漢対匈奴
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秦漢史概略

秦は商君の変法(第一次B.C.359年、第二次B.C.350年)以来、厳格な法治主義・実力主義のもと国力を高め、 B.C.221年、始皇帝の時代に、史上初めて中国を統一した。 中華を統一し、史上空前の権力を得た始皇帝は、過酷な法令と刑罰による統治を実施した。 天下は平定されたばかりで旧六国の民衆は秦の統治になじまず反感を抱いていた。 さらに、二世皇帝(胡亥)の時代になると、二世皇帝の即位に関与した宦官の趙高といった姦臣が権力を握るようになり、大いに政治が乱れた。 その中で遂に、B.C.209年、陳勝呉広の乱が起こり(参考:漢楚斉戦記1 陳勝・呉広の乱)、 劉邦や項梁、彭越や黥布などが相次いで起ち、各地で反乱が続発した。 その中でも特に項梁のあとを継いだ項羽劉邦は、反乱勢力の中でも最後まで残り、秦を滅ぼした後、激しく争った。 項羽の武勇はすさまじく、劉邦は押され気味であった。 劉邦に従属する韓信が、項羽の武将司馬竜且(しばりゅうしょ)が率いる20万の軍を撃破すると形成が一気に傾き、 B.C.202年垓下の戦いで項羽を破り、中国統一を成し遂げた。 その後、帝位につき、死後は、漢の高祖と呼ばれるようになった。

劉邦は、秦が急激な改革を行なって失敗した点を鑑みて、当初郡国制という制度を導入した。 これは、長安周辺の直轄地には、中央から役人を派遣して支配する中央集権的制度を実行し、 遠隔地には、功臣や一族を王として封じる封建的システム実行するというものだった。 しかし、皇帝にとっては、このような封建的システムは危険を孕んでいるものである。 劉邦と、その死後に権力を握った呂后は、 劉氏以外の諸侯に対する圧力を強め、彼らが反乱をおこすとこれを滅ぼし、諸侯は劉氏一族に限られていった。 しかし、やはり時間がたつとこれらの諸侯も皇帝との血縁が薄れ、次第に力を増しつつ反抗的になった。 第6代の景帝の時代には、中央政府が諸侯の領土の削減を図ったため、 B.C.154年、劉氏一族の7人の諸侯が呉王を中心に反乱を起こした。(呉楚七国の乱) しかし、この反乱はわずか3ヶ月にして鎮圧された。 その後、諸侯は都に住まわせて諸国には中央から役人を派遣するようになり、 その権力は弱められることになった。

そして、このような歴史が繰り広げられている中国の北方で、実力をつけ始めた民族がいた。 それが匈奴である。


匈奴

匈奴は、トルコ系ともモンゴル系とも言われる。

一般に遊牧民族は、通常は家畜を飼い、水と草を求めて移動して生活しているが、 経済生活が不安定で、さまざまな物品を自給するのにも限界がある。 そのため、農耕民族との交易を行うか、農耕民族に対して略奪や侵攻するかのいずれかと手段が用いられることになり、 遊牧民族と農耕民族はよく対立した。 匈奴はこの当時の代表的な遊牧民族で、漢民族はこの当時の代表的な農耕民族であり、 その点を鑑みると、匈奴と漢の争いは必然であった。

匈奴は遊牧騎馬民族のひとつでもある。 史上初めて地球上に登場した遊牧騎馬民族は、スキタイ Scythaeであるが、 匈奴も彼らの騎馬術が伝えられて強力な遊牧騎馬民族に成長した。

匈奴は、秦漢時代には、有力な24の部族長がおり、 さらにその24名を統率する単于(ぜんう)という全匈奴に対する君主が存在した。 匈奴は、その指導の下で次第に強大化していった。 当時、漢の人口約6000万人に対して匈奴の人口は100〜200万人ほどしかなかったが、 漢軍を大いに悩ませた。

その一つの理由は、動員可能兵力が人口に対して大きいことである。 匈奴は、日常生活として遊牧のほかに狩猟も行っており、 その男子は、全員がもともと特別な訓練をしなくても騎兵となり得る存在であった。 また中国は、耕地があれてしまうため、あまり多くの兵力を動員することができなかったが、 それに対して匈奴はそのような心配はなかった。

もう一つの理由は、機動力が非常に高いことである。 匈奴の軍の主力は騎兵であり、中国の歩兵に対して機動力が、まずその時点で高かった。 さらに、前述のように、匈奴の男子は、日常生活から騎馬術に慣れていた。 そして、更に大きいのが、補給線が重要でないということである。 匈奴の軍は、自分達の家族と家畜を連れていっていた。 そのため、牧草さえあれば、食料など補給することが可能であり、 後方から食料などの物資を輸送する必要がなかった。 これに対し、当時の中国軍は、普通、後方からの補給が必要であったため、 補給線を長くすると軍を危険にさらすことになり、補給部隊に比して著しく速い速度で機動することができなかった。


