秦史3
一進一退の春秋後期
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晋との70年以上に及ぶ戦争

 紀元前621年、繆公の死後、太子が即位した。これが康公である。同じ年、晋では襄公が死去した。その太子がまだ幼少だったため、 趙盾は秦にいる襄公の弟の公子雍を擁立しようとし、秦に士会らを迎えに行かせた。康公は晋の文公のときに護衛兵がおらず、反乱がおきたことを踏まえて、翌年、公子雍に多くの護衛兵を与えて送った。これに対して、太子の母が日夜泣いて趙盾に 「先君に何の罪があって嫡子を棄てるのですか。」と訴えたため、趙盾はこれを憂え、かつ、太子の母の一族に命を狙われることを恐れたため、太子を擁立することとした。 こうして即位したのが霊公である。趙盾はみずから兵を率いて公子雍を護送してきた秦の軍を打ち破った。士会はそのまま秦に留まった。

 翌年、晋を討ち、武城を取った。その翌年、晋に小梁を奪われた。紀元前615年、出兵して羈馬を攻め取った。これに対して晋は趙盾・趙穿らが出陣し、河曲で会戦して秦が勝利した。趙盾らは士会が秦にいて任用され乱を起こしかねないのを恐れ、いつわって魏寿余を秦に投降させ、士会を晋に連れ戻した。

 康公の死後は、子の共公が跡を継いた。紀元前608年、晋は秦と和議を試み、趙穿が崇を攻めた後に和議を求めたが秦は応じなかった。翌年秦は晋に侵攻し、趙盾がこれを退けた。共公の次は桓公が即位した。この間、楚の荘王が力をつけ、洛陽の郊外に兵をつらねて、鼎の軽重を問う事件が起こった。紀元前601年、晋が秦の一将を破った。紀元前597年楚の荘王は鄭を包囲してこれを下した。晋が救援に来たが間に合わず、一戦して楚が勝利した。

 楚に対する敗戦の衝撃の中、晋では趙盾の子趙朔(ちょうさく)が大夫屠岸賈(とがんか)の独断によって趙氏の当主として霊公弑逆の罪を問われ殺された。中行桓子(荀林父)は自死しようとしたが、士会の進言があったため沙汰やみとなった。独断で戦端を開き敗戦の原因を作った先軫の子孫である先縠は、翌年狄を引き入れて晋を攻撃したため族滅されられた。紀元前589年、斉が魯を討ち、救援に出た晋と斉が戦って、郤克(げきこく)・欒書(らんしょ)・韓厥(かんけつ)らが率いる晋が勝利した。翌紀元前588年、晋は初めて六卿を置き、韓厥・趙括(ちょうかつ)・趙旃(ちょうせん)らが任命された。紀元前583年、趙括・趙同が族滅された。韓厥が進言し、かくまわれていた趙朔の遺児趙武に趙氏を継がせた。

 紀元前580年、晋では詞が即位し、秦と晋とが黄河を挟んで会盟し、和議を結んだ。晋は楚とも和議を結んだ。しかし、秦の桓公は一方で楚と狄と結んで晋に攻め入ろうと図った。秦の不義に諸侯は怒り、このことを晋に伝達した。紀元前578年、晋は秦に宣戦布告し、欒書・韓厥・趙旃・士燮(ししょう)らを将とし、斉・宋・衛・曹などの諸侯の軍を率いて秦に攻め込んだ。秦の首都雍の西方約100kmの麻隧で会戦し、秦は大敗した。翌年桓公は死去し、景公が即位した。

 紀元前576年、楚が和議を破り軍を北上させ晋の影響下にあった鄭を攻めて離反させた。翌年晋は欒書・韓厥・士燮・郤リ(げきき)・中行偃(ちゅうこうえん)らを将とし鄭を攻撃した。援軍に来た楚と会戦し、晋が勝利した。晋の詞は、この後寵臣を起用した。郤リら郤氏がまず殺され、欒書・中行偃も圧迫を受けた。紀元前574年、欒書・中行偃は詞とその寵臣を殺し、悼公を立てた。悼公は、韓厥・知罃(ちおう)・魏絳(ぎこう)らを用い国力を高めた。晋に対抗するため、秦と楚が手を結んだ。

