鴻門の会(鴻門之会)
-項羽本紀第七より-
I think; therefore I am!




本文(白文・書き下し文)
沛公旦日従百余騎、来見項王。
至鴻門、謝曰、
「臣与将軍戮力而攻秦。
将軍戦河北、臣戦河南。
然不自意、能先入関破秦、
得復見将軍於此。
今者有小人之言、令将軍与臣有郤。」
項王曰、
「此沛公左司馬曹無傷言之。
不然、籍何以至此。」

項王即日因留沛公与飲。
項王・項伯東嚮坐。
亜父南嚮坐。
亜父者、范増也。
沛公北嚮坐、張良西嚮侍。
范増数目項王、挙所佩玉玦、
以示之者三。
項王黙然不応。

范増起、出召項荘、謂曰、
「君王為人不忍。
若入、前為寿。
寿畢、請以剣舞、
因撃沛公於坐、殺之。
不者、若属皆且為所虜。」
荘則入為寿。
寿畢曰、
「君王与沛公飲。
軍中無以為楽。
請以剣舞。」
項王曰、
「諾。」
項荘抜剣起舞。
項伯亦抜剣起舞、常以身翼蔽沛公。
荘不得撃。

於是張良至軍門、見樊噲。
樊噲曰、
「今日之事何如。」
良曰、
「甚急。
今者項荘抜剣舞。
其意常在沛公也。」
噲曰、
「此迫矣。
臣請、入与之同命。」

噲即帯剣擁盾入軍門。
交戟之衛士、欲止不内。
樊噲側其盾、以撞衛士仆地。
遂入、披帷西嚮立、瞋目視項王。
頭髪上指、目眥尽裂。
項王按剣而跽曰、
「客何為者。」
張良曰、
「沛公之参乗、樊噲者也。」
項王曰、
「壮士、賜之卮酒。」
則与斗卮酒。
噲拝謝起、立而飲之。
項王曰、
「賜之彘肩。」
則与一生彘肩。
樊噲覆其盾於地、加彘肩上、
抜剣、切而啗之。
項王曰、
「壮士、能復飲乎。」
樊噲曰、
「臣死且不避、卮酒安足辞。
夫秦王有虎狼之心。
殺人如不能挙、
刑人如恐不勝。
天下皆叛之。
懐王与諸将約曰、
『先破秦入咸陽者、王之。』
今、沛公先破秦入咸陽。
豪毛不敢有所近。
封閉宮室、還軍霸上、
以待大王来。
故遣将守関者、備他盗出入与非常也。
労苦而功高如此、未有封侯之賞。
而聴細説、欲誅有功之人。
此亡秦之続耳。
窃為大王不取也。」
項王未有以応。
曰、
「坐。」
樊噲従良坐。
坐須臾、沛公起如廁、因招樊噲出。

沛公已出。
項王使都尉陳平召沛公。
沛公曰、
「今者出、未辞也。
為之奈何。」
樊噲曰、
「大行不顧細謹、大礼不辞小讓。
如今、人方為刀俎、我為魚肉。
何辞為。」
於是遂去。
乃令張良留謝。
良問曰、
「大王来何操。」
曰、
「我持白璧一双、欲献項王、
玉斗一双、欲与亜父、
会其怒、不敢献。
公為我献之。」
張良曰、
「謹諾。」

当是時、項王軍在鴻門下、
沛公軍在霸上、相去四十里。
沛公則置車騎、脱身独騎、
与樊噲・夏侯嬰・靳彊・紀信等
四人持剣盾歩走、従驪山下、道芷陽間行。
沛公謂張良曰、
「従此道至吾軍、不過二十里耳。
度我至軍中、公乃入。」

沛公已去、間至軍中。
張良入謝曰、
「沛公不勝桮杓、不能辞。
謹使臣良奉白璧一双、再拝献大王足下、
玉斗一双、再拝奉大将軍足下。」
項王曰、
「沛公安在。」
良曰、
「聞大王有意督過之、脱身独去、
已至軍矣。」
項王則受璧、置之坐上。
亜父受玉斗、置之地、抜剣撞而破之曰、
「唉、豎子不足與謀。
奪項王天下者、必沛公也。
吾属今為之虜矣。」

沛公至軍、立誅殺曹無傷。
沛公旦日百余騎を従へ、来たりて項王に見えんとす。
鴻門に至り、謝して曰はく、
「臣将軍と力を戮せて秦を攻む。
将軍は河北に戦ひ、臣は河南に戦ふ。
然れども自ら意はざりき、能く先づ関に入りて秦を破り、
復た将軍に此に見ゆることを得んとは。
今者小人の言有り、将軍をして臣と郤有らしむ。」と。
項王曰はく、
「此れ沛公の左司馬曹無傷之を言ふ。
然らずんば、籍何を以て此に至らん。」と。

