漢楚斉戦記4
秦の滅亡
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劉邦関中を制圧

 趙高は、二世皇帝が怒って自分を殺すのではないかと思い、病と称して出仕しなかった。果たして二世皇帝は趙高に使者を送り、叛乱が収まらないことを問責した。このとき、劉邦は趙高に対して使者を送り秘密交渉を行っていた。その内容の詳細は伝わっていないが、趙高に対して交渉する内容といえば、当然、趙高には高位を保証した上で降伏させ、自らが関中王になるというものであっただろう。懐王は最初に関中を平定した者を関中王にすると約しており、大義名分も立てられる。趙高は死を免れるため二世皇帝を廃して子嬰(しえい)を立てることし、まず二世皇帝に強いて自殺させた。そして皇帝位を廃止し、子嬰を秦王として擁立した。しかし、子嬰は病と称して祖廟での儀式に参加しなかった。趙高が迎えに来たところ、子嬰は趙高を刺し殺し、その一族を皆殺しにした。

 劉邦は2万の兵で武関を急襲して突破した。咸陽の手前の最後の拠点嶢関(ぎょうかん)に至り、劉邦は戦闘準備に入った。張良が次のように進言した。秦軍は侮れないが、秦将は商人の子であり、利益で誘いやすいから、酈食其に財宝を持たせて買収するように、と。劉邦はこれに従った。秦将は果たして秦から離反し、ともに咸陽に攻め込みたいといった。劉邦はこれを許そうとしたが、張良が、兵士がおそらく従わないので、隙を衝いて打ち破るように、と進言したため、劉邦はそれにしたがって秦軍を壊滅させた。

 劉邦は覇上(はじょう)に至り、秦王子嬰は劉邦に降伏した。劉邦はこれを受け入れ、咸陽に向かい、宮殿の中に入った。宮殿の中は財宝・婦女が多数であり、劉邦をはじめとして諸将はこれに目を奪われて山分けしようとしていた。そんな中、劉邦軍団の後方勤務全般を取り仕切っている蕭何(しょうか)は財宝には目もくれず秦の行政資料を入手して保存した。秦は統一した天下に文書行政を行き渡らせており、このおかげで以後劉邦は各地の要塞・地理・人口などについて詳細な情報を利用することが出来たのである。劉邦配下の勇将樊噲(はんかい)は劉邦に宮殿を出るよう進言したが、劉邦は宮殿に魅せられて出ようとしなかった。張良が良薬は口に苦しの喩えを用いて強く諫めたため、ようやく劉邦は宮殿から出た。

 すでに項羽は章邯を降伏させ、60万の大軍を率いて洛陽に到達していた。項羽は章邯を関中の王に任じているため、劉邦の立場は微妙なものとなっていた。そこで、劉邦は関中の力、すなわち秦国の力を使って項羽の人事を拒絶しようとした。まず、劉邦は関中の官民に報復を行う意思がないことを明確化し、刑罰を簡略化した三章の法(殺人は死刑、傷害・窃盗は相応の刑とする)を喧伝した。また、自分の軍勢に略奪等を厳禁した。そうして関中の支持を取り付け、秦の行政機構はそのまま温存し、それを活用して急いで兵を徴発した。蕭何の行政手腕はすばらしく、すでに徴兵適格者の人口は相当に減っていたと思われるが、1か月強で8万の兵力を増強し劉邦の兵力は10万まで増強された。そして、函谷関に兵を派遣して項羽ら諸侯の侵入を防がせた。劉邦が行ったことは、戦国時代の規模に相当する秦の乗っ取りであった。函谷関で時間を稼ぐ間に、体制を整え、関中を喪失さえしなければ、その目的は達成される。

鴻門の会

 項羽が率いている60万のうち、20万は章邯とともに降伏した秦の兵であった。彼ら将軍に巻き込まれて降伏した兵士は、張良が劉邦に進言したときと同様に、項羽に心服していなかった。関中に入って20万が離反すれば、項羽は危険な状況に陥る。項羽は黥布・蒲将軍と相談し、章邯・司馬欣と都尉の董翳(とうえい)の3名以外はすべて殺害することとし、夜襲して秦兵20万人をことごとく突き落として殺した。

 項羽は秦の地を行く行く略定し、函谷関に至った。劉邦は函谷関に守備軍を派遣して、項羽を通さないようにしていた。劉邦が秦に復讐せず、これを乗っ取り、裏切って戦国時代の秦の再来させようとしていることに項羽は怒り、黥布らに函谷関を攻撃させた。黥布は間道を進んで劉邦の守備軍を破り、劉邦が頼みにしていた函谷関はあっさりと破られた。項羽はそのまま進軍し、咸陽の手前の鴻門に至った。項羽は諸侯の兵を引き連れその兵力は40万であったのに対し、劉邦の兵力は函谷関で時間を稼ぐことが出来なかったので、圧倒的に劣勢な10万に留まっていた。項羽は翌日の決戦を期して士卒を饗応した。

