秦史4
商君の変法
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魏との戦争

 献公が即位する前は、秦は国内の抗争で国力を低め、河西の地を魏に奪われた。諸侯は秦を中華の一員として認めず、中原諸国の会盟に秦は招かれなくなった。献公は殉死を禁じ周と接近し東方の櫟陽に遷都を行って文化的物理的に中華圏への接近を図った。また、辺境を巡撫して国力の回復に努めた。そして、河西の地を魏から取り戻そうとした。

 紀元前371年、魏の武候が死去し、恵王(実際に王を称したのは後のことである)が即位した。恵王は孟子が「王好戦」と評した人物であり、文候が高めた魏の国力の余勢を以て、周辺諸侯と積極的に戦争をした。韓と趙を破り、斉に敗れたが、紀元前366年には韓と組んで秦を攻めた。秦がこれを返り討ちにした。

 紀元前364年、献公は魏に対し攻勢に出た。魏は趙の援軍を得て戦ったが、秦が首級6万を挙げて勝利した。献公は周王室との関係を深めており、周王はこの勝利を祝賀した。翌年、再び魏に軍を向け少梁を攻撃した。魏は趙の援軍を受けて対抗し、秦は勝たなかった。翌紀元前362年、献公は庶長(しょちょう・爵名)の国(こく)に命じて再び魏の少梁を攻撃した。国は魏を破り、魏軍を率いる太子の公孫座を虜にした。周王はこれを祝賀し、形式的ながら献公に伯(一方面の諸侯の長)の呼称を与えた。同年、献公は没した。

孝公の即位

 孝公は満20歳で即位した。献公の遺志を継ぎ、秦を発展させるため賢者を求め、次のように布告した。
「昔、我が繆公は岐・雍の間より、徳を修め武を行い、東のかた晋の乱を平らげ、河を以て界と為し、西のかた戎翟に覇たりて、地を広めること千里、
天子、伯を致し、諸侯畢(ことごと)く賀し、後世の為に業を開くこと甚だ光美なり。
さきに氏E躁・簡公・出子の寧(やす)からざるに会い、国家は内憂あり、未だ外事に遑(いとま)あらず。
三晋攻めて我が先君の河西の地を奪い、諸侯は秦を卑しめ、醜(はじ)、これより大なるは莫し。
献公位に即き、辺境を鎮撫し、徙(うつ)りて櫟陽に治す。且つ東伐して、繆公の故地を復し、繆公の政令を修めんと欲す。
寡人、先君の意を思念し、常に心を痛む。賓客群臣、能く奇計を出だして秦を強くする者有らば、吾まさに官を尊くし、之と土を分かたんとす。」
商君の変法

 魏では、宰相の公叔座(こうしゅくざ)が病に倒れた。恵王は直接見舞いに行き、後任人事について相談した。公叔座は奇才の持ち主として家臣の商鞅(公孫鞅)を推薦した。恵王はこれに納得しなかった。公叔座は人払いして王に言った、「王がもし公孫鞅を用いられないのであれば、必ず殺し、国外に亡命するのをお防ぎください。」恵王は、これを許して去ったが、裏ではこのように言っていた。「公叔の病状は深刻だ、悲しいことよ。私に国を公孫鞅に任せろなどという、なんと愚かなことか。」

 公叔座の死後、商鞅は、秦の孝公の布告を知り、魏を離れて秦に入った。孝公の寵臣景監(けいかん)に取次ぎを頼んで、孝公に謁見することを求めた。三度の謁見の後、変法による富国強兵策を説き、孝公の信任を得た。 (このあたりの詳細については、商鞅秦へ入る 商君列伝第八を参照。)

 孝公は商鞅の策を導入しようとしたが、大改革であるため、慎重にならざるを得なかった。商鞅は、古来の法を守ることを主張する者と議論を戦わせ、夏・殷・周が異なる礼を採用したのに王者となり、春秋五覇も異なる法を採用したのに覇者となった例、夏の桀王と殷の紂王が古来の礼を変えずに滅んだ例をひき、「疑行は名なく疑事は功なし」と述べて孝公を励ました。紀元前359年、孝公は決断し、商鞅を左庶長(さしょちょう)に任じて、ついに第一次の変法を断行させた。

第一次変法には、次のような要点がある。
厳密な法による統治の実施
 公室を含めた貴族階級までを含めて、厳密な法による統治を実施した。民衆に対しては、5戸または10戸を一単位として、互いに違法行為を監視させ、罪を見逃すもの隠蔽する者は処刑し、申告すれば首級を挙げたのと同じ褒賞を与えることとした。公室に対しても容赦なく法を実施し、太子が法を犯した際もその罪を問い、ただし太子は世継ぎであり処刑できないため、太子の教育係である公子とその師2名を処刑した。こうして法が厳密に行われるようになった。

