を攻めるべきであるとして宋義は受け入れず、名指しは避けながらも項羽を批判する命令を下した。「猛きこと虎の如く、很ること羊の如く、貪ること狼の如く、強にして使うべからざる者は、皆之を斬る。」

 斉との合従交渉は成功し、宋義は息子の宋襄を斉の宰相として送り込むことになった。宋義は宋襄の送別の宴を大々的に開いた。これを見て項羽の怒りは限界に達した。力を合わせて秦を討つべきときに動こうとせず、食料が少ないのに自分の子のために大宴会を開き、自分の子の出世を第一にするとは。そもそも、疲弊に乗じるというが、趙は出来たばかりであり秦に破られ、秦がますます強くなるだろう。項羽は宋義を斬り捨て、宋義は斉と通じて謀反を起こしたので楚王の密命により誅殺したのだ、と軍中に触れ回り、斉に向かっている宋襄には刺客を放って殺害した。諸将は項羽を仮の上将軍に推挙した。項羽の威力は楚を震撼させ、名声は諸侯に轟いた。楚の懐王は現状を追認するしかなく、項羽を上将軍に任じた。

鉅鹿の戦い

 項羽は、秦の大軍の弱点を補給線に見出した。章邯は大軍に補給するため、鉅鹿から黄河まで甬道(ようどう・両側に壁を設けた輸送用の道路)を築いていた。項羽は、先鋒として黥布と蒲(ほ)将軍に2万の兵で黄河を渡らせ、甬道を攻撃させた。黥布と蒲将軍は章邯と渡り合い、補給を脅かした。そのため、鉅鹿を包囲する王離の軍は、食糧が欠乏するようになった。項羽は、この状況に決戦機を見出した。全軍を渡河させ、船を沈め、調理道具を壊し、兵舎を焼き捨てて、決死の覚悟を示した。3日分のみの食糧を携行し、甬道を守る章邯の部隊と戦ってこれを破った。章邯は補給線を維持するため兵を黄河方面へ移動させた。項羽は秦の兵力が分裂したこの期を見逃さず、鉅鹿で王離と戦い、これを大破して、王離を虜にした。当時、鉅鹿には諸侯の援軍が来ていたが、項羽が王離らの率いる秦軍を大破するにいたり、あまりの強さに諸侯の将兵は震撼した。項羽は諸侯の上将軍となり、諸侯の全軍を指揮することとなった。戦局は、楚に有利に傾いた。

 ようやく秦の包囲から解放された張耳は陳余が動かなかったことを執拗に責めた。陳余は怒り、親しい部下数百人を連れて張耳と袂を分かった。

 項羽は諸侯の兵を率いて優勢な兵力を持って章邯と対峙し、章邯は押されてじりじりと後退した。

劉邦の西進

 項梁の死後、懐王により独立して軍事行動を行えるようになった劉邦は、まず北に向かい秦軍と戦い2将を破った。その後、南下して鉅野沢の南の昌邑で鉅野沢で挙兵した彭越(ほうえつ)と会った。劉邦と彭越は協力関係を結び、昌邑を攻撃したが落とせなかった。兵力を増強して再び昌邑を攻めたが落とせずにいた。

 当初の劉邦は自分のもともとの勢力圏を拡大しようとしていたのである。しかし、項羽が王離を破り、章邯を圧迫するに至って状況が大きく変化した。関中に攻め込むことが現実的になったのである。劉邦は長躯西進して、大梁の南にある、高陽に至った。ここで、酈食其(れきいき)が劉邦に会見を求め、近くの陳留(ちんりゅう)は秦の食糧貯蔵の拠点であり奪取すべきことを説いた。また、酈食其は陳留県令と知り合いであった。そこで、劉邦は酈食其を使者として派遣し、追って陳留に向かった。陳留は降伏し、劉邦は陳留の食糧を入手した。また、酈食其の弟酈商(れきしょう)は4千人の兵を率いて挙兵していたが、兄の推挙を受けて劉邦に帰属しその将軍となった。

