そ
I think; therefore I am!
曹無傷(そうむしょう)
中国 秦
もとは沛県の有力者だったと考えられる。
劉邦が沛公として挙兵した際、左司馬に任じられた。
秦の泗水郡監の平(へい)と泗水郡守の壮(そう)が相次いで劉邦の叛乱を鎮圧しようとしたが、
劉邦は相次いで破り、このとき曹無傷は泗水郡守の壮を捕虜にした。
後に劉邦が秦を破り、咸陽を占領した後、、
劉邦は項羽が関中に入れないよう、函谷関を閉じて守将を派遣したが、
黥布をはじめとする諸将の攻撃を受け、破られた。
これを見た彼は、項羽と通じ、
劉邦が関中王になろうとしていると告げた。
これを受け、項羽は劉邦の軍を攻撃することとした。
(参考:史記 項羽本紀第七 鴻門の会前夜)
このことは、楚の左尹項伯を通じて、劉邦の元にもたらされた。
翌朝、劉邦は項羽に謝罪に行った。
項羽はこれを許し、曹無傷が裏切ったことを劉邦に告げた。
酒宴の席からひそかに、抜け出した劉邦は、陣営に至るなり彼を誅殺した。
(参考:史記 項羽本紀第七 鴻門の会)
参考:
史記 項羽本紀第七 鴻門の会前夜
史記 項羽本紀第七 鴻門の会
十八史略 鴻門の会
漢楚斉戦記4 秦の滅亡
alias,無し
蘇秦(そしん)
中国 戦国時代
中国戦国時代の、代表的な縦横家である。弟に、蘇代・蘇獅ェいる。
周の洛陽の乗軒里(じょうけんり)の貧しい農家の出身である。
遊説の術を学び、諸侯に遊説した。
燕に遊説し、趙と同盟を結ぶことで、趙からの攻撃を防ぎ燕を安泰にすることを説き、初めて登用された。
蘇秦は燕を活動のベースとし、燕の宰相の子之(しし)と婚姻関係を結んだ。
一方で、斉でも活動し、湣王に取り入って用いられながら、実はひそかに燕のため活動していた。
例えば、斉の湣王に説いて、宮殿や園囿を大きくして王者の威厳を表すようにさせ、財政的に疲弊させようとした。
当時、秦の恵王に任用されていた張儀が魏を手始めに各国を秦に臣従(連衡)させようとしていた。
魏の公孫衍は一時、秦と張儀に対抗して五国の緩やかな連合を形成していたが、
斉に敗戦したことなどにより失脚し、その中で張儀が魏に入って連衡の足がかりを作ろうとしていたのである。
ここであらわれたのが蘇秦である。
蘇秦は燕から資金を得て、趙に赴き、燕と同盟させるため、秦に対抗する合従同盟を説いた。
蘇秦は趙でも用いられ、各国を回り合従同盟を説いていた。
弁舌巧みに合従(南北の諸国での同盟)を説き、張儀の連衡の思惑を実現させなかった。
韓王には「鶏口牛後」の成語を以て説得に当たった。
合従の機運はますます高まり、魏では張儀に代わって公孫衍が宰相に任じられ、
蘇秦は魏・韓・趙・楚・燕・斉の六国に合従同盟を成立させるに至り、蘇秦は趙より武安君に封じられた。
紀元前319年に魏の恵王が死去すると、張儀は秦に帰った。
紀元前318年、六国合従同盟は軍を発して秦を攻め、函谷関に迫った。
秦は樗里疾を起用して迎撃した。樗里疾は合従軍を押し戻し、韓の修魚でこれを大破した。
韓将申差(しんさ)を虜にし、韓の太子奐(かん)と趙の公子渇(かつ)を破り、首級8万2千を挙げて大勝した。
秦に大敗した結果、合従同盟は動揺した。
秦は趙と韓を攻め、斉の湣王も魏と趙を討ち、その後さらに燕も攻めるようになった。
こうして蘇秦の合従は破綻した。
合従の破綻後、斉から攻められた燕の噲王は蘇秦にこう迫った
「先王が先生に旅費を与えて趙王に謁見させ合従の成立を見たが、いまや斉は趙を攻め、さらに燕を攻めるようになって燕は天下の笑いものである。