項王即日因りて沛公を留めて与に飲む。
項王・項伯は東嚮して坐す。
亜父は南嚮して坐す。
亜父とは、范増なり。
沛公北嚮して坐し、張良は西嚮して侍す。
范増数ゝゝ項王に目し、佩ぶる所の玉玦を挙げて、
以て之に示すこと三たびす。
項王黙然として応ぜず。

范増起ち、出でて項荘を召し、謂ひて曰はく、
「君王人と為り忍びず。
若入り、前みて寿を為せ。
寿畢はらば、請ひて剣を以て舞ひ、
因りて沛公を坐に撃ちて、之を殺せ。
不者ずんば、若が属皆且に虜とする所と為らん。」と。
荘則ち入りて寿を為す。
寿畢はりて曰はく、
「君王沛公と飲む。
軍中以て楽を為す無し。
請ふ剣を以て舞はん。」と。
項王曰はく、
「諾。」と。
項荘剣を抜き起ちて舞ふ。
項伯も亦剣を抜き起ちて舞ひ、常に身を以て沛公を翼蔽す。
荘撃つを得ず。

是に於いて張良軍門に至り、樊噲を見る。
樊噲曰はく、
「今日の事何如。」と。
良曰はく、
「甚だ急なり。
今者項荘剣を抜きて舞ふ。
其の意常に沛公に在るなり。」と。
噲曰はく、
「此れ迫れり。
臣請ふ、入りて之と命を同じくせん。」と。

噲即ち剣を帯び盾を擁して軍門に入る。
交戟の衛士、止めて内れざらんと欲す。
樊噲其の盾を側てて、以て衛士を撞きて地に仆す。
噲遂に入り、帷を披きて西嚮して立ち、目を瞋らして項王を視る。
頭髪上指し、目眥尽く裂く。
項王剣を按じて跽きて曰はく、
「客何為る者ぞ。」と。
張良曰はく、
「沛公の参乗、樊噲といふ者なり。」と。
項王曰はく、
「壮士なり、之に卮酒を賜へ。」と。
則ち斗卮酒を与ふ。
噲拝謝して起ち、立ちながらにして之を飲む。
項王曰はく、
「之に彘肩を賜へ。」と。
則ち一生彘肩を与ふ。
樊噲其盾を地に覆せ、彘肩を上に加へ、
剣を抜き、切りて之を啗ふ。
項王曰はく、
「壮士なり、能く復た飲むか。」と。
樊噲曰はく、
「臣死すら且つ避けず、卮酒安くんぞ辞するに足らんや。
夫れ秦王虎狼の心有り。
人を殺すこと挙ぐる能はざるがごとく、
人を刑すること勝へざるを恐るるがごとし。
天下皆之に叛く。
懐王諸将と約して曰はく、
『先に秦を破りて咸陽に入る者、之に王とせん。』と。
今、沛公先に秦を破りて咸陽に入る。
毫毛も敢へて近づくる所有らず。
宮室を封閉し、還りて覇上に軍し、
以て大王の来たるを待てり。
故らに将を遣はし関を守らしめしは、他盗の出入と非常とに備へしなり。
労苦して功高きこと此くのごときに、未だ封侯の賞有らず。
而も細説を聴きて、有功の人を誅せんと欲す。
此れ亡秦の続きなるのみ。
窃かに大王の為に取らざるなり。」と。
項王未だ以て応ふる有らず。
曰はく、
「坐せよ。」と。
樊噲良に従ひて坐す。
坐すること須臾にして、沛公起ちて厠に如き、因りて樊噲を招きて出づ。

沛公已に出づ。
項王都尉陳平をして沛公を召さしむ。
沛公曰はく、
「今者出づるに、未だ辞せざるなり。
之を為すこと奈何。」と。
樊噲曰はく、
「大行は細謹を顧みず、大礼は小讓を辞せず。
如今、人は方に刀俎たり、我は魚肉たり。
何ぞ辞することを為さん。」と。
是に於いて遂に去る。
乃ち張良をして留まり謝せしむ。
良問ひて曰はく、
「大王来たるとき何をか操れる。」と。
曰はく、
「我白璧一双を持し、項王に献ぜんと欲し、
玉斗一双をば、亜父に与へんと欲せしも、
其の怒りに会ひて、敢へて献ぜず。
公我が為に之を献ぜよ。」と。
張良曰はく、
「謹みて諾す。」と。

是の時に当たり、項王の軍は鴻門の下に在り、
沛公の軍は霸上に在り、相去ること四十里なり。
沛公則ち車騎を置き、身を脱して独り騎し、
樊噲・夏侯嬰・靳彊・紀信等四人の剣盾を持して歩走するものと、
驪山の下より、芷陽に道して間行す。
沛公張良に謂ひて曰はく、
「此の道より吾が軍に至る、二十里に過ぎざるのみ。
我の軍中に至るを度り、公乃ち入れ。」と。

