何ぞ前には倨りて後には恭しきや
-なんぞさきにはおごりてあとにはうやうやしきや-
I think; therefore I am!


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本文(白文・書き下し文)
蘇秦者、師鬼谷先生。
初出游、困而帰。
妻不下機、嫂不為炊。
至是、為従約長、并相六国。

行過洛陽。車騎輜重、擬於王者。
昆弟妻嫂、側目不敢視、俯伏侍取食。
蘇秦笑曰、
「何前倨而後恭也」。
嫂曰、
「見季子位高金多也」。
秦喟然歎曰、
「此一人之身。
富貴則親戚畏懼之、貧賎則軽易之。
況衆人乎。
使我有洛陽負郭田二頃、
豈能佩六国相印乎。」
於是、散千金、以賜宗族朋友。

既定従約帰趙。
粛侯封為武安君。
其後、秦使犀首欺趙、欲破従約。
斉魏伐趙。
蘇秦恐去趙、而解従約。
蘇秦は、鬼谷先生を師とす。
初め出游し、困しみて帰る。
妻は機を下らず、嫂は為に炊がず。
是に至り、従約の長となり、六国に并せ相たり。

行きて洛陽を過ぐ。車騎輜重、王者に擬す。
昆弟妻嫂、目を側めて敢て視ず、俯伏して侍して食を取る。
蘇秦笑ひて曰はく、
「何ぞ前には倨りて後には恭しきや。」と。
嫂曰はく、
「季子の位高く金多きを見ればなり。」と。
秦喟然として歎じて曰はく、
「此れ一人之身なり。
富貴なれば則ち親戚も之を畏懼し、貧賎なれば則り之を軽易す。
況んや衆人をや。
我をして洛陽負郭の田二頃有らしめば、
豈に能く六国の相印を佩びんや。」と。
是に於いて、千金を散じ、以て宗族朋友に賜ふ。

既に従約を定めて趙に帰る。
粛侯封じて武安君と為す。
其の後、秦犀首をして趙を欺かしめ、従約を破らんと欲す。
斉魏、趙を伐つ。
蘇秦恐れて趙を去り、而して従約解けぬ。
参考文献:十八史略 明徳出版社

現代語訳/日本語訳

蘇秦は鬼谷先生に師事した。
その昔、(秦に)遊説する為に故郷を出たが、困窮の果てに帰ってきた。
しかし、妻は、はたおり機を下りず、兄嫁は彼の為に食事を作らなかった。
その後、同盟の幹事長となり、六ヶ国の宰相を兼務することになった。

(楚王に遊説しに行こうとして)洛陽を通り過ぎたときのことである。
彼の行列の車や馬は、王者のようであった。
兄弟や妻、兄嫁などは恐れて彼から目をそらし、思い切って正視することができず、
ただ平身低頭で付き従い、食事をすすめる有り様であった。
蘇秦は笑って言った、
どうして前は威張っていたのに、今、後になってそのようにうやうやしいのか。」
兄嫁は言った、
「あなたの身分が高く、金持ちになっているのを見たからです。」
蘇秦はため息をついて言った、
「私は一人の人間であるのに、
裕福で身分が高ければ、親戚も恐れてびくびくし、
貧しく身分も低ければ、軽んじ侮る。
まして一般の民衆はなおさらだ。
もし、私に洛陽郊外の田が二頃あれば、六国の宰相の印を腰につけることができただろうか。」
こうして、莫大な金をばらまいて、親族や友人に与えた。

蘇秦は同盟を結び終えて、趙に帰った。
粛侯は彼に爵位を与え、武安君とした。
その後、秦は犀首というものに命じて、趙を欺き同盟を破壊しようとした。
その策にかかり、斉と魏は趙を攻撃した。
蘇秦が危険を感じて趙を去ったため、南北六国による同盟は消滅してしまった。

解説

蘇秦者、師鬼谷先生。初出游、困而帰。妻不下機、嫂不為炊。
そしんは、きこくせんせいをしとす。はじめしゅつゆうし、くるしみてかえる。
つまははたをくだらず、あによめはためにかしがず。

