秦史5
張儀の活躍
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魏への圧迫

 秦は、献公・孝公と二代にわたり魏と交戦し、孝公の代に、商鞅を登用して内政を改革しさらに商鞅に魏を討たせて大きな成果を得た。魏は都の安邑を放棄して東の大梁に遷都せざるを得ないまでに追い詰められた。孝公の最終年には、魏と岸門で戦い、将軍魏錯を虜にした。孝公の死後、商鞅は殺されたが、後を継いだ恵文君は商鞅の変法を戻さず、引き続き魏への圧力を強めた。函谷関はおおむねこの時期に設置されたと考えられる。

 紀元前332年、魏は陰晋の地を秦に割譲した。翌年、秦は魏と戦い、魏将竜虎を虜にし首級8万を斬った。さらに翌年、公孫衍(こうそんえん 通称は犀首(さいしゅ))が魏の竜賈(りゅうか)の軍4万5千を破り、焦・曲沃を包囲した。魏は黄河以西を秦に割譲して和睦した。翌紀元前329年、秦は恵王の弟で「智嚢(ちのう・知恵袋)」とあだ名される樗里疾(ちょりしつ)らを登用し、ついに黄河をわたって攻勢に出た。樗里疾が曲沃を制圧し、ほかに焦など合計4邑をとった。

張儀、宰相となる

 このころ、秦には陳軫(ちんしん)と張儀が遊説し、恵文君に重んじられていた。紀元前328年、恵文君は公子華と張儀に魏の蒲陽(ほよう)を包囲させてこれを下した。張儀は恵文君に進言して蒲陽を魏に返還し公子を人質に送ったうえで、魏の恵王に説いて上郡(咸陽の北方のオルドス方面の手前の地域)の15県を秦に割譲させた。東方に遷った魏にはもとより維持が難しく、領地の交換を行ったのである。張儀はこの功績により宰相に任命された。張儀と争っていた陳軫は楚に出奔した。また、公孫衍も張儀と不和であり秦を離れ魏に入った。同年、秦は趙と戦い、その将趙疵(ちょうし)を敗死させ、藺(りん)・離石(りせき)の2邑を取った。

 張儀はかつて楚に遊説した際、楚の宰相に壁を盗んだと疑われ鞭で打たれたことがあった。家に帰って遊説を責められたのでこのように言った「吾が舌を視よ、尚ほ在りや否や。」妻が笑ってあると答えると張儀は「足れり。」と答えた。今や宰相になった張儀は楚の宰相にこう書き送った。「始め吾なんじに従ひて飲み、吾なんじの壁を盗まず。なんじ吾を笞(むちう)てり。なんじ善く汝の国を守れ。我顧ってなんじの城を盗まんとす。」

 張儀は魏を秦の保護国とする構想を抱いていた。翌紀元前327年、張儀は魏に焦・曲沃を返還した。また、異民族の義渠が秦に臣従した。紀元前325年、張儀の進言により秦は王号を称すこととなった。以後、恵文君を恵王(恵文王)と称す。張儀が陝(せん)を攻略し、この地を魏に与えた。

公孫衍による五国相王

 これよりさき、秦を離れた陳軫と公孫衍はそれぞれ楚と魏でまだ重んじられていなかった。陳軫はあるとき公孫衍のもとに立ち寄った。公孫衍は仕事がなく飲んだくれていた。陳軫は、天下のことがあなたに移るようさせてください、といった。公孫衍は陳軫の策に乗り、魏の恵王に謁見して、特に仕事がなく燕・趙の旧知の知人に会いに行きたいと願ってこれを許された。許しを得るや、朝廷で燕・趙に使いに行くと公言し、戦車三十乗を準備した。諸侯のために魏で情報収集している者たちは、公孫衍が戦車三十乗で燕・趙に使者として派遣される、と本国に報告した。斉は、公孫衍の主導で魏・燕・趙が同盟して斉を攻めることがないよう、公孫衍に国事を委託した。この情勢を受けて、燕・趙も国事を公孫衍に国事を委託し、公孫衍は三国の国事を裁断するに至り、歴史の表舞台に立つにいたった。名のある将軍である公孫衍を動かし、諸侯に疑念を抱かせ公孫衍に国事を委託させることが陳軫の策であった。