個人ごとの爵位に基づく実績主義
 公室から民衆までに国への功績に基づいた爵位を付与し、爵位に応じて保有できる不動産・家臣奴隷の数・衣服に制限が加えられた。富裕であっても、公室に連なる貴族であっても、功績が無ければ華美な生活は許されず、逆に功績のあるものは栄華な生活を送れるようにした。また、民衆で男子が2人以上いるのに分家しないものは税を倍にした。奴隷でない民衆にまで爵位を付与した点が大きな特徴であり、家族・氏族単位ではなく、個人単位でまず国家に貢献することを求めたのである。なお、漢書百官公卿表第七上に次の爵位が記されており、秦の制度を継承したものであるとされている。
20級(最上位):徹候
19級:関内(かんだい)候
18級:大庶長
17級:駟車庶長
16級:大良造(漢書は大上造としているが、史記の秦本紀には大良造とある。)
15級:少上造
14級:右更
13級:中更
12級:左更
11級:右庶長
10級:左庶長
9級:五大夫
8級:公乗
7級:公大夫
6級:官大夫
5級:大夫
4級:不更
3級:簪裊(しんじょう)
2級:上造
1級:公士
軍功の重視
 爵位は、特に軍功に対して報いるものとなっていた。また、私闘を禁じ、私闘を行うものは程度によって処罰されることとなった。

農業と手工業による生産を重視した経済政策
 農業と機織等の手工業を民衆の本業とさせ、多く納めるものには夫役を免除した。商業に従事する者、怠惰により貧しい者は奴隷にした。


 国家の法令が厳密に実施されるという前提のなかで、民衆は生産のみに当たらせ、原則は一律で生活水準を基本的に低くし、功績を挙げなければ生活水準を高めることができないようにしたのである。

 後に、荀子は斉と魏と秦の軍制について次のような主旨のことを述べている。荀子 議兵篇第十五)
・斉は、斬撃の技術を重視し、敵の首級を金で買い取って報奨とし、勝敗に関する恩賞はない。これは労働者を傭兵として使うのと変わらず、大軍・強敵を相手にする場合に極めて脆い。
・魏は、試験によって兵を採用する。試験の内容は。鎧を着用し、大弓を手に持ち50本の矢を背負い、戈(ほこ)を装備し、冑をかぶり、剣をつるし、3日分の食糧を携帯した状態で、明け方から正午までに百里(40km程度)を走破するというものである。合格すると、その一家の税を免除し、よい土地を優先的に配分する。この方法だと、能力が落ちても一度合格したものの特権を剥奪できず、兵を増やそうとすれば税収が減少することになり、国を危うくする。
・秦は、民衆の生活水準を低く抑え、刑罰と恩賞で迫り、軍功を挙げなければ生活水準を高められないようにしている。しかも、勝利した場合のみ恩賞を認めることになっているため、恩賞が軍功を生み、軍功が恩賞の財源を生むという好循環となっている。

 変法施行から1年は、皆慣れず、変法の不便を申し立てるものが数千人に及んだ。しかし3年経つと、治安が大きく改善し、生産力が上がって生活が安定したため、民衆も変法を便利とするようになった。当初、変法の不便を述べたものの中からも変法を賞賛するものが現れた。商鞅はそのものたちを世を乱す輩であるとし、辺境に流した。その後、法に口を挟むものはいなくなった。

 変法より5年後の紀元前354年、魏と戦って勝利し少梁の地を取った。翌年、魏の恵王は趙の邯鄲を包囲した。趙は斉に救援を求めた。斉は田忌を将とし孫臏を参謀として援軍を出した。魏は邯鄲を占領した。孫臏は魏の本国を攻撃することで趙を救おうとした(囲魏救趙の計)。魏は軍を戻さざるを得なくなり、斉軍と桂陵の地で激突して敗れた(桂陵の戦い)。翌紀元前352年、魏の敗戦を受けて、諸侯は魏の襄陵を包囲した。秦も商鞅を将として魏の安邑を包囲し、これを下した。商鞅は大良造(16級)に昇進した。翌年魏は結局邯鄲を返還し、趙と和議を結んだ。秦は趙の藺(りん)を攻撃した。

 紀元前350年、第一次変法の成功と安邑を下した軍功を得た商鞅は、孝公の支持のもと第二次変法を行い、また、咸陽城を築いて遷都した。第二次変法では、中華圏で野蛮と考えられた父子兄弟が妻を共有する風習を禁じたほかに、次のような要点があり、法による統治を実務面で支援するものと言えよう。
県の設置
 全国を31の県に分割し、県令・県丞を置き中央から任命することで、中央集権化を推進した。

