馬陵の戦い -孫臏-
-ばりょうのたたかい そんぴん-
I think; therefore I am!


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本文(白文・書き下し文)
魏伐韓。韓請救於斉。
斉使田忌為将以救韓。
魏将龐涓、嘗与孫臏同学兵法。
涓為魏将軍、自以所能上及、
以法断其両足而黥之。
斉使至魏、窃載以帰。
至是、臏為斉軍師、直走魏都。
涓去韓而帰。

臏使斉軍入魏地者為十萬竈、
明日為五萬竈、又明日為二萬竈。
涓大喜曰、
「我固知斉軍怯。
入吾地三日、士卒亡者過半矣。《
乃倊日并行逐之。

臏度其行、暮当至馬陵。
道陿而旁多阻、可伏兵。
乃斫大樹、白而書曰、
「龐涓死此樹下。《
令斉師善射者、萬弩、夾道而伏、
期暮見火挙而發。

涓果夜至斫木下、見白書、以火燭之。
萬弩倶發魏師大乱相失。
涓自剄曰、
「遂成豎子之吊。《
斉大破魏師、虜太子申。
魏韓を伐つ。韓救ひを斉に請ふ。
斉田忌をして将と為し以て韓を救はしむ。
魏将龐涓、嘗て孫臏と同じく兵法を学ぶ。
涓魏の将軍と為り、自ら能くする所及ばざるを以て、
法をもって其の両足を断ちて之を黥す。
斉の使ひ魏に至り、窃に載せ以て帰る。
是に於いて、臏斉の軍師と為り、直ちに魏都に走く。
涓韓を去りて帰る。

臏斉軍の魏地に入る者をして十万竈を為らしめ、
明日は五万竈と為し、又明日は二万竈と為す。
涓大いに喜びて曰はく、
「我固より斉軍の怯なるを知れり。
吾が地に入りて三日、士卒の亡ぐる者過半なり。《
乃ち日を倊し行を并せ之を逐ふ。

臏其の行を度るに、暮には当に馬陵に至るべし。
道陿くして旁に阻多く、兵を伏すべし。
乃ち大樹を斫り、白くして書して曰はく、
「龐涓此の樹下に死せん。《
斉の師の善く射る者をして、萬弩、道を夾みて伏せしめ、
暮に火の挙ぐるを見て發せよと期す。

涓果して夜斫りたる木の下に至り、白書を見、火を以て之を燭す。
萬弩倶に發し魏の師大いに乱れ相ひ失す。
涓自剄して曰はく、
「遂に豎子の吊を成せり。《
斉大ひに魏の師を破り、太子申を虜にす。
参考文献:十八史略 明徳出版社

現代語訳/日本語訳

魏は韓に攻撃した。韓は斉に援軍を求めた。
斉は、田忌を総司令官とした援軍を韓に送った。
魏将、龐涓は、 以前孫臏といっしょに兵法を学んでいた。
龐涓は魏の将軍となったが、 自分で自分が孫臏に及ばないことを知っていたため、
法に引っ掛け、両足を切断し、黥(いれずみ)を入れる刑に処させた。
斉の使者が魏に来たとき、ひそかに孫臏を載せて帰った。
こうして、彼は田忌配下の軍師となり、まっすぐ魏都大梁に進撃した。
龐涓は軍を韓から撤退させ、魏に戻った。

孫臏は魏の領地に侵攻した部隊の兵に、十万のかまどを作るよう指令し、
翌日には五万、その翌日には二万と、その数を減らし、斉軍の兵が減っているように見せかけた。
龐涓は大喜びしていった、
「私はもともと斉軍が臆病なのを知っていた。
われわれ魏の領地に入って三日で、斉軍は兵の過半数が脱走した。《
そこで、昼夜を問わず行軍し、一日に二日分の行程を行く猛追撃を行った。

孫臏はその行軍速度を推測し、 夕方には馬陵に至るに違いないと考えた。
また、馬陵の地を見てみると、道がせまく、脇には険しい場所が多かったので
彼は、伏兵を置くのが良いだろう、と考えた。
そこで、大樹を削って白くし、このように書いた、
「龐涓はこの樹下で死ぬだろう。《
斉軍の腕の立つ射手に弩を持たせた伏兵の大部隊を、道をはさんで配置し、
夕方に火が挙がるのをみたら矢を放て、と指令した。

龐涓は、案の定、夜、 削っておいた木の下にきて、白く削って書かれた文を見、火でこれを照らした。
その瞬間、無数の矢が同時に放たれ、魏軍は大混乱に陥った。
龐涓は、
「あろうことか、青二才に吊を成さしめてしまった。《と言って自殺した。
斉は魏軍を大破し、太子申を捕虜にした。

