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趙簡子(ちょうかんし)/ 趙鞅(ちょうおう) 中国 春秋時代
晋の大夫。趙武の孫。
紀元前514年、晋の公室に連なる羊舌(ようぜつ)氏と祁(き)氏が法にあたり滅ぼされた。
正卿の韓起が死去して、魏舒(魏献子)が正卿となると、
他の六卿とともにその領邑10県で分割した。
晋はいよいよ公室が弱まり、六卿が互いに争う時代に突入した。

魯で一時政権を握り追放された陽虎を召し抱えた。

紀元前497年、趙簡子は中行文子・范昭子に攻められ、晋陽に籠城した。
晋では内乱を起こしたものは処刑されることになっており、
趙氏のみが追放されるのは均衡を失する、と知文子が進言した。
こうして知文子・魏襄子・韓簡子は晋公を奉じて中行文子・范昭子を攻撃してこれを破り、朝歌に追い込んだ。
このあと、魏襄子・韓簡子が趙氏の復帰を要請したため、趙簡子は国政に復帰した。
しかし、そうなると趙氏の処分が不均衡ということになるため、
知文子は、趙氏の重臣董安于(とうあんう)を内乱に関係しているとして処分するよう通告してきた。
董安于は、自分が死んで趙と晋が安定するならば、自分は死ぬのが遅すぎたといい、自害した。
趙簡子は知文子に董安于が死んだ旨伝達して盟を結ぶ一方、董安于を趙氏の廟に祀った。

斉・衛・鄭は中行氏・范氏を支援した。
趙簡子は出奔していた衛の太子を保護し、衛に対して介入を行った。
また、斉からの穀物を中行氏・范氏へ輸送していた鄭軍と戦いこれを破った。
紀元前492年、趙簡子は中行文子・范昭子が籠る朝歌を攻撃しこれを破った。
中行文子は邯鄲に、范昭子は柏人に逃げ込んだ。
翌年、趙簡子は邯鄲を抜き、中行文子は柏人に逃げ込んだが、
その翌年、趙簡子は柏人を抜き、中行文子・范昭子は斉に出奔した。
趙簡子は邯鄲・柏人を領有し、晋公の臣下という形を取りながら、
晋の政権を握り、その領域の広さは諸侯に比肩した。

子に趙無恤(ちょうむじゅつ 趙襄子)がいる。
もともと、無恤の母は身分が低く、太子が別にいたが、
趙簡子は無恤が最も賢いことを知り、もとの太子を廃して無恤を太子とした。


参考:
秦史3 一進一退の春秋後期

alias,

張儀(ちょうぎ) 中国 戦国時代
史 張儀


参考:
秦史5 張儀の活躍
吾が舌を視よ、尚ほ在りや否や 十八史略

alias,

趙朔(ちょうさく) 中国 春秋時代
晋の大夫。趙盾の子。
趙盾引退の6年後、晋の卿となった。
楚の荘王と晋が戦った際、趙朔は下軍の将として参戦し、晋は敗北した。
敗北の衝撃の中、屠岸賈(とがんか)が趙盾時代の霊公弑逆について趙氏を責めようとしていた。
韓厥は趙朔を逃がそうとしたが、趙朔は
「あなたが必ず趙の祭祀を絶やさないというならば、私は殺されても恨まない。」
と述べて、身を隠さず、屠岸賈に襲われて死んだ。
韓厥は趙朔の願いを了承し、趙朔の遺児趙武を復活させる機会を待った。
15年後、韓厥の進言によって趙武は趙の故地を再び領有するに至り、趙氏は復活した。