 項羽の一番年下の叔父である項伯は、張良と親しく、かつて救ってもらった恩義があった。項伯は張良を救うべく、夜、覇上の劉邦の陣営に行き、張良に会って自分と一緒に逃げるよう言った。張良は劉邦に伝えないのは不義であるとして、劉邦に会った。張良は劉邦に降伏を勧めた。劉邦はしばらく考えて降伏がやむ得ないことを悟った。張良は付き合いのある項伯の口添えで降伏を依頼することを進言した。張良は項伯を招きいれ、劉邦と会見させた。劉邦は項伯を兄の礼を以って迎え入れ、函谷関を閉じたのは盗賊に備えるためで他意はなく、項羽の到着を待っていたのである、と弁解した。そして、項伯に自分が項羽に逆らうつもりがないことを伝えるよう口添えするよう頼んだ。項伯はこれを了承し、翌日の早朝に自ら謝罪しに来るよう劉邦に言い、劉邦はこれを受け入れた。

 夜のうちに鴻門に戻った項伯は、項羽に劉邦の言葉を伝え、劉邦を許すよう進言した。項羽としても、本来敵は秦であり、劉邦の兵力は10万と、決して少なくはないことから、あえて戦うことはせず、降伏を認めることとした。こうして、劉邦は項羽に完全に降伏し、翌朝謝罪のために鴻門に赴いて直接謝罪した。これが世に言う鴻門の会である。范増は劉邦をこの機に殺害しようとしたが、項伯や樊噲・張良のおかげで虎口を脱することが出来た。

(参考:史記 項羽本紀第七 鴻門の会前夜  史記 項羽本紀第七 鴻門の会

秦の滅亡

 秦はすでに降伏しており、また秦を降伏させた劉邦もあっさり項羽に降伏したため、項羽としては当面の目的が急に無くなった格好となった。しかし、楚人に限らず、諸侯の秦への恨みは抑えることができないものであった。鴻門の会より数日後、項羽と諸侯の兵は咸陽を攻撃して破壊殺戮を行った。子嬰をはじめ秦の王族を殺して滅亡させ、財貨・子女を略奪して諸侯と分配し、宮殿を焼き払った。宮殿の火災は3か月に渡って続き、咸陽は破壊された。こうして栄華を誇った秦は滅亡した。

項羽による封建

 項羽は、本国の懐王に使者を送って報告した。懐王は項羽による章邯の雍王(関中の王)任命を認めず、「約の如くせよ」、すなわち、劉邦を関中の王とせよ、と返答し項羽を押さえ込もうとした。実際に力を持っているのは、関中にある項羽と項羽に従う諸侯であるが、項羽としても、楚王である懐王と明らかに対立することも大義名分上難しかった。そこで、懐王を義帝として、形式上各地の王の上位者ということにし、自らはそのもとで実質的に天下を主催するいわゆる「西楚の覇王」として君臨することにした。懐王の指示では劉邦を関中の王にしなければならないが、関中の王は秦王の再来であり、劉邦をそのまま関中の王とするわけにはいかなかった。項羽と范増は、秦の辺境である巴蜀の地も関中であるとして、劉邦は巴蜀の地の王とすることとした。劉邦は張良を通じて、項伯に働きかけを依頼し、漢中の地も領地に加えるよう項羽に要請した。項羽はこれを認め、劉邦は漢中と巴蜀の王すなわち漢王に任じられた。

 秦の再来を防ぐため、関中の地は3分割され、秦の故地である咸陽以西には意味を縮小した雍王として章邯が配置された。特に、章邯は劉邦を抑え込む役割を期待された。咸陽以東の部分には塞王として司馬欣が任じられ、オルドス方面(上郡)には翟(てき)王として董翳が任じられた。

 張耳は、趙の兵を率いて項羽に従っており、その功で趙の地を分割して常山王とされた。もとの趙王代王に配置転換された。劉邦が進路を妨害した趙の別将司馬卬は、その平定した地を治める殷王とされた。張耳の臣申陽(しんよう)は洛陽近辺を平定して項羽を迎えたので、洛陽を都とした河南王とされた。陳余は、将軍の職を辞していたため、南皮の3県を領地として与えられただけであった。

 自殺した魏咎の従弟の魏豹(ぎひょう)は、章邯の降伏後、懐王に数千の兵を与えられ、魏の20城を平定し懐王によって魏王に任じられていた。魏豹も項羽とともに精兵を率いて関中に入ったが、項羽はその領地を削って西魏王とし、東側は楚の自分の領地に組み込んむことにした。韓王成は、そのまま韓王とされた。

 項羽の下で最大の武勲を挙げた黥布は、九江王とされた。南方の異民族の指導者呉芮は、項羽とともに関中に入っており、もともとの領地を以て衡山王とされた。また、呉芮の別将梅ミも秦攻撃に功があったので、10万戸の候に封じられた。義帝のもとで楚の南部を平定した共敖(きょうごう)は、その地を以て臨江王とされた。

 項羽自身は、彭城を都とし、楚と魏の東部を含めた9郡の王となった。

 項羽は、関中の地におりながら、遠隔地の斉と燕に対しても封建を行った。

 項羽とともに関中に入った燕の将軍臧荼(ぞうと)は、燕王とされ、もとの燕王韓広遼東王に配置転換された。

 斉は、章邯に敗れて以来、楚が主催する対秦戦線には加わっていなかった。特に、項羽は項梁に援軍を出さなかった宰相田栄を恨んでいた。項羽は、斉の地をやはり3分割し、斉王田市膠東王に配置転換し、項羽に従った田都・田安をそれぞれ縮小した斉王・済北王とした。

 これらの封建が定まると、諸侯の連合軍は解散し、それぞれの領地に赴いた。




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