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ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de Medici) イタリア・フィレンツェ ルネサンス期
通称、小ロレンツォ。
1492年誕生。
メディチ家は、フィレンツェで独裁権力を握っていた。
祖父の大ロレンツォはメディチ家最盛期の氏の長者だった。
父ピエロ・デ・メディチは、その嫡子。
母は、名門出身のアルフォンシーナ・オルシーニであった。
誕生の年に、フランス王シャルル8世がイタリアに侵入。
屈辱的講和条約を結ぼうとした父ピエロ・デ・メディチに対し、
1494年、遂に革命が起き、メディチ家はフィレンツェを追放された。
その後には、その破滅を数年前から予言していた、
修道士サヴォナローラの共和政府が誕生した。
数年でサヴォナローラは失脚するが、
その後のフィレンツェ共和政府の第二書記局書記として活躍したのが、ニッコロ・マキャベリである。
しかし、この共和政府も、次第に不安定になり、フィレンツェの前衛地プラートで、
フィレンツェ国民軍が敗走すると、遂にメディチ派の暴動が発生。
1512年、ピエロの弟、ジュリアーノ・デ・メディチが征服者としてフィレンツェに戻り、メディチ家は復活した。
3年後の1515年、ロレンツォはフィレンツェ軍総大将となる。
このとき、すでに罷免されていたマキャベリは
君主論を著し、
政界復帰とイタリア統一の夢をかけてジュリアーノに献上しようと考えていた。
しかし、ジュリアーノが若くして死亡したので、君主論はロレンツォに献上されることとなった。
翌年、ウルビーノ公フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレを、メディチ家出身の教皇レオ10世が破門、
ロレンツォはその後のウルビーノに軍を率いて赴き、これを占領、ウルビーノ公となった
1518年、フランス王フランソワ1世の従妹であるマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュと結婚した。
間に子を授かるも、1519年、生まれる数日前にロレンツォは死去。
享年、27歳。
この早い死のため、一説によればマキャベリの君主論に彼は目を通していなかったといわれる。
さらに悲惨なのが、子供が生まれた5日後にマドレーヌも産褥で死亡してしまったこと。
こうして、残されてしまった子供が後のフランス王妃で、
子のシャルル9世の時代には実権を握り、
かつ、サン=バルテルミの虐殺の首謀者だとされている、
カトリーヌ=ド=メディシス Catherine de Medicisである。


参考:
君主論


alias,小ロレンツォ ウルビーノ公ロレンツォ

盧綰(ろわん)
史 総合 漢対匈奴 燕王盧綰



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