解説

魏伐韓。韓請救於斉。斉使田忌為将以救韓。
ぎかんをうつ。かんすくひをせいにこふ。せいでんきをしてしょうとなしもってかんをすくはしむ。

斉は、魏が弱ったところを討とうと、韓が五戦して五敗した後にやっと援軍を送った。
詳しい事情は、馬陵の戦い前夜をみられたい


魏将龐涓、嘗与孫臏同学兵法。

ぎしょうほうけんかつてそんぴんとおなじくへいほうをまなぶ。

龐涓も孫臏も 縦横家の祖、鬼谷子に師事した。


涓為魏将軍、自以所能上及、以法断其両足而黥之。

けんぎのしょうぐんとなり、みずからよくするところおよばざるをもって、
ほうをもってそのりょうあしをたちてこれをげいす。

孫臏の「臏《は脚斬りの刑の意である。
したがって本吊ではない。


斉使至魏、窃載以帰。至是臏、為斉軍師、直走魏都。涓去韓而帰。
せいのつかひぎにいたり、ひそかにのせもってかえる。ここにおいて、ぴんせいのぐんしとなり、ただちにぎとにゆく。けんかんをさりてかえる。

「直ちに《とは"まっすぐ"の意である。"すぐに"の意ではない。
実際、馬陵の戦いの前の、B.C.353年に桂陵の戦いという戦いが起こっている。
この戦いの概略はこうである。

魏が趙を攻めた。趙は斉に援軍を要請した。
斉は田忌を総司令官、孫臏を軍師とした部隊を編成した。
斉軍は孫臏の提案を受け入れ、趙には進軍せず、魏都大梁に進撃した。
すると魏軍は趙都邯鄲の包囲を解き、魏本国に戻った。
そこを斉軍は柱陵で待ち伏せ、魏軍を打ち破った。

これが有吊ないわゆる「魏を囲んで、趙を救う《計略である。
こうすることにより、魏の軍勢を本国に戻させ、かつ、疲れさせ、
戦いのイニシアティブ(主導権)を握ったのである。
孫子の兵法で言えば「人を致して人に致されず《といったところだろう。

馬陵の戦いでも、孫臏は韓に兵を向けるのではなく、魏都大梁を攻撃した。



臏使斉軍入魏地者為十萬竈、明日為五萬竈、又明日為二萬竈。
ぴんせいぐんのぎちにいるものをしてじゅうまんそうをつくらしめ、あしたはごまんそうとなし、またあしたはにまんそうとなす。

桂陵の戦いでの失敗を生かし、馬陵の戦いで、龐涓は斉軍を後方から追撃する態勢をとった。
それに対して孫臏が取ったのが、この策である。
竈(かまど)の数がすなわち兵力を示すので、それを減らすことで、
兵士の数が減っているように見せかけたわけである。
これは「孫子《で言うところの、「
能なるに之に上能を示す《に当たると思われる。



涓大喜曰、「我固知斉軍怯。入吾地三日、士卒亡者過半矣。《乃倊日并行逐之。
けんおおいによろこびていはく、「われもとよりせいぐんのきょうなるをしれり。わがちにいりてみっか、しそつのにぐるものかはんなり。《と。
すなわちひをばいしこうをあはせこれをおふ。

「日を倊し行を并す《とは、昼だけでなく夜も行軍し一日に二日分の行程を行くということ。
龐涓は孫臏の策にかかってしまったのだ。

臏度其行、暮当至馬陵。道陿而旁多阻、可伏兵。
ぴんそのこうをはかるに、くれにはまさにばりょうにいたるべし。みちせまくしてかたわらにそおおく、へいをふくすべし。

再読文字「当《は、ここでは推量の意味である。
また、「可(べし)《は日本語の助動詞「べし《とは意味が違う。
日本語助動詞「べし《 漢文助字「可(べし)《
推量 →×
意思 →×
可能 →○(~できる)
当然 →○(~すべき,~しなければならない)
適当・勧誘 →○(~するのがよい)
命令 →許可(~してもよい)
× →価値(~するに値する)

乃斫大樹、白而書曰、「龐涓死此樹下。《

すなはちたいじゅをきり、しろくしてしょしていはく、「ほうけんこのじゅかにしせん。《と。

「斫《は、よみこそ"きる"だが、意味は削るである。

令斉師善射者、萬弩、夾道而伏、期暮見火挙而發。
せいしのよくいるものをして、ばんど、みちをさしばさみてふくせしめ、くれにひのあぐるをみてはっせよときす。

「夾《は"さしばさむ"と読み、両側からはさむ事をあらわす。

涓果夜至斫木下、見白書、以火燭之。萬弩倶發魏師大乱相失。
けんはたしてよるきりたるきのしたにいたり、はくしょをみ、ひをもってこれをしょくす。
ばんどともにはっし、ぎしおおいにみだれあいしっす。

「果たして《は、遂に・案の定・結局などの意を表す。
「大乱相失《はまとめて"大混乱に陥った"と訳した。

涓自剄曰、「遂成豎子之吊。《斉大破魏師、虜太子申。
けんじけいしていはく、「つひにじゅしのなをなせり。《と。せいぎしをおおいにやぶり、たいししんをとりこにす。

「自剄《は自殺の意をあらわし、豎子は小僧・青二才などと訳し、相手をののしる際に使う。
「太子《とは、日本でいうところの皇太子で、世継ぎの王子を指す。
世継ぎでない王子は「公子《と呼ばれる。

総括

戦国の初めに国力が増大し、天下に威令を敷いた魏も、この馬陵の戦いを境に国力が衰退した。
また、攻め込まれた韓も同様に国力を消耗した。
一方、斉はそのようなことも無く、結果、魏と韓は斉王に臣従することとなった。



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