沛公已に去り、間びて軍中に至る。
張良入りて謝して曰はく、
「沛公桮杓に勝へず、辞する能はず。
謹みて臣良をして白璧一双を奉じ、再拝して大王の足下に献じ、
玉斗一双をば、再拝して大将軍の足下に奉ぜしむ。」と。
項王曰はく、
「沛公安くにか在る。」と。
良曰はく、
「大王之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去れり。
已に軍に至らん。」と。
項王則ち璧を受け、之を坐上に置く。
亜父玉斗を受け、之を地に置き、剣を抜き撞きて之を破りて曰はく、
「唉、豎子与に謀るに足らず。
項王の天下を奪う者は、必ず沛公ならん。
吾が属今に之が虜と為らん。」と。

沛公軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅殺す。
参考文献:改訂版古典I漢文編 第一学習社 史記 明治書院

鴻門の会(鴻門之会) 現代語訳/日本語訳

沛公は、翌朝百余騎を従え、項羽にまみえに行った。
鴻門に至ってこのように謝罪した、
「わたくしは将軍と力を合わせて秦を攻めました。
将軍は河北で戦われ、わたくしは河南で戦いました。
しかし、まさか最初に関中に入って秦を破り、
嚮 ここで将軍に再びまみえることができましょうとは、
まったく予想していませんでした、
今は、小人の讒言があって、将軍とわたくしを離間させようとしています。」
項羽は言った、
「それは沛公配下の左司馬曹無傷が言ったのだ。
そうでもなければ、どうして、こんなことになっていようか、いや、なっていないだろう。」

項羽は即日、そのまま沛公を留め、ともに酒を飲んだ。
項羽と項伯は東向きに座り、亜父は南向きに座った。
亜父とは、范増のことである。
沛公は北向きに座り、張良は西向きに侍座した。
范増は項羽に何度も目線を送り、腰につけた玉玦を持ち上げて示し、
沛公殺害の決断を促した。
項羽は黙り込んで応じなかった。
范増は立ち上がって宴席から外れ、項荘を呼んでこう言った、
「君王の人柄は、恩情があり、沛公をここで謀殺するようなことは、耐えられない。
おまえは宴席に入り、沛公の前に進み出て、杯を勧めて長寿を祝え。
それが終わったら、剣の舞をすることを請い、
許可されれば、この機に乗じて沛公を座上で切り殺せ。
もしそうしなければ、おまえの一族は沛公に捕らえられることになろう。」
そこで、項荘は宴席に入って、沛公に杯を勧めて長寿を祝った。
それが終わると、項荘はこう言った、
「君王と沛公はともに酒を飲んでおられます。
しかし、軍中にはなんの娯楽もありません。
どうか私に剣の舞をさせてください。」
項羽は「よかろう」と言った。
そこで項荘は剣を抜き、立ち上がって舞った。
項伯もまた剣を抜き、立ち上がって舞い、身を挺して、
親鳥が翼で雛をかばうようにして、沛公を守った。
項荘は沛公を撃つことができなかった。

ここで、張良は軍門へ行って樊噲と会った。
樊噲は行った、
「今日の会見はどんな感じですか。」
張良は答えた、
「極めて危険だ。
今、項荘は剣の舞をしている。
そして、その真意は、常に沛公を殺すことにある。」
「これは緊急事態だ。
どうか中に入って、沛公と命をともにさせてください。」

樊噲は剣を帯び、盾を取って軍門に入った。
戟を構えていた番兵は、樊噲を止め、中に入れまいとした。
樊噲は盾を斜めに構えて突き、番兵を地に突き倒した。
そのまま樊噲は入り、とばりを開いて西を向いて立ち、
怒りで目を張って項羽を見た。
髪は逆立ち、まなじりはことごとく避けているようだった。
項羽は剣の柄に手をかけ、ひざを付き、構えて言った、
「何者だ。」
張良が答えた、
「沛公の参乗、樊噲という者です。」
項羽は言った、
「壮士だなぁ。
この者に大杯の酒を与えよ。」
樊噲は謹んで礼を言って立ち、そのままこれを飲んだ。
項羽は言った、
「この者に豚の肩の肉を与えよ。」
そこで、一つの生の豚の肩の肉が与えられた。
樊噲は盾を地に伏せ、豚の肩の肉を持ち上げ、
剣を抜き、切ってこれを食べた。
項羽は言った、
「壮士だであるな。
まだ飲めるか。」
樊噲は言った、
「わたくしは死でさえも避けません。
ましてどうして大杯の酒ごとき辞退するのに足りましょうか、いえ、足りません。
そもそも秦王には、虎狼のごとき残虐な心がありました。
殺した人は数え切れず、処罰した人は、し残しを心配するくらい大勢いました。
このため、天下は皆秦に背きました。
懐王は諸将とこう約束しました、
『最初に秦を破って咸陽に入った者を、関中の王とする。』
今、沛公は最初に秦を破って咸陽に入りました。
ほんのわずかの財宝にも決して近づこうとしませんでした。
宮室を閉鎖し、咸陽から帰って覇上に陣を敷き、大王のご到着をお待ちしていました。
意図的に武将を派遣して函谷関を守らせたのは、他の盗賊の出入りと、非常事態に備えるためです。
労苦して、功績もこのように高いのに、まだ領地・爵位の恩賞がありません。
その上、つまらぬ意見を受け入れて、有功の人を誅殺しようとしています。
これでは、滅んだ秦と同じです。
僭越ながら、大王はそうなさらないほうがよいでしょう。」
項羽はいまだ応じずにいた。
そして、「まあ、座れ。」と言った。
樊噲は張良に従って座った。
それからしばらくして、沛公は立ち上がって便所に行き、
この機に乗じて樊噲を招いて出た。