 秦が張儀の進言により王号を称するに至ると(楚は早くから王号を使用し、魏は恵王がすでに王号を使用し、斉も王号を使用していた。)、魏は韓が王号を称することを認め、さらに公孫衍は趙・燕・中山を誘って5カ国を束ね、互いに王号を使用することを認め合った(五国相王)。斉は、中山が王を称し同列となることに強い不満を抱いた。ここに、公孫衍が緩やかに束ねる三晋(魏・趙・韓)・燕・中山が秦・楚連合と斉に対抗する構図が出来上がった。この裏で陳軫は、公孫衍が5国を束ねる情勢と秦の恵王との関係を利用して、秦と楚の間で使いし、二国が連合するようにして、楚での立場の強化を図っていたのである。

 楚は令尹(れいいん・宰相)の昭陽(しょうよう)が魏を攻撃し、襄陵の地で勝利して8邑を奪った。昭陽は兵を斉に向けた。陳軫はたまたま使者として斉に来ており、斉王の相談を受けた。陳軫は昭陽と会見し、「蛇足」のたとえ話をし(これが「蛇足」の由来となった故事である)、すでに楚の最高官であるあなたはこれ以上戦勝を重ねても得ることがなく、敗れて罰を受けるリスクのみがあり、斉に恩を売るに越したことはないと説き、昭陽を撤兵させることに成功した。これにより、秦・楚・斉が親善できる情勢が出現した。

 一方、公孫衍は魏軍を率いて斉と承匡(しょうきょう)の地で戦ったが敗れた。公孫衍は一時に失脚し、魏は敗戦を受けて張儀を通じて秦と和睦する方針に傾いた。張儀はこのなかで紀元前323年、楚・斉・魏と齧桑(けっそう)の地での会盟を主催し、公孫衍が一時構築した5国の連合を打破した。張儀は秦に戻ると宰相の任を外れ、翌年魏に入ってその宰相となった。張儀は、魏を秦に臣従させ、諸国がこれにならうように仕向けようとしたのである。

蘇秦の合従

 だが、張儀の思惑通りにはなかなかいかなかった。魏の国内では、公孫衍が張儀を失脚させる工作を盛んに行っていた。公孫衍は説客を送り、韓の有力者公叔(こうしゅく)に説かせた。張儀は秦と魏を同盟させたが、魏王が張儀を重んじるのは、ともに韓を攻め、韓の南陽の地を得たいがためであり、なぜ公孫衍に韓の国事を委ねてこれを止めないのか、と。韓の公叔は公孫衍に国事を委ねるに至った。また、この頃、洛陽出身の蘇秦(そしん)は燕に遊説し、趙と同盟を結ぶことで、趙からの攻撃を防ぎ燕を安泰にすることを説き、登用されていた。蘇秦は燕から資金を得て、趙に赴き、燕と同盟させるため、秦に対抗する合従同盟を説いた。蘇秦は趙でも用いられ、各国を回り合従同盟を説いていた。韓王には「鶏口牛後」の成語を以て説得に当たった。この情勢下で、魏王は張儀の言葉を聞かず、秦の恵王はこれに怒り、魏の曲沃と平周の地を奪った。しかし、合従の機運はますます高まり、魏では張儀に代わって公孫衍が宰相に任じられ、蘇秦は魏・韓・趙・楚・燕・斉の六国に合従同盟を成立させるに至り、蘇秦は趙より武安君に封じられた。紀元前319年に魏の恵王が死去すると、張儀は秦に帰った。

 紀元前318年、六国合従同盟は軍を発して秦を攻め、函谷関に迫った。公孫衍は、かつて義渠の君主が魏に来朝した際、中国の諸侯が秦を攻めないと義渠は秦に討たれ、諸侯が秦を攻めると秦は義渠に使者を派遣して贈り物をするのです、と説いていた。たまたま秦にいた陳軫は秦の恵王に、義渠に贈り物し招撫するのがよいでしょう、と進言し、秦の恵王は義渠に多くの贈り物と女性を送った。義渠の君主は「これが公孫衍が言ったことなのだろうか」といい、秦の背後を衝いて秦を破った。一方、六国合従同盟に対しては、秦は樗里疾を起用して迎撃した。樗里疾は合従軍を押し戻し、韓の修魚でこれを大破した。韓将申差(しんさ)を虜にし、韓の太子奐(かん)と趙の公子渇(かつ)を破り、首級8万2千を挙げて大勝した。秦に大敗した結果、合従同盟は動揺した。秦は趙と韓を攻め、斉の湣王も魏と趙を討ち、その後さらに燕も攻めるようになった。こうして蘇秦の合従は破綻した。