両軍の戦術

匈奴軍の主力は、前述のように、騎兵である。 軽量の装甲をつけ、剣や矛を佩びてはいたが、主要な武器は、合成弓であった。 その機動力によって、優勢な敵は避け、劣勢な敵は戦力を集中して包囲し、正確にして猛烈な射撃を行った。

漢軍には、軽装・重装のそれぞれ歩兵と騎兵がいた。 中国には、馬が引く戦車(チャリオット)はあったが、 もともと、騎兵は存在しなかった。 中国に騎馬戦術が広まったのは、趙の武霊王が騎馬戦術を導入して、趙の軍事力の強化に成功してからである。 しかし、漢の騎兵は、匈奴の騎兵に比べると戦力は格段に弱かった。 漢の軽装歩兵は、射程範囲と貫徹力に優れた弩(いしゆみ)を装備していた。 これは攻囲戦や歩兵戦には威力を発揮したが、発射速度と軽さで匈奴の合成弓に劣り、 遭遇戦や運動戦には不利であった。 重装歩兵は、軽装歩兵を守る役割であった、 しかし、漢軍は兵力や技術力では格段に勝り、漢の領土内では匈奴兵を圧倒した。


漢民族対匈奴-漢に至るまで-

匈奴は前述のように次第に強大化し、 戦国時代には、中国北方の燕・趙・秦といった諸国に進入するようになった。 そこで、これらの諸国は、他の戦国七雄からの守りも含めて、 国境線に防衛のための長城(防壁)を築いた。 秦の始皇帝によって中国の統一がなされた後は、 その領土の中の長城は交通の邪魔になるため、取り壊されたが、 北方の匈奴に備える長城は取り壊されなかった。

始皇帝の時代、当初匈奴はオルドス(河南)(いまの内モンゴル自治区ぐらいににあたり)に侵攻し、これを占領していた。 これに対して、B.C.215年、始皇帝は将軍の蒙恬(もうてん)に30万の軍をつけて遠征させた。 蒙恬はオルドス(河南)にいた匈奴を攻撃して破り、ゴビ砂漠の北方あたりまで押し返した。 その後、燕や趙などが築いていた長城を修復、連結する工事を行い、 いわゆる万里の長城 the Great Wallを作り上げた。 蒙恬は十数年にわたり陣中にあって、その威光は匈奴を震撼させた。

ちなみに現存の万里の長城は、明の時代のものであり、 当時のものは、今のものよりだいぶ低く、2m位の高さだった。 これは、当時の必要性では、匈奴兵に馬で越えられなければ十分であったからである。

中国が、秦末の陳勝呉広の乱に始まる混乱の中に陥ると、 匈奴には、頭慢単于の子である冒頓単于と言う明主が現れた。 北は丁零(ていれい)・堅昆を服属させ、南は月氏を西方へ駆逐してシルクロード交易を支配し、 東は東胡を滅ぼして中国東北地方を領有した。 さらに、オルドスの地を再占領し、中国に圧迫を加えた。 B.C.202年に天下を統一した劉邦は、 B.C.200年、侵攻してきた匈奴を32万の兵で迎撃しようとしたが、 冒頓単于の策にはまり、白登山で匈奴兵4万に包囲され、孤立してしまった。(白登山の戦い) この危機は、護軍中尉陳平の奇策によってどうにか切り抜ける事が出来たが、 漢は、毎年多額の物品を匈奴に贈るという屈辱的な講和を結ぶことになった。 さらに、平和状態を維持するため政略結婚も行うこととなった。


燕王盧綰

冒頓単于の下で強大化した匈奴は漢国内の政治にも影響を与えた。 多く、漢に叛乱した者が匈奴に降ったりしている。 その中でも盧綰は、劉邦と同じ沛県豊邑中陽里の出身で、 さらに生まれた日も一緒だったという。 その父親も仲が良く、子である二人も大いに仲良く育った。 劉邦が挙兵して沛公と称していたときも、 漢王となってからも、盧綰は常に劉邦のすぐそばにいた。 劉邦からの恩賞も、盧綰に肩を並べるものはいなかったという。

B.C.202年、劉邦は遂に項羽を破って天下を統一した。 しかし、各地に封じた王侯は散発的だが継続的に叛乱を起こしていた。 その中で、当時の燕王臧荼が隣の代の地を攻めるという事件が発生した。 代王も劉邦に封じられた王の一人である。 その代王を攻めることは、漢の統一を不安定にする要因に間違いなく、 このような諸侯の勝手な行動を許せば、太古の周の二の舞になることは明白だった。 かくして、劉邦は親征を行い、臧荼の叛乱を鎮圧した。 臧荼の子、臧衍は匈奴に亡命した。