沛公は宴席から出ていた。
項羽は都尉陳平に沛公を呼ばせた。
沛公はこう言った、
「今、宴席から出るに当たって、別れの挨拶をしていない。
どうすればよいだろうか。」
樊噲は言った、
「大事を行うときは、些細な慎みなど問題にせず、
大いなる礼には、小さな謙譲の語など問題ではありません。
今、向こうは包丁とまな板で、我々は魚肉です。
どうして別れの挨拶をする必要がありましょうか、いえ、必要ありません。」
こうして、そのまま酒宴から立ち去った。
そして、張良に留まって謝罪させることにした。
張良は尋ねた、
「大王は、いらっしゃったとき何を土産に持ってきましたか。」
「私は白璧一対を項王に献上し、玉斗一対を亜父に与えたいと思っていたが、
その怒りを目の当たりにして、どうしても献上出来なかった。
君は、私のためにこれらを献上してくれ。」
張良は答えた、
「謹んでお受けします。」

この時、項羽の軍は鴻門のあたりにあり、沛公の軍は覇上にあって、40里離れていた。
沛公は車騎を置き去りにして身を脱して一人馬に乗り、
樊噲・夏侯嬰・靳彊・紀信等4人の剣と盾を持ち、自分の足で走る者達と、
驪山のふもとから芷陽を経由して、抜け道を通ってひそかに急行した。
沛公は張良にこう言っていた、
「この道を通って我が軍に合流するのには、20里ほど走ればよいだろう。
私が軍中にいたるのを見計らって、君は宴席に入れ。」

沛公は鴻門を去り、すでにひそかに軍中に到着していた。
張良は宴席に入ってこう謝罪した、
「沛公はもはや酒に耐えられず、別れの挨拶もできないありさまです。
そこで、わたくしに、白璧一対を、二度お辞儀をして大王様に献じ、
玉製のひしゃく一対を、二度お辞儀をして大将軍閣下に献上させることにしたのです。」
項羽は言った、
「沛公はどこにいるのか。」
張良は答えた、
「大王に沛公の過ちをとがめる意思がおありだと聞いて、身を脱して一人去りました。
すでに軍中に至っていることでしょう。」
項羽は璧を受け、これを座席の傍らに置いた。
范増は玉製のひしゃくを受け、これを地に置き、剣を抜いて叩き壊して言った、
「ああ、青二才は天下の大事をともに語るに足らぬ。
項王の天下を奪う者は、必ず沛公だ。
我が一族は、彼に捕らえられることになるだろうよ。」

沛公は軍に合流し、即座に曹無傷を誅殺した。


解説

沛公旦日従百余騎、来見項王。至鴻門、謝曰、「臣与将軍戮力而攻秦。将軍戦河北、臣戦河南。
はいこうたんじつひやくよきをしたがへ、きたりてかうわうにまみえんとす。こうもんにいたり、しやしていはく、
「しんしやうぐんとちからをあはせてしんをせむ。しやうぐんはかほくにたたかひ、しんはかなんにたたかふ。

前後事情については、
史記 項羽本紀第七 鴻門の会前夜
漢楚斉戦記4 秦の滅亡
を参照。

「戮(あはス)」は"力を合わせる"ということ。
(ころス)と読んで、"殺す"と言う意味であることもある。
「臣」は"私"の謙称。沛公のことである。
「将軍」とは、当然話し相手の項羽のことである。


然不自意、能先入関破秦、得復見将軍於此。今者有小人之言、令将軍与臣有郤。」
しかれどもみづらおもはざりき、よくまづくわんにいりてしんをやぶり、またしやうぐんにここにまみゆることをえんとは。いませうじんのげんあり、しやうぐんをしてしんとげきあらしむ。」と。