鬼谷先生とは縦横家の始祖である王詡で、蘇秦のほかには張儀も師事したと伝説される人物。

「初」は"はじめ"と読み、過去にさかのぼる記述が始まることを示し、"以前"などと訳す。
出游とは、仕官や遊説の為に故郷を出ること。
「初出游、困而帰。」は、 具体的には蘇秦が秦の恵王に遊説しに行って、用いられなかったこと


至是、為従約長、并相六国。
ここにいたりて、しょうやくのちょうとなり、りっこくにあわせしょうたり。

詳しくは鶏口牛後を参照。
宰相とは、王や皇帝を補佐する最高の官。


行過洛陽。車騎輜重、擬於王者。
いきてらくようをすぐ。しゃきしちょう、おうじゃにぎす。

戦国策によれば、これは楚王に遊説しに言ったときのことらしい。

車騎はいいとして、「輜重」とは荷物を積んだ車のこと。
上の訳ではわざわざ訳すのは不自然なので省略した。
旧陸軍などでも、輸送担当の部隊の兵士を輜重兵とよんでいた。


昆弟妻嫂、側目不敢視、俯伏侍取食。蘇秦笑曰、「何前倨而後恭也」。
こんていさいそう、めをそばめてあえてみず、ふふくしてじしてしょくをとる。
そしんわらいていはく、「なんぞさきにはおごりてあとにはうやうやしきや」。と。

「昆」は兄のこと。
「不敢〜(敢て〜ず)」は、部分否定の形だが、否定が強調された表現である。
"どうしても〜しない"とか"思い切って〜できない"のように訳す。
「敢不(敢て〜セざらんや)」と全部否定の形にしたものは、
「どうして〜しないことがあろうか」と訳す。


嫂曰、「見季子位高金多也」。
あによめいはく、「きしのくらいたかくかねおおきをみればなり。」と。

「季子」は兄嫁が夫の弟を呼ぶ言葉とも、蘇秦の字とも言われる。


秦喟然歎曰、
しんきぜんとしてたんじていはく、

「喟然」も「歎」も、ため息をつくということ。

「此一人之身。富貴則親戚畏懼之、貧賎則軽易之。況衆人乎。
これいちにんのみなり。ふうきなればすなはちしんせきもこれをゐくし、ひんせんなればすなはちこれをけいいす。
いわんやしゅうじんをや。

「況〜乎(いはんや〜をや)」は、抑揚と呼ばれ、"まして〜はいうまでもない""まして〜はなおさらだ"の意。

使我有洛陽負郭田二頃、豈能佩六国相印乎。」
われをしてらくようふかくのたにけいあらしめば、あによくりっこくのしょういんをおびんや。」と。

この「使」は、形は使役だが、仮定を表す。
負郭とは郊外のこと。
「豈〜乎(豈に〜や)」は反語をあらわし、「どうして〜か(、いや〜ない)。」と訳す。
また、「能」は可能をあらわす。

一頃は約182u。

於是、散千金、以賜宗族朋友。
ここにおいて、せんきんをさんじ、もってそうぞくほうゆうにたまふ。

「於是」は、そこで・こうして、などの意をあらわす。
宗族は親族のこと。

馬鹿にされたことで発奮したから、ということもあると見るべきであろう。

既定従約帰趙。粛侯封為武安君。
すでにしょうやくをさだめてちょうにかえる。しゅくこうほうじてぶあんくんとなす。

「既に」は、「〜し終えて」と訳す。

其後、秦使犀首欺趙、欲破従約。斉魏伐趙。蘇秦恐去趙、而解従約。
そののち、しんさいしゅをしてちょうをあざむかしめ、しょうやくをやぶらんとほっす。
せいぎちょうをうつ。そしんおそれてちょうをさり、しかしてしょうやくとけぬ。

犀首は魏の人で、張儀と仲が悪く、魏の宰相となっていたが、張儀の死後、秦の宰相となった。
結局、六国の同盟は崩れ、張儀が連衡を推進する。
その後、蘇秦は暗殺され、波乱の一生を閉じる。



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