叛乱を鎮圧した劉邦は、臧荼亡き後の燕の支配の方法について、 「群臣の中で功のあるものを選び、燕王とする。」と言い、 臣下の者たちに新たな燕王を誰にするか推薦させた。 どうして自らお決めにならないのか、そう考えた臣下の者たちは、 劉邦の真意をすぐに理解した。 盧綰を王に封じたかったのである。 しかし、存在そのものがすでに公的な、皇帝になっていた劉邦は、 親友ともいえる盧綰を王にすることを、自ら堂々と発言することはできなかったのである。 真意を理解した臣下の者は一同みな、 盧綰を燕王に推薦し、ここに、盧綰は燕王に封じられた。

5年後、代の地で陳豨が漢に叛いた。 劉邦は陳豨を信用していたため、この叛乱に激怒して親征した。 盧綰も助攻をかけた。 陳豨は匈奴に援軍を求めた。 盧綰は、匈奴の援軍を牽制するため、匈奴に張勝という臣を派遣し、 「陳豨の軍は敗れた。」と言わせることにした。 しかし、張勝は匈奴の地で臧荼の子臧衍に会い、 「陳豨が敗れれば、次は燕が疑われるだろう。」と、 匈奴と結ぶ利を説かれ、遂に納得してしまった。 盧綰は張勝が叛いたと思い、族滅を上書したが、 帰還した張勝に匈奴と結ぶ利を説かれ、遂に承諾した。 こうして、盧綰は匈奴と通じることとなった。 また、陳豨のもとに使者を遣って、勝敗が決するのを長引かせようとした。 時に、韓信や彭越など劉氏でない諸侯は次々に討たれていた。

しかし、陳豨が樊噲の破るところとなると、 盧綰が陳豨のもとにひそかに使者を派していたことが露見した。 また、匈奴の投降者が、張勝の匈奴にあることを証言した。 盧綰は、そうなることを予想していなかったのだろうか。 ここに至り、盧綰の匈奴との繋がりが確実になると、 劉邦は「盧綰、果たして叛けり」と独語したという。 そして、燕に討伐軍を派遣した。 盧綰は衝突することなく一党を率いて長城付近まで退き、そこで情勢を覗っていた。 そして、おそらく、そこにいる間に、漢に叛いたことを後悔したのだろう。 盧綰は劉邦の回復を祈り、それがかなえば、自ら参内して謝罪しようと考えていた。 しかし、願いむなしく劉邦は没し、最後の望みを失った盧綰はついに匈奴に亡命した。 小さいときから一緒だった二人の、なんとも拙い最後であった。 匈奴は盧綰を重用して、東胡の盧王と称した。 盧綰は、常に祖国に帰りたいと思いつつ、数年後に匈奴の地で没した。


漢武帝

小競り合いは続いたものの、劉邦以来、匈奴と漢とは大規模な衝突をすることなくおおむね平和な状態が続いていた。 しかし、景帝が没すると匈奴と漢の関係は一変した。 武帝という、漢の最盛期を現出させた、第7代皇帝が即位したのである。 その、B.C.141年に即位した漢の武帝が行ったことは、主に次のようなものである。

1つ目は、実質的な中央集権制の確立である。 従来は、丞相(宰相)を中心にした外朝という組織が強い権限を持っていたが、 皇帝が自由に人事権を行使できる官僚からなる内朝と言う組織の機能を整え、強い権限を与えた。

そして、諸侯に対し推恩の令という命令を発した。 これは、これまで嫡子の太子のみが相続していた領土を、かならず他の公子にも相続させるように命じたもので、 これにより、時を経るにつれて諸侯の領土は分割されて小さくなり、 それぞれの諸侯が持つ権力を弱めることに成功した。

しかし、地方の勢力を強め、中央集権を弱める可能性もあるような政策も実施している。 それが、郷挙里選である。 これは、地方長官の推薦により有能な官吏の登用を図るというものであったが、 次第に地方の有力豪族が推薦されて官僚になるようになり、力をつけていった。 前漢の滅亡直前も、後漢の滅亡直前も、皇帝権力は失墜し、地方の豪族が力を握っていた。 しかし、武帝の時代には、まだその弊害はほとんど現れていなかったようである。

2つ目は、思想の統一である。 具体的には、董仲舒の進言により儒学を公認の学問にしたということである。 儒学は創業には向いていないが、守成には向いている。 中央の太学に五経博士が置かれ、 儒学の経典である、易経・詩経・書経・礼記・春秋について講義が行われた。