参考:
秦史3 一進一退の春秋後期

alias,趙荘子

張作霖(ちょうさくりん) 中国 近代
1875年生まれ。日清戦争に従軍後、馬賊と呼ばれる騎馬自衛集団の頭目として頭角を現す。
1902年、清に帰順し、辛亥革命においては革命派の鎮圧に当たった。
袁世凱の死後、その部下を追放して奉天にて独立政権を樹立した。
1918年、北洋軍閥内で対立する段祺瑞と呉佩孚の争いにおいて、呉佩孚を支援して戦い、段祺瑞は失脚した。(直皖戦争
1922年4月、孫文の北伐に呼応して張作霖は山海関を越えて関東に入り、呉佩孚と開戦したが、張作霖は敗れて満州に撤退した。(第一次直奉戦争
この結果中央の権力を握るにいたった呉佩孚に対して、1924年9月、張作霖は再び攻撃を仕掛け、山海関を争奪した(第二次奉直戦争)。
その状況下で、馮玉祥は呉佩孚に叛き(北京政変)、呉佩孚は北京を離れ、溥儀は紫禁城から追われた。
馮玉祥は孫文を北京に招聘したものの、1925年3月に孫文は死去した。
張作霖は勢力拡大を図り、国民党と協調している馮玉祥と対立するようになった。
山東省では張宗昌(ちょうそうしょう)が張作霖を頼って勢力を拡大しており、 満州と山東省に権益を有する日本はこれを後援していた。
これに対して、呉佩孚の配下にいた孫伝芳(そんでんほう)が対抗した闘争を開始して東南5省を支配するようになった。
呉佩孚自身もこの機に乗じて再起し、張作霖と結んで馮玉祥を討とうとした。
張作霖配下の郭松齢(かくしょうれい)が馮玉祥と通じて叛旗を翻し、一時張作霖を追い詰めたが、
日本が関東軍を使って張作霖を支援し、張作霖は郭松齢に反撃してこれを破った。

1926年6月、国民党が蒋介石を総司令官として北伐を開始すると、張作霖と張宗昌は劣勢となった。
これを受けて、日本は第一次山東出兵を行い、このために北伐は一時頓挫した。
蒋介石は一時下野したものの、訪日を経て再び司令官に返り咲くと、1928年4月に北伐を再開した。
日本の田中義一内閣は張作霖を支援し、山東の権益を保全するため、出兵することを決めた(第二次山東出兵)。
蒋介石は孫伝芳の軍を殲滅し、途中日本軍と衝突する事件(済南事件)が発生するものの、
蒋介石は自重して日本軍を衝突しないよう迂回することとし、黄河をわたって遂に北京に迫った。
国民党についている閻錫山と馮玉祥も西から北京に迫ったため、張作霖の敗勢は明らかであった。
この情勢に、田中義一内閣は蒋介石に圧力をかけ、満州へ進出しないことを求めるとともに、
張作霖には満州へ撤退させ、満州における張作霖の立場を維持する代わりに満州内における優先的な鉄道利権の付与を求めた。
張作霖はこれを受諾し、満州へ戻る決意を固めた。
しかし、関東軍は、必ずしも従順でない張作霖に対して不満を持っており、田中義一内閣の方針と異なり、満州国の建設をすでに構想していた。
関東軍参謀河本大作は、満州へ帰還する張作霖を鉄道爆破により殺害し、それを国民党の仕業として軍事行動を開始する計画を立てた。
1928年6月3日、北伐軍が北京に迫る中、張作霖は奉天へ帰還すべく特別列車に乗った。
翌6月4日、終着点のおよそ1km手前の地点を張作霖の乗る特別列車が通過したところ、関東軍の仕掛けた爆薬が爆発した。
張作霖は重傷を負い、私邸に運び込まれたものの死亡した。(張作霖爆殺事件
張家は張作霖が死去した事実を隠し、そのため、関東軍は軍事行動を開始する事ができずに終わった。
張作霖の権力はその子張学良が継承した。