徴税の公平化・効率化
 度量衡を統一し、税を公平化し、かつ効率化した。

農地の区画整理
 度量衡の統一を前提に、同一面積で碁盤目状に農地を区画整理した。これが徴税の公平化・効率化に資すること、中央集権的支配に役立つことは明らかである。また、第一次変法において、農地の保有も爵位によって制限されることとなっており、この面からも区画整理が必要であったと考えられる。
馬陵の戦いと魏の弱体化

 第二次変法後、商鞅は宰相となった。また、秦は強勢を増し、紀元前343年には周王から孝公に伯の称号が送られ、翌年孝公は周王を奉じて諸侯と会合し、周王に参朝させた。

 一方、このころ魏の恵王は、中原の中小諸侯を従えて周王に参朝するなど力を再び蓄えつつあった。商鞅は魏の恵王に、魏は強大であり、天子(天意を受けた王の意で、夏・殷・周の王これまでが天子とされていた。)の儀容を示し、斉と楚を討てば天下を従えられるだろうとけしかけた。これに喜んだ魏の恵王は、紀元前342年に逢沢で諸侯と会同し、夏王を称して、自ら天子となろうとした。斉は特にこれに反発した。紀元前341年、魏は韓を攻め、韓は斉に援軍を求めた。斉は出撃を遅らせつつも、魏の疲弊を待って田忌を将とし孫臏を参謀として援軍を発した(詳細は馬陵の戦い前夜 戦国策を参照)。これに対し、魏は太子申(しん)を上将軍、龐涓(ほうけん)を将軍として大軍を発し、斉と決戦しようとした。孫臏は魏人が斉軍を軽視していることに目をつけ、後退しながら一日ごとにかまどの数を減らして逃亡兵が続出しているようにみせかけた。魏将龐涓はこれをみて斉軍の過半数が逃亡したと思い、強行軍で斉軍を追跡した。孫臏は追撃速度を計り、道幅の狭い馬陵の地に伏兵を置いた。夕方、魏軍が馬陵に至ると伏兵に両側から矢を猛烈に射撃させ、大混乱に陥れた。斉は魏軍に大勝し、龐涓を自殺させ太子申を虜にした(馬陵の戦い)。 この敗戦が魏の恵王にとって国力低下への決定的ターニングポイントとなった。

 紀元前340年、商鞅は自らけしかけて生じた機会を捉えるべく、魏は秦とは黄河(の支流)で隔てられ、東はその領地の大半が太行山脈によって隔てられており、魏のこの部分を奪えば東の諸侯を制圧できると孝公に説き、馬陵の戦いで敗れた今がその好機であると進言した。孝公はこれを認め、商鞅を将軍として魏を討たせた。迎撃する魏の将軍は公子卭(こう)であり、商鞅はかつて知り合いであった。商鞅は公子卭に書簡を送り、休戦の上酒を酌み交わし和睦しようと持ちかけた。公子卭はこれに応じ、会盟の上酒を飲んだ。商鞅は伏兵を使い騙まし討ちで公子卭を捕虜にし、指揮官を失った魏軍を打ち破って大勝した。商鞅はこの功により徹候(20級)となり、商・於の地15邑に封じられ、商君と呼ばれるようになった。商鞅というのは、「商君である鞅」という意味である。同年、商鞅は商・於の地から隣接する楚を攻撃した。秦の領地は黄河に及ぶに至り、魏は秦との国境に近くなりすぎた都の安邑を放棄して大梁に遷都した。魏の恵王は「寡人恨むらくは公叔座の言を用いざりしことを。」と後悔した。

商鞅の死

 商鞅は、貴族の特権を奪い、また法を運用するに当たり温情を挟まなかったため、特に公室関係者から怨まれていた。商鞅は警戒して、外出する際は十数両の戦車で護衛し、護衛兵を引き連れていた。紀元前338年、孝公が死去した。太子の恵文君が即位した。公室の人間は商鞅を多く讒言し、商鞅は恐れて逃げた。魏に入ろうとしたが、魏は公子卭のことで商鞅を怨んでおり、秦に送り返した。商鞅は商・於の地で兵を徴発し、鄭を討ったが、秦は出兵して商鞅を殺し、死体を車裂きして見せしめにした。

 しかしながら、恵文君は商鞅の法を戻すことはしなかった。この後、秦の力が諸侯の間で抜きん出るようになり、他国は同盟して秦に対抗する(合従)か、秦の保護国になる(連衡)かの選択を迫られるようになるのである。

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