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霍去病(かくきょへい) 中国 前漢
武帝に仕えた将軍。
叔父は
衛青。 漢の対匈奴戦争で、古来の兵法にとらわれない戦術を用い、
砂漠の戦いで勝利を重ねた。
B.C.117年、わずか24歳で死去する。

詳細に関しては、
史 総合 漢対匈奴 霍去病を参照あれ。

参考:
史 総合 漢対匈奴 霍去病
漢文 史記 李広の最期 李将軍列伝第四十九


alias,驃騎将軍 票騎将軍

郭隗(かくかい) 中国 戦国時代
燕の昭王の顧問であり、 「先ず隗より始めよ」の計を進言した。 燕の昭王は郭隗のために宮殿を造り、これに師事した。 この計によって楽毅・劇辛などの有能の士を燕に集めた。

参考:
十八史略 先づ隗より始めよ


alias,無し

楽毅(がくき) 中国 戦国時代
先祖に楽羊がいる。
郭隗の「先づ隗より始めよ」の計により、魏から燕の昭王のもとに馳せ参じた。
亜卿となり、斉を攻め、莒(きょ)と即墨(そくぼく)の以外の七十余城を攻め落とした。

参考:
十八史略 先づ隗より始めよ


alias,無し

楽羊(がくよう) 中国 戦国時代
魏の文侯に仕えた将軍。
子孫に
楽毅がいる。

参考:
韓非子 巧詐は拙誠に如かず
秦史3


alias,無し

カトリーヌ=ド=メディシス(Catherine de Medicis) フランス・イタリア ルネサンス期
1519年生まれ。
父親はメディチ家の
小ロレンツォ(ロレンツォ・デ・メディチ Lorenzo de Medici)で、
母親はフランス王フランソワ1世の従妹であるマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュである。
しかし、生まれる直前、父の小ロレンツォは死亡し、母親のマドレーヌも彼女の死後5日後に死亡した。
このため、彼女は叔母に預けられて育った。
この時に当たり、メディチ家出身の教皇クレメンス7世は、
神聖ローマ皇帝カール5世に対抗するためフランスとの同盟強化を目指していた。
かくして、1533年、彼女はフランスの第二王子アンリと結婚することとなった。
時に、カトリーヌ14歳。
この際、彼女が連れて行ったイタリアの料理人のレシピが、
現在のフランス料理の基礎となったという。
しかし、アンリはこの結婚に乗り気ではなかったという。
この夫婦間にはなかなか子供ができず、
王家の出身でないこともあって、彼女の立場は脆弱であった。
ちなみに、このころから、彼女は占いに傾倒していたというが、
彼女が信任していたのが、かの有名なノストラダムスである。

1543年、夫アンリは即位してフランス王アンリ2世となった。
そして、翌1544年、念願の王子が生まれ、続いて7人の王子を生んだ。
1559年、アンリ2世がスコットランド儀仗隊長との模擬試合で死亡するにあたり、
彼女の生んだ第一王子フランソワが即位してフランス王フランソワ2世となる。
この時期、フランスはカトリックとプロテスタントの対立が政治的対立と絡みついて激しくなりつつあった。
特にユグノーと呼ばれたカルヴァン派が一大勢力となっていた。
フランソワ2世が夭折して、僅か10歳の弟シャルルが即位してシャルル9世となると、
彼女は幼い王子の母后にして摂政となり、遂に宮廷の実権を握るに至り
プロテスタントとカトリックの均衡した対立の上で王権の伸張を図った。

1562年、新旧両派の対立は流血を経由してユグノー戦争に発展した。
この間の1572年、新教派が大量虐殺された有名な事件、
サン=バルテルミ Saint-Barthélemyの虐殺が起こったが、彼女はこの黒幕であったといわれる。
1574年、シャルル9世が死して、覇気あふれるお気に入りの息子アンリ3世が即位すると、
彼女は摂政を辞してブロア城に引退。
そして1589年、70歳にして死亡した。
しかし、この時に当たり、新旧教徒の対立はいよいよ激しく、
息子のアンリ3世は玉座を追われたままになっていた。

参考:

alias,カテリーナ・ド・メディチ(イタリア読み)

韓厥(かんけつ) 中国 春秋時代
韓武子(韓万)の子孫。
趙盾に養われて育ち、趙盾に推挙されて国政に参与した。
趙盾の子趙朔が、趙穿による霊公弑逆の責任を問われて殺されそうになったため、
韓厥は趙朔に告げて逃がそうとした。
趙朔は「あなたが必ず趙の祭祀を絶やさないというならば、私は殺されても恨まない。」と言ったので、
韓厥は了承し、ひそかに匿われた趙朔の遺児のことを心にしまっておいた。
やがて、趙朔は殺された。
晋が六卿を置くと、韓厥はその一員となった。
趙朔が死んで15年後、機を見て韓厥は晋の景公に進言し、
趙衰・趙盾の功績を称え、その祭祀が絶えてしまったことを述べて、景公を感動させた。
そこで、趙朔の遺児趙武のことを明らかにし、趙武はもとの趙氏の封邑を領有するに至った。
その後、韓厥は長く国政に与り、正卿として活躍した。

参考:
秦史3 一進一退の春秋後期

alias,韓献子

桓公(斉 かんこう) 中国 春秋時代
周の威信が揺らぐ中、管仲を用いて国力を高め、 春秋時代初の覇者(諸侯のリーダー)となった。
晋の文公とともに、春秋時代の代表的な君主に挙げられる。

参考:
史記 斉桓公 -最初の覇者-
秦史2 繆公の時代

alias,無し

管仲(かんちゅう) 中国 春秋時代
斉の桓公に仕えた名宰相。
桓公に敵対する陣営にいたが、鮑叔牙の推挙によって登用された。
この二人の深い信頼に基づいた利害にとらわれない関係から
管鮑の交わり」という言葉が生まれた。
桓公の為に、策をめぐらし、これを覇者たらしめた。

参考:
史記 斉桓公 -最初の覇者-
史記 管鮑の交わり


alias,無し

韓非(かんぴ) 中国 戦国時代
法家思想の代表者の一人で、韓の公子である。
しかし、力が弱く、公子の中でも諸公子や賎公子などと言われる類いであった。
後に秦の宰相となる
李斯とともに荀子に師事した。
彼は訥弁であったが著述はうまく、李斯も及ばないと考えたとされる。

韓非は、韓が弱く、外国の侵入を受けねばならないのが残念でたまらず、
しばしば韓王に進言をしたが、受け入れられなかった。
彼はこの現在の実情を嘆き、自分の思うところ十余万言を記述した。
これが、韓非子である。

やがて、それが秦に伝わり、それを秦王政(後の始皇帝)が読むと、
秦王政は韓非子を読み、著者の韓非に会いたいと願った。
そのために軍を使って韓を圧迫し、ついに韓非が秦に使者として来た。
秦王は韓非を気に入ったがまだ登用には至らなかった。
李斯は自らの立場を守り、また韓で韓非が活躍しないようにするため、
韓非を秦に留め置き法に当てて処刑するよう進言した。
秦王は李斯の進言を聴き入れ、韓非は李斯が送った毒を仰いで自殺した。


参考:
韓非子

alias,韓非子

韓万(かんばん) 中国 春秋時代
晋の曲沃の分家の荘伯の弟であり、韓氏の祖。
荘伯の子である晋の武公の御者となり、本家にとって代わるのに功があった。
韓原の地を与えられたため、その一族は韓氏を名乗った。
3代後に
韓厥がいる。


alias,韓武子


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