 蘇秦は、燕の宰相の子之(しし)と婚姻関係を結び、一方、斉では湣王に取り入って用いられながら、実はひそかに燕のため活動していた。合従の破綻後、斉から攻められた燕の噲王は蘇秦にこう迫った「先王が先生に旅費を与えて趙王に謁見させ合従の成立を見たが、いまや斉は趙を攻め、さらに燕を攻めるようになって燕は天下の笑いものである。先生は燕のために失地を回復してくれるだろうか。」蘇秦はこれに応じて、斉の湣王を説き、燕から奪った10城を返還させた。

 蘇秦はその後、燕で罪を得たと偽って斉に亡命した。斉の湣王は蘇秦を客卿にした。蘇秦は湣王に取り入ってその実は燕のために活動しており、斉に敵が多かった。そのためある政敵が蘇秦に刺客を放った。蘇秦は刺されたがすぐに絶命せず、刺客は逃亡した。蘇秦は死の間際に湣王に、自分を死後車裂きの刑に処して見せしめにし、蘇秦は燕のスパイだったと公表することで、犯人をあぶりだすように進言した。そして、ついに蘇秦は死んだ。湣王は蘇秦の策を実行し、犯人を捕えて誅殺した。だが、その後、蘇秦のスパイ活動は世間に漏れ伝わっていった。

張儀、連衡を推進

 張儀は合従の崩壊を受けて魏の襄王を脅迫し、秦に仕える連衡を説いた。魏の襄王はこれをやむを得ず受け入れ、張儀の取次ぎで秦に和睦を請い、秦についた。

 紀元前317年、張儀は再び秦の宰相となった。韓の公仲(こうちゅう)は韓王に、同盟国など当てにならず、秦に名都を1邑献上して和睦を請い、秦とともに楚を討つべき、と説いた。韓王はこれを許し、公仲を出発させようとした。楚の懐王はこの情報に接して陳軫に相談した。陳軫は、「韓を助けると宣言し、軍を動かしているように見せ、使者を韓に送り、楚が韓を助けると信じ込ませるように」と進言した。韓が秦と断交すれば大成功であり、断交しなくても秦と韓の間に亀裂は入れられるであろう。楚王がこの策を実施すると、韓王は公仲を引き止めて秦と戦う覚悟を決めた。

 このとき、秦は蜀を攻めようとしていたが道が狭くて進展せず、そのうちに韓が攻めてきた。張儀は、魏に加えて楚と結び、先に韓を攻め周王室を圧迫し、周王を擁して天下に号令するよう説いた。一方、司馬錯(しばさく)は、蜀を討つことが容易であり、韓を攻めて周王室を圧迫することは不義であり、しかも周王室が他国に救いを求めても止められないと説いた。秦の恵王は司馬錯に同意し、紀元前316年に司馬錯に蜀を討たせて平定し、その王を蜀候として秦に従属させた。同年、趙にも出兵し2邑をとった。翌紀元前315年、秦は韓に兵を向け、1邑を奪った。趙との戦線でも将軍泥を破った。また、義渠に報復し25城を取った。

 紀元前314年、おそらく公孫衍の主導の元、魏は秦と戦っている韓と連合して連衡を放棄した。秦は樗里疾を登用し、魏の曲沃を降し、岸門で魏・韓連合軍を首級1万を斬って大破し、公孫衍を敗走させた。魏と韓は連衡に応じた。

燕の変事

 蘇秦の斉へのスパイ行為が露見したため、弟の蘇代らは一時斉に怨まれていたが、燕の斉に来ている人質がとりなしたため、再び斉でも用いられるようになった。蘇代は、燕の宰相の子之と親戚関係にあった。蘇代は、斉の使者として燕の噲王に謁見したときに、斉王は臣下を信じないため覇者にはなれないでしょう、といい、燕王が子之をより任用するように仕向けた。燕王噲はもともと子之を厚く信用しており、老年になりつつあったこともあって、子之へ政務をより任せるようになった。ついに、紀元前314年、燕王噲は子之に禅譲し、自らは引退してその臣下となった。たが、子之の政治はまったくうまくいかず、燕はその後混乱の中に入っていくことになるのである。