参考:
中国近代戦史2 袁世凱と軍閥
中国近代戦史3 国民党の隆盛・第一次国共合作
中国近代戦史4 北伐


趙衰(ちょうし) 中国 春秋時代
晋の大夫。趙氏は周王の御者だった造父に始まり、幽王の時代に周王朝が乱れた際に晋に来た。
曽祖父である趙夙(ちょうしゅく)は晋の献公の御者を務めていた。
後に
文公となる献公の子重耳が17歳の時に、すでに趙衰は重耳に仕えていた。
重耳が狄に亡命した際、趙衰も一緒に亡命し、狄で重耳の妻となった娘の姉をめとった。
この妻との間に生まれた子が趙盾(ちょうとん)である。
趙衰は以後19年に及ぶ重耳の亡命生活につき従った。
重耳が斉に亡命した際、斉に安住しようと考えていた重耳を無理やり斉から連れ出した。
秦の繆公と会見した際、詩経の「黍苗の詩」を歌うと、繆公は 「あなたが早く帰国したいのがわかった。」と応じた。
繆公の後援を得て重耳は晋に帰国し即位した。
趙衰は原の邑を与えられ、国政に関与する身となった。
周の襄王が弟の反乱に遭って出奔した際、趙衰は周王を尊重することが覇業への道であると進言し、
それを受けて文公は秦と共同で襄王を周に戻した。
趙衰の死後は、功臣が相次いで死去し、趙盾が国政を執った。


参考:
秦史2 繆公の時代

alias,趙成子

趙盾(ちょうとん) 中国 春秋時代
晋の大夫。趙衰の子。 文公の功臣が相次いで死んだ後、国政を執った。
晋の襄公が死去すると、太子がまだ幼少だったため、 趙盾は秦にいる襄公の弟の公子雍を擁立しようとした。
これに対して、太子の母が日夜泣いて趙盾に 「先君に何の罪があって嫡子を棄てるのですか。」と訴えたため、
趙盾はこれを憂え、かつ、太子の母の一族に命を狙われることを恐れ、太子を擁立することとした。 こうして即位したのが霊公である。
紀元前624年、趙盾は将軍として公子雍を護送してきた秦の軍を打ち破った。
霊公の即位後、趙盾は国政に専念した。趙盾の政治は支持を得た。
紀元前619年、秦が一邑を攻め取ったため、
一族の趙穿(ちょうせん)らとともに将となって迎え撃ち、河曲で会戦したが敗れた。
紀元前617年、周の頃王が死去したのち、周の公卿らが権力争いを始めたため、
趙盾は兵車800乗を以て周の内乱を収め、匡王を立てた。

霊公は壮年になり、奢侈に流れ諫言を聴かず、趙盾と対立するようになった。
あるとき、霊公が料理の不手際を責めて料理人を殺害した。
趙盾らはこれを諌めたが、霊公はこれを厭い、趙盾に刺客を送って殺害しようとした。
送られた刺客は、「忠臣を殺すのも、君命に従わないのも罪は同じである。」といって自殺した。
次に、霊公は酒に酔わせて趙盾を殺害しようとした。
これを知った趙盾に旧恩のある人間が、趙盾を身を以て守り、
趙盾はなんとか逃げて出奔しようとしたが、晋の国境を出ずにいた。
そのうち将軍の趙穿が反乱を起こして、霊公を殺害し趙盾を迎えた。
晋の史官董狐は「趙盾その君を弑す」と記した。
趙盾は自分が殺したのではない、と反論したが、董狐は
「正卿でありながら、出奔しても国境をでることができず、
戻ってきて反逆を鎮圧することもできなかった。
(国境を出てない以上晋の正卿である趙盾は君主を殺害した趙穿を討つ義務がある)
君を弑したのはあなた以外ではありえない。」と回答した。

後に、孔子はこの話を聞いて
「董狐は良吏である。法を曲げず、趙盾の罪を隠さなかった。
宣子(趙盾の諡)は良大夫である。
法のため悪名を受けたが、国境を出ていれば汚名を免れただろう。
惜しいことである。」と評した。

趙盾は、趙穿に襄公の弟を周に迎えに行かせ擁立した。これが成公である。
趙盾は異母弟の趙括を公室の一族に任命するよう成公に要請し、認められた。
次の景公の代になって趙盾は死去した。
韓厥を養育し、推挙した。
子に趙朔がおり、卿となって実質的に趙の当主を引き継いだ。