「然」は"しかしながら・だが"の逆接の意味。
「意」は"予期する・予想する"。
「能」は可能の意、能力的な可能の意味が強い。
「関」は"関中"のこと。
「得」は可能を表す助動詞、機会的な可能の意味が強い。
「令」は使役を表す。
「郤」は"感情の亀裂・仲たがい"、一応、前者を採った。


項王曰、「此沛公左司馬曹無傷言之。不然、籍何以至此。」
かうわういはく、「これはいこうのさしばさうむしやうこれをいふ。しからずんば、せきなにをもつてここにいたらん。」と。

「左司馬」は官職名、軍政を統轄する。
「然」は"そうであること"どいう代名詞。
漢文は、体言だけで用言としての機能を果たしうる。
「不然」で"そうでなかったら"。
「籍」は項羽の名。字が「羽」である。
「何以」は理由を問う場合と方法・手段を問う場合とが有るが、
この場合は反語なので余り意識は不要であるが、一応前者で考えたほうがよいかもしれない。
「此」とは、今の状況である。

曹無傷は、もはや沛公を見限って、項羽につこうとしていた。
これに関しても史記 項羽本紀第七 鴻門の会前夜 を参照。


項王即日因留沛公与飲。項王・項伯東嚮坐。亜父南嚮坐。亜父者、范増也。
かうわうそくじつよりてはいこうをとどめてともにのむ。かうわう・かうはくはとうきやうしてざす。あほはなんきやうしてざす。あほとは、はんぞうなり。

「因」は"そのまま・すぐに"。
「飲」には、それだけで"酒を飲む"というニュアンスがある。
「嚮」は「向」に通じる。
「亜父」とは"父に次ぐ者"の意である。
中国では最も父を尊敬すべきとされていたが、
范増はそれに次ぐということで、項羽はそう呼んでいた。
年は七十余り、老獪にして詭計を好んだ。
范増は、当時の世論が、旧六国の楚に対して同情する傾向にあったことから、
先に挙兵した陳勝の反乱が失敗した理由を、
楚の王族の子孫を王に立てず、自ら王になったことにあるとして、
当時の反乱軍の最高実力者だった項羽の叔父である項梁に、
楚の王族の子孫を王に立てるよう勧めた。


沛公北嚮坐、張良西嚮侍。范増数目項王、挙所佩玉玦、以示之者三。項王黙然不応。
はいこうほくきやうしてざし、ちやうりやうはさいきやうしてじす。はんぞうしばしばかうわうにもくし、おぶるところのぎよくけつをあげて、もつてこれにしめすことみたびす。かうわうもくぜんとしておうぜぜず。

「目」は"目線を送る・目配せする"。
「数(しばしば)」は"何度にもわたり・たびたび"。
「佩(おブ)」は、"腰に飾りを結ぶ・身に付ける"ということ。
「玉玦」は、ドーナツ型で一部が欠けている玉。
玦は決に通じ、よく決断の象徴として用いられる。
「挙ぐ」は"持ち上げる"
「三」は、単に"3"と言う意味もあるが、数や回数が多いことも示す。訳は"何度も"みたいな感じ。

中国の礼では、君主が南を向き(南面)、臣下が北を向く(北面)ことになっていた。
このために、都の中でも、宮城や内裏は北に置かれた。
君主は本来項羽だが、尊敬の気持ちから、范増を南面させている。
そして、沛公が北面することは、沛公が項羽の臣下であることを象徴している。


范増起、出召項荘、謂曰、「君王為人不忍。若入、前為寿。
はんぞうたち、いでてかうさうをめし、いひていはく、「くんわうひととなりしのびず。なんぢいり、すすみてじゆをなせ。

「項荘」は項羽のいとこ。
「召」は"呼ぶ"。
「前(すすム)」は"前進する・前に進み出る"。
「為人(ひととなり)」は"人柄"。
「寿」とは"杯を勧めて長寿を祝う"。


寿畢、請以剣舞、因撃沛公於坐、殺之。不者、若属皆且為所虜。」荘則入為寿。
じゆをはらば、こひてけんをもつてまひ、よりてはいこうをざにうちて、これをころせ。しからずんば、なんぢがともがらみなまさにとりことするところとならん。」と。さうすなはちいりてじゆをなす。

「畢」は"終る"。
「以剣」は"剣で"、方法・手段を表す。
「因」は"機会に乗じる"の意。
不〜者」で"〜でなかったら"。
ここでは間に入るべき「殺之」などが省略されている。 「且」は「将(まさに〜せんとす)」と同じで、
ここは"おそらく・おおかた・たぶん"といった推量の意である。
「為A所B(AのBするところとなる)」は"AにBされる"の意だが、
「為所虜」は、そのA(沛公)が省略されたものである。