張儀、楚をたばかる

 紀元前313年、秦は樗里疾に趙を攻撃させ、趙将壮豹(そうひょう)を捕虜にした。秦の恵王と魏の襄王が臨晋(りんしん)で会同し、斉・燕を攻める約定が行われたものと考えられる。この情勢に斉は楚と同盟して対抗しようとした。当時はまだ秦の力が抜きん出ておらず、秦の恵王は対応を迫られた。張儀がこの対応に当たることとなり、張儀を宰相から免じたと公式発表したうえで、張儀を楚に入らせた。楚の懐王は張儀を厚遇し、自ら案内した。張儀は、楚が斉と断交するならば、商・於の地(かつて商鞅が封じられた秦・楚の国境地帯)600里を楚に割譲し、秦の公女を懐王に嫁がせるよう計らいます、と提案した。楚の懐王は、一兵も使わずに600里の地を得られる、として歓喜し、張儀の提案を受け入れた。

 楚の群臣はみなこれを慶賀した。陳軫のみは懐王に悔みを述べた。陳軫は述べた。秦が楚を憚るのは斉と同盟しているためであり、斉と断交すれば楚は孤立し、秦は600里の地を割譲する必然はない。表向き斉と断交し、ひそかに斉との交わりを保ち、土地を得てから断交しても遅くはない、と。懐王はこれを聴かず、「願わくは陳子、口を閉じて復た言ふことなかれ。以て寡人地を得るを待て。」といい、張儀を楚の令尹(宰相)にし、斉と断交して、秦に戻る張儀に将軍一人を随行させた。

 張儀は、秦に戻ると、わざと車から落下して三ヶ月にわたって参朝しなかった。楚の懐王は、張儀は断交が不十分だと思っているのだろうか、と考え、勇士を送り斉王を罵らせた。張儀は、斉・楚の断交が確実になったのを見て、参朝して楚の将軍に述べた。「臣に奉邑六里有り。願わくは以て大王の左右に献ぜん。」楚の将軍は、商・於の地600里の約束のはずが6里だというので、楚に帰って王に報告した。

 楚の懐王は激怒し、秦に報復のため攻撃しようとした。陳軫は、秦を攻めるより、むしろ秦に名都を贈り秦とともに斉を攻めれば斉から代償をとることができる、と進言し、秦・斉の両方を敵にすれば天下の兵を招き入れることになる、と諫めたが、懐王は聴かなかった。紀元前312年春、懐王は屈匄(くつかい)を大将軍とし、秦を攻撃させた。秦は魏章(ぎしょう)を総大将とし、樗里疾・甘茂(かんも)らを登用し、以前陳軫の策で楚に裏切られた韓と連合して、丹陽の地で楚軍を迎撃してこれを大破した。斬首8万に及び、大将軍屈匄を筆頭に将校70人余りを捕虜とした。甘茂(かんも)は漢中(後に諸葛亮が北伐の拠点としたことで知られる。また、項羽が封建を行った際に、劉邦は漢中を与えられ、以後「漢王」を名乗ったのである。)を攻略し、漢中郡が設置された。楚の懐王は諦めきれず、国内の兵を総動員して再び秦を攻撃した。藍田まで攻め込んだが、秦はここで楚軍を大破した。魏と韓が、楚の隙を突いて南下して本国を攻撃したため、ついに楚の懐王も窮まり、2城を割譲して和睦するに至った。こうして張儀は楚を打ち破り、かつての恨みを晴らしたのである。

 秦は、商於の地を楚に与え、代わりに巴蜀の地の東側にある楚の黔中(けんちゅう)の地を獲得しようと望み、交換を申し入れた。楚の懐王は、領土交換を望まないが、張儀を得ることができるならば、黔中を献上すると返答した。もちろん、張儀に復讐することが目的である。だが、張儀は懐王の寵姫に人脈があり、楚に行っても生還できる見込みがあると考えていた。秦の恵王は張儀を送るのは忍びないと考えていたが、張儀は自ら楚へ行くと申し出て、恵王に自らの見込みを説明し、ついに楚へ発った。楚に着くと、張儀は捕えられたが、張儀と仲のよい靳尚(きんしょう)が張儀のために懐王の寵姫に、秦王は張儀を救い出すため、土地と美女を贈るつもりであり、そうなったら秦からの美女を大事にすることになり、あなたは遠ざけられでしょう、と説いた。そこで、懐王の寵姫は懐王に張儀を殺さないよう必死に説き、懐王はついに動かされて張儀を許し厚遇を与えた。