3つ目は、財政改革である。 漢は、先代の景帝と先々代の文帝の時代の平和によって、多くの富を蓄積したのだが、 下に述べる積極的な対外進出が、その富を消耗し、財政を圧迫した。 そこで、武帝は新たな貨幣(五銖銭)を鋳造し、塩・鉄・酒の専売を行い、 均輸法・平準法を施行した。 塩・鉄・酒の専売が行われたのは、需要が高く、比較的統制がしやすいからであった。 特に塩の専売は、中国歴代王朝最大の収入源となってその権力の源となったことで有名である。 日本でも、1997年まで塩の専売は行われていた。 均輸法は、物納税制を合理化するため、B.C.115年、施行された。 これは、地方に均輸官を派遣して、中央政府の必要とする物資の購入とその輸送を担当させることで、 物資管理に商人を介在させず、コストカットを図るものであった。 平準法は、物価統制と国家収入増加のため、B.C.110年、施行された。 これは、地方で物価が下がると、これを均輸官が購入して 中央の平準官のもとに送り、以て物価の上昇を抑え、 物価が上がると、平準官が貯蔵された物資を販売して、物価を引き下げるというものであった。 他にも、商人に重税を課したり、官位・官職を売ったり、罪を金で贖う制度を実施したりした。 これにより国家収入は増加したが、それは実質増税にほかならず、 やがて社会不安を引き起こすようになっていく。

そして、4つ目が、積極的な対外進出である。 先代の景帝と先々代の文帝によって蓄積された富と、 上記の財政改革による大幅な増収、 さらに中央集権制の確立が、これを可能にした。 南方においては、南越を征服し、さらにベトナム中部まで領土を拡大し、 南海郡などの九郡を置いた。 東北に於いては、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡などの四郡を置いた。

そして、これに加えて重要なのが、匈奴に対する攻撃を含む西方への進出である。 武帝は、匈奴に対しては若いうちから強硬論を主張していた。 即位後まもなく張騫(ちょうけん)を西方の大月氏のもとに派遣し、 匈奴挟撃の約束を取り付けようとしたが、 大月氏にその意思がなかったため、その約束が結ばれることはなかった。 しかし、これによって西域の事情が知られるようになった。 その後、武帝は張騫を烏孫に派遣したり、李広利に大宛(フェルガナ Ferghana)を遠征させるなどして、 匈奴支配下のオアシス都市国家を服属させていった。

武帝以前の時代が概ね平和だったといっても、匈奴と漢とが争わなかったわけではない。 その時代に主に活躍したのは、「飛将軍」と匈奴に恐れられた
李広である。 弓の名手で、部下をよく愛し、30年近く辺境を転戦して何度も匈奴軍を破った。 ちなみに、彼の孫に李陵がおり、匈奴軍相手に奮戦するも多勢に無勢でとうとう降伏してしまった。 武帝はこれに激怒し、側近らも彼を非難したが、ただ一人司馬遷のみが彼を弁護した。 司馬遷は、これによって怒り覚めやらぬ武帝の逆鱗に触れ、死刑を宣告されるが、 あえて宮刑を受けて宦官となる道を選び、 発奮して後の正史の模範となる史記を完成させるに至るのである。

さて、B.C.133年、遂に武帝は単独による匈奴への攻撃を決意し、大兵力の動員を命令した。 漢の作戦は、将軍の王恢が発案したものであり、 馬邑の豪族聶翁壱が馬邑城を開城する、という偽情報を流して、匈奴を長城内部に誘い込み、 御史大夫の韓安国が護軍将軍となり、約30万もの伏兵を以て、匈奴の主力を破り、 王恢の率いる別働隊が、代を発して後方の補給部隊を撃破すると言うものであった。 当時の匈奴は、冒頓単于の孫の軍臣単于が治めており、 例の偽情報に接して、約10万の兵力を率いて馬邑に進軍していた。 しかし、平原一面に家畜が群れているのに、 それを見張るべき牧人が見当たらたなかったことから異常を察知し、 とりあえず、近くの堡塁を襲うことにした。 そこにいた尉史が計画を知っており、単于に脅されて計画を漏らした。 単于はこの尉史に「天王」の称号を与え、軍を引き返した。 このために、韓安国の伏兵は行動を起こすことができず、 王恢も退却の報に接して出撃を見合わせた。 結果、王恢は粛清され、匈奴は侵入と略奪を頻繁に行うようになった。 (馬邑の役