 その後、劉邦は大梁の対岸の開封(かいほう)を攻めたが、途中であきらめて西に向かい、秦将1名を破った。秦の一大軍事拠点がある滎陽にすでにかなり近い位置に来ていたが、劉邦は滎陽には向かわず、南に迂回して張良・韓成と合流した。張良は薛の会議で韓王に任じられた韓成とともに韓の地を攻略すべく戦っていたが、あまり進展していなかった。劉邦は韓の地を進み、穎陽(えいよう)・轘轅(かんえん)を攻略した。

 劉邦は韓の地をおおむね定めたが、趙が安全になったことを受けて、趙の別将司馬卬(しばこう)が黄河を渡り関中に突入しようとしていた。劉邦は関中に先陣を切るため、急いで黄河の渡し場を破壊して司馬卬の進路を妨害した。劉邦はこの時点ですでに関中王になることを目標としていたと考えて間違いない。その後南下して洛陽の東で秦軍と戦ったが、敗れ、韓の地に退却した。このときの劉邦の兵力は2万未満であり、函谷関から攻め込むことはまだ難しかった。そこで、劉邦は南下して南陽郡の攻略を始めた。もうひとつのルートである南側の武関から咸陽に向かうためである。韓王成は韓の地に留まり、張良を劉邦に同行させた。

重要地名略図


章邯の降伏

 戦局の悪化を受けて章邯は援軍の派遣を要請したが、秦本国の余力もなくなりつつあり、二世皇帝は問責の使者を送った。章邯は、司馬欣(しばきん)を派遣して本国の指示を仰ごうとした。このとき秦ではすでに趙高が丞相となって実権を握っており、李斯は趙高により死罪となっていた。司馬欣は3日間待ったが、趙高は宮中に入ることを許さず、司馬欣は恐れて逃げ帰った。趙高は刺客を司馬欣に差し向けたが、追いつかなかった。司馬欣は章邯に復命し、趙高が実権を掌握する今、勝っても負けても秦国内で立場がないことを報告した。

 一方、劉邦は南陽郡守と戦って破り、南陽郡守は南陽の中心都市宛に逃げ込み籠城した。劉邦は関中への侵攻を急いでいたため、宛を放置して関中に侵攻しようとしたが、張良がこれを諫めた。「沛公(劉邦)急ぎ入関せんと欲すと雖も、秦兵尚衆(おお)く険に距(ふせ)ぐ。今宛を下さざれば、宛後ろより撃ち、強秦前に在らん。此れ危き道なり。」そこで劉邦は別の道から引き返し、旗印を変えて新手が来たと思い込ませ、宛を三重に包囲した。南陽郡守は自殺しようとしたが、その食客の陳恢(ちんかい)という者が進み出て、劉邦に使者として赴いた。陳恢は、宛を攻撃しても放置しても窮地に陥ることを指摘し、関中一番乗りを果たすには、南陽郡守を始め各地の城守を安堵しその兵を編入して西進するしかないことを述べた。劉邦はこれを受け入れ、南陽郡守を殷候とし、陳恢に千戸の封邑を与えて、西進した。劉邦が侵攻すると、各地の秦の城邑は次々と降伏し、劉邦はその兵を収めた。途中、南方の異民族の指導者呉芮(ごぜい)が派遣した別将梅ミ(ばいけん)と会い、ともに攻めた。

 このとき、章邯の兵力は20万強、項羽の兵力は40万程度であった。章邯は項羽と連絡を取り、降伏の交渉を始めたが、条件がまとまらなかった。項羽は章邯を攻撃して勝利した。章邯は項羽に再度使者を送り、降伏を約しようとした。項羽のほうでも、もとより不作の年に、兵力が大幅に拡大したので食糧が少なくなってきており、降伏を受け入れることとした。項羽は、章邯を雍王(関中の王)に任じ、司馬欣をその上将軍として秦の兵20万を率いさせた。こうして秦は機動兵力を完全に喪失した。



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