先生は燕のために失地を回復してくれるだろうか。」
蘇秦はこれに応じて、斉の湣王を説き、燕から奪った10城を返還させた。
蘇秦はその後、燕で罪を得たと偽って斉に亡命した。
斉の湣王は蘇秦を客卿にした。
蘇秦は湣王に取り入ってその実は燕のために活動しており、斉に敵が多かった。
そのためある政敵が蘇秦に刺客を放った。蘇秦は刺されたがすぐに絶命せず、刺客は逃亡した。
蘇秦は死の間際に湣王に、自分を死後車裂きの刑に処して見せしめにし、
蘇秦は燕のスパイだったと公表することで、犯人をあぶりだすように進言した。
そして、ついに蘇秦は死んだ。湣王は蘇秦の策を実行し、犯人を捕えて誅殺した。
燕人は、斉は辛辣に蘇秦のために仇に報じたものだ、と評した。
だが、その後、蘇秦のスパイ活動は世間に漏れ伝わっていった。
蘇秦の死後、張儀は連衡を説くあたり、合従をかつて主導した蘇秦を詐欺裏切りの人間として殊更に非難し、合従の非を述べた。
そのため、蘇秦は特に悪名高い評判が立ち、評判の悪い縦横家の代表格として認知されるようになったのである。
始皇帝の統一後、李斯の主導した焚書坑儒により、
史料が失われ、秦以外で活動した蘇秦の事跡については不明な点が多くなっていった。
前漢に司馬遷が史記をまとめようとした際には、すでに蘇秦の事跡については矛盾する異説が多く、
時代の異なる類似の事件が多く蘇秦にこじつけられている状況であった。
そこで、司馬遷は矛盾の整理を試み、しかもさらに、貶められすぎている蘇秦の名誉を一部回復しようとした。
しかしながら、史記にも矛盾があり、蘇秦についてはその事跡を完全に理解することは難しい状況である。
上述の内容は、可能な限り史記や戦国策の史料を採用しつつ、矛盾する内容を排除・整理したものである。
参考:
十八史略 鶏口牛後
十八史略 何ぞ前には倨りて後には恭しきや
秦史5 張儀の活躍
alias,武安君
孫武(そんぶ)
中国 春秋時代
中国春秋時代の兵法家・将軍であり、兵法書「孫子」の著者と考えられている。
紀元前515年、呉王闔閭(こうりょ)は本国に軍がいないのを好機と考え、先王王僚を殺して自ら即位した。
呉王闔閭は伍子胥を登用し、また楚から亡命してきた伯嚭(はくひ)を大夫に、孫武を将軍に取り立て、領民をいたわって、楚を討つべく準備した。
紀元前512年、呉王闔閭は楚を攻め、1邑を抜き、楚に降伏した2人の公子を捕えた。
楚の首都郢を攻めようとしたが、伍子胥と孫武が、民が疲れておりまだその時ではないと進言したのでやめた。
翌年、2邑を攻めて撤退した。その翌年には越を討った。翌紀元前509年、楚が呉を攻めたが、伍子胥はこれを迎撃して大破した。
紀元前506年、呉王闔閭は伍子胥と孫武に郢に攻め込むことについて諮問すると、楚を恨んでいる唐・蔡と組んでならばよいと回答した。
呉王闔閭はこれを受け入れ、唐・蔡と連合して全軍を以て楚に攻め込んだ。闔閭の弟夫概(ふがい)は攻撃を進言して許されなかったが、配下の兵を率いて独断で楚の令尹(宰相)子常を攻撃し、敗走させた。
この機に呉は総攻撃に入り、5戦5勝してついに楚の首都郢に入った。楚の昭王は逃走した。
これらの戦いにおいて孫武の功は多かったとされる。
子孫に孫臏がいる。
参考:
孫子
秦史3 一進一退の春秋後期
alias,孫子
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