馬邑の役における失敗より、漢は匈奴を長城内部に誘い込み、 攻撃するということが不可能になった。 なぜなら、匈奴が漢の攻撃の意志を知ってしまったからである。 このため、漢は長城の外に軍を送らなければならず、 物資の集積・道路整備・輜重車の編成など、 さまざまな補給関連の準備に多大な金と時間を費やさなければならなくなった。
しかし、この間に、ある人物がはじめて歴史上に姿を現す。
その人物こそ、漢の対匈奴戦争の主役の一人である衛青である。


衛青

衛青(えいせい)は、ある下級役人と、武帝の姉の平陽公主のもとにいた女奴隷との間に生まれた隠し子だった。 衛青の父は衛青のことを、子供の奴隷を買った、とその妻には言っていたが、その嘘は露見してしまい、 それ以後、衛青は本妻やその子供にいじめられるようになった。 衛青は、このように恵まれない青年期をすごしたこともあってか、 謙虚で思いやりにあふれた人物に成長していく。

彼の父は北方に土地をもっており、衛青にそこで放牧の仕事をさせることにした。 彼はこのとき、馬術を身に付け、匈奴と交遊を持った。 このことが、彼の後の出世を助けることになる。

衛青には、父母を同じくする姉がおり、衛子夫といった。 衛子夫も母と同様、平陽公主の下で働いていたが、 宮廷内での発言力拡大を目指す平陽公主が、彼女が武帝の目にとまるよう図り、 ついに後宮に入ることとなった。 武帝は、即位するために結婚した陳皇后とは仲が悪かったこともあり、 次第に衛子夫に心惹かれてゆくようになった。

こうして衛子夫が武帝の寵愛を受けるようになると、 その力で、衛青も長安に来て勤務をすることになった。 また、嫉妬心に燃える陳皇后が衛子夫を呪い殺そうとしたことが事前に発覚したため、 陳皇后は皇后の位を廃立された。 やがて、陳皇后とその母である館陶長公主が、 憎き衛子夫の弟を討ってこれを悲しませようと考え、衛青を館陶長公主邸に拉致した。 しかし、これを知った友人の
公孫敖(こうそんごう)が、 人を集めて救出へ向かったため、衛青は難を逃れた。

衛青拉致事件が武帝の耳に伝わると、彼は武帝に謁見する機会を得て、 奴隷として放牧していたときの経験を語り、その存在を皇帝に印象付けた。 衛子夫が夫人に立てられると、衛青も太中大夫に任じられた。

B.C.129年、武帝は、劉邦の白頭山における敗北以来の、匈奴に対する遠征を命じる。 これまで、匈奴に対する遠征を成功させた将軍はいなかった。 このとき参戦した主な将軍は、 左翼から雲中を策源地とする軽車将軍公孫賀、 雁門を策源地とする驍騎将軍李広、 代を策源地とする騎将軍公孫敖(衛青を館陶長公主邸から救出した人物)、 そして、上谷を策源地とする車騎将軍衛青であり、 おのおの1万の兵を預けられた。

雲中を発した公孫賀は、敵に遭遇することができず、そのまま軍を返した。 雁門を発した「飛将軍」李広の部隊は、長城を越えたあとに兵力で勝る匈奴軍に遭遇して壊滅した。 李広は捕らえられ、馬を奪って何とか帰還したが、 敗戦の責任を問われ、平民に格下げされた。 代を発した公孫敖も、同様に敗走し、その責任を問われ、平民に格下げされた。 このような状況下で、衛青だけが長城を越えて、200キロほど北上し、 単于と部族長の会議や祭祀が行われる籠城を襲って数百名の損害を与えた。 大戦果ではないものの、匈奴の地にこれほどまで深く侵入して攻撃に成功したのは、 建国以来、衛青がはじめてであり、この知らせに長安の都は大いに沸き立った。

衛青の用兵は古来の兵法とは一線を画していた 漢が防戦から攻勢に方針転換し、 その軍が特殊な用兵を必要とする砂漠またはそれに近い所へ進出するようになると、 中国での戦いを念頭においた古来の兵法に基づいて行動する李広などの古くからいる将軍たちは なかなか勝てなくなったが、 衛青は、柔軟な発想と匈奴に関する知識によって勝利を重ねていくことになる。

翌年、B.C.128年、匈奴は報復攻撃に出たが、衛青の活躍によって駆逐される。 衛子夫は男子を産み、衛青の活躍もあって皇后となり、 衛青も平陽公主と結婚して武帝の義兄となった。