 紀元前564年、秦と楚が共同て晋を攻め、翌年晋は知罃に秦を攻撃させた。さらに翌紀元前562年、秦は楚と共同で鄭に圧力をかけこれを従わせた。晋はこれに対して趙武らを派遣し再度服従させた。秦は鄭に対して出兵を行い、晋軍と会戦してこれに大勝した。紀元前559年、晋は諸侯の軍を率いて秦に報復し、秦軍を破り首都雍まで100kmの水まで迫り、これを渡河した。秦は川に毒を流し晋と諸侯の軍を苦しめた。やがて足並みがそろわなくなり、晋と諸侯の軍は撤退した。

晋の六卿の伸長

 紀元前552年、晋で欒書の孫にあたる欒盈が士匄(しかい 范宣子)に追放された。紀元前550年、斉の荘公は欒盈をもとの欒氏の食邑である曲沃にひそかに送り込み、欒盈は曲沃を拠点に晋都絳に攻め込んだ。欒盈は親しい魏舒(魏献子)を誘ったが、士匄の子士鞅(しおう 范献子)が魏舒を強制的に晋君(平公)のもとへ連れて行き、合流できないようにしたために、欒盈の兵力は不足し、絳を攻めきれず曲沃に撤退した。この機に乗じて斉の荘公は反対を押し切って晋に攻め込み、欒盈の敗北を聞いて朝歌を占領して撤退した。晋は曲沃を攻め落とし、欒盈をはじめとした欒氏は滅ぼされた。紀元前548年、斉の宰相崔杼(さいちょ)が荘公を殺した。晋の平公が諸侯を率いて斉を攻撃し、崔杼は荘公を殺したことを以て申し開きをし、降伏して和議を結んだ。

 紀元前548年、秦は晋と和議を結んだ。紀元前546年には秦・晋・楚・斉が中心となって会盟し、戦争停止を誓い合った。紀元前544年、南方で勃興しつつあった呉より、季札が呉王余祭即位の通告のため、諸国を回った。晋においては、趙武・韓起・魏舒と気心があい、その三氏の隆盛を予言し、また国君が傲慢であるのに対し大夫が有能でかつ富裕であるから公室が衰えて大夫に政権が移るであろうと指摘した。紀元前539年、晋の平公の傅である羊舌肸(ようぜつきつ)が、斉から使者として来た晏子(晏嬰)と語り、平公は政治を顧みず奢侈であり、政治は六卿の私邸で行われていると漏らした。晋ではこのように公室が衰えて趙・韓・魏・知・中行・范(士)ら六卿が政治を行うようになった。やがて、六卿は互いに争うようになり、長年続いてきた秦と晋の戦争は起こらなくなった。

呉・楚の争い

 紀元前538年、楚の霊王は諸侯を率いて呉を攻撃し、楚と呉は戦争状態に突入した。紀元前537年、秦の景公が死去し、子の哀公が即位した。紀元前529年、楚の公子棄疾(きしつ)が霊王の不在を突いて自立し平王として即位した。紀元前523年、楚の平王は秦との婚姻同盟のため、秦から太子建の妻として秦の公女を得たが、美貌だったので自分の妻にした。楚の平王は讒言を聴いて太子建を疎んじるようになり、紀元前522年、太子建の傅の伍奢(ごしょ)を捕え、太子建も死刑にしようとした。太子建は鄭に出奔し、伍奢は殺され、伍奢の子である伍子胥(ごししょ)は太子建とともに鄭に亡命した。太子建が晋に内応して鄭を滅ぼそうと図ったため、鄭の子産は太子建を殺し、伍子胥は呉に亡命した。伍子胥は呉の公子光と関係を構築した。

 紀元前519年、楚の太子建の母が、呉を楚に引き入れ、呉の公子光が楚軍を破り、太子建の母を呉に迎えた。翌年、公子光は再び楚を攻め、居巣・鍾離を抜いた。紀元前516年、楚の平王が死去し、秦の公女との子が即位し昭王となった。翌年、呉王王僚は楚の喪中に乗じて2人の公子を派遣し攻撃した。楚は呉軍の退路を断った。公子光は本国に軍がいないのを好機と考え、王僚を殺して自ら即位した。これが呉王闔閭(こうりょ)である。2人の公子はそのまま楚に降伏した。呉王闔閭は伍子胥を登用し、また楚から亡命してきた伯嚭(はくひ)を大夫に、兵法家孫武(孫子)を将軍に取り立て、領民をいたわって、楚を討つべく準備した。