参考:
秦史3 一進一退の春秋後期

alias,趙宣子

趙武(ちょうぶ) 中国 春秋時代
晋の大夫。趙朔の子。 父趙朔は韓厥
「あなたが必ず趙の祭祀を絶やさないというならば、私は殺されても恨まない。」
との言葉を残し、晋の大夫屠岸賈(とがんか)によって殺害された。
その時、趙武は母の腹の中に宿っていた。
このことを知った、趙朔の食客公孫杵臼(こうそんしょきゅう)と程嬰(ていえい)は、
二人で相談し、程嬰が密かに趙武をかくまうとともに、公孫杵臼が偽の赤ん坊をつれて山中に隠れた。
その後、程嬰は偽り、趙家の遺児の居場所を知っていると述べて、
他の将軍らを連れて公孫杵臼を攻めさせた。公孫杵臼と偽の赤ん坊は死亡した。
この後、程嬰は趙武をつれて山中に隠れた。韓厥にはこのことが知らされていた。
15年後、韓厥は機を見て晋の景公に趙武のことを進言し、
そのおかげて、趙氏はもとの領邑を取り戻した。
趙氏の復活を見届けた程嬰は、地下の趙朔と公孫杵臼に報告すると称して、自ら命を絶った。
趙武は3年間喪に服し、程嬰が代々領邑で祀られるようにした。

35年後、士匄(しかい 范宣子)に代わって晋の正卿となった。
諸侯からの礼物を軽減し、秦と和議を結び、
さらに2年後には秦・晋・楚・斉を中心に会盟して戦争停止を誓い合うなど、
礼を重視し、中華世界の安定化に努めた。
呉の季札と会見して気心が合った。
季札は、晋の政権はいずれ趙・韓・魏の3氏に帰するだろう、と予言した。
子に、趙景子(趙成)がおり、さらにその子が趙簡子(趙鞅)である。


参考:
秦史3 一進一退の春秋後期

alias,趙文子

陳勝(ちんしょう) 中国 秦
秦代の叛乱指導者。字は渉。史上初めて一介の平民から王になった。
血筋がなくても栄達してやるという志を持っており、
「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」「王侯将相寧くんぞ種有らんや」といった言葉が知られている。
(参考:
十八史略 燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや

陳勝は、北部辺境の守備隊として徴兵されて任地に向かっていた。
彼らの一行は大雨のため期日までに到着できないことが明らかになったが、秦の法ではそのような場合でも死罪になることになっていた。
陳勝は呉広と謀り、引率の指揮官を殺害して、兵を鼓舞して挙兵した。
近くの大沢郷(たいたくごう)を攻め落とし、その兵を合わせて周辺諸県を制圧し、さらにゆくゆく兵を合わせて楚のかつての首都であった陳に至った。
その兵力は数万、戦車600〜700乗にまで膨れ上がっていた。
陳勝はわずかな抵抗を受けただけで陳に入城し、陳の有力者たちの推挙を受けて王となり、国号を張楚と称した。

呉広を仮王として西に送り、滎陽(けいよう)を攻略させたが、李由(りゆう・丞相李斯の息子)は呉広の攻撃を固く防いだ。
陳勝は、新たに一軍を編成し、周章を起用して、秦を討たせた。
周章は函谷関をついに突破し、咸陽の50km手前まで迫った。
秦の章邯は、驪山の陵墓建設に使役されていた罪人数十万人の解放を進言し、急造の開放刑徒の軍を率いて周章と戦い、これを大破した。
章邯は函谷関を超えて周章を追撃し、さらにこれを2度破った。周章は自殺した。

趙には武臣を将軍とし、張耳と陳余にこれを補佐させ、3千人の兵をつけて送り出した。武臣は趙を平定すると自立して王となった。
魏には周市を派遣した。周市は魏を平定し、魏の国人に王に推挙されたが、これを固辞した。
代わりに陳勝の下にいた魏の王族魏咎に白羽の矢が立ち、陳勝も折れて魏咎を魏王とした。

章邯の反攻を受けて、呉広配下の将軍田臧(でんぞう)は呉広が用兵に疎く、呉広の指揮では秦には勝てないと懸念し、呉広を殺し陳勝のもとにその首を送った。
陳勝は田臧を令尹(れいいん・楚における宰相)に任じた。
田臧は滎陽に一部の兵を残し、精兵を率いて章邯と戦ったが、敗れて田臧は戦死した。
章邯は陳まで追撃を行い、陳勝は戦場に出て督戦したが、章邯はこれを破った。
陳勝は敗走し、途中で御者に殺された。陳勝が王になって半年後のことであった。
しかし、陳勝の行動は各地の叛乱を誘発し、秦打倒のきっかけとなった。