寿畢曰、「君王与沛公飲。軍中無以為楽。請以剣舞。」項王曰、「諾。」
じゆをはりていはく、「くんわうはいこうとのむ。ぐんちゆうもつてがくをなすなし。こふけんをもつてまはん。」と。かうわういはく、「だく。」と。

「与〜」は"〜と"。


項荘抜剣起舞。項伯亦抜剣起舞、常以身翼蔽沛公。荘不得撃。
かうさうけんをぬきたちてまふ。かうはくもまたけんをぬきたちてまひ、つねにみをもつてはいこうをよくへいす。そううつをえず。

「起」は"立ち上がる"。
「亦」は"〜と同様に―も"、「〜」の部分は推定しなければならない。
「翼蔽」は親鳥が翼を広げて子鳥を覆うようにさえぎり、かばうこと。


於是張良至軍門、見樊噲。樊噲曰、「今日之事何如。」
ここにおいてちやうりやうぐんもんにいたり、はんくわいを見る。はんくわいいはく、「けふのこといかん。」と。

「於是」は"こうして・そこで"等の意。
「見」は"会う"に近い。
「何如」は状態を問う。


良曰、「甚急。今者項荘抜剣舞。其意常在沛公也。」噲曰、「此迫矣。臣請、入与之同命。」
りやういはく、「はなはだだきふなり。いまかうさうけんをぬきてまふ。そのいつねにはいこうにあるなり。」と。噲いはく、「これせまれり。しんこふ、いりてこれとめいをおなじくせん。」と。

「急」は"危険・危急・切迫"の意。
「請」は"どうか〜していただきたい"か"どうか〜させてください"。


噲即帯剣擁盾入軍門。交戟之衛士、欲止不内。樊噲側其盾、以撞衛士仆地。
くわいすなはちけんをおびたてをようしてぐんもんに入る。こうげきのゑいし、とどめていれざらんとほつす。はんくわいそのたてをそばだてて、もつてゑいしをつきてちにたふす。

「即」は"即座に"。
「戟」は矛の一種。
「仆」は"倒す"。


噲遂入、披帷西向立、瞋目視項王。頭髪上指、目眥尽裂。項王按剣而噲曰、「客何為者。」
くわいつひにいり、ゐをひらきてさいきようしてたち、めをいからしてかうわうをみる。とうはつじやうしし、もくしことごとくさく。かうわうけんをあんじてひざまづきていはく、「かくなんするものぞ。」と。

「遂」は"そのまま"。
「帷」は会見の席に張り巡らされている"とばり"。
「瞋目」は"怒りで目を見張る"。
「目眥」は"まなじり"。
「按剣而噲」は"手を剣の柄にかけ、ひざをついて構える"。
「何為〜(なんすル〜ゾ)」は"どういう〜か"。


張良曰、「沛公之参乗、樊噲者也。」項王曰、「壮士、賜之卮酒。」則与斗卮酒。
ちやうりやういはく、「はいこうのさんじよう、はんくわいといふものなり。」と。かうわういはく、「さうしなり、これにししゆをたまへ。」と。すなはちとししゆをあたふ。

「参乗」は車の右側に乗って護衛をする者、「車右」と言ったりもする。
「壮士」は"元気な者"、30ぐらいの男盛りのものを「壮」という。
「(斗)卮酒」は"大杯の酒"。
「賜」は"下賜する"。


噲拝謝起、立而飲之。項王曰、「賜之彘肩。」則与一生彘肩。樊噲覆其盾於地、加彘肩上、抜剣、切而啗之。

くわいはいしやしてたち、たちながらにしてこれをのむ。かうわういはく、「これにていけんをたまへ。」と。すなはちいつせいていけんをあたふ。はんくわいそのたてをちにふせ、ていけんをうへにくはへ、けんをぬき、きりてこれをくらふ。

「拝謝」は"謹んで礼を言う"。
「彘」は"豚"。
「啗」は"食べる"。


項王曰、「壮士、能復飲乎。」樊噲曰、「臣死且不避、卮酒安足辞。
かうわういはく、「さうしなり、よくまたのむか。」と。はんくわいいはく、「しんしすらかつさけず、ししゆいづくんぞじするにたらんや。

「能」は能力的可能。
「復」は"また・再び・さらに"。
「A且B、C安D(乎)。(Aスラ且ツBス、C安クンゾDセン(や))」は抑揚表現で
"AでさえもBする、ましてCなどどうしてDしようか(いや、Dしない)"の意である。


夫秦王有虎狼之心。殺人如不能挙、刑人如恐不勝。天下皆叛之。
それしんわうこらうのこころあり。ひとをころすことあぐるあたはざるがごとく、ひとをけいすることたへざるをおそるるがごとし。てんかみなこれにそむく。