 紀元前514年、晋では公室に連なる羊舌氏と祁(き)氏が滅ぼされ、その領邑10県を六卿が分割した。晋はいよいよ公室が弱まり、六卿が互いに争う時代に突入した。

 紀元前512年、呉王闔閭は楚を攻め、1邑を抜き、楚に降伏した2人の公子を捕えた。楚の首都郢を攻めようとしたが、伍子胥と孫武が、民が疲れておりまだその時ではないと進言したのでやめた。翌年、2邑を攻めて撤退した。その翌年には越を討った。翌紀元前509年、楚が呉を攻めたが、伍子胥はこれを迎撃して大破した。

 紀元前506年、呉王闔閭は伍子胥と孫武に郢に攻め込むことについて諮問すると、楚を恨んでいる唐・蔡と組んでならばよいと回答した。呉王闔閭はこれを受け入れ、唐・蔡と連合して全軍を以て楚に攻め込んだ。闔閭の弟夫概(ふがい)は攻撃を進言して許されなかったが、配下の兵を率いて独断で楚の令尹(宰相)子常を攻撃し、敗走させた。この機に呉は総攻撃に入り、5戦5勝してついに楚の首都郢に入った。楚の昭王は逃走した。伍子胥と伯嚭は平王の屍をあばいて鞭打った。

 翌年も呉王闔閭は楚に留まり、楚の昭王を探していた。その隙をついて、越が呉を攻めた。呉王闔閭は兵を分けて越を迎撃した。その間に、楚の大夫申包胥(しんほうしょ)は秦に行き、救援を請うたが秦の哀公は認めなかった。申包胥は宮殿の広場で7日7晩泣き続けた。哀公は「楚は無道といえ、このような臣がいる。存続させるべきだろう。」といい、兵車500乗で救援に向かわせた。秦の援軍がいたって呉は敗北した。この情勢を見た夫概は呉に逃げ帰って自立して王を称した。闔閭は即座に呉に戻り夫概を討った。楚の昭王は呉が撤兵したので、郢にもどり再び楚王となった

呉の盛衰・六卿の争い

 紀元前504年、呉王闔閭は太子夫差(ふさ)に楚を攻撃させ、1邑を抜いた。楚の昭王は恐れて、北方に遷都した。紀元前501年、秦の哀公が死去して、恵公が即位した。このころ、孔子は魯で要職を歴任し、活躍していた。紀元前497年、晋で趙簡子が中行文子・范昭子に攻められた、知文子・魏襄子・韓簡子は晋公を奉じて中行文子・范昭子を攻撃してこれを破り、朝歌に追い込んだ。紀元前496年、呉王闔閭は越王勾践を攻撃したが、敗れて戦傷がもとで死去した。太子夫差が呉王となり、戦備を整え、紀元前494年越王勾践を破り、会稽山に追い込んだ。越王勾践は呉の伯嚭に賄賂を贈り、講和の斡旋を依頼し、呉王夫差は伍子胥の反対を退けて越と講和した。以後、越王勾践は臥薪嘗胆して国内を愛撫し、復讐の機会を待った。

 紀元前492年、趙簡子は中行文子・范昭子が籠る朝歌を包囲しこれを破った。中行文子は邯鄲に、范昭子は柏人に逃げ込んだ。同年、秦の恵公が死去して、悼公が即位した。翌年、趙簡子は邯鄲を抜き、中行文子は柏人に逃げ込んだが、その翌年、趙簡子は柏人を抜き、中行文子・范昭子は斉に出奔した。趙簡子は邯鄲・柏人を領有し、晋公の臣下という形を取りながら、晋の政権を握り、その領域の広さは諸侯に比肩した。紀元前491年、秦の恵公が死去して、悼公が即位した。

 紀元前489年、呉王夫差は斉を討とうとした。伍子胥は越を先に討つべきであるとして反対したが、呉王夫差はこれを退けて出兵し、斉に大勝した。紀元前485年、呉王夫差は斉に再び出兵した。伍子胥は呉に先がないと考え、長子を斉の鮑氏に委託した。そのころが呉王に伝わったため、伍子胥は死を賜った。紀元前484年、呉王夫差は斉に出兵し、これを大破した。紀元前482年、呉王夫差は黄池で諸侯と会盟した。この隙に、越王勾践は呉を攻め、太子友を殺した。呉王夫差は帰国して越と和議を結んだ。紀元前478年、越王勾践は再び呉を攻め、これを破り、6年後、呉王夫差は自害し呉は滅びた。

