漢楚斉戦記1
陳勝・呉広の乱
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秦の中華統一

 秦は中原の西方に発祥した新興国家であった。周の洛陽への東遷に功があったことで諸侯に引き上げられた。(参考:秦史1 秦の起源)その後、繆公が現れ、自国他国にかかわらず有能な人材を登用し、秦を中原の大国に比肩する存在にまで高めた。孝公の時代に、亡命公子である商鞅が変法と呼ばれる改革を行い、実力主義の社会制度や軍事と生産を重んじる政策(商君の変法)を導入し、その国力を飛躍的に高めた。

 秦の領地は、長い間函谷関(かんこくかん)と呼ばれる要所を中原との境界としていた。この函谷関の西側は関中と呼ばれており、秦の本領であった。関中は天険に囲まれた守りやすい地勢でありながら、黄河によって中原との水上交通が可能な要地である。周も関中に発祥して中原を支配したのである。秦は、さらに効率的な社会制度と大規模なインフラ工事を背景に関中の生産力を高めた。その結果、関中は「面積は3分の1、人口は3割だが、富は6割を占める」(史記 貨殖列伝)といわれるまでに発展した。

 秦は軍事面でも優位な特徴を持っていた。まず、兵が勇猛であった。詩経に収められている「無衣(ぶい)」という秦の詩(うた)は「衣服がなかろうと、王が出陣するならば、衣服は共有して、お前と一緒に戦おう」といった内容であり、秦の兵士の勇猛さを今に伝えている。また、商鞅の作った実力主義の制度では、戦功に対して爵位が与えられることになっており、もとより勇猛な兵士の士気を大いに高めたと考えられる。さらに実力主義の特筆すべき結果として、秦は有能な将軍を多数輩出した。白起王翦の両名は特によく知られている。

 商鞅変法の後、いわゆる合従連衡の時代となり、戦国七雄と呼ばれる7国は、秦とそれ以外の六国という構図ができあがっていた。白起は、この時代に数々の大会戦に勝利し、勢力の均衡を一気に秦に傾けた。楚を破っては首都の郢(えい)を抜き、楚を東方の陳に遷都させた。長平の戦いでは趙の40万の大軍を破り、少年兵245人以外の全員を殺害して天下を震撼させた。

 始皇帝の時代には、内史(首都長官)の謄(とう)がまず韓を攻めて滅ぼした。王翦は趙を滅ぼし、燕の首都薊城を陥落させて燕王を敗走させた。王翦の息子王賁も大将として魏を攻め、首都の大梁を水攻めして魏王は降伏させた。この間に秦は楚に一度敗れたが、王翦が60万の大軍で再度攻めてこれを滅ぼした。楚の将軍項燕が秦にいた昌平君を立てて秦に叛旗を翻したが、翌年には王翦が再び出兵してこれを打ち破った。王賁は燕を攻めてこれを滅ぼし、さらに南下して斉を滅ぼした。こうして秦による天下統一が完成を見たのである。

始皇帝時代

 中華を統一し、史上空前の権力を得た始皇帝は、過酷な法令と刑罰による統治を実施した。また、首都咸陽を中心とした街道整備、阿房宮の建設、驪山の陵墓の建設など大規模な土木工事を行った。さらに、北方で力をつけてきつつあった騎馬民族匈奴に対応するため、将軍蒙恬に30万の軍で匈奴を攻撃させた。蒙恬はオルドス(河南)で匈奴を破り、ゴビ砂漠の北方あたりまで押し返して、その後長城を修復・連結する工事を行い、 いわゆる万里の長城を整備した。(参考:漢対匈奴

 天下は平定されたばかりで旧六国の民衆は秦の統治になじまず、そのなかで大規模な動員が行われたため、不満が鬱積しつつあった。始皇帝の長子扶蘇は度々そのことで始皇帝を直諫したため、疎んじられて北方に送られ蒙恬とともに前線に駐屯していた。やがて、始皇帝が死亡すると、始皇帝の末子胡亥は宦官の趙高と謀り、丞相の李斯の協力を得て、始皇帝の命を偽って扶蘇と蒙恬を殺し、胡亥が二世皇帝として即位した。蒙恬が率いていた30万の軍は、王賁の子王離が指揮を引き継いだ。

陳勝挙兵す

 始皇帝の死より1年後、北部辺境の守備隊として徴兵されて任地に向かう900人の兵の中に陳勝呉広がいた。彼らの一行は大雨のため期日までに到着できないことが明らかになったが、秦の法ではそのような場合でも死罪になることになっていた。この例は、秦の法による統治がもはや機能不全となっていたことを表すものである。陳勝は呉広と謀り、引率の指揮官を殺害して、兵を鼓舞して挙兵した。
 「公等期を失し、法斬に当たる。藉し弟だ斬らるること毋らしむとも、戍の死する者固より十に六七なり。壮士死せずんば則ち已む、死せば則ち大名を挙げんのみ。王侯将相、寧くんぞ種有らんや。」

 陳勝は近くの大沢郷(たいたくごう)を攻め落とし、その兵を合わせて周辺諸県を制圧し、さらにゆくゆく兵を合わせて楚のかつての首都であった陳に至った。陳勝の兵力は数万、戦車600〜700乗にまで膨れ上がっていた。県令や郡守はすでに逃亡しており、陳勝はわずかな抵抗を受けただけで陳に入城することができた。陳の有力者たちは陳勝を王に推挙した。こうして陳勝は王となり、国号を張楚と称した。陳勝は呉広を仮王として西に送り、滎陽(けいよう)を攻略させた。滎陽は関中から黄河を下った三川郡(洛陽を含むかつての周の領地)の東に位置し、その東側は旧六国領の平地が続いているという、戦略上の要地であった。秦はここを一大拠点として整備しており、近くに敖倉(ごうそう)と呼ばれる巨大な物資集積場が置かれていた。滎陽は三川郡守の李由(りゆう・丞相李斯の息子)が守備しており、呉広の攻撃を固く防いだ。

 また、陳には魏の名士であった張耳(ちょうじ)と陳余(ちんよ)がおり、陳勝に趙の攻略を申し出た。陳勝はこれを許し、旧知の武臣という人物を将軍とし、張耳と陳余にこれを補佐させ、3千人の兵をつけて送り出した。魏には周市が派遣された。

 秦に対する叛乱は、燎原の烈火のごとく一気に広がり、各地で蜂起が起こった。沛県では劉邦が挙兵し、会稽郡の呉では項燕の子項梁が息子の項羽らとともに蜂起した。東海郡(海側・斉の南)では秦嘉(しんか)が蜂起した。

 陳勝は、呉広がなかなか滎陽を下せないことを受けて、滎陽は包囲したまま、新たに一軍を編成し、かつて項燕や春申君に仕えたことのある周章を起用して、秦を討たせることにした。行軍の途上、周章のもとには秦打倒のために集まった多数の兵が集まり、函谷関に至ったときには、兵力数十万、戦車1000乗もの大軍になっていた。一方、秦の朝廷では、叛乱を報告した使者を二世皇帝が信じず獄に下したため、初動が遅れていた。周章は集まった大軍を以て、長年破られることのなかった函谷関をついに突破し、咸陽の50km手前まで迫った。

重要地名略図




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