「夫」は"そもそも"。
「叛」は"叛く"。
「如恐不勝」は"あまりに多くて、し残しがないかと心配するほどである"。


懐王与諸将約曰、『先破秦入咸陽者、王之。』今、沛公先破秦入咸陽。毫毛不敢有所近。
かいわうしよしやうとやくしていはく、『さきにしんをやぶりてかんやうにいるもの、これにわうとせん。』と。いま、はいこうさきにしんをやぶりてかんやうにいる。がうまうもあへてちかづくるところあらず。

「毫毛」は"僅かのもの"。
「不敢」は、部分否定形だが、「敢」の場合には、強い否定で"決して〜しない・どうしても〜しない"。


封閉宮室、還軍霸上、以待大王来。故遣将守関者、備他盗出入与非常也。労苦而功高如此、未有封侯之賞。
きゆうしつをふうへいし、かへりてはじやうにぐんし、もつてたいわうのきたるをまてり。ことさらにしやうをつかはしくわんをまもらしめしは、たたふのしゆつにふとひじやうとにそなへしなり。らうくしてこうたかきことかくのごときに、いまだほうこうのしやうあらず。

「還」は"帰る・戻る"。
「故」は"意図的に・わざと"。
「遣将守関」は「遣将(将を遣る)」と「将守関(将関を守る)」の兼語式である。
「封侯」は「侯に封ず」ということで"領地・爵位"。


而聴細説、欲誅有功之人。此亡秦之続耳。窃為大王不取也。」項王未有以応。
しかもさいせつをききて、いうこうのひとをちゆうせんとほつす。これぼうしんのつづきなるのみ。ひそかにたいわうのためにとらざるなり。」と。かうわういまだもつてこたふるあらず。

「而」は"その上"
「細説」は"つまらぬ者の意見"。
「誅」は"罪によって殺す"。
「窃」は"僭越ながら・はばかりながら"。


曰、「坐。」樊噲従良坐。坐須臾、沛公起如廁、因招樊噲出。
いはく、「ざせよ。」と。はんくわいりやうにしたがひてざす。ざすることしゆゆにして、はいこうたちてかはやにゆき、よりてはんくわいをまねきていづ。

「須臾」は"しばらく"。
「厠」は"便所・トイレ"。


沛公已出。項王使都尉陳平召沛公。沛公曰、「今者出、未辞也。為之奈何。」
はいこうすでにいづ。かうわうとゐちんぺいをしてはいこうをめさしむ。はいこういはく、「いまいづるに、いまだじせざるなり。これをなすこといかん。」と。

「沛公已出」といった、「すでに」がつく文は、単に状況を説明している文である。 「都尉」は武官のうち、将軍の下の位。
「今者」の「者」は、漢文学的に言えば置き字であり、よく時を表す語の後につけられる。

「陳平」は、このときは項羽の陣営にいるが、後には漢につき、
多くの功績を積んで、漢の丞相となる人物である。


樊噲曰、「大行不顧細謹、大礼不辞小讓。如今、人方為刀俎、我為魚肉。何辞為。」
はんくわいいはく、「たいかうはさいきんをかへりみず、たいれいはせうじやう(しょうじょう)をじせず。いま、ひとはまさにたうそ(とうそ)たり、われはぎよにくたり。なんぞじすることをなさん。」と。

「如今」は"今まさに・ただ今"といった意味。
「方」もだいたい同じような意味である。
「刀俎」は"包丁とまな板"、まさに沛公(魚肉)を殺そうとしている項羽陣営のことを喩えている。
「辞」は"(別れの挨拶を)述べる"の意。


於是遂去。乃令張良留謝。良問曰、「大王来何操。」
ここにおいてつひにさる。すなはちちやうりやうをしてとどまりしやせしむ。りやうとひていはく、「たいわうきたるときなにをかとれる。」と。

「遂」は"そのまま"。
「操」は"土産として持ってくる"。

こんなに簡単に宴席から気付かれずに脱出できるものかと思うが、
当時の漢人の宴会では、よくさまざまな理由で席を立つことがあり、
場合によってはそのまま立ち去って、そのことを主人も知らないこともあったというから、
これは十分ありえることであった。


曰、「我持白璧一双、欲献項王、玉斗一双、欲与亜父、会其怒、不敢献。
いはく、「われはくへきいつさう(いっそう)をじし、かうわうにけんぜんとほつし、ぎよくといつさうをば、あほにあたへんとほつせしも、そのいかりにあひて、あへてけんぜず。

「白璧」は白玉製の宝石、
「玉斗」は玉製のひしゃく。
いずれも非常に高価なものである。
「不敢」は強い否定。


公為我献之。」張良曰、「謹諾。」
こうわがためにこれをけんぜよ。」と。ちやうりやういはく、「つつしみてだくす。」と。

「公」は敬意を伴う二人称代名詞で"あなた"のような訳。


当是時、項王軍在鴻門下、沛公軍在霸上、相去四十里。
このときにあたり、かうわうのぐんはこうもんのもとにあり、はいこうのぐんははじやうにあり、あひさることしじふ(しじゅう)りなり。