参考:
十八史略 燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや
漢楚斉戦記1 陳勝・呉広の乱

alias,陳渉 陳王

陳軫(ちんしん) 中国 戦国時代
中国戦国時代の遊説の士である。蛇足の故事で知られる。
もともとは楚に拠点があったものと考えられる。
秦に遊説し、
張儀と恵文君(後に恵王)の君寵を争っていた。
張儀が宰相に任命されると、陳軫は楚に出奔した。同時期、将軍の公孫衍も張儀と不仲で魏に入った。

陳軫は楚に入ったが、いまだ重んじられておらず、楚の使者をしていた。
あるとき魏で公孫衍のもとに立ち寄った。公孫衍は仕事がなく飲んだくれていた。
陳軫は、天下のことがあなたに移るようさせてください、といった。
公孫衍は陳軫の策に乗り、魏の恵王に謁見して、特に仕事がなく燕・趙の旧知の知人に会いに行きたいと願ってこれを許された。
許しを得るや、朝廷で燕・趙に使いに行くと公言し、戦車三十乗を準備した。
諸侯のために魏で情報収集している者たちは、公孫衍が戦車三十乗で燕・趙に使者として派遣される、と本国に報告した。
斉は、公孫衍の主導で魏・燕・趙が同盟して斉を攻めることがないよう、公孫衍に国事を委託した。
この情勢を受けて、燕・趙も国事を公孫衍に国事を委託し、公孫衍は三国の国事を裁断するに至り、歴史の表舞台に立つにいたった。
名のある将軍である公孫衍を動かし、諸侯に疑念を抱かせ公孫衍に国事を委託させることが陳軫の策であった。

秦が張儀の進言により王号を称するに至ると、魏は韓が王号を称することを認め、
さらに公孫衍は趙・燕・中山を誘って5カ国を束ね、互いに王号を使用することを認め合った(五国相王)。
ここに、公孫衍が緩やかに束ねる三晋(魏・趙・韓)・燕・中山が秦・楚連合と斉に対抗する構図が出来上がった。
この裏で陳軫は、公孫衍が5国を束ねる情勢と秦の恵王との関係を利用して、秦と楚の間で使いし、
二国が連合するようにして、楚での立場の強化を図っていたのである。

同時期、陳軫は斉に使者として赴いた。
時に楚は令尹(れいいん・宰相)の昭陽(しょうよう)が魏を攻撃し、襄陵の地で勝利して8邑を奪っていた。
昭陽は兵を斉に向けた。たまたま斉に来ていた陳軫は、斉王の相談を受けた。
陳軫は昭陽と会見し、「蛇足」のたとえ話をし(これが「蛇足」の由来となった故事である)、
すでに楚の最高官であるあなたはこれ以上戦勝を重ねても得ることがなく、
敗れて罰を受けるリスクのみがあり、斉に恩を売るに越したことはないと説き、昭陽を撤兵させることに成功した。
これにより、秦・楚・斉が親善できる情勢が出現し、陳軫は説客として名を上げたのである。

蘇秦が六国合従同盟を成立させていた頃、陳軫は秦にいた。
陳軫は情勢を見て秦の恵王に、義渠に贈り物し招撫するのがよいでしょう、と進言し、
秦の恵王は義渠に多くの贈り物と女性を送った。
だが、公孫衍は同様の事態を予期しており、かつて義渠の君主が魏に来朝した際、
中国の諸侯が秦を攻めないと義渠は秦に討たれ、諸侯が秦を攻めると秦は義渠に使者を派遣して贈り物をするのです、と説いていた。
義渠の君主は「これが公孫衍が言ったことなのだろうか」といい、秦の背後を衝いて秦を破り、陳軫の進言は裏目に出た。