さらに翌年のB.C.127年、漢は新たな攻勢に出る。 漢楚抗争の時代に冒頓単于に奪われたオルドス(河南)の地を奪還することがその目的であった。 オルドスは、漢の領土に向かって突出しており、長安にも近く、また肥沃な草原地帯であり、 明らかに最初に奪い返すべき重要な土地であった。 だからこそかつて蒙恬もここを攻めたのである。 オルドスには、白羊王と楼煩王の二人の部族長がいた。 しかし衛青は直接この戦闘部隊を攻めず、オルドスを切り取るように進撃し、 後方の補給部隊を攻撃し、100万頭以上の家畜を捕獲した。 人的損害はさほどでもなかったが、後背を遮断され補給を失ったオルドスの匈奴は、 ここを放棄せざるを得なくなった。 かくして衛青は、秦の蒙恬以来になる、オルドス奪還を果たした。 そして蒙恬が築いた防衛関連のインフラを整備しなおして朔方郡を設置し、凱旋した。 武帝は、長平侯の位と、6800戸の領地という恩賞を以てこれに報いた。

以前の遠征後は、すばやく反攻を行った匈奴だったが、 今回は、騒擾のためにそれをすることができなかった。 この年の冬、それまで匈奴を治めていた軍臣単于が死去した。 これに乗じて、弟で左谷蠡王の伊穉斜が、軍臣単于の息子の於単を攻めて漢へ出奔させ、 自らが単于となったのであった。

伊穉斜単于は内政から目をそらし国の地盤を固めるため、外征を行う必要があった。 B.C.126年、伊穉斜単于はついに軍事行動を開始する。 河東方面では、2年前と同じように、長城内部へ攻撃を仕掛けた。 また、オルドス(河南)方面では、前述のようにこれが戦略的に緊要な土地であるため、 右賢王が激しい攻撃を朔方郡に対して行っていた。 この圧力を排除するために、B.C.124年、 衛青は遊撃将軍蘇建・彊弩将軍李沮・騎将軍公孫賀・軽車将軍李蔡の4将軍、 兵力3万人を率いて朔方から出撃した。 衛青はは北のかた300Km前進し、右賢王の本営を夜襲して包囲した。 まったく油断していた右賢王麾下の匈奴軍は崩壊し敗走、 降伏した匈奴人は1万5000名、鹵獲した家畜は数十万から百数十万にもなり、 右賢王は妻とわずかな手勢のみをつれて逃走した。 この功により衛青は大将軍に昇任し、領邑6000戸を加増され その部下や子供にも褒賞が与えられた。 平民に落とされていた公孫敖も、衛青に従って立てた功により、合騎侯に封じられた。 河東方面では李息と張次公が出師し、一定の戦果を収めた。

一年後のB.C.125年、衛青は定襄から河東方面へ出陣した。 このとき、中将軍(本隊)に公孫敖、左将軍(左翼)に公孫賀、前将軍(前衛)に趙信、 右将軍(右翼)に蘇建、後将軍(後衛)に"飛将軍"李広、彊弩将軍に李沮が命じられていた。 河東方面にある重要な目標といえば、単于庭と呼ばれる単于の本営であった。 匈奴は遊牧民族であるから、決まった首都というものは無く、 いわばこの単于庭が単于の首都である。 しかし、この攻撃は失敗に終わった。

一ヵ月後、再び衛青は出陣したが、匈奴もこのときには迎撃体制が整っていた。 衛青直率の部隊は捕虜と戦死あわせて1万の損害を与える戦果を上げたものの、 兵力計3000の趙信と蘇建の2将の部隊は、単于の本隊と遭遇して消滅した。 このとき、衛青の人柄をよく表しているひとつの事件があった。 詳しくは 史記 衛将軍驃騎列伝第五十一 人臣たりて敢へて権を専らにせざるを見す を参照せよ。

なお、この年の戦役においては、ある人物が初陣し、2度とも戦功第一となっている。 この人物こそ、漢の対匈奴戦争の主役のもう一人、霍去病である。


霍去病

霍去病(かくきょへい)は、衛子夫の姉の衛小児の子供である。 少年のころから宮中に出仕しており、君寵を受けた。 霍去病は、叔父の衛青とはことなり傲慢で思いやりに欠ける面を有していたが、 頭脳明晰である点と古来の兵法に基づかない点では、叔父の衛青と同じであり、 後者においては、それ以上であった。 あるとき武帝が孫呉の兵法(孫子と呉子の兵法)を示そうとすると、 即座に「方略の何如なるかを顧みるのみ。古の兵法を学ぶに至らず。 (顧方略何如耳 不至学古兵法)」と言ったという。

霍去病が、上にあるB.C.125年の戦役に従軍したのは、18歳のときであった。 衛青配下で、騎兵800を率い、本隊よりも数百キロ前方まで進出して、偵察と掃討を行い、2000名を殺害した。 これにより、霍去病は軍功第一とされ、冠軍(軍功第一)侯に封じられた。