「下(もと)」は"近く・付近・周辺"
「去」は"離れている"。


沛公則置車騎、脱身独騎、与樊噲・夏侯嬰・靳彊・紀信等四人持剣盾歩走、従驪山下、道芷陽間行。
はいこうすなはちしやきをおき、みをだつしてひとりきし、はんくわい・かこうえい・きんきやう・きしんらよにんのけんじゆんをじしてほそうするものと、りざんのもとより、しやうにみちしてかんかう(かんこう)す。

「与〜」は"〜と"。
「従(よ-リ)」は始点・経由点を表す。
「道」は"〜を道にとる"。
「驪山」は始皇帝陵の建設された山。
「間行」は"抜け道を通ってひそかにいく"。

「夏侯嬰」は、劉邦と同じ沛の出身で、後に汝陰侯に封じられた。
三国志に出てくる、曹操の武将夏侯淵は、その子孫である。
「靳彊」は、後に項羽討伐に功績を挙げ、汾陽侯に封じられた。
「紀信」は、劉邦の忠臣の一人で、滎陽で包囲されたとき、
劉邦の影武者となって項羽軍につかまり、焼き殺された。
のちに、四川に廟が立てられ、忠祐と称された。


沛公謂張良曰、「従此道至吾軍、不過二十里耳。度我至軍中、公乃入。」
はいこうちやうりやうにいひていはく、「このみちよりわがぐんにいたる、にじふりにすぎざるのみ。われのぐんにいたるをはかり、こうすなはちいれ。」と。

「二十里」は、当時の一里およそ405mを基に考えると、だいたい8kmである。
「度」は"予想する・推量する"。
「乃」は条件がそろってはじめて何かが起こったりすることをあらわす。


沛公已去、間至軍中。張良入謝曰、「沛公不勝桮杓、不能辞。
はいこうすでにさり、しのびてぐんちうにいたる。ちやうりやういりてしやしていはく、「はいこうはいしやくにたへず、じするあたはず。

「間」は"ひそかに"、"ころおい"の意もあり、そう採る説もある。
「勝」は"耐える"。
「桮」は"さかずき"。
「杓」は酒を酌(く)むもの。
「能」は英語のcanのような意味。


謹使臣良奉白璧一双、再拝献大王足下、玉斗一双、再拝奉大将軍足下。」
つつしみてしんりやうをしてはくへきいつさうをほうじ、さいはいしてたうわうのそつかにけんじ、ぎよくといつさうをば、さいはいしてたいしやうぐんのそつかにほうぜしむ。」と。

「再拝」は"二度お辞儀をする"。
「足下」は敬意のある言葉で、「閣下」「陛下」「殿下」などと同じような言葉。


項王曰、「沛公安在。」良曰、「聞大王有意督過之、脱身独去、已至軍矣。」
かうわういはく、「はいこういづくにかある。」と。りやういはく、「たいわうこれをとくくわ(とくか)するにいありときき、みをだつしてひとりされり。すでにぐんにいたらん。」と。

「安」は"どこに"の意、反語(いづくんぞ)の意もある。
「督過」は"過失を責める"。


項王則受璧、置之坐上。亜父受玉斗、置之地、抜剣撞而破之曰、
かうわうすなはちへきをうけ、これをざじやうにおく。あほぎやくとをうけ、これをちにおき、けんをぬきつきてこれをやぶりていはく、

「坐上」は"座席の傍ら"。
「撞」は"突く"。


「唉、豎子不足与謀。奪項王天下者、必沛公也。吾属今為之虜矣。」
「ああ、じゆしともにはかるにたらず。かうわうのてんかをうばうものは、かならずはいこうならん。わがともがらいまにこれがとりことならん。」と。

「唉(ああ)」は感嘆詞のひとつ。
「豎子」は"小僧・青二才"。
「属(ともがら)」は"身内"。


沛公至軍、立誅殺曹無傷。
はいこうぐんにいたり、たちどころにさうむしやうをちゆうさつす。

「立」は"即座に・すぐに"。
「誅殺」は"罪によって殺す"こと。


総括

劉邦(沛公)は、関中(秦の本領)に一番乗りし、短期間ながら関中を治め、当然に関中の王になると考えていた。
しかし、項羽は秦の降将章邯を関中の王に任じていた。
鴻門の会は、実態としては、劉邦が項羽に主導権を認め、降伏したものである。
(参考:漢楚斉戦記4 秦の滅亡

また、十八史略の方にも鴻門の会をあげている。
こちらは内容が省かれ簡単になっている。



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