紀元前317年、韓の公仲(こうちゅう)は韓王に、同盟国など当てにならず、秦に名都を1邑献上して和睦を請い、秦とともに楚を討つべき、と説いた。
韓王はこれを許し、公仲を出発させようとした。
楚の懐王はこの情報に接して陳軫に相談した。
陳軫は、「韓を助けると宣言し、軍を動かしているように見せ、使者を韓に送り、楚が韓を助けると信じ込ませるように」と進言した。
韓が秦と断交すれば大成功であり、断交しなくても秦と韓の間に亀裂は入れられるであろう、というのが陳軫の見立てであった。
楚王がこの策を実施すると、韓王は公仲を引き止めて秦と戦う覚悟を決めた。

秦が蜀を攻めようとしていたときに、韓が秦を攻めることとなった。
張儀と司馬錯(しばさく)が論争したあと、秦の恵王は司馬錯に同意し、
紀元前316年に先に司馬錯に蜀を討たせて平定し、その王を蜀候として秦に従属させた。
翌紀元前315年、秦は韓に兵を向け、1邑を奪い、また、義渠に報復し25城を取った。

紀元前314年、おそらく公孫衍の主導の元、魏は秦と戦っている韓と連合して連衡を放棄した。
秦は樗里疾を登用し、魏の曲沃を降し、岸門で魏・韓連合軍を首級1万を斬って大破し、公孫衍を敗走させた。
魏と韓は秦に和議を申し入れた。
韓は、楚が欺いて助けなかったので、これを恨んだ。

紀元前313年、秦の恵王と魏の襄王が臨晋(りんしん)で会同し、斉・燕を攻める約定が行われたものと考えられる。
この情勢に斉は楚と同盟して対抗しようとした。
当時はまだ秦の力が抜きん出ておらず、秦の恵王は対応を迫られた。
張儀がこの対応に当たることとなり、張儀を宰相から免じたと公式発表したうえで、張儀を楚に入らせた。
楚の懐王は張儀を厚遇し、自ら案内した。
張儀は、楚が斉と断交するならば、商・於の地600里を楚に割譲し、
秦の公女を懐王に嫁がせるよう計らいます、と提案した。
楚の懐王は、一兵も使わずに600里の地を得られる、として歓喜し、張儀の提案を受け入れた。
楚の群臣はみなこれを慶賀した。陳軫のみは懐王に悔みを述べ、 表向き斉と断交し、ひそかに斉との交わりを保ち、土地を得てから断交しても遅くはない、と進言した。
懐王はこれを聴かず、張儀を楚の令尹(宰相)にし、斉と断交して、秦に戻る張儀に将軍一人を随行させた。

張儀は、秦に戻ると、わざと車から落下して三ヶ月にわたって参朝しなかった。
楚の懐王は、張儀は断交が不十分だと思っているのだろうか、と考え、勇士を送り斉王を罵らせた。
張儀は、斉・楚の断交が確実になったのを見て、参朝して楚の将軍に述べた。
「臣に奉邑六里有り。願わくは以て大王の左右に献ぜん。」
楚の将軍は、商・於の地600里の約束のはずが6里だというので、楚に帰って王に報告した。
楚の懐王は激怒し、秦に報復のため攻撃しようとした。
陳軫は、秦を攻めるより、むしろ秦に名都を贈り秦とともに斉を攻めれば斉から代償をとることができる、と進言し、
秦・斉の両方を敵にすれば天下の兵を招き入れることになる、と諫めたが、懐王は聴かなかった。
紀元前312年春、懐王は屈匄(くつかい)を大将軍とし、秦を攻撃させた。
秦は魏章(ぎしょう)を総大将とし、樗里疾・甘茂(かんも)らを登用し、
以前陳軫の策で楚に裏切られた韓と連合して、丹陽の地で楚軍を迎撃してこれを大破した。
斬首8万に及び、大将軍屈匄を筆頭に将校70人余りを捕虜とした。
甘茂(かんも)は漢中を攻略し、漢中郡が設置された。
楚の懐王は諦めきれず、国内の兵を総動員して再び秦を攻撃した。
藍田まで攻め込んだが、秦はここで楚軍を大破した。
魏と韓が、楚の隙を突いて南下して本国を攻撃したため、ついに楚の懐王も窮まり、2城を割譲して和睦するに至った。


参考:
秦史5 張儀の活躍

alias,


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