B.C.121年、霍去病は驃騎将軍に任じられ、 河西回廊を制圧しシルクロード交易の利を匈奴から奪い返すために、 一万の兵を率い、隴西より出撃した。 休屠王を襲い、焉支山を経由して、渾邪王を破り、その王子を捕らえ、酒泉にまで至った。 匈奴軍は約8000人の損害を出したが、漢軍の損害はわずかなものだった。 しかし、霍去病の進軍が直線的過ぎて、大部分が戦禍を逃れており、 河西回廊における匈奴の勢力はいまだ健在であった。

このため、同年の夏、再び攻勢を発動した。 当初の予定では、公孫敖が河西回廊の正面を突き、 霍去病が武威・居延を経て河西回廊の裏口から攻撃をかけ、 挟撃するということになっていたのだが、 公孫敖が道に迷ってしまったため、この作戦は破綻した。 この事態に霍去病は単独による作戦決行を決意した。 休屠王と渾邪王の部族は、酒泉より約15キロのところに集結し、 東側を、漢の攻撃に備えて警戒していたが、西側は無防備であったため、 霍去病は捕虜・戦死あわせて30000以上の戦果を上げた。 単于に出頭を命じられた渾邪王は、敗戦の責任をとらされることを恐れ、 部族ごと漢に投降した。 霍去病は、土壇場で降伏をためらった8000名に突撃してこれを殺害して、 この降伏を成功させ、領邑7000戸を加増された。 かくして、河西も漢の支配下に加えられたのだった。

なお、この戦役においては、李広と、かつて西域に派遣された張騫とが、 河東方面に攻勢をかけていたが、合流できず、李広の軍などは半数の損害を受けて敗北した。

霍去病の強みは、まず、精兵を優先的にまわされていたことであるが、 柔軟な用兵が砂漠での戦いでは重要であった。 砂漠という特殊な状況における思考には、 中国の地における戦いで築き上げられてきた古来の兵法では対応できないところもあった。 霍去病の用兵は機動力を重視した。 兵士の装備を軽量化し、輜重を置き去りにして、 食料は略奪して奪い、強行軍しつづけた。 このため、霍去病の部隊の機動力は、匈奴軍の機動力をも上回るほどであった。

霍去病は衛青と同じ扱いとされるようになって、名声は大いに衛青を上回り、 かつて衛青を取り巻いていた人々は霍去病につかえるようになった。


衛青・霍去病、最後の戦い

B.C.119年、武帝は遂に匈奴との決戦を決意、 合計20万の大軍を一年以上をかけて動員した。 当初の作戦では、衛青が代から出撃して左賢王にあたり、 霍去病が定襄から出撃して単于にあたることになっていたが、 単于が東に移動したと言う情報を得て、急遽作戦は変更された。

このころ、先の戦役で匈奴に降伏した趙信が漢の総攻撃の兆候を察知、 ゴビ砂漠あたりまで後退し、敵が長躯して疲弊したところを討つよう単于に進言し、 受け入れられていた。

衛青のもとには、前将軍に李広、左将軍に公孫賀、 右将軍に趙食其、後将軍に曹襄が従っていた。 衛青が北上していると、捕虜からの情報より、 当初の情報が正しく、進路にいるのが単于だと判明したが、 衛青はそのまま前進した。

日の沈みかけているころ、衛青の軍は伊穉斜単于の本隊を発見、 武装した輸送車に円陣を組ませ、騎兵に攻撃を加えさせた。 このとき、砂嵐が発生した。 視界の利かない砂塵の中、衛青は予備の部隊を次々と戦場に送り出し、両翼を伸張した。 戦列の背後を固め、兵力で勝る衛青軍に状況は有利だった。 勝利をあきらめた伊穉斜は親衛隊とともに包囲網を脱出した。 衛青は追撃の部隊を送ったが、捕らえることはできなかった。 この日の戦いは両軍合わせて1万の戦死者を出す激戦だった。 翌日、衛青は物資集積所である趙信の城を襲い、補給を行って帰還をはじめた。

また、この戦いでは、衛青に従っていた李広が首をはねて自殺した。 (参考: 史記 李将軍列伝第四十九 李広の最期)。

さて、衛青が伊穉斜単于と戦っているころ、 霍去病は左賢王の軍を打ち倒しながら猛烈に前進しており、 最終的にはロシア近くまで至った。 この間に霍去病の上げた戦果は殺害・捕虜合わせて7万以上にも達した。