 紀元前477年、秦の悼公が死去して、視、公(れいきょうこう)が即位した。紀元前475年、蜀が初めて秦に来貢した。紀元前461年、異民族の大荔(だいり)を討ち占拠した。同年、趙襄子は代王を暗殺し、出兵して代を平定した。紀元前457年、晋の知伯は、趙・魏・韓とともに中行氏・范氏の旧領を分割した。晋の出公は怒り斉・魯とともに四卿を討とうとしたが、逆に四卿に討たれ出奔した。知伯は哀公を擁立して傀儡として晋の政治を専断した。紀元前456年、秦は頻陽を県とした。晋が侵攻して武城を奪取した。

 晋の四卿で最大の勢力を誇る知伯は、趙・韓・魏に土地の割譲を迫った。韓と魏はその力を恐れ、要求に従ったが、趙襄子はこれを拒絶した。知伯は韓と魏を率いて趙を攻め、趙襄子は晋陽に籠城した。3年後の紀元前453年、追い詰められた趙襄子は韓・魏とひそかに連絡を取り、趙が正面から知伯を攻め、韓・魏が左右からこれを挟撃し知伯を破り虜にした。趙・韓・魏は知伯の領地を分割して収めた。知伯の子知開が秦に逃れてきた。

世は戦国時代へ

 紀元前443年、視、公が死去し、子の躁公(そうこう)が立った。紀元前441年、南鄭(後の漢中の一部)が反乱した。紀元前430年、義渠の攻撃を受けた。躁公の後には、懐公が即位したが、紀元前425年反逆に遭い自殺し、霊公が即位した。この後、秦国内は安定せず、秦は一時的に力を失う一方、魏都(後の魏の文侯)が人材を集め、魏が強勢となった。秦との前線には用兵家呉起(呉子)がつき、しばしば秦軍を破った。紀元前419年、魏が少梁に築城したので、秦は出兵した。霊公の次は、簡公が立った。紀元前409年、長城を築いた。魏が秦を討った。紀元前408年、魏の楽羊が中山を征服した。紀元前403年、周の威烈王は趙・魏・韓を諸侯とし、それぞれ趙の列侯・魏の文侯・韓の景侯となった。こうして世は弱肉強食の戦国時代に突入した。

 紀元前400年、簡公が死去して恵公が即位した。紀元前393年、魏を討ったが敗れた。紀元前391年、秦は韓の宣陽(ぎよう)を討ち、6邑を奪った。紀元前389年、魏の陰晋に侵攻した。紀元前387年、秦は蜀を討ち、南鄭を取った。この一帯は後に漢中と呼ばれる地域である。魏に対しては敗北し将軍が捕虜となった。この年魏の文侯が死去し、武侯が即位した。呉起は引き続き武侯にも仕えた。紀元前386年、斉公の位を簒奪した田和が、周王により正式に諸侯に列せられた。秦では恵公が死去してまだ1歳の出公が即位した。幼君のもと国内はまとまらず、紀元前385年、出公はその母とともに殺され水に沈められた。代わりに霊公の子である献公が即位した。この間に魏は呉起を使って河西の地を秦から奪った。

 献公は秦にいまだ残っていた殉死の風習を禁じた。紀元前383年には、櫟陽(れきよう)に遷都した。紀元前380年、秦は魏と組んで韓を攻めた。韓は楚・趙・斉に援軍を求めた。楚と趙は韓に援軍を送り、斉は援軍には応じずこの機に燕を攻撃した。これに対して趙は斉を攻撃した。紀元前378年、前年に即位した斉の威王の喪中に乗じて、魏・趙・韓が呉起らを将として斉を攻撃し霊丘で破った。このころ、楽羊に攻められた中山は国を復興しており、紀元前377年、趙はこれを攻撃した。紀元前376年、魏・趙・韓が晋の静公を攻めて破り、その旧領を分割した。晋の静公は平民に移され、晋は完全に滅びた。

 秦は繆公以後の春秋時代においては一進一退を繰り返し、大国の一角を占めながらも、その勢力は伸長しなかった。秦が強大化するのは、弱肉強食の戦国時代にふさわしい実力主義の制度を商鞅が導入してからである。



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