燕の混乱

 燕では、宰相の子之が国君となったが、反発も少なくなく、特に太子平(へい)はこれを認めなかった。将軍市被(しひ)は太子平と叛乱を企てていた。斉の湣王は太子平に支持する旨を使者を送って伝え、内戦を促進した。ついに、太子平は市被と叛乱を起こし、子之を攻めたがこれを破ることができなかった。将軍市被はかえって太子平を攻撃し、申し開きを試みた。しかし、太子平は市被を殺し、国内に示威しながらその罪を見せしめにした。太子平は一定の支持を集め、子之と数ヶ月にわたり内戦を繰り広げ、数万の死者を出していた。斉の湣王は意図通り激しい内戦が起こったため、将軍として匡章(きょうしょう)を登用し、燕との国境の北方の5邑の兵を率いて燕を討たせた。この攻撃には、孟子も周の文王・武王さながらの好機であるとして、強く支持した。燕の人々は内戦でもはや燕国を支持しておらず、匡章は圧倒的な勝利を収め、もとの燕王噲は戦死し、子之は逃亡した。

 しばらく混乱が続いたが、紀元前311年に太子平が即位した。これが昭王である。昭王は斉への復讐を期して、趙と親善し、また辞を低くして賢者を招こうとした。郭隗(かくかい)という者に、師事すべき賢者を推薦するように依頼した。郭隗は答えた「今王必ず士を致さんと欲せば、先づ隗より始めよ。」そうすれば、自分よりも優れた者が千里を越えてやってくるでしょう、と。そこで、昭王は郭隗のために宮殿を新築し、郭隗に師事して人材を集めようとしたのである。昭王はここから20年以上をかけて敗戦のなかから国の復興を目指していくのである。

連衡

 張儀は、釈放されたあと、楚の懐王に連衡策を説いた。懐王は約束どおりに黔中を失うのが惜しくなり、張儀の連衡策を容れることにし張儀を返し、黔中を保持することにした。張儀は韓に立ち寄り脅迫を交えて連衡を説いて韓王を説得した。楚・韓を連行させた結果を秦に持ち帰り、張儀は徹候となり5邑に封じられ武信君の号を賜った。張儀はさらに、斉・趙・燕を脅迫を交えて説き、ついに六国の連衡を実現した。

恵王・張儀の死

 張儀は、連衡の大成果を報告するため燕から秦に向かっていたが、紀元前311年その途中で恵王が死去した。太子が即位して秦王として武王が立ったが、張儀は武王と仲がよくなかった。張儀と武王の間に隙があることが広まったため、六国の連衡は霧散してしまった。武王の意を知る群臣は日々張儀を謗った。紀元前310年、恐れた張儀は武王を説いて魏に入った。また、魏章も魏に入った。

 秦の恵王は、商鞅を誅殺しつつも変法の利を残し、張儀を登用して魏から上郡を取り、楚を孤立させてから破って漢中郡をおき、樗里疾に蘇秦の合従軍を破らせ、張儀に弁舌で合従を散じさせ、司馬錯には蜀を討たせて平定させた。張儀を使って魏を連衡させて東の防波堤とし、南北(上郡・漢中郡・蜀)に領地を拡大し、国力を高め、中原進出への足場を固めたのである。

 魏では、公孫衍に代わって田需が宰相に用いられていたが、紀元前310年に死去した。魏の宰相となりえる当時の有力者としては、張儀・公孫衍・孟嘗君(田文)が含まれていた。楚の宰相の昭魚はこれら三名のいずれかが宰相となることを恐れていた。そこで、蘇代に相談した。蘇代はその意を受けて魏王に、太子が宰相となれば三名は太子を臨時の宰相とみなし、三名ともが後ろ盾とする国(張儀が秦、公孫衍が韓、孟嘗君が斉)を使って魏のために行動するだろう、と説き、目的どおり太子を宰相につけることに成功した。

 紀元前309年、張儀は魏の地で死去した。秦の恵王と張儀が没して秦にとってひとつの時代が終了したといえる。同年、秦の武王は始めて左右の丞相を設置し、樗里疾と甘茂がこの任に着いた。また、このころ公孫衍は魏を離れ秦に仕えるようになった。



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