この遠征の結果、匈奴は大打撃を受けてゴビ砂漠以北に追いやられた。 武帝は、この遠征を最後に対匈奴戦争を打ち切った。 何よりも、国家財政はこれ以上の戦費をまかなえず、匈奴を追い払うという目標は達成されていた。 また、軍馬の損失も大きく、この遠征では14万のうち11万の軍馬が失われた。 後に、武帝が李広利に大宛(フェルガナ Ferghana)を遠征させたのも、 汗血馬といわれる名馬を獲得する目的もあったからである。


匈奴と漢のその後

最後の戦いより2年後のB.C.117年、霍去病はわずか24歳で死去した。 彼はまさしく匈奴と戦うために生まれてきた人物であった。 衛青の一族は、法に触れて滅び、武帝の遺詔を託されることとなったのは、 霍去病の弟の霍光であった。 その霍光が即位させたのが平民の子として育てられた劉詢すなわち宣帝である。 その宣帝の時代のB.C.60年、西域諸国を監視する西域都護府が置かれることとなった。 そして、初代西域都護には鄭吉が任命された。

衛青・霍去病の攻撃により、大打撃を受けた匈奴は、衰亡に向かっていった。 そのなかでB.C.56年ごろ、匈奴は遂に東匈奴と西匈奴に分裂した。 そのうち、漢は元帝の時代のB.C.51年、 東匈奴の呼韓邪単于は漢に降伏し、臣従関係を結ぶこととなった。 西匈奴に関しては、B.C.36年、西域都護甘延寿の攻撃を受け、滅亡した。

しかし、王莽が帝位を簒奪して新を建国すると、中国各地は混乱に見舞われ、 東匈奴は再び活発な活動を示し始めた。 王莽も30万とも言われる討伐軍を派遣したが、 東匈奴軍はこれを破った。

その後、劉秀が天下を統一し、後漢を建国して、光武帝となった。 光武帝となった劉秀は、匈奴討伐軍を派遣したが、 東匈奴はまたしてもこれを撃退した。 これ以降、光武帝は対外消極策をとるようになった。

このように新・後漢の遠征軍を退けた東匈奴だったが、 A.D.48年、内紛によって北匈奴と南匈奴に分裂してしまった。 このうち南匈奴は後漢に降伏した。 彼らは、おそらく冊封体制に組み込まれ、 長城の南に移住し、中国北方の警備につくこととなった。 彼らは、後漢末から三国時代にかけて、 董卓・呂布、そして曹操のもとで、 強力な異民族騎兵の一部として活躍したものと思われる。 また、後の五胡の一つの匈奴とは、この子孫である。 この中でも、西晋・五胡十六国時代の劉淵・劉聡親子が特に有名である。 劉淵は八王の乱のとき、成都王のもとで活躍し。 そのことで、ほかの諸民族と同じように、自らの実力を自覚した。 308年には山西の中南部で漢を国名として皇帝を自称した。 劉聡の時代に至っては、311年西晋の首都洛陽を攻略して懐帝を捕虜にし、 5年後には、西晋の遷都先の長安を攻略して愍帝を捕虜にして西晋を滅ぼした。 これを永嘉の乱という。 結局、彼らの国は滅び、華北は鮮卑族拓跋氏の北魏が統一することとなり、 おそらく、漢民族と同化していったのではないかと考えられる。

それに対し、北匈奴は、モンゴル高原を根拠地として南匈奴と後漢と対立した。 後漢は、数代に渡り、光武帝に倣って対外消極策を採用したが、 蓄積された国力は、やがて対外進出という形で噴出することとなった。 A.D.91年、外戚の竇憲(とうけん)が車騎将軍となって北匈奴を討ち、 捕虜20万余りを得て、大勝した。 これによって北匈奴は根拠地を失い、北方のイリ盆地へ追いやられ、 衰亡の道をたどってゆくことになった。


争いの影響

竇憲に大敗してから、歴史上から匈奴の名は消えてゆくこととなる。 しかし、4世紀に南ロシア草原に出現したフン族 Huns(ヴォルガ=フン)が、 この末裔であることは、ほぼ間違いないと考えられている。 理由としては、匈奴 Hingnu と フン Huns の名称の類似、 身体的特徴の類似、同じアルタイ語系の言語の使用、時期的整合性などが挙げられる。 考古学的研究も考慮すると、どうやら彼らは周辺の諸民族と混血してゆきながら、 西へ移動していったようである。

また、たとえ、フン族が匈奴の末裔でなかったとしても、 匈奴の圧迫によってフン族がヨーロッパに向かってきたことは間違いない。 そして、このフン族の圧力が、ゲルマン人の大移動を引き起こし、 その大移動が、西ローマ滅亡の、直接的要因となった。 すなわち、遥か東方で、漢人が匈奴を破ったことから、民族の玉突き衝突が起きて、 数世紀の後、最終的に西ローマ帝国を地中海に追い落としたということになるのである。



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